03 Refrain

「ダーリン、まだ寝ないのけ?」
 夜、時計の針が十一時を指すころになってラムが言った。
 あたるは読んでいる漫画から顔をあげずに答える。
「もうちょい起きてる」
「じゃあ、うち先に寝るっちゃ。おやすみ、ダーリン」
「ん」
 ラムが押入れの戸を閉める音がした。あたるは布団にくるまったまま、北斗から借りた漫画をさっさと読んでいく。あと残り三巻弱。頑張れば日付が変わる頃には読み終わるはず。あたるは欠伸を噛み殺してページをめくった。
 少年誌で連載している学園ものの恋愛漫画だった。御多分に漏れずヒロインの数が多い。女の子がみんなかわいい、ということで今人気があるようだ。
 あたるは自分が直にさわれる現実の女が好きなので、フィクションのキャラにはあまり強い感情は持てない。だから全体の話が面白いかどうかの方が重要だ。その漫画については、そこそこ、という感じだった。
 強いて言うなら、サブヒロインの一人、黒髪ロングのお嬢様は悪くないと思った。美人で高飛車で、生まれの良さを鼻にかけ、いつも主人公に意地悪を言ってばかりだが、それは構ってほしい好意の裏返しにしか見えない。根が優しいから意地悪に徹しきれないところも、普段はすぐ雰囲気に流されるのに、他のヒロインが次々主人公に惚れていく中でその子だけは頑なに陥落する気配がないところも、悪くない。
 あたるは読み終えた巻を既読の山に積み上げ、未読の巻を拾い上げる。
(よしっ、これでラスト……)
 メインヒロインとの文化祭の話が終わって、次の章が始まる前に、またご令嬢が再登場した。珍しく主人公とそれなりに良い雰囲気になっている。放課後の誰もいない教室にふたりきり。初めは騒がしく言い争って、ふとしたきっかけで距離が近づき、言葉もなく見つめ合う。夕陽を背景に、ご令嬢が困ったように見上げるカットが結構かわいい。同時に、かすかな既視感がふわりと心を掠めていった。
 前からなんとなく思っていたが、このキャラ、誰かに似ている気がする。
 誰だったかな。
 欠伸をして、滲んだ涙を拭いながら考えるが、眠くてすぐには思い出せない。読み進めていくうちに徐々にページをめくる指の動きが鈍り、うつらうつらと瞼が重くなってくる。いつの間にか、あたるは目を閉じて寝息を立て始めていた。
 
 夕陽が窓から差し込んでいる。運動部の掛け声が遠くから聞こえる。目を細めるほど眩しい茜色に染まる教室にいるのは、あたると面堂だけだった。
 面堂は頬に大きな白いガーゼを貼っていた。左手には包帯を巻いて、夏服のそこら中に葉っぱと泥が付いて汚れている。あたるの方も似たような有様だった。打ちつけた脛とすりむいた肘がひりひりと痛む。机を向かい合わせながら、二人揃って反省文を書いていた。
 面堂は、あたるが何を話しかけてもひたすら無視した。唇をかたく引き結んで、むすっとしながらペンを動かしつづける。面堂の字はあいかわらず綺麗だが、普段のそれと比べるとやや乱雑で不揃いだ。それを見て、こりゃ相当怒ってるなとあたるは思った。
 面堂、とあたるは呼びかける。無反応。なあ面堂聞いてんの。無視。声をかけるたびに、かすかに指に力が入って面堂の綺麗な字が少しだけ歪む。
 あたるは椅子から腰を上げた。机に片手を突いて、ぐっと前に身を乗り出す。何事かと面堂が不機嫌な顔を上げたところで襟首を掴んで引き寄せ、掠めるように唇を奪った。
 面堂はぽかんと間抜けな顔をした。
 一拍置いてから弾かれたように椅子から立ち上がろうとして、勢い余って転げ落ちた。ガッタンと派手な音がして椅子が倒れ、面堂が背中を後ろの机に思いっきりぶつけたのでまた大きな音がする。過剰なまでの騒々しい反応にあたるは思わず笑った。笑われてきっと怒ると思ったのに、面堂はそのままへたり込んでいる。
 夕陽の投げかける朱よりもなお色濃く、面堂は頬を真っ赤に染めていた。いつもの自信も直前までの不機嫌もどこかに消えて、口許を片手で覆ったまま動かない。あたるが上から覆いかぶさるように屈み込むと、面堂が咄嗟に身を引いて後ろに肘をついた。あたるは構わず面堂の膝を割ってその間に身を滑り込ませ、ほとんど押し倒すような体勢で顔の横に片手をつく。
「ここがどこかわかってるのか……」所在なげに顔を背けながら、面堂は不機嫌を装った低い声で囁いた。
「うん、教室だよな」あたるも何食わぬ顔でにっこりして、頬の白いガーゼに指先を伸ばす。触れた瞬間、痛みにぴくんと面堂の身体が強ばった。かすかに歪む表情がもっと見たくて、親指でガーゼの表面を優しく撫でていると、面堂が瞳を潤ませて戸惑いがちにあたるを見上げる。すごい困ってるな、とあたるは思った。教室でこんなことされて、痛いのに傷触られて。言葉にはしなくても、今すぐやめてほしいと目が訴えている。あたるはそれをよくわかった上で、もう一度面堂の襟首を掴んで唇を近づけた……ところで目をさました。
「……は?」
 眼の前にあるのは、見慣れた枕。それと暗闇のなかに転がる開いたままの漫画。
「は?」
 あたるは唖然としながら、いつもの布団の中で固まっていた。
(は……? は? は?? なんだ今の!?)
