Fairy Tale 02

 えっほ、えっほと黒子の担ぐ駕籠は道をひた走り、それほど間を置かずしてあたると了子は面堂邸に到着した。
「さあ、着きましたよ」
 了子に抱えられながら駕籠の外に出たあたるは、思わず閉口する。
(でっっか……面堂の家って、こんなにでかかったっけ?)
 そりゃ、ずいぶん身体が縮んでしまったのだから周囲の景色はいつもよりも巨大に見えるはずだが、それにしたってこんな荒唐無稽な広さだっただろうか。いや、もちろんそうだったのだろう。人間の姿の時だって、面堂邸を端から端まで歩こうとしたらすぐ日が暮れるに違いなかったのだから。
「了子さま、おかえりなさいませ!」
 近くに立っていた黒服が居住まいを正して了子に声をかける。了子はあたるの頭を撫でながら黒服に声をかけた。
「おにいさまはどちらに?」
「はっ、ご自分のお部屋でお休みになられているところかと」
「そう、ありがとう」
 そして了子はあたるを抱きかかえたまま、見慣れた廊下を通って見慣れた扉の前までやってきた。
「おにいさま!」
 ガチャ、と扉を勢いよく開けて、了子は面堂の部屋に入っていく。
「なんだ、了子か」
 面堂だ。あたるの両耳がすっと横に倒される。せっかく了子の胸の中で楽しくごろごろ喉を鳴らしていたのに、とんだ邪魔が入ったというところだろうか。
 面堂はいつものソファで何かの本を読んでいた。どうせどこかの外国の、よく知らない思想家の本だろう。
 面堂はぱらりと本のページをめくってから、了子の腕の中にいるあたるに目を留めた。
「おまえ、また捨て猫を拾ってきたのか?」
「あら、捨て猫ではありませんわ。だってほら、かわいい首輪がついているから」
 ねえ、と言って了子はあたるの首輪をつついてにっこり笑った。とてもかわいらしい。あたるが了子の笑顔に夢中になっている間に、面堂は眉を寄せた。
「とゆ~ことは、他人の猫をさらってきたのか!」
「保護して差し上げた、と言ってください」
 しれっと了子は言い切って、あたるの頭を撫でる。
「飼い主様はもちろん探しますけれど、もし見つからなかったら、私がこの子を飼おうかしら。この子、本当にかわいいんですもの」
 了子の飼い猫にならあたるだって喜んでなりたい。実際、了子の犬にだったら、なったこともあることだし。
「そんなにかわいいのか?」
 こっちのことなんかほっといてくれればいいのに、どういうわけか面堂はあたるに興味を示した。ページにしおりを挟むとぱたんと本を閉じて、面堂は立ち上がってこちらに近づいてくる。
『シャー!』
 とりあえず、威嚇してみた。面堂はちょっといやそうな顔をする。
「小さいくせにずいぶん威勢のいいやつだな!」
 ついでに伸びてきた手に、ぺしっと猫パンチをお見舞いする。面堂は慌てて手を引っ込めた。
「そいつのどこがかわいいんだ? ど~も感じが悪いし、育ちも悪そうだし、なによりアホっぽいツラがまえではないか!」
 アホづらで悪かったな!と思いながらまた威嚇する。普段から面堂はあたるのことをしょっちゅう「アホづら」と称するが、猫になった自分にまで言ってくるとは思わなかった。了子はにっこりと微笑んだ。
「とってもかわいいですわよ。おにいさまもこの子を抱っこしてみればわかりますわ」
 げげ、と思って了子の和服に爪を立てて抵抗する。面堂なんかに抱っこされるなんてごめん被る。
「あら、だめよ、そんなことしては」
 だが了子は容赦なくぺりっとあたるを着物から引きはがすと、ひょいっと面堂に手渡した。
 あたるはすぐにでも暴れて面堂の腕から逃れようと思ったのだが、その前に了子があたるの頭を撫でて言った。
「おとなしくしていてね」
『……』
 了子にこう言われては仕方ない。あたるは暴れるのをあきらめて、しかたなく面堂の腕の中におとなしく収まった。
 面堂は案外しっかりとあたるのことを抱きとめていた。たぶん、タコを抱くので小さい生き物の扱いには慣れているのだろう。
 面堂は、腕の中のあたるを見ながらしみじみと言った。
「見れば見るほどアホづらだなあ……」
「ね、かわいいでしょう?」
「う〜〜〜ん……なんというか、このねこ、見ていると誰かを思い出すような……」
 コンコン、と扉をノックする音がする。面堂は扉に目を向けて声をかけた。
「入れ!」
 ガチャ、と扉が開いて、姿を現したのは了子の黒子の一人だった。
「了子さま、疾風丸さまのお散歩のお時間にございます」
「あらいけない、もうそんな時間?」
 疾風丸はあたるも一度見たことがある。了子が飼っている犬の名前だったはずだ。了子は黒子の方を向いてから、兄の方を振り返った。
「おにいさま、疾風丸のお散歩の間、その子の面倒を見ていてくださるかしら?」
「え?」
(え!?)
