01 Prey
ぎし、ぎし、ぎし。
一歩進むごとに足元が軋んで音を立てる。廊下の板木は傷だらけで、ずいぶんと古い。うだるような暑さと潮の香りの中、面堂は廊下を一人歩いていた。
こめかみから汗が伝い落ちていく。手の甲でそれを拭った。廊下の風通しはよかったが、今は真夏だ。おまけに思ったよりも時間を食ってしまった。浴衣の合わせ目を掴んでぱたぱたと風を送ると少しはましになった。
ようやく宿泊部屋まで戻った面堂が扉を開けると、涼しい空気が面堂を迎えた。ようやく人心地ついて面堂は小さく息を吐いた。
同時に、畳で腹這いになって雑誌を読んでいたあたるが音に反応して顔を上げる。
そのあたりで面堂も気づいたが、部屋にはあたるの姿しかなかった。
「ラムさんとしのぶさんは、お部屋に戻られたのか?」
「そ、もう寝るってさ」
「おやすみを言いそびれてしまったな」
すると、あたるは畳に寝っ転がったまま、何食わぬ顔で隣と部屋を隔てている壁を指した。
「大声出せばこっからでもわかるだろ、壁薄いし」
「アホかっ、そんなことしたらお二人にも他の人たちにも迷惑だろうが!」
あたるは悪びれずに「じょーだんだよ」と暢気に笑って足をぱたぱたさせている。
夏休みになって、面堂たちはいつものように海に来ていた。当初はここではなく、もっと違う旅館に泊まる予定だった。だが、運悪く宿泊の直前になって予約していた旅館が休業することになって、急遽別の宿を探すはめになったのだ。周辺の宿泊施設がどこもかしこも満室ばかりの中、どうにか転がり込むことができたのが今回の古民宿だった。
「つーかおまえ、風呂長いな」
「いや、ちょっと戻る途中で話しかけられたから」
「……だれに?」
「ほら、今日から隣にもう一組泊まっているだろう、あの人たち」
面堂はラムたちのいる部屋とは反対の壁を指して言った。すぐ隣の部屋を利用しているのは、面堂たちと同じく学生の、男三人のグループだった。
いつもなら面堂も、そんな連中とは特に関わり合いを持たない。だが、面白い偶然もあるもので、そのうちの一人が面堂の馴染みの部下にどうも雰囲気が似ている。それで面堂もなんとなく気を許してしまって、話しかけられれば普通に世間話を返していた。袖振りあうも多生の縁、旅先で見知らぬ人と話し込むのを旅の楽しみにする人間というのはいるものだ。その一人もそういうタイプのようで、今日はなにかと話す機会が多かった。
面堂が丁寧に説明したところで、返ってきたのは「ふ〜ん……」という気のない声だけだった。その随分と投げやりな態度に、面堂は少しむかっとした。どうでもいいなら最初から訊かなければいいだろうに。
「それより、続き! 勝ち逃げしようったってそ〜はいかないからな!」
「わかったわかった、きみは本当に負けず嫌いだな……」
打って変わって熱心にせっつかれ、面堂は仕方なく座卓の前に座った。中央に置かれたリバーシのゲーム盤には、先ほどの対局の石がまだ残っている。盤面を埋めているのは大半が白石で、白は面堂が用いていた色だった。
「次は絶対おれが勝っちゃる!」
「言うは易く行うは難し、だな」
挑発代わりにふっと口の端に笑みを浮かべると、あたるも不敵な笑みを返してきた。そして盤面をリセットすると、面堂はまたあたるとの対局を始めた。
ぱちり、ぱちりと、白と黒の石が交互に置かれていく。初めのうちは至極単純な動きしか見せない盤面も、一手また一手と進んでいくうちに、現状の選択肢も予測される展開もだんだんと複雑になっていく。さて、次はどう出るのが好ましいだろうか。
「……面堂、おまえさ」
面堂が真剣に考えていると、あたるが頬杖をつきながら面堂を見上げて言った。
「浴衣。ちゃんと着ろよ、見えるだろ」
「ん?」
見ると、たしかにいつのまにか胸元が少しはだけていた。
「ああ、これ、どうもサイズが合わなくてな……」
帯をゆるめて合わせをきちんと直そうとすると、「今はいいって」とあたるが止めた。
「おれが見る分にはいいんだよっ、べつに」
「? ……まあ、ぼくも女性の前ではできるだけ身なりを整えるべきだと思うが」
あたるにも女性にこういう気の回し方をする一面があるとは意外だった。ひとまず軽く直すだけにして、面堂は考え抜いた末に最も望ましいと思われる場所に白石を置いた。げっ、とあたるが小さく声を上げる。それを境に戦局は徐々に白に傾いていき、面堂はまた一つ勝利を重ねた。