 夢の内容を思い返すにつれ、冷や汗がじんわりと背中に滲んできた。はっきり言って、自分が誰なのか全く思い出せないと最初に気がついたときよりもはるかに動揺していた。心底怯えたといってもいい。
 胸の奥にひやりと冷たいものが忍び込み、心臓が嫌な感じにドキドキ脈打つ。あたるは青褪めながら手のひらで口許を覆った。
(お……おれは、なんちゅー気色悪い夢を……)
 昨日はなにかと面堂と関わる機会があったから、そして寝る直前まで恋愛ものの漫画を読んでいたから、眠っている間に頭の中でごちゃごちゃになってそれが夢になったんだろう、とは、思うが、いくらなんでもあんまりな内容だ。
 窓の外は暗く、夜闇の中で三日月が空高く輝いている。まだ真夜中だった。そうか、ならまだチャンスはある。
 あたるはしっかり布団を被り直した。
「……寝直そう!」
 次はちゃんと女の子の夢を見よう。それで上書きしてなかったことにすればいいと、あたるは固く決意した。
 そして今度は本当に、保健室のサクラとよろしくやる夢を見ることができた。おかげで朝のめざめは実にスッキリしたものとなった。
 だが、悪夢はこれで終わらなかった。

 北斗に漫画を返し、ついでに「面白かったが、続きは貸してくれなくていい」と告げ、あたるはもうあの悪夢からすっかり解放された気でいた。昼前には、あんなの犬に噛まれたようなもんだと割り切って、夕方には夢そのものを綺麗サッパリ忘れ去っていた。
 そして夜になって上機嫌であたたかいお布団にくるまって幸せな眠りにつき、夜中にまた面堂の夢を見て飛び起きた。
 しかも昨日の夢とは全然違う状況だった。今回は、夢のきっかけに関して、思い当たるふしは全く無い。あたるは呆然として、意味もなく袖口で何度もごしごしと口許をこすった。そしていくらか不安な気持ちでもう一度体を横たえる。もしかして、これっきりでは済まないのではないか――そう思いながら。 
 あたるの不安は的中した。
 あれ以来何かのタガが外れたように、あたるの脳は結構な頻度でそういう感じのよろしくない夢を作り上げるようになった。
 夢の舞台は、日によってさまざまだった。でも結局行きつくところは同じなのだ。屋上の給水塔のそばで、誰もいない特別教室で、公園の木陰で、体育館の倉庫で、図書室の本棚の間で、他に誰もいないときを見計らって、あたるは面堂を引き寄せた。
 夢のなかの面堂は、キスするたびに違う反応を見せた。慌てて突き飛ばしたり、恥ずかしそうにしたり、怒ったり、困ったり。こっちの面堂は感情豊かで、面白いくらい表情がころころ変わる。それもおかしな話だった。現実の面堂はいつだって、白っとした、突き放したような対応しかしてくれないのに。
 そもそも、それ以前にあの面堂が、男相手にあんなこと許すはずがないのだ。だが、ひとたび眠りに落ちると、あたるは何度でもそれを忘れてしまうようだった。

 何が原因なんだろう。
 夢を見た次の日は、あたるはどんよりした気持ちで遠くから面堂を眺めた。
 何度見たって面堂は面堂だ。確かに顔だけは、女だったら好みのタイプだったろうな、とは思う。だがそれだけだ。面堂はどこから見たってれっきとした男で、女みたいだと思わせるようなところはない。すらりと背が高くて、しっかりとした骨格とほどよく鍛えた体のラインは細身ながら力強く、女の子の持つかわいさ柔らかさ愛らしさとは対極にあると言ってもいい。なのに、どうしてああなるのか、あたる自身にも全然よくわからない。
 同じことを何度も繰り返すうち、ごく僅かずつながら、あたるは自然と面堂という人間のことに詳しくなり始めていた。
 朝は、よく嬉しそうにラブレターを机の上に積み上げている。しかしそれも、竜之介がもっとたくさんのラブレターを抱えて登校してくるまでの話だ。そこからは一転して静かにいじけている。コースケにそれをからかわれて虚勢を張るまでがワンセットだ。
 休み時間はだいたい女の子と話している。歯の浮くような気障ったらしい台詞を吐いては女の子にきゃあきゃあと騒がれているので、割と騒がしい。クラスの男子が嫉妬混じりのジト目で睨んでいるが、気付いているのかいないのか、無視してにこやかに振る舞っている。
 放課後は、家から迎えが来るらしく、寄り道もせずにすぐ帰る。実際、面堂のことを商店街で見かけたことはなかった。
 頻繁に眺めていても、面堂と目が合うことはほとんどなかった。見ていることを気づかれずに済むのはありがたい。でも、こうして相手を意識しているのは自分だけだと思うと釈然としない気持ちもあった。こっちはかわいい女の子を見つめる楽しみを蹴ってまで時間を割いてやっているのに。その上、こうして観察してみたところで依然として原因は掴めないままだった。
 あたるがどんなに抵抗したところで、悪夢は続く。
(だから! なんで! 面堂なんだよっ!?)