 きょとんとする面堂の腕の中であたるはぎょっとした。よりによって面堂の世話になんかなりたくない。了子と一緒にいられると思ったからあたるはわざわざ面堂邸なんかに出向いてきたわけで、それがかなわないならしのぶの家とかサクラさんの家とか蘭ちゃんの家とか、その他かわいい女の子の家でカワイイ猫として愛されていたかった。
(そんなぁ~! おれも了子ちゃんと一緒にいたいよぉ~!)
 通じないとわかっていても、あたるは猫の言葉でにゃーにゃーとわめいて、前足を了子の方に伸ばす。
 了子はあたるの頭を撫でてまたにっこりと愛らしく微笑んだ。
「本当にかわいい! おとなしく待っていてね。それと、おにいさまと仲良くするのよ」
(え~、やだよ~、おれは了子ちゃんと仲良くしたいのに!)
 あたるはなおもにゃーにゃーとわめき続ける。だが悲しいかな、猫の言葉はどうやったって人間には届かない。
 じゃあね、と言って了子は黒子と並んで部屋を出ていく。追いかけようかとも思ったのだが、面堂の腕から抜け出す前に、扉が閉まってしまった。こうなれば、小さな猫になった今のあたるに扉を開ける術はない。
 面堂の腕の中でがっくりとうなだれてしょんぼりしていると、面堂が感心したように言った。
「ふうん……そんなに了子が好きなのか、おまえは」
 その言葉にちらっと面堂を見上げて、ふいっと顔を背ける。すると面堂がくすっと笑った。
「そうふてくされるな。仲よくしよう」
 面堂は、するっとあたるの顎に手を伸ばしてすりすりと顎の下を撫でる。人間のときにこんなことをされたら面堂を蹴とばしていたと思うが、猫のすがたの時にされると心地よくて、あたるは思わずごろごろと喉を鳴らす。
 面堂はふふっと柔らかく笑った。
「なんだ、かわいいところもあるじゃないか……」
 ぽんぽんと優しく手のひらを頭に載せながら、面堂は微笑んでいる。あたるは思わず固まって面堂を見上げた。面堂との付き合いは長いが、面堂がこんな風にこちらに向けて柔らかく笑うところはめったに見たことがなかった。
 たしかに、タコに対してならこの笑顔をよく向けているのを見てきたが……。
 あたるは面堂の部屋に置かれた大きな柱時計に目を向ける。午後二時。ラムに首輪をつけられてから、一時間が経過した。残念ながら了子とキスすることはできなかったが、それでもあと二時間すれば首輪は外れ、何はともあれ元の姿に戻ることができる。
 まあ、いいか。二時間もあれば了子の犬の散歩だって終わるはずだし、はやめに迎えに来てくれるかもしれない。
 それまでは、せいぜい面堂を困らせて遊んでやるとするか。
(さて、なにをしたら面堂は困るだろうか……?)
