Fairy Tale 01

 いつものように、あたるが雑誌を読みながら自分の部屋でのんびりしている夜のことだった。
「ラムちゃ~~ん、この絵本読んで~」
 そう言って、テンが一冊の絵本を手提げ袋から取り出した。手提げ袋の中には何冊もの絵本が入っている。ラムと一緒に近所の図書館で借りてきた本らしい、今日の夕飯時にそんな話をテンとラムがしていた。つまりは地球の、日本語の絵本だ。
 あたるは雑誌から顔を上げてふっと鼻で笑った。
「また始まった、ガキはこれだから」
「どくしょはちゃんとしたオトナの趣味やろ。ま、ぜんぜんオトナじゃないおまえには関係ない趣味やろ~けどな!」
「なにをぉ~!?」
「まぁまぁダーリン、こどもの言うことだっちゃ!」
 ラムがいつものように笑顔で間に割って入った。そして、テンから絵本を受け取って、ぺらっと表紙をめくっていく。
 わくわくと見上げるテンを前に、ラムは絵本を立ててイラストをテンの方に向けながら中身を朗読し始めた。
 あたるも同じ部屋にいる以上聞かないわけにはいかず、ラムの読み上げに耳を傾ける。
 テンが持ってきたのは『いばら姫』の絵本のようだった。もちろん、内容は幼児向けということでだいぶ割愛されている。
 昔々、ある国で、王女が生まれた。その誕生の祝宴には12人の魔法使いが招待され、それぞれ魔法の贈り物を王女に授けていった。だが突然、祝宴に招待されなかった13人目の魔法使いが現れ、報復として「王女は15歳の誕生日に、紡ぎ車の錘が指に刺さって死ぬ」という呪いをかける。だが、まだ贈り物をしていなかった12人目の魔法使いが「王女は死ぬのではなく、100年間眠り続けた後に目を覚ます」と告げ、呪いの効力を弱めることとなった。
「招待されなかったからって死ぬ呪いをかけるなんて、けったいな魔女やなあ」と、テンは呟く。
 続き。王は国中の紡ぎ車を焼き捨てる命令を出したが、それでも呪いは止められず、王女は城の塔の最上階で老婆の紡ぎ車に触れ、錘が指に刺さって深い眠りに落ちるのだった。
 そこに現れるのが、運命の王子さま、というわけで。
「……そうしてお姫さまは王子さまの真実の愛のキスによって呪いを解かれ、100年の眠りから目を覚ましたのでした。お姫さまの呪いが解けたことで城じゅうの皆が眠りから覚め、お姫さまは呪いを解いてくれた王子さまと結婚し、いつまでもいつまでも幸せに暮らしました。めでたしめでたし……」
「わ~い、めでたしめでたし~!」
 テンはニコニコしながらラムに向かってぱちぱちと小さな手で拍手をする。いつもだったらラムは微笑みながらテンの頭を撫でて感想を話しあうのだが、今日のラムは違った。
「な……なんてロマンチックな話だっちゃ!」
 ラムは絵本を抱えたままじぃ~~んと物思いにふけっている。
「なんだ、おまえはじめて聞いたのか、その話」
「ダーリンは知ってたっちゃ?」
「まあ……女の子向けだけど、有名だし」
 ラムは絵本を横に置いて、あたるをじっと見つめる。その視線の熱っぽさにあたるは思わずたじろいだ。
「ダーリン、もしうちがわるいわる~い魔法使いに呪いを掛けられたら、真実の愛のキスで呪いを解いてくれるっちゃ?」
「はぁ!? いきなり何を言い出すんじゃおまえは!」
「ダーリン、うちは本気だっちゃ! 真実の愛のキス、してくれるっちゃ?」
「……」
 ぐぐっと迫られて、あたるは黙り込む。ちらっとテンに視線を向けるが、テンは読み終わった絵本を自分で開いて、好きなページのイラストを見返しているところだった。
 あたるはぐいっとラムの肩を押した。
