04 Prey

 真夏の海は今日もたくさんの人で賑わっている。
 面堂は、パラソルの陰で膝を立てて座りながら、太陽の眩しい波打ち際で楽しげに笑っている人々をぼんやりと眺めていた。他の三人は既に海に入っていったから、今ここで休んでいるのは面堂だけだ。
 本音を言えば、面堂はせめて午前中だけでも宿の部屋で寝込んでいたかった。だがそれではあからさまに体調が悪そうに見えるだろう。それは困る。だから、しのぶたちには「少し休んでから合流する」と告げて、面堂も昨日と同じように水着で浜まで出てきていたのだった。
 それでも、いまだに立ち上がる気にはなれない。夏の、特に浜辺の日差しは眩しく強烈で、疲労の抜けない今の体調には辛いものがある。この状態で海に入って無事でいられる自信もなかった。ここに祖母がいれば間違いなく止めただろう。かといって、いつまでもこうしているわけにはいかないのもわかっている。どうしたものかと色々と考えるが、うまい解決案はなかなか浮かばない。
 たぶん、疲れていたせいなのだろう、そのうちに段々とうとうとしてきた。ここで眠ったところで事態は好転しないとわかっていても、瞼はどんどん重くなっていく。やがて面堂は睡魔の甘い誘惑に負け、瞼を閉じてとろとろと眠り始めた。
 どのくらいそうして眠っていたのかはわからない。だが、そのつかの間の安らかな眠りはある瞬間に唐突に終わりを告げた。いきなり面堂の首筋に押し付けられた固く冷たい感覚が、その眠りを無情にも破ったのだ。
「のわわっ!?」
 一気に覚醒しながら面堂は慌てて身を引く。いつの間にか、そこには屈み込んで缶ジュース片手にこちらを見下ろしているあたるの姿があった。
「何をするのだ、いきなり!」
 首筋に手を当てながら、面堂はあたるを睨みつけた。
「こんなとこで無防備に寝てる方が悪いだろ」
 あたるは面堂のすぐ左に腰かけた。あたるの身体についていた水滴で、乾いていた砂の色が少し変わる。
「何の用だ、諸星」
「おまえに用はないが、おれもちょっと休憩しようかと。泳いだら疲れた」
「ほ〜。それは結構なことだな」
 面堂はいささか冷たい声で言った。無理をさせた側の人間が、こうして何事もなく夏の海を楽しんでいるのを目の当たりにすると、つくづく腹が立ってくる。
「ときに面堂、おまえ今日も泳ぐんじゃなかったのか?」
 しかもあたるは白々しい笑顔でさらっとそんなことを言う。面堂は、隣の貧乏人を横目でじとりと睨んだ。
「誰かさんが無茶苦茶やったせいで泳いだら足が攣りそうでな……」
「あの面堂家の跡取り息子にそんな無体を働くやつがいるのかあ。世の中は広いな〜」
「どの口が……」
 地を這うような恨みがましい声を聞いて、あたるはおかしそうに笑う。そして右手に持っていたジュースの缶を開けると、そのまま隣でのんびり飲み始めた。
 今朝、しのぶたちと顔を合わせたとき、面堂は実のところかなり怯えていた。言うまでもなく昨夜のことが原因だった。もし、昨日のあれやそれが、壁の向こうに届いていたら……そう考えるだけで指の先まで凍りつくような思いで動悸が止まらず、背中に嫌な汗が滲んだ。
 それでも面堂がその内心を全く表情に出すことがなかったのは、恐怖症に対する長年の克己心のおかげだった。女性が相手となれば、面堂はいついかなる状況でも自分を完璧に取り繕って堂々たる態度を取れるのだった。
 そうして戦々恐々、何気なく話しながら面堂はふたりの様子を窺っていた。その結果、ふたりの態度がいつもどおりで、なんら変わったところはないと悟ったときには、面堂は心の底から安堵した。この際寝不足だとか腰がすごく辛いとか昨日の疲れが全く取れていないとかそういうことは瑣末な問題だろう。
 ところで、このようにあれこれ思い悩んでいた面堂とは違い、あたるのほうは相変わらずだった。今朝から現在に至るまで、どこをとっても完全にいつもどおりにフラフラ女を追いかけては遊び呆けている。当事者である面堂ですら、昨日のことは夢か何かだったのでは、と思ってしまうほどである。時々この無神経さが羨ましくなる。
 今だってあたるは暢気なもので、実に美味そうに缶を煽って喉に流し込んでいる。ごくごくと動く喉仏を見ているうちに、面堂もなんとなく喉が渇いてきた。もう少し休んだらぼくも買いに行こうか、と面堂は思った。別に売店まで歩くのにも腰が辛くて気が進まないとか、そんなわけでは断じてない。