 あたるはちょっと考え込む。人間の姿の時だったら抱いたことすらない疑問だった。自慢ではないが、あたるは息をするように面堂を困らせることを得意としているのだ。
 ひとまず面堂の隣のソファにぽすっと降り立つ。
「なんだ、どーした?」
 首をかしげる面堂を大きなアーモンド形の瞳でじいっと見上げながら、あたるは無言でソファのクッションでバリバリと爪を研いだ。
「あーっ、こらっ! なにをする、なにを!」
 面堂は慌ててあたるからクッションを取り上げようとするが、その際に爪が変なところに引っかかってしまって、ビリビリーっと音を立ててクッションの布が裂けた。
「のわーっ!?」
 中に入っていたふわふわの羽根が一気に飛び出して、周りがある種の鳥の巣じみた様相になっていく。面堂はこういう不測の事態に慣れていないのか呆然としてわなわな震えている。その顔を見てあたるはひっくり返って笑った。
(うははははは!)
「き、きさま~~……」
 お、来るか、日本刀、とあたるは身構える。だが面堂は不意に表情を変えると、やれやれと首を振った。
「ふっ……しょせんど~ぶつのやることだ。いちいち目くじらを立てていては大人げないな……」
 どうやら許されたらしい。ということは、この程度では面堂を完全に怒らせることはできないのだろう。ちょっとつまらない。
 面堂は近くの壁にかかっていた呼び鈴を鳴らす。すぐにコンコンと扉がノックされた。はいれ、と面堂が声をかけると、黒服の一人が部屋に入ってくる。
「お呼びですか、若」
「猫がクッションを破壊した。片付けておいてくれ」
「は、かしこまりました」
「それと……」
「なんでしょう?」
 面堂は少し迷ってからおずおずと言った。
「その……猫となかよくするには、何をすればいいと思う……?」
 サングラス部隊の男はきょとんとして固まった。
「猫と、ですか?」
「そ、そうだ! 何度も言わせるな!」
「そうですねえ……」
 男は足元で白い羽根をぱしぱし叩いて遊んでいるあたるを見下ろし、少し悩んでから言った。
「やはり、ごはん。それと、一緒に遊んであげてはいかがでしょうか」
「なるほど……?」
 面堂は服についた羽根をつまみ上げてまた黒服に目を向ける。
「わかった。猫のエサと遊び道具を至急もってこい!」
「かしこまりました、若」
 サングラス部隊の男はあたると面堂を見つめてふふっと小さく微笑むと、そのまま部屋を辞去していった。
 面堂がため息をつきながらあたるを見下ろした。
「おまえは実に困った猫だなあ!」
 ソファが使い物にならない状態になったので、面堂は部屋のなかの別の場所へと移動を始める。あたるも面堂についてトトト……と歩いていく。
 すぐに「失礼します、若」と言って別のサングラス部隊の男が入ってきて、ソファの掃除を始めた。といっても羽根を集めて袋に入れて持ち帰るだけだから、ほとんど時間はかからない。
 こういうとき、面堂は本当に金持ちの家の人間なんだよなあ、とあたるは感じるのだった。自分の部屋を自分で掃除しないで、他人にさせるのだから。庶民の自分にはまったくうらやましいかぎりだ。
 急に面堂が憎らしくなって、あたるは面堂の脚に飛びついてぱりぱりと爪を立てる。
「うわっ、よさんか、まったく!」
 振り払われるかと思ったが、面堂はあたるを蹴とばさないようにじっとしていた。へえ、とあたるは思う。普段あれだけ人を邪険にして日本刀を振り回して追いかけてくるくせに、小さい生き物には優しいようだ。
 面堂は書斎机の前の椅子に座ることに決めたらしい。あたるもついていって、机の上に乗る。
 面堂は、書斎机の後ろの棚から本を一冊取ると、机に載せて開いて読み始める。
『にゃあ』
 と、あたるは鳴く。面堂は本から目をそらさずにあたるの頭を軽く撫で、ページをめくっていく。中身を見るに、数学の参考書のようだった。
 あたるは本の上に足を乗せ、ページを押さえる。
「おい、何をする。じゃまだぞ」