 ガバッと起き上がりながら、そのたびにあたるは心の中で叫んだ。
 そして、面堂のことを気にすれば気にするほど、夢の内容が不穏な色を増していくことにもあたるは気づき始めていた。はじめのうちは、一瞬ふれあうだけのたわいのないキスだった。だがそれも、いつしか深く貪るようなものに替わった。
 特に困るのは、面堂の表情だった。長い時間をかけて理性を溶かすようなキスをすると、面堂は決まって夢見るようななんとも言えない表情であたるを見つめるのだ。頬を上気させ、とろんとした目にはうっすら涙が浮かんでいて、唇の端からはどちらのものとも言えない唾液が垂れている。そんな顔でじっと見られると、背筋がゾクッとしてどうしていいかわからなくなった。混乱しているうちにやがて目が覚めて、体の一部分は誤魔化す余地がないくらいしっかり勃っている。これは単なる朝勃ち、生理的な現象であって、夢の内容との因果関係は一切ないと自分に言い聞かせても、非常にいたたまれない気持ちになった。
 これ以上まずいことになる前に、面堂のことなんか頭から締め出すべきだと、頭の中の賢明な部分はあたるに毎日警告していた。だが、所詮心なんてものは理屈どおりに動いてくれるものではないのだ。
 水を注ぎ続ければ、いつかは容器から溢れていく。溢れてからではもう取り返しはつかない。

 どこかの民宿だった。
 ずいぶん古くて、誰かが廊下を通ると板木がギシギシときしむ音がする。壁も薄いのか隙間だらけなのか、隣の部屋の話し声もさっきまで聞こえていたくらいだ。
 畳の上に薄っぺらい布団を二つ並べて、あたるは面堂と同じ部屋に泊まっていた。すでに真夜中を越していて、部屋は暗い。ただ、部屋の隅の一箇所だけ小さな明かりが点けてあって、完全な暗闇というわけではなかった。
 だから、隣で寝ている面堂の様子もよく見えた。面堂は自分の布団のなかで、うとうとと微睡んでいる。さすがに今は前髪をおろしているから、いつもとだいぶ印象が違った。
「……ん」
 面堂が身じろぎした。浴衣の合わせが少しずれ、面堂の肩と鎖骨がちらりと覗く。見ているうちにだんだん寝る気が失せてきて、あたるはそろりと布団から抜け出して面堂にしのびよった。
 あたるが掛け布団を静かに持ち上げると、面堂は瞼をうっすら開く。まだ半分寝ぼけているから、追い払おうとはしない。その隙にするりと中に滑り込む。無抵抗をいいことに、そのまま脇腹から腰にかけて撫で下ろしたときになってようやく状況に気付いたのか、面堂はぎくりと身を固くした。
「諸星っ、どういうつもりだきさま……」
「逆に聞くが、この状況で他にど〜ゆ〜つもりだとおまえは思うわけ?」
「う……」
 面堂は頬をかすかに赤くしたが、まだ諦めずにあたるを睨んでいる。
「と……隣に聞こえたらどーする気だ……」
「まあ、明日合わす顔がないよな」
「だったら……!」
「だから、隣に聞こえないように頑張ってくれ」
 面堂の言葉に被せるようにして、あたるはへらりと笑った。心底楽しげなあたるとは対照的に、面堂は頬を引きつらせた。そして何も言わずに速やかにあたるから逃げようとする。逃げられる直前にあたるは面堂の両腕を捕らえて、上からぐっと押さえ込んだ。
 押し殺したささやき声で面堂はあたるを罵った。
「よさんかっ、このバカ! い〜かげん時と場合くらい考えたらどうだ、ぼくは絶対イヤだからな!」
 もがくうちに浴衣は更に乱れてきた。はだけた紺色の合間から白い胸板が覗き、面堂が身をよじるたびに薄紅色の小さな粒がちらちらと見え隠れする。
「へ〜、逃げるのか? そんなに自信ないんだな」
「なんだと?」
 あたるはわざとせせら笑いを浮かべ、面堂を見下ろす。
「おれに気持ちよくされちゃったら、声我慢できないと思ってるんだろ」
 面堂の目元にさっと赤みが差した。
「そっ、そんなわけがあるか!」
「じゃ、証明してみせろよ。できるんだろ?」
「……」
 面堂の瞳が、ためらうようにかすかに揺れる。だが、すぐ挑むような眼であたるをまっすぐ睨みつけると、胸ぐらを掴んで引き寄せ、唇を重ねた。
 ここで目が覚めたならまだ良かった。いや、この時点ですでに大分良くない内容なのだが、問題は、夢がこの先まで続いてしまったことなのだ。
 端的に言うと、この夢であたるは面堂とヤっていた。
 起きてそのことに気づいたとき、過去最高の自己嫌悪に襲われたあたるは衝動的に壁に頭を打ち付け、その音に驚いて目を覚ました両親に泥棒と間違われて大変な目にあった。
 そして、これを機にまた頭の中で外れてはいけない鎖が外れてしまったのだろう、夢はキスの先まで続くようになってしまった。
 今までの夢と同じように、あたると面堂はいろんな場所、状況で身体を重ねていた。中には、そんなとこで盛るなんて正気かよ、と自分でも思うような場所もまじっていた。ちなみにそのときは夢のなかの面堂もかなり嫌がっていた、結局流されていたが。
 あたるは思い悩み、あれこれ考えた末に、対策としていろんなことを試した。自慰で体の欲求を満たしておいたり、寝る直前まで雑誌のグラビアを眺めてみたり、その日一日で話をした女の子の顔を片っ端から思い出したりした。
 なのに、結果はいつも同じ。
 現実の、目を覚ましているあたるは、面堂に――というか男なんかに興味はない、あるはずがない。
 そもそも、あいつとは全然仲良くもない、他人同然の関係なのに。
 こうなってくると、もはやあたるの心持ちの問題というより、何かの呪いではないかという気がしてきた。この悪夢を止められるものなら御祓でも何でも縋りたいぐらいだ。だが、夜ごと面堂とヤる夢を見て悩んでるなんてこと他人に知られるくらいなら、死んだほうがマシだった。

 移動教室から二年四組に戻ってきてすぐ、あたるは目の前にいた友人に何気なく声をかけた。
「コースケ、明日の古典の小テストって範囲どこまでだっけ?」
 と、話しかけたところで、コースケの隣に面堂が立っていることに気づいて、あたるはどきりとした。
「あー……面堂、どこまでだ?」
「152ページから160ページ」
「だとよ。さすが優等生、即答だな」
「注意力の問題だ、成績は関係ない」
 コースケは、あたるにからかうような笑みを向ける。
「つーか珍しいなあたる、おまえがべんきょーのこと訊くなんて」
「だってさ、恵美ちゃんが小テストでおれが勝ったらデートしてくれるって言うから」
「いや、それ、遠回しに断られてるんじゃないか?」