相変わらず、あたるはリバーシが弱かった。何度やっても、ほとんど苦戦せずに面堂のほうが勝ってしまう。しかしこれがポーカーやブラックジャックなら、面堂も油断しているとよく負けた。運の絡まない、少しずつ戦略を積み重ねていくようなゲームが苦手なのだろう。度胸だめしの要素が強いゲームが苦手な面堂とは正反対だった。
「下手の横好きか……」
「なんだとおっ!?」
ぽそりと呟くと、あたるに怒られた。忘れていた、結構地獄耳なのだった。
こうして夏の夜は着実に更けていくなか、対局はなおも続いた。面堂の連勝回数もどんどん積み重なっていく。こんなことなら勝負になにか賭けてみて、あたるに日頃の意趣返しでもすればよかったかもしれない。
この調子だと、この対局も面堂の勝ちになりそうだ。
ぱち、と硬い音をさせて自分の白を置く。あたるの黒を二枚ひっくり返して、あたるの次の手を待つ。
あたるは石を指先で遊ばせながら、うむむと唸っている。
「……そういえば、さっき隣の人に聞いたんだが」
ぼんやりと盤面を眺めているうちに、なんとなく直前の出来事を思い出して、面堂はなんの気なしに口を開いた。
「この近くに動物園があって、先週からライオンの子どもの展示が始まったそうだ。まだすごく小さいらしい。もしラムさんとしのぶさんが興味があるようなら、明日そこを見に行ってみるのもいいんじゃないかと」
あたるの指先で弄ばれていたリバーシの石がぴたりと止まった。
「それ言ったの、あの眼鏡かけてるやつだろ?」
「よくわかったな」
「そりゃあな」
あたるは素っ気なく言うと、また元のように丸い石をくるくると回しながら、睨むように盤面を見つめている。さっきからずっと負け通しだからだろう、随分ムキになっている。
あたるは少し考え込んでから、ぱちりと黒を盤面に置いた。ぱちぱちと数枚が裏返って黒に変わる。だが、そこは面堂が読んでいたとおりの場所だったので、表情には出さないように気をつけながら面堂は満足した。
「言っとくが、おれはきょーみないぞ。せっかく海に来とるというのに、水着の女の子を見る機会をみすみす逃してど〜するのだ!」
「一理ある」
「なら、あの連中についてくってのはナシだからな」
その言葉に、面堂はふと顔を上げた。なぜわかったんだろう、案内するから一緒にどうかと誘われたことはまだ話していなかったのに。
あたるは盤面を真剣な顔で睨んだまま、腕を組んで指先でとんとんと肘のあたりを叩いている。
面堂はあたるの様子を眺めてから、何も言わずに白石を盤上に置いた。ぱちぱちとあたるの黒を容赦なく裏返し始めると、あたるから悲痛な叫びが上がる。
「あ〜〜っ!! そんなあ!」
「角にばかり気を取られるからだ」
結局その対局も、盤面の大半が白く染まったまま終了したのだった。
いい加減眠くなってきたので「もうこれで終わりにしないか」と声をかけると、あたるはぐっと身を乗り出しながら面堂をまっすぐ見上げた。
「面堂! もうひと勝負!」
「ええ〜?」
「あと一回! それで寝るから!」
日付はとうの昔に変わっている。強い日差しと水の抵抗、高い気温はただでさえ体力を奪う。おまけに水泳は全身の筋肉を使う運動だから、いくら体力のある面堂といえどもさすがに疲れを感じていた。
でも、眉尻を下げながら縋るような目でこちらを見つめるあたるの顔を見ていると、どうも強く出られないのだった。
面堂はため息をついた。
「……あと一回だからな」
「よし!」
きっと、あと一回では到底済まないのだろうなと思いながら、面堂は盤前に座り直す。
そして、あたるのこれに毎回付き合っているであろうラムの辛抱強さに面堂は改めてしみじみと感心した。
あと一回はずるずると先延ばされていく。眠さのあまりお互いにうつらうつらと舟をこぎ始め、そのうち寝ぼけて水の入ったコップをどちらかが倒した。びしょびしょになった卓上を二人で拭きながら「おまえがやった」「いやおまえが」と言い争ってみても、本当のところはどっちが倒したのか双方ともに見ていなかった程度に睡魔の力が強まってきたあたりで、あたるも重い瞼をこすりながら渋々「今日はもう寝るか……」と面堂に告げた。結局あれから更に何戦付き合ったのか、面堂にもよくわからない。