 そういう面堂の声を聞きながら、あたるは開いた本の真上に乗って、しずしずと箱座りを始めた。
「…………」
 面堂が無言で頭を抱えた。それを見ながら、あたるはごろごろと喉を鳴らす。
「ど~してそこに座るんだ、おまえは」
 面堂があたるの頭をつつく。
「ほかにいくらでも寝られる場所があるだろう!」
 そうだ、この広い部屋に猫がくつろげる空間などいくらでもある。けれど、面堂が困る場所と言えば、一つしかないのだ。
 また、扉をノックする音。
「入れ!」
「若、ご希望の猫のエサと遊び道具にございます!」
「よし!」
 入ってきたのはさっきのサングラス部隊の男だった。彼は面堂に猫じゃらしの棒と何か細長い袋を渡した。面堂はしげしげと袋を見つめる。
「これが猫のエサなのか?」
「はい。ちゅ~るといって、これをあげるとだいたいの猫はすごく喜びますよ」
「ふうん。なら、さっそく試してみるか……」
 面堂はちゅ~るの袋の端を切ると、少し屈んで、いまだに本の上に堂々と居座っているあたるに差し出した。
「ほら、エサだぞ」
 あたるはそれを無視した。いくら今は猫の身体になっているとはいえあたるは人間である。猫のエサなんか食べるわけにはいかない。
 いかないのだが……いい匂いだ。
「ほらほら、おいしいぞ」
 面堂はさらにちゅ~るの袋を近づけてくる。匂いを嗅いでいるうちに、おなかが空いてくる。もう午後の二時だ。お昼はしっかり食べたとはいえそろそろおやつが欲しくなる時間である。
 あたるはちらっとちゅ~るの袋に目を向ける。
「食べるか?」
 ……ちょっとだけ。ちょっと舐めるだけなら、まあ、いいだろう。
 あたるはちゅ~るの袋に口をつけた。
「お、食べ始めたぞ!」
「よかったですね、若!」
 ぺろぺろと、袋から押し出されるちゅ~るを舐めていく。
 どうしよう。おいしい。
 この猫の身体には、染み渡るほどのおいしさだった。ちょっと舐めるだけ、あと少し舐めるだけ、もう少しもう少し……と考えているうちにどんどん食べてしまって、結局あたるはちゅ~るを一袋全部平らげてしまった。
 面堂は空の袋を持ったままサングラス部隊の男を見上げた。
「見たか!? 全部食べたぞ!」
「そうですねえ、若。完食ですねぇ」
 サングラス部隊の男は微笑ましくてたまらないという顔であたると面堂を見つめている。
 あたるはごしごしと前足で顔をしきりにこすりながら、複雑な気持ちになっていた。面堂はちゅ~るの空袋をサングラス部隊の男に戻しながら得意げな顔をする。
「ふっ、やはりど~ぶつは単純だな!」
 むかっとして、あたるは面堂の手に軽く嚙みついた。
「い、いててて……やめろ! 何が気にくわんのだ!」
 ガジガジとかじりながら面堂の腕を前足で抱え、ついでに後ろ足でバシバシ蹴り飛ばす。
「なぜこうなった!?」
「猫は気まぐれですからねぇ」
「なんてめんどくさい生き物だ!」
 やめろやめろと騒ぐ主と暴れる猫を見て、サングラス部隊の男はくすくすと笑う。そしてサングラス部隊の男は軽く頭を下げて部屋を出ていった。
「そんなに暴れたいのなら、これはどうだ?」
 少ししてあたるが面堂を攻撃するのをやめると、面堂はねこじゃらしを手に取った。
「猫は好きなんだろう、これが」
 ほれほれ、と面堂はあたるの目の前でピンク色のねこじゃらしをフリフリする。
 あたるはもちろんこれも無視しようとした。いくら猫の身体になったとはいえ、あたるはなんといっても人間なのである。こんなねこじゃらしごときで面堂を無意味に喜ばせるなんて以ての外だった。
 そう思っていたのに、あたるの身体は目の前で素早く動き回るねこじゃらしを見ているうちにうずうずしてきて、気が付いたらぺしっと前足を前に突き出してねこじゃらしに触れていた。面堂は素早くねこじゃらしを動かして、あたるの目の前でひらひらと左右に振っていく。
「そら、こっちだぞこっち!」
(なにをっ! この!)