「んなことないって――」
 あたるがコースケに反論しはじめた矢先、面堂がこう言うのが聞こえた。
「あっ、しのぶさん。この前のお話のことなんですが……」
 面堂は、するりとコースケから離れていく。コースケの方は気付かなかったのか関心がないのか、それには触れずに今度は昨日放送していた音楽番組の話題を振ってきた。
 あたるもその番組は見ていたから、あのアイドルが可愛かった、あのバンドの新曲が良かった、と歩調を合わせていた。だがあたるの意識は、今しのぶとにこやかに話している白い学生服の男にばかり向いていた。
 あたるは暫くコースケとそうして雑談していたが、ついに自分の気持を抑えられなくなり、少し唐突に話題を変えた。
「コースケさ、おまえさっき面堂と話してなかったか?」
「あっそーだ、その話なんだがな!」コースケは急に顔色を変えてずいっとあたるに迫った。
「あたる聞いてくれよ! あいつさ、あの雑誌に載ってた何百万もするスピーカー、知り合いにもらったとか抜かすんだぜ! しかも全然使ってねーんだって!! ほんっと金持ちってやつはさ〜〜」
「へー」
「先代モデルと違いがわからない、生演奏のほうがいいとか言うし」
「まあ、生演奏と比べたらそりゃな」
「おれだってそこはわかってるっつーの、ロマンの問題なんだよこれは! 前から何回も言ってるのにわっかんねーんだよなあいつ、だいたいこの前も――」
 コースケの面堂に関する愚痴はなかなか終わらなかった。だが、その割に内容そのものは親しげだったのであたるは少し驚いていた。あたるは、あの面堂が男子とある程度以上の親交を持つことがあるなんて、考えたこともなかった。
 だが、こうして話を聞く限りでは、どう考えたってコースケと面堂は友達だ。
 それを悟った途端、あたるは反射的に語気を強めて再びコースケの話を遮っていた。
「話が長いぞ。だいたい面堂のことなんかど〜でもいいだろ!」
「ま〜、それもそうだな」
 コースケは意外とあっさり同意した。おかげで話題は別の方向に向かっていった。
 新しい話題に耳を傾けながら、ほっと小さく息をつく。そして半ば無意識に面堂の方に目を向けて、またどきりとした。面堂もあたるのことを見ていたのだ。確かに声は少し大きくなった、聞こえたのかもしれない。
 面堂は目が合った瞬間、ほんの少しだけ驚いたような顔をした。だがすぐに視線をすっと外し、何事もなかったような笑顔でしのぶと話している。だから、今のあたるの言葉を聞いていたのかどうかは、見ている限りではわからなかった。
 
 望むにしろ望まないにしろ、太陽は西に沈み夜は来る。夜が来れば、生き物の体は休息を必要とし、嫌でも睡眠を取らなくてはならない。あたるは今日も、気の進まないまま布団に入った。
 あたるは戸惑っていた。コースケと面堂の関係に。なぜなら、あたるにとってもコースケは、クラスで一番仲の良い友人だからだ。学校を抜け出すときは必ずコースケと一緒だし、しょっちゅうくだらない話をして笑っているし、放課後になるとコースケと商店街で買い食いをする。だったら、なぜ今まで面堂はあたるの日常に全く関わってこなかったのだろうか。
 注意深く眺めてみれば、答えは簡単だった。あたるがコースケのそばにいるときには、面堂は決してコースケとは話さないのだった。そういうときは、よくしのぶやラムと話している。面堂がコースケと一緒にいるのは、だいたいあたるがラムと騒いでいるときか、しのぶに机を投げられているときだった。
 そして今の例からもわかるとおり、面堂の交友関係は、実はあたるのそれとかなり重なっていた。面堂は、ラムともしのぶともコースケとも仲が良いのだ。なのに、あたるは今に至るまでまったく気が付いていなかった。
 いや、というより、もしかしたら。
(あいつ……おれを避けてる?)
 ただの偶然かもしれない。もしくは、あたるが見落としていただけで、本当は目に入っているのに気付かなかった、というだけかもしれない。
 だが、そういう疑いを持ってあらためて面堂の行動を振り返ってみると、確かにそうとしか思えなかった。
 面堂は、対象であるあたるにすら気付かれないように、実に巧妙に立ち回って自身の立ち位置をずらし、あたると自分の日常が重ならないように行動していた。
 だから、あの日級友に指摘されるまで、あたるの意識に面堂の存在が上ることすらなかった。
 あたるはそのときようやく気がついた。あんなに眺めてもほとんど目が合わないのは、面堂がこちらを意識していないからではない。その逆だ。
 面堂は、それほどまでに徹底してあたるのことを避けている。
 あたるはパジャマの裾を指が白くなるほど強く握った。そのまま、布団に頭まで潜り込む。
(何考えてんだろ、おれも……どーでもいいではないか、あいつにどう思われてたって)
 面堂のことがわからない。
 一緒に階段を降りるときは、面堂はしつこいくらいに足元をよく見るように注意してきた。入院中も、たとえラムに会うための口実だとしても、毎日あたるの様子を見に来ていた。そうまでして避けたい人間に、なぜそんなことをしたのだろう。
 あたるが八つ当たりをしたとき、面堂は文庫本から顔を上げて、ほんの少し驚いたようにこちらを見た。その姿が、どうしてか今日の面堂と重なる。
(嫌いだ、あんなやつ……)
 ラムやしのぶにはニッコリと微笑んで話しかけるのに、コースケとならくだらない話でも進んで付き合っているのに、あたるには視線一つろくによこさない。
(面堂なんか……きらいだ)
 あたるは枕をぎゅっと抱き締めた。胸の中に広がるざわめきともやもやは、今までで一番ひどかった。それを無理やり抑えこんで、逃げるように眠りに落ちていった。

 衣服を取り去り、素肌と素肌を密着させて、間を隔てるものがなくなっても、まだ一つだけ邪魔なものがある。そしてそれを面堂から取り上げるのには、いつだって苦労した。じっくり時間をかけて、手間を惜しまなければ、身体のほうはやがて陥落する。そこから先は、身体の熱がその邪魔なものをねじ伏せるまで待たなければならない。
 でも、苦労するだけの見返りはある。
「っ、あ、もろぼし、諸星…っ」
「ん…、どした、面堂?」
「うあ…、あ、きもち、いい…それ…」
 何度も何度も甘イキを繰り返した身体は、息を軽く吹きかけるだけでも反応するほどいやらしくなっていた。ここまでくると、面堂ご自慢の理性というやつも完全に麻痺して機能しなくなる。夢見がちにとろけた表情も、蜂蜜みたいに甘ったるい喘ぎ声も、信じがたいほど素直な言葉も、面堂がこの状態にあるときにしか、まず拝めないものだった。
