またあした
すこぶる眠いのである。
理由は明白だった。今日は月曜日で、今が一時限目だからだ。もちろん、朝ご飯もしっかり食べてきた。
いつもよりずっと早い時間に起きてしまったが、疲れと寝不足で半分眠った状態ながらも出された食事はきっちり完食し、まだ余裕があるからとぐずぐずしていたらいつの間にやら時間がなくなっていて、教室に駆け込んだのも遅刻ギリギリだった。まあ、そこはいつもと変わらない。
だが、眠いものは眠い。おまけに今はあたるの苦手な数学の時間だった。無機質な数式の羅列は余計に眠気を誘う。かくんと首が落ちるたびに先生の説明は飛び、黒板に書かれたグラフも別のものに変わっている。あたるのノートには、字とも言い難いひょろひょろの線が罫線に沿って時折顔を見せるだけである。またテスト前には誰かにノートを借りる必要がありそうだった。
あたるの視線は自然と斜め前の席に向けられた。面堂なら、どうせ今日も優等生らしく、眠そうな素振りなんか欠片も見せずに丁寧に板書しているに違いない。
(……ん?)
面堂の様子がどうもおかしいと気がついたのは、その時だった。あたるはぱちっと目を開いて、斜め前の夏空色の背中を見つめた。
普段の面堂なら、きっちり姿勢を正し、背筋はまっすぐ伸びていた。なのに今は、わずかに丸まって肩が落ちている。あたるが見ている限りでは面堂は俯いたまま黒板に目を向けず、腕を動かしている気配もなかった。先生の話をちゃんと聞いているのかどうかさえ怪しく思われるほどだ。
(めっずらし……)
体調が悪いのかもしれんな、とあたるは思った。そうなればしめたものである。面堂と一緒に保健室に向かえば、あたる自身もなんとかかんとか理由をつけて保健室のベッドに潜り込めるかもしれない。そう都合よく進まないとしたって、少なくともサクラに会うことはできる。こんな風にただ座ってうとうとしているよりはよっぽどいいだろう。
あたるが先生の注意を惹こうと手を挙げかけたときだった。
不意に、ぴくん、と面堂の肩が小さく跳ねた。教科書に添えられていた面堂の手がそろっと動いて、おなかのあたりを押さえる。次いで、ぼんやりと手元を見下ろしている面堂の潤んだ目つきと赤みの差した頬が、あたるの目に留まった。
ははあ、なるほど、とあたるは頬杖をつく。
どうやら、今朝がたの感覚がまだ身体のうちにぐずぐずと残っているらしい。
一時限目の授業が終わったが、面堂の様子は相変わらずだった。いつもならすぐにノートを閉じて教科書と一緒にカバンの中にしまうのに、お腹に手を添えたまま動かない。
大きくあくびをして、目じりに滲んだ涙を手の甲で拭ってから、あたるはぺらりと雑誌の表紙をめくった。面堂に声をかけるつもりはなかった。たしかに面堂がこうなっているのはあたるのせいに違いなかったが、だからといって今できることは何もないのだ。そんなことよりもメガネから借りたばかりの雑誌のグラビアを眺めるほうがはるかに重要だ。色っぽい体つきの女の子の水着を眺めて、あたるはにっこりする。
「面堂くん、おはよう!」
だが、その声にあたるは反射的に視線を向けた。三人組の女の子が面堂の机の周りに集まっていた。
「やあやあみなさん! 今日もお会いできて光栄です」
面堂はころっと表情を変えて、女の子たちに媚びるような明るい笑みを向ける。
こういうときくらいおとなしく座っていればいいのに、女性だけ立たせるわけにはいかないとでも思っているのか、面堂は席を立って彼女たちとほがらかに話をはじめた。その表情も自信に満ちた立ち居振る舞いも、いつもの面堂と一切変わらない。あたるはフンと鼻を鳴らす。この見栄っ張りめ。あたるは頬杖をついたまま、また雑誌の麗しい女の子の肢体に視線を戻す。