 しかも本当にムカつくことに、面堂はねこじゃらしを動かすのがうまかった。あと少しで触れる、というところでさっとひっこめて、またそろそろとあたるの前に差しだし、あたるがパンチを繰り出すとまた素早い動きであたるの前足から遠ざけていく。
 ムキになってねこじゃらしを追いかけているうちに、結局あたるは面堂と三十分くらいねこじゃらしで遊んでしまった。
『ふわぁ~~……』
 あたるは大きく欠伸をする。おやつをたべてひとしきり運動したから、なんだか眠くなってきてしまった。
「どーした、眠いのか?」
 面堂が気づいて声をかける。あたるはもう一度あくびをしてから、面堂を無視して悠然と歩き始める。
 そして、面堂の巨大なベッドにたどり着くと、後ろ足をばねのようにしてぴょんと跳び乗った。
 面堂のベッドはとにかく大きい。キングサイズ、というやつなのかもしれないが、あたるは実際にキングサイズとされるベッドなんか見たことがないので本当のところはわからない。さらに特注で大きなものを使っていたとしても、面堂なのだから驚きはしない。そして大きいだけでなく、シーツや掛け布団も最高級の素材のものを使っているようで、シーツの肌触りはなめらかだし、布団はふわふわと体を優しく包み込み、とにかく気持ちいいのだった。
「猫というのは、本当に居心地いい場所を見つける天才らしいな!」
 面堂が遅れてついてきて、ベッドのふちに腰かけた。あたるはぐぐっと伸びをして、ゆっくりとベッドのど真ん中に移動する。そのままごろごろと喉を鳴らしながらふわふわの布団のうえで丸くなった。
 面堂も、ベッドでくつろぐことに決めたらしい。サイドテーブルにおいてあった読みさしの本を取り上げると、ベッドに置かれたいくつものクッションを背もたれにして本を読み始めた。
(あ……)
 あたるはふと気づいて固まった。これは、面堂と過ごす『いつも』の光景と一緒だったからだ。持ってきた雑誌を広げてくつろぐあたるの隣で、面堂はいつもタコに関する本やどこかの哲学者の本を読んでいる。そのうちにあたるが眠くなって面堂の隣で寝てしまうか、雑誌を読むのに飽きて面堂にちょっかいをかけ始めるか。何にしろそうやって過ごした休日の数は決して少なくはない。
(面堂)
 と、あたるは呼びかける。それはただの「にゃあ」にしかならない。面堂は笑ってあたるに手を伸ばした。
「なんだ、寝るんじゃなかったのか」
 面堂は優しくあたるの頭を撫でる。その感触すら、いつもと同じでなんだかへんな気持ちになる。面堂はあたるがうとうとし始めたころに、よくあたるの髪に触れた。指の間に髪を滑らせ、おだやかに撫でるその感覚が心地よくて、あたるはそうされると眠らないではいられなかった。
 あたるは立ち上がって伸びをすると、とことことシーツの上を移動していく。そして面堂の膝までたどり着くと、膝の上にちょこんと足をそろえて座った。あたるがじっと面堂を見上げていると、面堂は不思議そうに小さく首をかしげる。
(面堂……)
 こんなに近くにいるのに、面堂はあたるのことをあたると認識してはいない。ただの名も知らぬ迷い猫だと思っている。二人きりの時に面堂が見せる表情も、二人だけの時にだけ現れるしぐさも、今はない。まるで他人みたいに。突然それがもどかしくて、胸が苦しくなるような気持ちになった。
(面堂。おれだよ。あたる)
 にゃあにゃあ、と、喉から小さな猫の声がこぼれていく。
(おまえのだいっきらいな、諸星あたる)
 それでも、面堂には通じない。面堂は急ににゃあにゃあ騒ぎ出したあたるを見て、困ったような顔をして本を閉じた。
「なんだ、何が言いたいんだ。またおなかがすいたのか?」
(ちがう、面堂)
「もっと遊びたいとか?」
(そうじゃない!)
