05 Refrain

 ところで、そんなことがあっても、意外にもあたるの日常にそれほど変化は訪れなかった。
 相変わらず記憶はさっぱり戻らないし、妙な夢――というより過去の残像と思われる夢も続いている。それでも以前のような当惑を感じることはなかった。理由もなくあんな夢を見ているわけではないとわかった以上、思い悩む必要もない。だから、あたるは何に気兼ねすることなく、気楽な毎日を過ごしている。「今度こそうまくいくっちゃ!」と怪しい機械を持ってくるラムから逃げまわり、しのぶの肩を抱いて手をつねられ、女の子にちょっかいをかけてはひっぱたかれて、家に帰ればテンとフライパン片手に炎をまじえた真剣勝負をする。
 ただ、一つだけ変化があった。そのありふれた日常に面堂が入り込むようになったのだ。
 あの日を境に、面堂はもうあたるのことを避けなくなった。あたるのほうも面堂を遠巻きに眺めるのをやめて、気ままにちょっかいをかけて面堂をからかっている。そうなると結局、四六時中いがみ合って小競り合いばかりすることになるのだが、どういうわけだか同級生からは「面堂とあたるが仲直りしたらしい」という認識を持たれていた。
 一部の女子が残念そうにしていることを除けば、周囲から二人の「仲直り」は歓迎された。机をふっとばしたり授業が滞ることもあるのに、なぜ好意的に受け止められているのか不思議だったが、ある同級生曰く「おまえだってトムとジェリーが喧嘩してなかったら不気味に思うだろ」ということだった。
 あたると面堂の関係は、表面上は元通りになった、ようだ。でも、まだ時々、面堂はあたるを見ながらふと表情を曇らせることがある。大抵は二人きりでいるときで、きっかけはいつも他愛のないものだった。今のあたるにとっては何気ない行動、言葉でも、面堂にとってはそうではないのだろう。
 面堂の寂しそうな目を見るたびに、自分たちの間にはおそらくまだ足りないものがある、と実感するのだった。
 
 授業中、面堂とまた喧嘩になった。最初は口で言い争うだけだったが、だんだん熱が入って言葉のやり取りだけでは収まらなくなった。面堂は怒りに任せて白い手袋を投げつけてくる。なんとか身をひねって避けた。当たれば面堂との決闘に嫌でも付き合わねばならない。あたるは面堂から逃げて廊下に飛び出した。面堂も追いかけてくる。
 避けても避けても面堂は懐から真新しい手袋を取り出し投げてきた。制服のポケットのどこにそんなにたくさん収まる余地があるのか、不思議でならない。そもそもなぜそんなものを日用品のごとく持ち歩いているのだ、この男は。
 何個目かわからない手袋を避けたところで、面堂が走りながら怒鳴った。
「ええい、ちょこまかと小賢しい! 動いたら当たらんではないかっ!」
「当たらんように動いとるんじゃ、アホっ!!」
 廊下を走りきり、教室棟の端まで来たところで階段に差し掛かる。ここは二階だ。逃げるべきは上か下か。一瞬の逡巡を経てからあたるは下りの階段を選んだ。
 降りながら背後を警戒して振り返った、ところで右足が空を切った。
「あ」
「ばかっ、前を見ろ!」
 まずいと思ったときには既に階段を踏み外していた。ぐらりと身体が傾いて、宙に投げ出される。面堂が駆け寄ってきた。
「諸星っ!!」
 面堂が階段の上から腕を必死に伸ばした。届かない。ふわりと重力を失ったそのわずかな時間に、強い既視感が胸を衝いた。あたるは遠のいていく面堂の姿を眺めながら、これを見るのは初めてではないという確信を抱いていた。
 次の瞬間、背中と後頭部に衝撃がある。
「う゛っ!!」
「おいっ、無事か!」
 飛ぶような速さで面堂が駆け降りてくる。おまえまで落ちるんじゃないのか、と言いたくなるほどだった。
 あたるは頭を抱えながら呻く。
「い……ってぇ~……」
「おまえ、まさかまた頭を……」
 面堂はあたるの傍に膝をついて、ひどく心配そうな顔をしてあたるを覗き込んだ。
 あたるは、なにか話すことも忘れてそんな面堂にじっと見入っていた。痛みすら今のあたるには意味をなさなかった。それよりもずっと重要なことが、頭の中でいくつも渦を巻いていた。
 鎖が外れていく。
「……諸星?」
 あたるが呆けたように固まったまま何も言わないからか、徐々に面堂の瞳が不安に染まる。
「ぼくを……」
 面堂は何か言いかけて、やめた。すっとあたるから目をそらして、言葉を続ける。
「……なんでもない。怪我はないか。ここがどこか……いや、自分のことは、わかるか?」
 淡々とした冷静な話し方で、面堂はこちらを見ないまま静かに尋ねた。
 そうだったな、とあたるは思っていた。こいつは本当に嘘をつくのが苦手で、思っていることがすぐ顔に出る。だから面堂はずっとあたるを避けて、できるだけ目を合わせないようにしてきた。
 どうしても嘘をつけないその瞳が、伝えてはいけないものを伝えてしまうことを恐れて。
(ほんと、器用なんだか不器用なんだか……)
 あたるは気づかれないようにかすかな苦笑いを浮かべる。そして身を起こして、俯いている面堂の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
「なっ、何をする――」
「まったく……おまえはほんと、いつまで経っても泣き虫が直らんな〜、面堂」
 からかい交じりの笑みを浮かべて言うと、面堂は驚いたように顔を上げる。案の定黒い瞳は涙の薄い膜で潤んでいた。面堂は目を瞠ってあたるをじっと見つめてから、やがてきまり悪そうに横を向いてぶっきらぼうに言った。
「べつに……これは、ちょっと目にゴミが入っただけだ!」
「ふ〜ん、ずいぶんデカいゴミだったみたいだな」
「やかましいっ、ほっとけ!」
 面堂は、慌てて目元を拭っている。あたるはそれには何も触れないで、へらへらと笑った。
「心配した?」
 だが面堂はふいっとそっぽを向いて腕を組み、突き放すように冷たく言った。
「たわけたことを抜かすな。そんなもん誰がするか!」
 その言い草にむかっとして、あたるは面堂を睨み声を荒げた。
「こ〜ゆ〜ときくらい素直になれんのか、おのれは!!」
「その言葉、きさまにだけは言われたくないわ!!」
 両者の手にどこからともなく獲物が現れ、ハンマーと刀を手にした二人はじりじりと睨みあう。そしてある瞬間に二人は同時に動いた。