 ないとはいえ、一言なにか言わずにはいられなかった。
「もうあんなの二度と御免だからな……」
 面堂はぼそりと低い声でつぶやいた。
「バレたらどうするつもりだったんだ」
「でもなんとかなっただろ?」
「そーゆー問題ではないっ!」
 面堂が声を荒げて詰め寄ると、あたるは気楽な顔で笑いながら「まぁまぁ」と面堂の肩を片手で押した。だが面堂はその手を払い除けてなおも続けた。
「きみが後先を考えない性格なのはぼくも知っているが、それにしたって限度があるだろ~が! きみも理性ある人間の端くれなら、少しくらいものを考えて行動しろ!」
「失敬な! おれだって、何かするときにはおれなりにちゃんと考えとるわい!」
「ほ~? なら昨夜の行動はいかなる考えに基づいていたものか、今すぐ説明してもらおうか?」
「え~~と……」
 面堂が腕を組んでじいっとあたるを見据えると、あたるはすっと目をそらしながら口元に小さく笑みを作る。
「……まあ、女の前では何があっても絶対『こわいよ〜』しないおまえのことだから、何しても大丈夫だろ、とは思ってた」
「お、おのれというやつは〜……!」
「いやいや、おまえの男としてのプライドを信じていたのだよ、おれは!」
「調子のいいことを言えばごまかせるとでも思っているのか!!」
 するとあたるは、こちらを覗き込むようにいたずらっぽい目で見上げて微笑んだ。
「でも、ふつーにやるより気持ちよかっただろ?」
「……」
 面堂は、あたるの微笑みを不機嫌に見つめた。面堂がどんなに怒ってみせたところで、こうなのだ。
 この男は、いつもいつも、こんな簡単な一言で片づけてしまう。
 面堂はふいっとあたるから顔を背けた。
「きみのやることに付き合っていると、本当にロクなことにならない……」
 視界の外で、あたるが声を立てずに笑う気配がした。面堂は気づかなかった振りをして、そのままそっぽを向いていた。
「そ〜いえばさ」
「ん?」
「隣の部屋のやつ、今日はおまえに寄って来んな」
「あ〜……言われてみれば?」
 思い返してみると、確かに昨日と違って彼は面堂に一度も話しかけてきていなかった。面堂は小さく首を傾げる。
「なぜそんな、どーでもいいことを?」
「いや〜、べつにい?」
 そう言って機嫌よく笑いながら、あたるは面堂に赤いラベルの缶を差し出してきた。
「ほれ」
「なんだ、これは」
「昨日の詫び」
 鼻先に突きつけられたコーラの缶に、面堂はきょとんとして固まった。たとえ小銭数枚の価値しかないとしても、この男にしては珍しく殊勝なことをする。
 まあ、向こうが反省しているのに、いつまでも怒っていてもおとなげない。面堂が不承不承それを受け取ると、あたるはにっこり笑った。
 自販機から炎天下に出てまだそれほど時間が経っていないらしい缶は、触れるだけで冷たかった。表面にも水滴が付いている。面堂はプルトップに指をかけて缶を開けた。
 その瞬間噴水のごとくコーラが噴き出してきた。
「ぶっ」
 気付いたときにはもう中身のほとんどを浴びてしまっていた。呆然と固まる面堂の髪から、ぽたぽたと甘ったるい液体が垂れる。
「うははははは、引っかかった引っかかった〜〜!」
 すべての元凶はこちらを指さしながら笑い転げている。それを聞きながら、ぶち、と頭の中で何かが切れる音がした。むなしく空っぽになった缶が、手の中でめきめきと潰れていく。
「……諸星ぃぃいいい!!!」
「おーっとぉ!」
 あたるは面堂の振り下ろした刀を素早くよけた。
「いままでは我慢に我慢を重ねてきたが、今日という今日はもう勘弁ならんぞ! そこに直れ、刀の錆にしてくれる!!」
「おまえそれ毎回言ってない?」
「やかましいわ、今度こそ本気だ!!」
 刀を構えなおして追撃しようとした矢先、あたるが面堂の背後を指さした。
「あっ、サクラさんだ!」
「えっ?」
「スキありっ!」
 つられて振り返った瞬間、どか、と頭に鈍い衝撃があった。そのまま砂の上に倒れ伏した面堂の視界の隅に、わはははと大笑いしながらハンマー片手に走り去っていくあたるの姿が映る。
「こんの……っ、卑怯者めが~~~~っ!!」
「褒めても何も出ないぞ~!」
 寝不足も疲れも腰の鈍痛も、頭から何もかも吹き飛んだ。面堂はがばっと勢い良く身を起こす。
 この世にはびこる諸悪の根源、あらゆる凶事の元凶を世のため人のために今こそ切り捨てるべく、面堂は全速力であたるを追いかけ浜を駆けだしていった。