 前足に力が入って、面堂の服に爪が食い込んでいく。こういうときの面堂はいつだって物分かりが悪い。テストはいつも満点で、拾った化石の名前を振れば生き字引のようにすらすら正解を引き出せるくせに、面堂はあたるの欲しがっている答えには全然たどり着かないのだ。
 あたるは面堂の胸のあたりをぐいっと前足で押した。小さな猫の力だったけれど、面堂はあたるのまとう雰囲気に気圧されたのか、ぽすっと倒れこんであたるを見上げる。
「……」
 面堂は、あたるを見つめながらそっと口を開いた。
「……もろ、ぼ、し?」
 どきりと心臓が跳ねて、あたるは息を止める。面堂は、はっとしたように口をつぐんでから、唇に手を添えて目を伏せた。
「いや……そんなことあるわけないのに、何を言っているんだ、ぼくは……」
 心臓はまだどきどきとせわしなく動いている。あたるは面堂の胸の上を歩いて面堂の顔の目と鼻の先で止まった。
(面堂……)
 面堂は動かずに、じっとあたるのことを見つめている。いつも、あたるがキスするのを待っている時と同じ、少し不安げな表情。
 あたるは、身をかがめて面堂の唇に自身のものを重ね合わせた。
 カチ、と音がする。
 続いて、首からするりと何かが落ちる感覚。
 ぽん、と音がして、あたるは突如人間の姿に戻った。
「え?」
「は?」
 お互いに間抜けな声が出た。あたるは、ちょうど面堂を押し倒す形で人間に戻っていた。面堂の傍らには赤いハートのついた首輪が落ちている。
「そうか……首輪……」
「もっ、諸星ッ!!?」
 あたるは面堂に覆いかぶさったまま、首輪のついていたあたりを撫でさする。そんなにきつく締められてはいなかったとはいえ、やはり取れると解放感があった。
「えっ、いやっ、猫は……なんできさま……ここはぼくの……ああもうっ!!」
 こういうときはいつもそうなのだが、面堂は突如起きたイレギュラーな事態に頭が付いていかずにだいぶ混乱している。
 しかし、なぜ急に、首輪がとれたのだろう。
 ――誰とキスしたって、運命の赤い糸で結ばれた相手じゃなきゃ……。
 いや、そんな、まさか。
 あたるは咄嗟に時計を見た。時計は午後四時を指している。それでわかった。面堂にキスした時、ちょうど変身の期限が過ぎたのだ。
「はあ~……」
 あたるはなぜか心の底からほっとして、肩を大きく落とした。そうだ、変身が解けた理由など時間切れに決まっている。だって面堂は面堂だし、運命の赤い糸で結ばれているなんてありえないし、真実の愛のキスなんてもってのほかだったからだ。
 面堂だけが状況をまるでわかっておらず、目を大きく瞠ったままわなわなと固まっている。それはそうだろう。ただの猫がいきなり人間に、それも知り合いに化けたとなればあたるだって度肝を抜かれるに決まっている。
「ほ……本当に、諸星なのか……」
「よ、面堂。元気そ~だな!」
 あたるはへらっと笑って面堂に気楽な笑みを向ける。
「きさま、確かに人間離れしていると思っていたが……猫に変身できる妖怪だったのか……!?」
 おっと、そう来たか。非科学的存在やオカルトのたぐいを嫌う面堂がこの発想にいたるとは、よほど混乱しているようだ。
「妖怪じゃね~よ」
「じゃあなんだと言うんだ!」
 あたるはにやりと笑って、とん、と面堂の顔の横に手をついて言った。
「おまえのだいっきらいなクラスメイトの、諸星あたるくんだよ」
