金曜の夜、ドラッグストアにて
「あち〜……」
もうとっくに日が暮れているのに、アスファルトはまだ熱を持っている。昼から気温はあまり下がらず、蒸し暑かった。生ぬるい熱風がかすかに髪を揺らすのを感じながら、あたるはTシャツの首元を掴んでぱたぱたと風を送る。もちろんそうやっても全然涼しくはならない。
「ど〜して夜の八時なのにこんな暑いんだよ」
「八月ならこんなものだろう。昨日と比べればまだマシな方だと思うが」
「なんでこんな暑さのなか歩かにゃならんのじゃ!」
すると面堂は呆れた顔をあたるに向けた。
「きみが言い出したんだろう、今夜は映画見ながら酒が飲みたいって」
「そーだけど。だからってこんなに暑いのは間違ってるだろ。世界がおれに合わせて涼しくなるべきだ」
「またアホなことを……」
今夜は九時からテレビで少し前に話題になった映画が放映される。珍しく面堂の仕事が早く終わって、おまけに明日からは休日。せっかくだから酒でも飲もうと思い立って面堂に買い出しを提案したのがついさっき、夜の八時のことで、あたると面堂は部屋着のまま財布片手に近くのスーパーまで行って帰っているところだった。あたると面堂が一つずつ提げているビニール袋には、それぞれ缶ビールが何本かと、あたるがあれこれ選んで買ったお酒のおつまみがたっぷり入っていた。
「それにしても、やっぱりたこ焼きも買いたかったな。ビールによく合うだろうに」
「だからぼくの前でタコを食う話をするなといつも言っとるだろ〜がっ!」
よく晴れた夜だった。夜でも街が明るい東京では夜空を見上げてもあまり星を見ることはできないが、そんな東京でも月は変わらず光り輝いている。今日は雲もかからず、電線の向こうに白い月がきれいに見えた。今夜は満月だ。
「そんなだからぼくの大切なタコたちからきさまはいつまで経ってもいまいち信用されんのだ!」
「だってあいつら、ちょっと美味しそうなんだも〜ん!」
「そ〜ゆ〜態度をやめろと言っているのだ、ぼくはっ!」
そのとき、今進んでいる大きな道から少し外れた脇道にある、眩しいくらいに白く輝く店舗の光にあたるは目を留めた。人通りの少ない道の中光っているのは、この近辺でよく見かけるドラッグストアの看板だった。
「ところで、面堂」
「ん?」
「洗剤って詰替えまだあったっけ?」
面堂もドラッグストアの方に顔を向け、少し考えるような間を置いてからあたるに答えた。
「いや、もうなかったな」
「寄ってく?」
「そうしよう」
あたると面堂はいつもの道を少しそれて、ドラッグストアの自動ドアを抜けた。
「すずし〜」
店舗のなかは少し寒いくらいにクーラーが効いていた。夏の暑さに参っていた体には心地よい寒さだ。明るい店内には客の姿はまばらで、レジにも店員が一人いるだけだった。その店員も、レジ前の机でなにか別の作業をのんびりとしているのだった。
「あ、カゴはぼくが……」
「い〜って、おれが持つから」
面堂の腕が積み重なった買い物カゴに伸びる前に、あたるはさっとカゴを持ち上げて自分が確保する。面堂はちらっとカゴを見て不満そうな目をしたが、何も言わなかった。
あたると面堂はのんびりと店内を回り始める。そしてお菓子のコーナーを通りかかったとき、あたるは棚のポップに目を留めた。
「ポテトチップスが今月の特売だってよ、買お〜ぜ」
「買わない! さっきスーパーで散々おつまみを買い込んだばかりだろ〜が!」
「え〜、せっかく安いのに」
「お菓子ばかり食べると健康に悪い。だいたいきみはふだんから休日になると調子に乗って間食ばかり……」
くどくどとお説教を続ける面堂に、あたるはむすっと唇を尖らせた。
「なんだよ、おまえだって最初の頃は『これが庶民のお菓子か……』とか言って喜んどったくせに!」
「い、いつの話をしてるっ!」
「ちょーしにのって食べすぎて晩メシいつもの時間に食えなくなったのはどこのどいつだったっけ?」