「そーか。でもおれ、ちょっと疲れてきたんだが……やめてもいいか?」
 やめる気なんかさらさらないのに、わざと腰の動きを緩めてそう言うと、面堂の体がひくんと反応する。
「っい、ぃやだ、やめるな…っ」
「そーいわれてもな~」
「やだ、もっと、きもちよくしてほしい…ッ、奥まできみを感じて、きもちいいとこたくさん突いてほし……っ、あぁ!?」
 むずかる子供のわがままにも似た懇願は、再開した律動によって意味をなさない喘ぎに替わった。
「っく、ぁあ、んぅう…っ!!」
「っはぁ……そーゆー、のっ、もっと普段から、聞きたいんだけどなっ。おれも」
 乱れる息を抑えながら、望み通りに奥まで貫いていく。面堂は、きもちいい、とうわごとのように繰り返した。諸星、きもちいい、やめないで。その言葉は毒となって身体を巡り、身体が熱を帯びていく。マトモとはとても言えない狂おしい快楽と興奮に、あたるはいつしか夢中になっていた。
「…っふ、めんどう…」
「ん…」
「ちょっ、と、おれも出そう、だから…もう抜く…」
 あたるは荒く呼吸しながら、面堂の身体の横に手を付いて自身を引き抜こうとする。その途端面堂はあたるの背中に腕を巻き付けてぎゅうっとあたるに抱き着き、離すまいとした。あたるは慌てた。
「面堂! ばかっ、なにして――」
 面堂は少しだけ身体を離した。あたるの頬に手を伸ばしてするりと撫でながら、かすれた熱っぽい声で囁きかける。
「諸星、きみがほしい……このまま中に、出してくれ……」
 あたるは思わず頬をさっと赤く染めた。
「今そういうこと言うのズルいだろ…!」
 すると、面堂は口の端に小さく笑みを浮かべる。わざとだな、こいつ。
 あたるは面堂の誘いに乗った。中から抜け出る代わりに頂きを目指して自分を追い詰めていく。
 面堂の好きなところを深く抉った瞬間、面堂は、身体をびくりと緊張させながら、あたるの手をぎゅっと握った。そして震える唇を懸命に動かした。声にはならなかったが、あたるには面堂が何を言ったのかわかった。甘い甘い毒があたるの心を冒して頭の芯から麻痺させる。
 あたるは面堂の頬に自分のものをすり寄せながら、口を開いた。
 言葉が形になる直前に、ついに興奮が眠りを引き裂いた。あたるは不可抗力で突如現実へと叩き出される。はっとして今のが夢だと気づいたまではいいが、それでも熱いものは依然迸り、下半身を一気に駆け抜ける。
 あ、やばい、出る。
「ぁ…、ん、ぅ…っ」
 びく、びく、と下半身を中心に身体が痙攣していた。止める間もなかった。
「…っ、はぁ…は……」
 乱れる息を抑え、自分の肩をぎゅっと抱きながら快感をやり過ごす。
 そして他ならぬその快感が、例の悪夢はついに一線を越えたのだと雄弁に物語っていた。あたるは言葉もなく枕に顔を埋める。
 夢精した。面堂で……。
 それだけでも十分致命傷だが、その先にはもっと悲惨な現実が待っていた。
 もしあのまま目を覚まさなかったら、どうなっていただろう。たとえその先があったとしても、本当に言ったかどうかは、わからない。でも、何を言いかけたかはわかっている。
 どんな女の子が相手であったとしても、死ぬまで言うつもりはなかったのだ。それを、男に――しかもよりによって、ただの同級生で、不仲で、そもそも友達ですらない、いけ好かない野郎相手に? おまけに夢精までして。考えるだけで気が遠くなってきた。寝ていたときの自分を殺してやりたい。本当に、できるだけ苦しんで死んでほしい。
 部屋を静かに抜け出して、誰にも気づかれぬようひっそりと事後処理し、着替えて布団に戻ったはいいが、こうなってはもはや一睡もできるわけがない。あまりにもショックだったし、また同じ夢を見たら、そして夢の中の自分が今度こそそれを口走ったらと思うと恐ろしくて眠る気になれなかった。
 もう一度記憶喪失にならないだろうか。あんな夢を見たという記憶を消去できるなら何を引き換えにしてもいい気がした。なぜ世界には必ず朝が訪れるのだろう。あたるは今こうして地球が回っていることすら嫌になった。何しろ朝になったら学校に行って、あたるを死ぬほどの自己嫌悪に陥らせた張本人と顔を合わせなければならないのだ。

 結局明け方近くになってうつらうつらと少しだけ微睡んでいるうちに、目覚ましが鳴った。
 ラムに引きずられるようにして階段を降り、半分眠った状態でもそもそと朝ご飯を食べる。テンが何か言っていたがそれすらも水の中にいるようになんだかよく聞き取れなかった。家を出るときも靴を履き違えそうになったし、扉を開けて出ていく直前で母さんに鞄を忘れていることを指摘され、手ぶらで学校に行きそうになっていたことにやっと気がついた。
「ダーリン大丈夫? 今日は随分変だっちゃ。どうかしたのけ?」
 いつもは飛んで学校に向かうラムが、今日はあたるの隣を歩いている。あたるが道路にふらふら出ていかないか心配しているようだ。
「夢見が悪かったんだよ……」
 何を訊かれたところで、あたるが説明できるのはせいぜいそれだけだった。
 よろよろと教室に滑り込んで机の横に鞄をかけ、ぐったりと椅子に腰掛ける。すると、いま宇宙で最も話したくない人間が、どういうわけかあたるのほうにつかつかと歩いてきた。
「諸星、遅いぞ。今日の日直はきみだろうが。なぜぼくが代わりに日誌を取りに行ってやらねばならんのだ!」
 面堂はべしっと学級日誌を机に叩きつけた。怒っている割になんだかんだ言って代わりに持ってきてくれたらしい。生真面目なのかお節介なのか、よくわからない男だ。
「あ〜、日直おれだっけ、忘れてた……」
「まったく! 学生生活においては何事も最初が悪ければすべてがいけないと、ぼくは前からさんざん……」
 いかにも優等生然とした説教は、面堂があたるに目を向けた途端にふと途切れた。
「どうした? ひどく顔色が悪いようだが……」
「べつに……ただの寝不足」
 あたるは頬杖をつきながらそっけなく答える。
 全部おまえのせいだよ、なんて言えるわけもない。そもそも厳密には、勝手にあんな夢を見たあたるのせいであって、現実の面堂は何一つ関係ない。
 面堂の顔を見ていたら要らない事を思い出しそうで、あたるはつとめて面堂から視線をそらした。本当は声も聞きたくない。やはり思い出しそうだからだ。だから今は、今だけは話しかけないでほしいし、速やかに離れて視界から消えてほしい。