「アホか! 呪いだのなんだの言うのはただのおとぎ話で、実在しないのだ! よっておれがそんなことをする必要はどこにもないっ!」
「じゃあもしほんとに呪いがあったらどうするっちゃ!」
 ラムはムキになって言い返してくる。フンと鼻を鳴らしてあたるはそっぽを向いた。
「ど~もせんわいっ! だって、呪いなんかこの世にないんだもんっ!」
 むう、と頬を膨らませてラムはあたるを睨む。あたるはそっぽを向いたまま、こたつの上のせんべいに手を伸ばして素知らぬ顔で一枚かじった。
「ラムちゃん~、ぼくもうねむくなってきた……」
 険悪な二人の間の空気をやわらげたのは、眠そうなテンの声だった。ラムはテンを抱き上げて時計を見上げる。午後十時。
「いつの間にかこんな時間だっちゃね。テンちゃんはもう寝る時間だっちゃ」
「うん……」
 ラムはテンを抱き上げると、あたるの部屋の窓に手をかける。
「ラム?」
「今日はうち、UFOで寝るっちゃ!」
「え、なんで?」
 思わずせんべいを取りこぼしそうになる。まさか、さっきの件についてそんなに怒っていたのだろうか。
 ラムはいたずらっぽく笑って言った。
「ちょ~っと調べたいことができたっちゃ! おやすみ、ダーリン!」
「あ~、おやすみ……」
 からからと窓を開け、ラムは笑顔であたるに手を振る。そのまま秋の夜空に消えていくラムを見送って、開いた窓から吹き込んでくる冷たい風にふるっと身を震わせながら、あたるは窓を閉じた。
 これが、今から一週間前の出来事になる。

 秋の深まってきた昼のことだった。今日は日曜日。少し早いお昼を食べ終わって、あたるは自分の部屋でごろごろとくつろいでいるところだった。朝は少し曇っていて肌寒い一日になりそうだったのだが、今はすっかり晴れている。午後からは、ガールハントにもってこいのあたたかな小春日和になりそうだった。
 そうは思うが、今のあたるはどうしようもなく眠かった。北斗から借りた漫画がすごく面白くて、昨日はついついそれを読みふけって夜更かししてしまったのだった。そうでなくてもこのぽかぽかした陽気はとても心地よくて眠気を誘う。
 そろそろ着替えてガールハントに出向かなくては、せっかくの機会を台無しにしてしまう。それでも、眠くて眠くて仕方がない。
 あたるは畳の上に寝ころんだまま、座布団を引き寄せて頭を載せる。ちょっと固いが、ないよりはずっといい。
 あたるは目を閉じる。あと、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけこのままで……。
 
 それからどれくらい時間が経った頃だっただろうか。
 カチ、と音がした。もぞもぞと、首元でなにかが動く気配。それにつられて、あたるの意識が現実に上がってくる。
「ん……」
 どうやら眠ってしまっていたようだった。しまった、せっかくのガールハント日和だったというのに。いま何時だろう、まだそんなに時間が経っていないといいのだが。
「ダーリン、おはよう」
 ラムに声を掛けられて、あたるはぼんやりしながら目を開ける。
 そこであたるは目を瞠った。度肝を抜かれたといってもいい。
 信じられないことに、寝そべったラムがいつもの三倍以上の大きさになって、こちらを見下ろしていたのだ。
(な、な、な、なんだこれは!?)
 ガバッと立ち上がったあたるが驚愕して叫んでも、それはどういうわけか言葉にはならなかった。「ふみゃあ~」という猫の声が喉をついて出る。ますます混乱する。
 するとラムがあたるの前にさっと手鏡を差し出した。
 そこに映っているのは、赤いハートがついた首輪をつけた小さな猫だった。
(なんじゃこりゃあ~~!?)