 一方そのころ、二年四組では今学期でもう何度目になるかわからない自習の時間を迎えていた。
「ま~た自習かあ」
「おれたちのクラス、ほんと大丈夫なのかこれ?」
 誰かがそんなことをぼやいている。ちなみに温泉マークは、あたると面堂を追いかけてやはり教室の外に出て行ったので教室にはいない。あたるを探してラムの姿も消えている。
 しのぶは竜之介と机を向かい合わせにして座っていた。先日竜之介と編み物の話になって、しのぶはそのとき竜之介に編み物のやり方を教えてあげる約束をした。そしてこうして暇な時間ができたので、さっそく彼女との約束を果たしているのだった。
 かぎ針は使っていないサイズのものをしのぶが貸した。毛糸の方は竜之介がなけなしのお小遣いでなんとか手に入れた。竜之介は現在、毛糸と一生懸命格闘してマフラーを編んでいる。
「あ。竜之介くん、そこ編み目を間違えてるわよ」
「えっ!」
「大丈夫よ、よくあることだから。ゆっくりほどいて、もう一度やり直せばいいわ」
「お、おう……」
 竜之介は、ぎこちない手つきで間違えた編み目をそろそろとほどいた。そしてまたかぎ針を慎重に動かして続きを編んでいく。その表情は拳で勝負しているときと同じくらい真剣だ。竜之介のマフラーは時折ほつれて毛糸の締め方も目によって不揃いだが、それがかえって昔の自分を思わせるのでほほえましかった。
 やがて近くの男子が、竜之介がマフラーを編んでいることに気づいて、興味津々に話しかけてきた。
「竜ちゃん、それ誰かにあげるの?」
「あっ、おれ、最近首元が寂しくて……」
 下心丸出しで彼らはそんなことを言うが、竜之介は彼らの思惑には全然気づかないで答えた。
「誰にもやらねえよ、おれが自分で使うんだ」
「そ〜よ、女の子が編み物してるからって、みんな誰かへのプレゼントだと思わないことね」
「ちぇー」
 彼らは残念そうに離れていく。しのぶはふふっと笑って、また編み針を動かし始めた。
 竜之介は、しのぶの「女の子が編み物してる」という言葉にいたく感激したようだ。ふるふると肩を震わせて手のなかのものを見下ろしている。
 そして、編み上がった部分を大切そうに撫でてから、しのぶに元気よく拳を握ってみせた。
「ふっ……まふらあを華麗に編み上げて、今度こそ親父をギャフンと言わせてみせるぜっ!」
「うんうん。その意気よ、竜之介くん」
 と言いつつ、そうなると竜之介は父親のためにマフラーを編んでいることになるのだろうか、としのぶは思っていた。相変わらず、なんとも複雑な感情を相手に抱いている親子だ。
 そのとき、いちおう授業中にもかかわらず廊下の方から騒がしい音が聞こえてくる。つられて目を向けると、あたるが後ろを振り向いて笑いながら廊下を駆けていくところが見えた。
「ど~した、おれをたたっ斬るんじゃなかったのか~?」
 そのままあたるは進行方向に姿を消した。
「待たんか諸星ぃい〜〜!!!」
 少し遅れて面堂の声。
「今日こそきさまの息の根を止めてやるー!!」
 今度は面堂が刀を構えながら全力疾走していく。
 しのぶは少し驚いた。面堂が刀を振りかざしてあたるを追い回すのは、ずいぶん久しぶりのことだったからだ。
 そう、たしかこれを最後に見たのは、あの日あたるが階段から落ちる前だった。
「くぉらきさまら、授業を受けんか〜!!!」
「ダーリン、どこに行くっちゃ〜!」
 遠ざかる高笑いと怒声の後に続く騒がしい声。誰のものなのか見なくてもわかるくらいだ。それは友引高校の、そしてしのぶの日常そのものだった。
 胸の奥にあたたかいものが広がる。
「何笑ってるんだ、しのぶ?」
 竜之介がしのぶを見て小さく首を傾げた。
 しのぶはにっこりと微笑む。
「べつに、なんでもないのよ」
 そしてしのぶは、そのなんでもない日常を、心から愛している。