 だが、こういうときに限って、面堂はやけに親身な態度をとった。身をかがめて視線を合わせ、気遣うようにあたるの顔をのぞきこんだ。
 面堂の手が額に向かって伸ばされる。
「熱でもあるんじゃないか? この前のこともあるし、一度病院に――」
 ――諸星、きみがほしい……。
「っ、触んな!!」
 反射的に面堂の手を弾き飛ばした。面堂はあっけにとられてあたるを見た。それからすぐにあたるを睨み、声を荒げた。
「何なのだ、その態度はっ! こっちはきみを心配して……」
「いいからおれに構うなって言ってんだ! わかったらもうどっか行けよ!」
「諸星っ、いったいぼくが何をしたというんだ!」
 かっと頬が熱くなった。これが実に理不尽なことも面堂の言い分が正しいこともわかっている。わかっているから腹が立つ。自分に対して燻っていた怒りは突如面堂に矛先を向けかえ、燃え上がり、一気に襲いかかった。
 あたるはガタッと立ち上がって机を叩いた。
「そうだ、おまえは別に何にもしてない! それがなんだよ!? 誰かを嫌いになるのにいちいち理由が必要か!?」
 あたるは怒鳴った。そしてぎくりとした。あたるが今の言葉を放った瞬間、あの面堂が、深く傷付いた表情をしたからだ。眉を寄せて、端正な形のよい唇は痛みに歪み、目には苦痛の色がはっきりと浮かんでいた。面堂がその表情を見せたのはほんの一瞬だったが、鮮烈な印象が記憶に焼き付くには十分だった。
 あたるが自分の言葉のもたらした結果に驚く間もなく、面堂はすぐに感情を閉ざして冷ややかな表情を浮かべた。まるで何事もなかったように。
「常に本能だけで生きているろくでもない貧乏人に理性的な人間の振る舞いを要求するのが、そもそもの間違いだったな。邪魔して悪かった」
 面堂の淡々とした静かな語り口には、冷たい怒りがこもっていた。面堂はすっと目を細めてあたるを見下ろす。
「言われなくても……ぼくだって、きさまが大嫌いだ、諸星」
 その瞬間、割れたガラスが突き刺さったような痛みが胸に走った。面堂の言ったことよりも、むしろそっちに驚いた。こんなのただの言葉だ、わずかに空気を震わせる以外何の力も無いのだ。なのに心臓がぎゅっと縮こまって、一瞬息ができなくなった。
 あたるはその場で凍りついたまま何も言い返せなかった。面堂はふいっとあたるに背を向けて教室を出ていったが、あたるは面堂の姿が見えなくなっても未だに動けなかった。表情にこそ何も出さなかったが、指先が震えていた。心臓がどきどきして苦しかった。こんな嫌な気持ちになったのは初めてだ。面堂にあんな顔をさせたのも、面堂にあんなことを言われたのも、どちらも本当に嫌な気分だった。しかも一番救いようのない点は、この嫌な気分の原因を作ったのはどこからどう見てもあたるで、悪いのはあたるただ一人だということだった。
 あたるはのろのろと下を向くと、ふらりとへたり込むように座った。ひどく混乱していた。自分が何をしてしまったのか、何をしたらいいのか、もうよくわからなくなっていた。
 そのまま少しぼんやりしていると、コースケが呆れた顔であたるに声をかけた。
「おまえら、ま〜た喧嘩してんの?」
「……たぶん」
「別にいくらでも好きにやりゃいいけど、おれのことは巻き込んでくれるなよマジで」
「うん」
 それからコースケはちらりとあたるを横目で見て、袋を開けたポッキーの箱を無言であたるに差し出した。あたるは現実感のないまま一本抜き取る。
「それ食ったら、もうその辛気くせー顔やめろよ」
「なっ……おれは決してそんな顔しとらんぞ!」
 あたるがすぐに食って掛かると、コースケは笑った。
「そうそう、おまえはそのアホ面が一番似合ってるからな」
 そう言ってあたるの口にポッキーをまた一本突っ込んだので、あたるはコースケにそれ以上文句を言うことができなかった。
 面堂は、それからあたるには一切干渉しなかった。あたるのほうも面堂に話しかける理由がなかった。
 だから結局、学校を後にするそのときになっても、あたるが面堂と話すことは一度もなかった。

 今夜は、特に寒かった。
 そろそろ本当にこたつを出したほうがいいかもしれない。ストーブでも湯たんぽでもいい。とにかく、体を温める暖房器具がほしい。
 どれもこれもがない以上、今夜部屋であったかく過ごすには、毛布をしっかり被って布団の奥深くに潜るしかない。手を布団の外に出すと指が冷えて辛いので、漫画を読む気にもなれなかった。
 あたるは布団の中で重いため息をついた。こういうときに限って、暇を持て余す羽目になるのはなぜなのだろう。
 あたるは一人だった。ラムがいればきっと気が紛れたのだろうが、彼女はUFOに戻ってあたるの記憶を取り戻す方法をあれこれ探している。今夜はそのままUFOで寝泊まりするだろう。だからあたるには、一人で思い悩む時間が朝までたっぷりあった。
 あたるは布団にくるまりながら、頑張ってかわいい女の子のことを考えようとした。百恵ちゃんの長い睫毛。明美ちゃんの泣きぼくろ。さやかちゃんのほっそりした足のライン。玲子ちゃんのきれいな指。
 普段のあたるなら、女の子の魅力的な部分に思いを馳せているだけで幸せな眠りに入っていける。確かに今は寝るには早い時間だったが、今朝の出来事さえなければ、とっくに眠れていたに違いないのだ。
 だが、どんなに女の子のことを考えようとしても、気が付くとあたるは面堂のことを考えていた。ほんの束の間見せたあの悲しそうな表情が、どうしても頭から離れないのだった。
 あんな顔をさせたかったわけじゃなかったのに、とあたるは苦い気持ちとともに思った。面堂は、あたるを気遣い、心配していた。本当にただそれだけだった。
 そもそもなぜあんな顔をしたのだろう。自分たちは友達なんかじゃなかった、と面堂は言ったはずだ。友達でもないやつからああいうことを言われたって、普通は気にもかけないものだろう。
 あたるは考え続けた。なぜ、どうして、を頭の中で繰り返し、何度でも同じ袋小路に入っては出口を探した。そのうちに、今まで漠然と抱いていた形のないもやもやは違和感へと名前を変え、違和感はすこしずつ収斂してなにかの形を持ち始める。やがてそれは、具体的な言葉で表現できるまでになった。
 面堂は、何かを隠している。
 確たる証拠はない。それでも、あいつには間違いなくまだあたるに言っていないことがある。
 だが、それは一体何だ?