 あたるは面堂の顔に手を伸ばす。相変わらず何が起こったのかわからないという顔をしているが、頬に触れたとたん、ぴくっと面堂の肩が小さく跳ねた。それでも面堂は振り払わなかった。あたるは、薄く開いたままの面堂の唇を、そっと指先でなぞる。だったら、とあたるはゆっくり身をかがめながら思う。もう一度キスしたって、罰は当たらないはずだ……。
『ダーリ~~~~ン!!』
 遠くから聞こえた声にあたると面堂はびくっと飛び上がった。部屋の外、あまり遠くないであろう距離から響くその声にはあまりにも聞き覚えがあった。
「い……いつまでそうしてる。さっさとどけ!」
 面堂が顔を真っ赤にして、あたるを悪しざまにぐいっと押しのける。あたるもそれに逆らわず、後ろ手に手をついて面堂からぱっと離れた。
『面堂邸のどこかにいるのはもうわかってるっちゃよ! いいかげん出てくるっちゃ!!』
 ラムの声はさきほどよりも近づいてきている。ここまで来るのも時間の問題だろう。
「ところで面堂」
「なんだ?」
 あたるは、ベッドの上に落ちたままになっていたハートの首輪を拾い上げる。
「仮にこれをおまえに付けたとしたら、いったいど~なると思う?」
「いや、どうって……」
 にこにこしながらじりじり近づいてくるあたるを見て、面堂の表情にあきらかな警戒の色が浮かぶ。面堂はさっと刀の鞘を取り上げて、いつものように日本刀を抜き放ってあたるに向けた。
「ど~ゆ~つもりか知らんが、その怪しいものを捨てろ、諸星」
「まぁまぁそういわずに~」
「やめんか、こっちに来るな!」
 面堂の警戒は堅かった。だからあたるはとっさにたくさんある面堂のクッションの一つを拾い上げて、ひょいっと面堂めがけて投げつける。
 面堂は反射的に枕を刀で薙ぎ払った。あたるはにやっと笑う。枕のおかげで面堂の注意が一瞬それたそのわずかな隙に、あたるは面堂に素早く飛び掛かった。
 
 バンっと扉が勢い良く開かれ、屋敷中を飛び回っていたラムがついに面堂の部屋に入ってきた。
「ダーリンっ、そこの黒メガネに聞いたっちゃよ! 見慣れない猫がいま終太郎の部屋にいる、って……ダーリン、その猫は?」
 ぎゅうぎゅうと両手を使ってあたるが押さえ込んでいるのは、毛並みの良い黒猫だった。つややかな毛並みはいかにも育ちがよさそうで、綺麗なブルーの瞳をした黒猫は、あたるの拘束の下で「ふぎゃああ」と怒り狂いながら暴れている。
 ぽかんとしているラムに向かって、あたるはにっこり笑って答えた。
「おれの新しいペットだよ」
 そう答えたあたるの手に、黒猫は思い切りガブリと噛みついた。
「いってえ~!! こらっ何をする面堂っ!!」
 黒猫はそのすきにするりとあたるの拘束から抜け出すと、あたるに向かって毛を逆立ててシャーっと威嚇する。
「おれだってさっききさまを本気で噛まなかっただろ~が! ちったあ加減しろよ!」
『ふみゃあ!!』
「お、なんだその態度は! 猫のくせに人間に逆らおうってのか? 上等じゃね~かっ!」
『みゃあああ!!』
「ぜっったい言うこと聞かせちゃる! 覚悟しろ面堂!」
 あたるは腕まくりをして、猫に飛び掛かっていく。黒猫も負けじとあたるの服に爪を立ててバリバリ引っかいた。
 部屋中を走って転んですったもんだの大騒ぎをするあたると黒猫の戦いは、いつまでたっても終わりそうにない。ラムはそれを眺めながら、白けた顔で小さく息を吐いた。
「付き合いきれないっちゃ……」
 こういったわけで、猫と人間の不毛な争いは、きっちり三時間続いたという話である。