何はともあれ、この調子なら放っておいてもなんら問題はないだろう。なら放っておけばいいのだ。
ちょうどそう思っていた矢先だった。
「……っ、ふ…」
「あれっ。どうしたの、面堂くん?」
いやな予感がして、あたるは再び顔を上げる。
思った通りだった。面堂がわずかに身体を折っておなかを押さえていた。つまんでいたページにくしゃっとしわが寄る。だから無理せず座っていればよかったのに、あのバカ……。
「もしかして、おなかいたい?」
「い、いえ! 大したことでは……」
面堂はぱっと手を離して姿勢を正し、取り繕うように微笑んだ。だが、その態度がかえって不安をあおったようで、彼女たちは心配そうに面堂を見上げた。
「保健室で診てもらったほうがいーんじゃない?」
「そうよ〜、面堂くんってけっこうデリケートなんだから!」
「いやぁ、そこまでする必要はないかと……」
「ねえ、なんの話? 面堂さん、どこか具合悪いの?」
話を漏れ聞いた近くの女子も寄って来はじめている。あたるはあくまで無視を決め込み、雑誌の内容に集中しようとするが、さっきから何も頭に入ってこない。
「そーなの、面堂くんおなかいたいみたいで」
「えー!」
「あの、ですから! 別に腹痛というわけではなく……」
「でも、さっきおなか押さえてたよね?」
「あの、そ、それは……ですね……」
女の子たちは面堂をまっすぐ見つめて、答えを待っている。なのに面堂はそれきり黙り込んだままで。
あたるはがたっと勢い良く席を立った。そのまま大股で一直線に面堂のもとまで歩み寄ると、がしっと腕を掴んだ。
「あら、諸星くん」
「も、諸星っ?」
目を丸くして固まる面堂を無視して、あたるは女の子ににっこり笑いかける。
「おれに任せて。保健室、連れてっとくから」
「ほんとう? ありがとう、諸星くん」
「えっ、え? いや、だからぼくは別に――」
「んじゃまたあとでねっ!」
ごちゃごちゃとうるさい面堂を遮り、あたるは無理やり面堂の腕を引いて教室から廊下に出た。
「べつに平気なのに……」
ぶつぶつとぼやきながらも、面堂はおとなしく付いてくる。友達同士で立ち話をしていたりロッカーから必要なものを取り出したりしている生徒たちの横をすり抜け、あたるは二年生の廊下をどんどん進んだ。
突き当たりで階段を降りる。そのまま特別教室棟につながる渡り廊下を進み始めたあたりで、面堂が訝しげにあたるの腕を軽く引いた。
「……諸星? 保健室は反対側では……」
今朝の話だ。日が昇るか昇らないかの早朝にうっかり目を覚まして、おまけに寝直すこともできなかったあたるは、暇を持て余した挙げ句に隣で人の気も知らずにすやすや眠る面堂にちょっかいを出しはじめ、一度手を付けたらやはり途中でやめられなくなってしまって結局行き着くところまで行ってしまった。シャワーを浴びて一息つこうというときには既に朝日が窓に差していて、面堂は「タコの散歩の時間だ」とかなんとか言ってあたるを置いてさっさとどこかに消えてしまった。いや、タコの散歩ってなんだよ、なんてまぜっ返す暇もなかった。
「諸星、どこに行くんだ」
「……」
そしてそれきり、こうして学校に来るまで結局面堂とは顔を合わせずじまいだった。だから、面堂がよもやあんな状態になっているとは全く思いもしなかった。
「保健室に向かっているのではなかったのか?」
「あのな」
面堂の背中を押して、誰も通りかかりそうにない空き教室にぐいっと押し込む。あたるも続いて後ろ手に扉を閉めた。
「おまえのそれ、保健室でどーにかなるもんじゃなかろうが?」