 あたるはしばらく天井を見つめていた。そしてある瞬間に突然がばっと起き上がった。
 このままじっとしていたところで眠れないまま朝になるに決まっている。ぐずぐずと一箇所に留まっているのも、ぐだぐだと思い悩むのも全部嫌いだ。そもそもいくら考えたところで、あたる一人では答えが出ないのは明白なのだ。
 なら、直接会って訊くしかない。
 こんな時間にいきなり行ったら間違いなく迷惑だろう。つまりますます嫌われることは必至だが、そんなのもう今更だ。あたるは上着を引っ掴んで部屋着の上から腕を通す。ついでにマフラーも手にとったが、思い直してやめた。動いているうちにどうせ要らなくなる。
 クラス名簿を確認して住所を頭に入れてから、足音を殺してそろそろと階段を降りていく。両親は居間で晩酌をしているようだ。漏れ聞こえるテレビの音と穏やかな話し声を背中に受けながら、あたるは音を立てずに玄関をひっそりと出ていった。

 晩秋の夜の空気は身震いするほど冷たかったが、耐えられないほどではなかった。手のひらをすり合わせて息を吹きかけてから、上着のポケットに突っ込み、しんと静まり返った狭い道路を一人歩いた。月はやわらかな円を描いているが、端のほうが少し欠けている。満月まであと数日だろうか。月明かりがあたるの足元の闇にうっすらと影を落としていた。街灯の光に近づくたびに影は濃くなり、離れると同時にまた闇に紛れ薄れていく。
 冷たい風が路地を吹き抜け、あたるは身をすくめて息を詰めた。それでも引き返そうとは思わなかった。代わりにあたるは歩調を早めて走り出す。体が徐々に温まって頬が火照ってくる。吐き出す息は白くても、目的地につく頃には少し汗ばんでいた。
 面堂の家の門はもちろん閉まっていた。けれども勿論そんなことで諦める気はない。塀の周りをうろちょろしていると、奇跡的に鍵のかかっていない通用口をあっさり見つけ、これまた奇跡的に誰も見咎める者がいないことを見て取った。敷地内に侵入しながら、あたるは思った。こういうの、ザル警備っていうんじゃないだろうか。他人事ながら心配になったが、今はありがたく悪用させてもらうこととした。
 そしてあたるにとっては馴染みのない場所のはずなのに、不思議なくらい迷わずにそのまま本邸らしき建物に辿り着いてしまった。なんだかわからないが、どこを通って行けばいいのか、どこを目指すべきなのか、考えなくてもわかるのだ。こういう点も、やはりあたるに疑念を抱かせるのだった。とはいえ確信はない。普通の人間であれば、ただの偶然でここまで立て続けに正解の道を選び取れるはずはない、と言えるのだが、あたるは自分がどういう人間なのか薄々気づき始めている。自分であれば、ただの偶然、単なる勘だけでもここまで来ることは可能だろう。
 戸締まりのしていなかった勝手口からそろそろと中に入り込み、時折廊下を巡回している黒服の男たちの視界に入らぬように身を隠しつつ移動していく。今度も特に心当たりがあるわけでもないが、なんとなく気の向いた方角目指してあたるはとにかく進んでいた。しばらくそうして階段をのぼったり降りたり、部屋を通り抜けたり廊下を抜けたりしていたが、あたるは不意に何かを感じて立ち止まった。
 視線の先には、初めて見るはずの木製の扉がある。だが、あたるはそれから目が離せなかった。
 たぶん、この部屋だ、とあたるは思った。今度も、ただ自分の身体がこの扉から受けた印象を覚えているような気がするだけで、何の根拠もなかった。あたるは躊躇なくドアノブに手をかけゆっくりと回す。鍵はかかっていない。扉を音もなく押して隙間を作ると、静かに中へと身体を滑り込ませた。
 広い部屋だった。大きな窓。高い天井。重々しくひだを作るカーテンに、きらきらと光る豪奢なシャンデリア。真っ白い壁紙には洒落た油彩画がいくつもかけられている。どれも海の絵だった。家具はどれも高級そうでとても立派だったが、それでも空間の三次元的広さのせいで相対的に小さく見えてしまう。
 床には毛足の長い絨毯が敷かれているから、歩いても全然足音が立たない。あたるにとっては好都合だった。ざっと中を見回して部屋の主を探す。細かな金糸の刺繍がされたソファにも、つややかにニスが光る木製の書斎机にも人の姿はない。でも、気配はある。あたるはさらに歩を進めて、やがてかすかな音を聞き取った。
 窓のそばに、大きなベッドがあった。そこに、白い学生服を着たままの面堂がうつ伏せに横たわっていた。眠ってはいなかった。
「っ、ぅ……」
 白い枕に顔を埋めて、面堂は声を抑えて静かにすすり泣いていた。時折肩が震え、枕をぎゅっと握り締める。
 それは、幼い子どもが夜中にひとり泣く姿に似ていた。あたるは驚いていた。普段、あんなに自信に満ちた態度で、おとなびた振る舞いをしていた男が。別人のようだった。
 白い制服。無造作に脇に放られた通学鞄。彼はいつからこうして泣いているのだろう。そう思うと同時に今朝の出来事が後ろ暗い記憶として蘇る。自分のせいだろうか? いや、そんなふうに思うのは自惚れだろう。「ただの同級生」が多少心無いことを言ったくらいで泣くはずがない。だが、どんなにそうやって否定しようとしても、心の何処かではおそらく前者が真実だとわかっていた。だったら、どの面下げて、今の面堂と話ができるだろうか。
 たぶん出直したほうがいい。というより、そもそもこんなところまで来たのが間違いだったのだ。あたるは自分の軽率さを一心に呪いながらそろそろと後ずさる。