 再び、「うみゃああ」と高い鳴き声がほとばしる。そういえば確かにさっきから四つ足で立っていると思った。慌てて手を見ると、それはもう手ではなく前足と言って良い代物になっていて、ふわふわの茶色い短い毛に覆われている。そしてどういうわけか先の方だけは靴下でも履いているように白い。裏返して手のひらだったはずのところを見ると、淡いピンク色の肉球に変わっていた。続いて胸を見る。茶色い毛。おなか、脇腹。茶色い毛並み。お尻の方を見ると、くるりんと弧を描いた長い茶色のしっぽがついていた。ちなみにほかの足の先も、漂白剤に間違えて浸けたとでもいうように白かった。
 何が起きたかはわからなかったが、とりあえずなぜこうなったかはわかる。
(ラム、おまえいったいおれに何をしたっ!?)
 声を荒げたつもりだったが、それはまた「にゃあぁ~~っ!!」というかわいらしい鳴き声にしかならない。実に迫力がない。
 ラムは神妙な面持ちで祈るように両手を組み、あたるを熱っぽく見つめて言った。
「ダーリンは今、おそろしいおそろし~い呪いにかかってしまったっちゃ。愛する者のキスがないと、この呪いは解けないっちゃ!」
(に、にゃにを~~~!)
 おとぎ話でもあるまいに、呪いだのキスだのそんな話があってたまるか、ここは現代日本の練馬区だぞ。そう言いたいのは山々だったが、あいにく猫の口から溢れるのは単純な「にゃあ」の連続である。
 ここは冷静に整理しよう。呪いなんてものあるわけがない。だが猫になってしまったのもまた事実である。だから、呪いではないにしろ何らかの理由であたるは猫に姿を変えられてしまったことになる、まるでおとぎ話みたいに。その原因はおそらくラムにあるが、方法がわからない。ならば次に確認すべきことは……。
 あたるはすばやく部屋を見回した。
 ラムの背後にあるあの開いた箱。あれだ、あれがとにかく怪しい。ジャリテンが宇宙テレビショッピングの通販で買うオモチャのたぐいは、よくああいう箱に入って届く。となれば、なんとかして中を見て、そして取扱説明書があるならそれを読まなければ。
「さあ、ダーリン。うちとキスするっちゃ!」
 ラムはニコニコしながらあたるを抱き上げようとする。あたるは非常に慌てた。とっさに手を「待て」というように前に突き出し、「にゃおん」と低い声でひと鳴きする。ラムはむうっと頬を膨らませる。
「往生際が悪いっちゃよ~、ダーリン?」
 そういわれてもここで引き下がるわけにはいかない。きょろきょろとあたりを見回して紙とペンを見つけると、ラムに向けてメッセージを書く。
「わかった うしろをむいて すこしまて」
 口にくわえて書いたせいで、へろへろで読みにくいことこの上ない文字だったが、幸いなことにラムには通じた。ラムはにこにこしながらあたるの頭を撫でた。
「わかったっちゃ!」
 よかった。ラムは勘が鋭いからあたるが何か企んでいると気づかれるかと思ったのだが、あたるとキスができるというので有頂天になっているのか怪しむ様子はない。
「キスする覚悟ができるまで待ってるっちゃ~」
 ラムは窓の方を向いてふんふんと鼻歌を歌っている。このまえラジオで流れていたヒット曲だった。ラム好みの恋する女の子の歌。
 あたるはトトッと四本の足で走り、急いで箱に突進した。
 あまり大きくはない、紙製の箱だ。今のあたるから見てもそう思うのだから実際かなり小さいだろう。箱の蓋は今下向きになっているのでパッケージの外装はわからない、というわけでヒントにはならない。となれば説明書、説明書だ。ラムが宇宙から持ってくるものには必ずそれがある。