座卓を隅に移動させ、二人で押入から薄っぺらい布団を引っ張り出して畳のうえに並べて敷く。部屋の明かりについては、すべて消灯するのは面堂が断固拒否したため、部屋の隅に小さなランプを点けて寝ることになった。
薄暗くなった部屋で、面堂はさっさと布団に入っていく。
普段面堂の使っているふわふわのベッドと比べると、今身を横たえた敷布団は薄い上に固くて、寝心地悪いことこの上なかった。でも、今はとにかく眠くて眠くて、そんなことも気にならないくらいだった。面堂は小さく息をついて目を閉じた。
これでようやく眠れる。
たぶん、一回でもわざと負けてやればすぐにでも解放されたのだろうとは思う。わかっていながら、面堂は明日深刻な寝不足になることを選んだ。結局人のことをとやかく言えぬ程度には面堂だって負けず嫌いなのだ。
面堂はすでにまどろみ始めていた。意識はとろとろと夜に溶けて、甘い眠りがすぐそこで腕を広げて待っている。
それを妨げたのは、もぞ、となにかが布団の中で動く気配だった。面堂は瞼をうっすら開く。
菊千代だろうか、小梅だろうか。また水から抜け出してきてしまったに違いない。寂しがり、怖がりのタコが夜中に面堂のベッドに忍び込んでくることは、以前から度々あった。だから面堂は、その気配が懐に潜り込んできても、別段おかしいとは感じていなかった。
へんだな、となんとなく思ったのは、うとうとしながら抱き寄せた存在がタコにしては温かくて、乾いていて、大きいことに気付いたときだった。ずいぶん珍しいタコだなあと面堂は寝ぼけ半分に考えた。黒い塊は面堂にすり寄ってくる。
そして、そのまま脇腹から腰にかけてするりと撫で下ろされたときになって、ようやく面堂は相手が自身の愛するタコではないと悟った。一気に微睡みから醒め、面堂はぎくりと身を固くする。
「……諸星、か?」
あたるは返事をする代わりに面堂の喉元をくすぐりながら、ふ、と小さく笑った。
「諸星、どういうつもりだきさま……」
「逆に聞くが、この状況で他にど〜ゆ〜つもりだとおまえは思うわけ?」
「う……」
面堂は頬をかすかに赤くしたが、諦めずにあたるを睨んだ。
「と……隣に聞こえたらどーする気だ……」
「まあ、明日合わす顔がないよな。向こうも」
「だったら……!」
「だから、隣に聞こえないように頑張ってくれ」
面堂の言葉に被せるようにして、あたるはへらりと笑う。心底楽しげなあたるとは対照的に、面堂は頬を引きつらせた。そして即刻あたるから逃げようと試みる。あたるからすり抜ける直前にあたるの腕が伸びて面堂を捕らえ、上から面堂の両腕をぐっと押さえ込んだ。
押し殺したささやき声で面堂はあたるを罵った。
「よさんかっ、このバカ! い〜かげん時と場合くらい考えたらどうだ、ぼくは絶対イヤだからな!」
もがくうちに浴衣はしどけなく乱れてきた。はだけた紺色の合間から白い胸板が覗き、面堂が身をよじるたびに薄紅色の小さな粒がちらちらと見え隠れする。
「へ〜、逃げるのか? そんなに自信ないんだな」
「なんだと?」
あたるは面堂を見下ろしながら、口元に揶揄するような笑みを浮かべた。
「おれに気持ちよくされちゃったら、声我慢できないと思ってるんだろ」
「そっ、そんなわけがあるか!」
「じゃ、証明してみせろよ。できるんだろ?」
「……」
面堂は、はっきり言ってこんなところでやりたくはなかった。いくらなんでも悪趣味が過ぎるし、いつも以上に秘密が露見する危険性が高い状況だと感じている。だが、今この流れであたるに嫌だと言うのは、「今夜は無理だ、なぜならおまえに抱かれると隣の部屋に響くくらい大声で感じてしまうからだ」と告げるのも同然だった。そんなことになったら、今夜のことを種に、なにかにつけて延々と馬鹿にされ続ける可能性すらある。
あたるはからかうような笑みを浮かべたまま、面堂の出方をのんびりと待っている。まさか嫌とは言うまいと確信した、いたずらっぽい目つき。面堂は腹の底からむかむかしながら無言であたるを睨みつける。今夜ほどこのアホ面が憎らしいと感じたことはなかった。
面堂は、ふう、と深く息を吐いた。それから思い切ってあたるの浴衣を掴んで引き寄せ、ぶつかるようなキスをする。
結局面堂はあたるの思惑通り、この憎たらしい貧乏人に馬鹿にされる危険を冒すよりも、危ない橋を渡る方を選んだのだった。