 だが、あたるの方も気付かぬうちにかなり動揺していたのだろう。その際に思いっきり壁際の棚に腕をぶつけてガタッと大きな音を立ててしまった。
 しまった、と思ったが、手遅れだった。
「真吾っ、今日は入るなとあれほ……」
 鋭い非難を含んだ面堂の言葉は、顔を上げてあたるを目で捉えた瞬間にふつりと途切れた。驚愕が濡れた瞳にさっと過ぎる。面堂が跳ね起きた。
 こうなってはもう逃げられない。あたるはきまり悪い気持ちを押し殺しながら、仕方なく片手をひらひら振って面堂にぎこちなく笑いかけた。
「よ、面堂……」
「なんで……どこから入った?」
「勝手口が開いてたぞ。不用心だな~」
 あたるが冗談交じりにそう言うと、面堂は目を丸くして言葉に詰まり、唇をわずかに震わせた。あたるがこの部屋に現れたことよりも、どういうわけかその言葉のほうが面堂をより強く驚かせたようだった。
「おまえ、なんで泣いてるの」
 そしてどうやら面堂はあたるにそれを訊かれるのが一番嫌だったらしい。黒い瞳が怒りに燃えた。
「うるさいっ泣いてなんかいない!! どのみちきさまには関係ないだろう! とっとと失せろ!」
 面堂はサイドボードに置いてあった本を投げてきた。あたるはひょいとかがんで避けて、こちらを刺すような目で睨む面堂をしっかり見据えて言った。
「出ていってやるよ、おまえがちゃんとほんとのこと話したらな」
「馬鹿馬鹿しい、ないものについて話せと言われても無理に決まってる。いいから黙って出ていけ、もうここには戻ってくるな!!」
「今、戻ってくるな、って言ったな。帰れじゃなくて。おまえやっぱりなにか隠してるだろ?」
 こんなのはただのはったりに過ぎなかったが、それをおくびにも出さずにあたるは自信たっぷりに言い切ってみせた。ほんの一瞬でも相手が騙されて、僅かでも心の内を顔に出せばそれで事は足りる。
 そして面堂はあたるの罠にかかった。面堂はあたるの言葉に反応して、動揺し後ろめたそうな目をした。そうした感情が閃いたのは一瞬だったが、あたるはそれをはっきり見て取った。疑念を確信に変えるには十分だった。
「話せよ、面堂」
 あたるの声色にも、それがはっきり出ていたのだろう。面堂は苦々しげに顔を背ける。弱みを見せた自分にひどく腹を立てている様子だった。
「……仮にその推測が正しかったとしても、話したところできみは絶対に信じない」
「聞いてみなきゃどうだかわかんねーだろ」
「ぼくはきみが思うよりずっと、きみのことをよくわかっている。だから、時間の無駄だと言っているのだ」
 そしてそこで、面堂のなかで何かが限界を迎えたようだった。今まで頑なに保ってきた拒絶が揺らいで、不安定な感情が垣間見え始める。面堂は俯き、暗い声でささやく。
「あの日、おまえがぼくをあのまま行かせてくれていれば……そうすればこんな……」
 それは、あたるに向けた言葉というよりは、独り言に近いように感じられた。
「おまえが、ぼくを引きずり出したくせに……。何もかも忘れたかったのは、ぼくの方なのに」
 ぽつ、と小さな滴が面堂の膝に落ちた。ひと粒では終わらず、いくつもこぼれて落ちていく。あたるは、これ以上見ていられなくなった。拒絶されるのを覚悟であたるは彼のそばに近づいて行く。面堂は顔を上げない。
 あたるは面堂の隣にそっと腰掛け、彼の肩に恐る恐る触れた。面堂は振り払わなかった。ただ、俯いたまま静かに泣いている。あたるはそのまま、面堂の肩を抱き寄せて、なだめるように撫でさすった。
「面堂……泣くなよ」
「ぼくが泣こうが、おまえには関係ない……」
「おまえの言ったことが全部本当なら、そうだろうな。だが、おれにはどうも信じられない」
 涙でひんやりと濡れている頬に触れ、ゆっくり顔を近づける。今から何をしようとしているのか、面堂にもわかっているだろう。それでも面堂は動かなかった。唇が触れ合う。
「ほんとうに、おれたちが何でもないなら……どうして避けないんだ」
 そっと唇を離して、あたるは親指で面堂の頬から涙を拭った。
「なんで、キスさせる?」
「……」
 面堂は目を伏せたまま、何も言わなかった。瞬きするたびに、小さな雫が睫毛を濡らし、頬を伝う。
 面堂は、小さな、ささやくような声で言った。
「帰ってくれ、諸星……」
「いやだ。帰らない」
「おまえはここにいるべきじゃない」
「おれがどうするべきかは、おれが決める。だから……」
 あたるは面堂を腕の中に収めた。面堂は凍りついて身を固くするが、あたるは構わずぎゅうっと抱きしめる。上品な香水の匂い。面堂は意外なほど細身の体つきをしていた。だが、女の子とちがって柔らかくもなく、華奢でも小さくもなく、骨ばってゴツゴツしている。
 面堂は身じろぎ一つしなかった。あたるも、そのまま目を閉じてじっとしていた。面堂の体温はあたるより少し高く、あたたかくて、心地よかった。
 部屋の壁掛け時計がかちかちと音を立てる。窓の外で鈴虫が鳴いている。そしてお互いの呼吸の音も、心臓の音も、何もかも聞こえるくらい、静かだった。ずいぶん長いことそうしていたように思う。
 その静寂を破ったのは、面堂の、押し殺したささやき声だった。
「どうしておまえは、いつも、ぼくを放っておいてくれないんだ……?」
 どこかなじるような言い方に、あたるは小さく苦笑した。面堂を抱きしめたまま、それに答える。
「しょーがねえじゃん……放っておいたら、おまえ泣くんだもん」
「……」
 面堂は観念したようにそっとあたるの肩に顎を乗せて、背中に腕を回した。