 開いた箱の隣に落ちている冊子、それが怪しい。あたるはそれに近づき鼻先を寄せる。そして、開きっぱなしになっていた説明書に素早く目を通していく。
 『意中の人にサプライズ☆ 運命の変身首輪! これで大好きなあの子もあなたに夢中♪』
 なるほど、変身する首輪……。さっきラムの手鏡に映っていた自分に首輪がついていたことを考えても間違いない、多分これが原因だろう。なら首輪を外す方法さえわかれば、ラムとキスしなくても元の姿に戻れるということである。首輪の取扱説明に視線を移し、内容を読み飛ばして最後の手順に目を向ける。
『3★ ねこになった大好きなあの子にキスしてあげましょう。運命の赤い糸で結ばれた相手ならば、真実の愛のキスの力で首輪がはずれます。それで意中のあの子も元通り!』
 ……たしかにラムの言ったとおりだった。キスしないと、元に戻ることはできないようだ。真実の愛のキスとやらが何なのかは、よくわからないが。
 いや、ちょっと待て……。あたるは手順3の項目をよく見直す。じっと眺めているうちに気づいたが、下の方に小さな字で、こう書いてあった。
『……なお、安全のため三時間後には自動的に首輪は外れ、元の姿に戻ります』
(やっぱりな、こ~ゆ~ことだと思った!!)
 と叫んだつもりだったが、あたるの口から出たのは「ふぎゃあ」という猫の叫び声だけだった。
「ど、どうしたっちゃダーリン?」
 その声でラムはぱっとあたるの方を振り返った。あたるは二本の前足をそろえて座りながらラムを睨み、開いたままの取扱説明書をぱたんぱたんとしっぽで叩く。
「あっ!」
 ラムはそれを見てすべてを察したらしい。間髪を入れずにラムはぱっとあたるに飛び掛かるが、それ以上に今のあたるの方が速かった。あたるは敏捷な猫の身体を有効活用し、さっと跳び上がって机の上に跳び乗った。ラムは立ち上がってあたるをきっと見据えた。
「もうっ! い~からうちとキスするっちゃ、ダーリン! 元に戻りたくないのけ~!?」
(ふんっ! 時間制限付きとわかった今ならこっちのもんじゃっ‼)
 あたるはさらに伸びてきたラムの腕を走ってかわし、また床の上に跳び下りる。猫の身体は本当にやわらかで素早い、自分の体長の二倍はあろうかという高さでも何のダメージもなく降りることができる。
(キスすれば変身が解けるといったな。だったらカワイイ女の子にキスしてもらって、元に戻ったところで『きみのおかげで呪いが解けたよ』って言って口説いちゃろ~かな~!)
 うひひひ、と、人間だったらそんな笑い声が漏れていたに違いない笑みをあたるは猫の顔で器用に浮かべた。
「ダーリン、その顔はうちの首輪を使って浮気をしようって魂胆だっちゃね!?」
 さすがと言ったところだろうか、ラムは今のあたるの表情だけですべてを読み取っていた。
 あたるはそのまま窓の方へ駆け出す。
「ダーリン! どこに行くっちゃ!」
 ラムが慌てたように言うが、あたるはすでに窓からぴょーんと飛び出していた。
「あっ!」
 ぎょっとしてラムが叫ぶが、あたるは何も二階から飛び降りたわけではない。そのまま窓の横の木に飛び移り、するすると枝を伝ってあたるは庭の芝生の上へ降りていく。ラムが急いで追いかけてくるが、そのころにはあたるは脱兎のごとく庭を走り抜け、外の世界へと飛び出していた。
「ダーリン! んもう、またこ~なるなんて、くやしいっちゃ!」
 ラムが追ってくる気配がするが、今の自分は小さな猫、物陰に隠れてやりすごすことなど人間の時よりも十倍は簡単である。あたるは二、三個角を曲がった後に、電信柱のそば、青いポリバケツの陰に隠れることにした。