あたるが腕を組みながら面堂をじとりと見据えると、面堂はぴたっと口をつぐんだ。そのままばつがわるそうに目をそらして、壁に寄りかかる。
「なぜわかった?」
「アホか、すぐわかるわあんなの!」
あたるは面堂に詰め寄って、指先で面堂の胸板を強く突いた。
「おれが割り込んでったからいいようなものの、も〜ちっとマシな誤魔化し方ができんのか、おのれはっ!!」
「なっ……」
面堂はあたるの手を払いのけ、今度は自分があたるの鼻先にぴっと指を突きつける。
「だいたいきさまがあんな風に朝から無節操な真似をしなければ問題なかった話だろ〜が!」
「なにを今更、嫌がらなかったくせに!」
「寝込みを襲っておいてどういう言いぐさだきさま!」
「目が覚めてからも抵抗しなかったではないか!」
「あんな状態でできるか、アホ!!」
面堂は、あたるが連れ出したときには間違いなく持っていなかったはずの刀の鞘をいつのまにか握っていた。
「素直に謝れば許してやらんこともなかったものを……そこに直れ! たたっ斬ってやる!」
「うわっ! やめんか、おのれはまたそんな物騒なもんを!」
そのまま白刃を抜き放とうとする面堂の手首を、あたるが慌ててつかんだ時だった。
「……っう」
「わっ!」
突然ガクッと面堂が膝を折ったので、あたるも引きずられて前につんのめった。鞘に収まったままの刀がかしゃんと床に放り投げられる。あたるは転ばずに持ち直したが、面堂は完全に尻餅をついている。面堂はふらっと壁に寄りかかった。はぁはぁと肩で息をしながら、そのまま動かない。
「え〜っと、面堂……?」
あたるはずっと前にこれと同じ光景を見たことがあった。面食らいながらも、あたるは尋ねる。
「おまえ……腰砕けた、よな?」
「うるさいっ、ほっとけ……」
面堂はへたりこんだまま、未だ握られたままだったあたるの手を悪しざまに引き剥がした。こんな情けないあり様のくせに、女の子相手によくああも平然と愛想を振りまいていたものだ。あるいはこうして面堂の傍にあたるしかいない状況になったから、気が緩んだのだろうか。
「……」
あたるは小さく息を吐いて、面堂の前にしゃがんで目線を合わせた。
「今日は早退したらどーだ?」
「ばかをいうなっ、病気でもないのに早退なんてできるか!」
ろくに立てないくせに、面堂は偉そうにふんっと顔を背ける。その横顔に腕を伸ばし、あたるは面堂の顎を掴んで自分の方をぐいっと向かせる。
「何をするっ、この無礼も――」
「おまえ、そんなカオしたまま教室戻るつもりか?」
あたるの手を払いのけようとした腕がぴたっと止まった。面堂はあたるを見上げて、ためらいがちに尋ねる。
「ぼくはいま、そんなにひどい顔をしているか?」
「うん」
あたるはすっと面堂に身を寄せると、少し開いた襟元に唇を寄せた。
「っ、あ…、」
「こーゆーことしてほしいのかな、ってくらいひどい顔」
「ん……っ」
ちゅ、と音を立てて首筋に軽く吸い付くと、面堂がかすかに身を固くする。
「よさないか、くすぐったい……」
面堂は、やんわりとあたるの肩を押す。それを無視してちゅっちゅっとしつこくキスを続け、襟元のボタンを外して隠れていた肌を晒す。仄暗い黎明の中、眠っている面堂に何度も何度も甘噛みを繰り返した箇所には、ほのかに痕が残っていた。はあ、と熱い息をこぼして、あたるはまたそこに口付ける。
今朝と同じように何度か甘く噛んでから、あたるはそこをくわえ、ぎりっと強く歯を立てた。
「くあっ…!?」