「ダーリンっ、誰とキスしたって、運命の赤い糸で結ばれた相手じゃなきゃ、呪いは解けないっちゃよ~~!!」
 矢のように飛んでいくラムの後ろ姿を見送ってから、あたるはそっとポリバケツの陰から出ていった。
 
 

 なんとかラムをまいて一息つくと、あたるは改めて首輪のことを調べ始めた。近くの水たまりに姿を映し、後ろ足でちょんちょんと首輪をつついてみる。当たり前かもしれないが、それくらいでは取れそうにない。
 水に映った自分の姿をよくよく観察してみると、どうも首輪は差し込み式のバックルで留められているようだった。
(ふぬぬ……)
 前足をそこにひっかけようとしても、人間のときのようにはうまくいかなかった。そもそも肉球のついた指では細かい作業などできず、ましてバックルを押して外すことなどとても無理といった状況である。それでもあたるはしばしバックルと格闘して、最終的に後ろ足で首輪をガッガッと勢いよく蹴り上げたが、当然首輪がとれることはなかった。
(う~~~む……)
 とりあえず、すぐに元の姿に戻るというのは諦めた方がよさそうだ。
 出がけにちらっと時計を見た時、午後一時を少し過ぎたところだった。となると、あたるが自然に人間に戻るのは午後四時ごろということになるだろう。残り三時間、何をして過ごそうか……。
 そんなことを考えていると、後ろの方から話し声が聞こえてきた。あたるは反射的に振り返る。
「でね、しおりちゃんったら先生の前で……」
「え~うそだあ~!」
「いやいやほんとなんだって、それでね……」
 仲よさそうに話し込みながら、二人組のセーラー服の女の子が歩いてくるのが目に入った。あたるは反射的に女の子たちの方に走っていく。
(ねえねえきみたちっ! ぼくとお茶しない?)
 いつもの調子で声をかけるが、もちろんそれは「にゃあにゃあ」という猫の鳴き声でしかない。
 二人組の女の子は歓声を上げた。
「わーっ見て! 猫だ、かわいい~」
「ほんとだ~!」
 女の子たちは立ち止まって、足元にまとわりつくあたるの前にしゃがみこむ。
「首輪してる。飼い猫かな?」
「うわあ、ふわふわだ!」
 髪を結んでいる方の女の子が、あたるの背中を撫でながら言う。あたるはごろごろ喉を鳴らしながら、女の子の手に頭をこすりつけてみせた。
「すごく人懐っこい!」
「かわいい~!」
 きゃあきゃあと女の子たちは騒ぎながら、代わる代わるあたるを撫でていく。あたるは嬉しくてたまらなかった。かわいい女の子にべたべたしてもらえるなんてこと、今まで一度も……とはもちろん言わないが、ラム以外の女の子にべたべたしてもらう機会など、夢の中ぐらいでしかありえなかったからだ。
 髪の短い方の女の子があたるを抱き上げる。
(やった!)
 あたるは心の中でこぶしを握って喜んだ。落ちないようにセーラー服にちょっと爪を立てて、あたるは女の子の腕の中におとなしく収まった。女の子に抱きしめられている。女の子の胸にぴったり寄り添って。最高である。
 そうして女の子たちはひとしきりあたるを抱きしめてかわいがった後に、「そろそろ帰ろっか」と言い出した。
(え~っ、まだこうしていようよ~~!)
 あたるはにゃあにゃあとわめいたが、女の子は「ごめんね~、もう私たち行かないと」とあたるの頭を撫でる。
 髪の短い女の子は、最後にあたるを顔の前まで抱き上げた。
「じゃあね、かわいい猫ちゃん!」
 そう言って女の子は、あたるの頬にちゅっとキスをした。
(や……ったあぁ~……!!)
 あたるは感極まって、じいいんとキスの余韻に浸る。まさか女の子の方からキスしてもらえるとは、なんてラッキーなんだろう。
 そして口と口のそれではないけれど、キスはキスだ、これで元の姿に戻るのではないかとあたるは思った。
 でも、何も起こらなかった。
「またね~」
 女の子はあたるを地面に降ろすと、二人そろって笑顔で手を振って去っていく。
(う~~ん?)
 あたるは地面に座り込んだまま首をかしげた。なんでもいいからキスさえすればいいのかと思ったが、どうも違うようである。
 ラムは、運命の赤い糸で結ばれた相手のキスじゃないと呪いは解けないと言った。たしかに、取扱説明書にもそんなようなことが書いてあったと思う。ならばその点が原因なんだろうか……。
 いや、それもおかしい、とあたるは首を振る。だってそうではないか、この世界に存在するカワイイ女の子は全員一人残らずあたると運命の赤い糸で結ばれているはずなのだから。
 でも、これで一つわかったことがある。女の子というのは、猫にものすごく甘い。普段なら声をかけるだけで冷たくあしらわれるというのに、言葉ですらない「にゃあにゃあ」だけで、女の子を呼び止め、優しくしてもらうことができたのだ。
 うまくいけば、竜之介のような男連中に手厳しい態度の女の子とも、なかよくベタベタできるかもしれない。
 これはもしかしなくても千載一遇のチャンスというやつではないだろうか。
(そ〜だ、せっかくカワイイ猫のすがたになったことだし、サクラさんにも抱っこしてもらお〜っと!)
 サクラに抱っこしてもらう、それすなわちあの形のいい大きなおっぱいに包まれることを意味する。こんな機会でもなければあの麗しいおっぱいに触れる機会なんか来ないのだ。うまくいけば、怒られずに揉むことだってできるかもしれない。猫の前足に可能ならの話になるが。
 ウキウキと心躍らせながら、あたるはサクラの家に向かうことにする。
 そのときだった。
「わっせ、わっせ、わっせ……」
 あたるはピンと耳を立てて立ち止まった。この掛け声に足音、聞き覚えがある。これはたしか……。
(了子ちゃんだ!)
 道をタタッと走って足音の方に向かう。思ったとおり、黒子が古風な駕籠を担いで走っていた。
(了子ちゃ〜〜〜んっ!!)
 猫の小さな肢にできうる限りの最大の速度であたるは駕籠に向かって走った。そのまま猫にしても信じられないほどの大きな跳躍でぴょーんと飛びつき「うわっ、なんだこの猫!?」と慌てている黒子を無視して中に飛び込んでいく。
「まあ、何事かしら」
 そこにいたのはやはり了子だった。さらさらと長くつややかで豊かな髪に大きなリボンを結んでいて、芍薬の柄のきれいな着物に身を包んで駕籠のなかに座っていた。
「あら、ちいさな猫ちゃん。おまえが来たから黒子が驚いたみたいね」
(了子ちゃんっ!)
 あたるはしっぽをぴんと立て、ぴょこぴょこと軽快な足取りで近づくと了子の着物に頭をぐりぐりとすり寄せる。
「ふふ、かわいい。どこからきたのかしら。名前はなんていうの?」
 了子は笑ってあたるを抱き上げる。そして首輪に気づいた。
「ここに何か書いてあるかしら?」
 了子はほっそりした手を伸ばして、首輪についた赤いハートを手に取る。それをとくと眺め、裏側もひっくり返すが、住所も名前も書いていないことを悟ると、残念そうに息をついた。それから了子はまたあたるに微笑みかけた。
「おなかがすいているんじゃなくて? 私、これから家に帰るところなの。一緒に来る?」
 やった!とあたるは心の中でこぶしを握る。もちろん猫だから実際にはできないが。
 もちろん了子についていくつもりで駕籠の中に飛び込んだのだから願ってもない展開である。
 そうしてあたるは了子の膝に丸くなってごろごろ喉を鳴らし、了子のかわいらしい手で優しく身体を撫でられながら面堂邸へと向かった。