電流が走り抜けたように面堂の全身がビクッと跳ねた。唇を離すと、白い肌に歯型がくっきりと赤く浮かび上がっているのが目に入った。それをじっくりながめてから、今度は舌で痕をなぞるように優しく舐める。舌先でくすぐり、首筋に沿って舌を這わせて、時々軽く歯を立てた。時間が経つにつれて面堂の吐息に熱がこもって、触れ合う身体が時折ぴくんとこわばるようになる。痕を甘く吸い上げたときに、かすかな喘ぎがあたるの耳をくすぐり、背筋にぞくっと震えが走った。同時に、周囲の情景がぼんやりと遠のいていく。
あたるは薄く笑みを浮かべて面堂にささやきかけた。
「さっき、なんていいわけする気だったの?」
「ん…ッ」
晴れ渡る夏空と同じ色のシャツの上から、すりすりとへその周囲を撫でる。手のひらがするっと降りて下腹部を這った瞬間、ぴくっと面堂の腰が跳ねた。あたるが中に入って突くときに面堂が一番感じる場所、昨日から何度もイかせて、今もずっと面堂をぞくぞくさせているであろう場所は、外からでもわかる。あたるはそこを指先でぐっと押した。
「や…っ!」
「ここ……諸星にさんざんいじめられたから今も疼いてるんです、なんて言えるわけないもんな?」
「あっ、ぁ……!」
あたるがおなかにぐりぐりと指を押し込むたびに、面堂の太腿がビクッビクッと大きく跳ねた。くたっと壁に背中を預けたまま、面堂は手のひらで必死に口元を押さえている。ぞく、とまた身体が震えて、あたるは半ば無意識に面堂に覆いかぶさっていた。面堂がはっとして顔を上げる。
「もろぼ、し?」
「うん」
「おまえまさか、こ、こんなところで……?」
「誰も来ないよ」
「ばかっ、そういう問題では――」
「い〜いから、ちょっとだまっとけ」
「っ、んん……ッ」
押しのけようとする手首を捕らえ、かえって引き寄せてすこし強引に口付ける。
重ねた唇からかすかに漏れる声は、今朝と同じ甘さを持っていた。ぬるぬると舌を絡め、ふれあううちに頭の芯がジンと痺れてくる。もっとほしい。これじゃ全然足りない。あたるは面堂の腰に腕を回してぐっと抱き寄せ、ためらうように遠慮がちな舌を追いかけるのに夢中になっていた。
からら……と扉を引いて教室に入ると、近くにいた男子生徒があたるに目を留めた。
「お、あたる」
「どこ行ってたんだよ? おまえ授業さぼったろ」
「ん〜……ちょっとな」
あくびを噛み殺しながら、あたるはのろのろと自分の席に歩いていく。こんどは、面堂の席の周りに集まっていた女子があたるに声をかけた。
「ねー諸星くん、面堂くんは?」
「あ〜、あいつ早退するって」
「えー!」
「大丈夫かなあ? 体調わるそうだったもんね」
それきりすっかりあたるへの関心を失い、面堂くん早く治るといいね、と話し合う彼女たちの横をすり抜け、席に戻って身を投げ出すようにどかっと座る。古典の教科書をカバンにしまっていたラムが、手を止めて首を傾げた。
「ダーリンってば、ほんとにどこ行ってたっちゃ?」
ぐでっと机の天板に上体を投げ出して、少しかすれた声であたるは答える。
「ちょっと、つまみ食いしてた」
「ふ〜ん?」
「ふわわ〜……ねむ……」
大きくあくびしてから、あたるは机の上に腕を組んで、頬を乗せる。
「ダーリン、そろそろ授業はじまるっちゃよ!」
「ん〜……」
相槌なのか寝息なのかはっきりしない呻きをこぼし、あたるはとろとろとまどろみ始める。本鈴の音をかき消すほどの窓の外のジェットエンジンの轟音さえ、そのまどろみを邪魔することはできなかった。感覚がゆるやかに遠のき、思考がふわりと漂って、全てがやわらかな夢の中に溶けていく。轟音は、いつの間にやらその持ち主の聞きなれた怒鳴り声へと変わっていた。目を閉じたままあたるはかすかに口元を綻ばせる。
そんなわけであたるは、業を煮やした温泉マークに丸めた教科書で頭をはたかれるまで、今日のことで怒り心頭の面堂にどやされる夢を見ていた。