「あれは最初の一回だけだったろ〜が! それにあの日はきさまだって一緒に……!」
「とゆ〜わけでやはりポテチは買おう」
「あっこら!」
すばやくポテトチップスの袋を一つカゴに滑り込ませ、あたるはさっさと歩き出した。
「次は洗剤コーナーだな!」
「諸星っ!」
面堂が慌てて追いかけてくる。ポテトチップスの売場から離れた今、面堂はわざわざカゴから出して戻しには行かないだろう。
面堂はあたるに追いついてから、さっそく予定外のものが入ったカゴを見ながらこれみよがしにため息をついた。
「だからきみにカゴを持たせるのは嫌だったんだ!」
それを聞いてあたるは得意げにヘラヘラと笑い、お返しとして面堂にどつかれた。ちょっぴり痛かった。そして二人で、いつも使っている食器用洗剤の詰替えパックを探しはじめた。
先に見つけたのは面堂のほうだった。面堂は律儀に値段を先に確認してから、詰替えパックを手に取る。それを見ながらあたるはふと思い出して口を開いた。
「あのさ」
「なんだ」
「ゴムってまだ残ってたっけ?」
「はあっ?」
面堂は手に持っていた洗剤のパックを取り落としそうになったが、慌てて掴み直している。
面堂は声を潜めてあたるを睨んだ。
「そ、外でそんな話をするやつがあるかっ……」
「ドラスト来てる今話さないでどーすんだよ」
面堂はすっとあたるから目を逸らし、かすかに頬を赤らめながらぽそりとささやいた。
「…………なかった、と、おもう……」
「やっぱり? 買っとくか、ゴムも」
ついでとばかりにお掃除用の重曹とクエン酸の粉末をぽいっとカゴに放り込んでから、あたるはそちらのコーナーを探して歩き始める。そして少ししてから、ふっと後ろを振り向いて声をかけた。
「どーした、来ないのか?」
「……あ、ああ」
面堂は迷うような間をおいてから、あたると一緒に歩き始める。
コンドームの並んでいる一角は、それほど探さなくてもすぐ見つかった。
「今日はどれにしようかな〜」
「…………」
面堂は落ち着かない様子で頬に垂れた髪の一房に触れている。それを眺めながら、あたるはわざといつもより時間をかけて悩んでみせた。
しばらくしてからあたるは、面堂を見上げて微笑む。
「たまにはおまえが選ぶ?」
「へっ?」
「おれはおまえの好みに合わせてもいいぞ」
「え、っと……」
面堂の目線があちこちに泳ぎ始めた。その頬は、さっきよりも明らかに赤く色づいている。面堂は意味もなく首元の襟を整えながら、小さな声で言った。
「そう言われても……ぼくには、違いがよくわからない……」
「そ〜だな〜、強いて言うなら……」
あたるはくすっと笑って、面堂の肩に触れ、少し背伸びして面堂の耳許でそっとささやいた。
「薄い方がきもちいいよ」
ふっと唇から言葉が放たれ、離れる際に面堂の耳にあたるの唇がかすかに触れる。ぴくっと面堂の肩が跳ねる感覚を楽しみながら、あたるは何事もなかったように面堂から離れた。
「どーする?」
「…………」
面堂はあくまであたるから目を逸らしながら、少しの間棚を見回して、すっと一つの箱を指さした。
0.01、ごくうす。
「ん、じゃあこの一番薄いやつにするか」
あたるは面堂の指先にあった赤い箱を手に取ると、無造作にカゴの中にぽいっと放り込む。横目で見た面堂は、耳まで真っ赤になっていた。
「ミネラルウォーターもちょっと買って帰ろうか」
「……そうだな」
そのミネラルウォーターがいつも、どういう状況で飲むものなのか、きっと面堂は今思い出しているだろう。言葉少なになった面堂を連れて、ミネラルウォーターの他にもいくつか足りないものをカゴに入れてレジに並ぶ。
「あ、チョコが安いぞ、面堂」
「こらっ、カゴに入れるな諸星!」
レジ前のちょっとしたお菓子コーナーからまた一箱放り込もうとしたあたるの腕を掴み、面堂はあたるからチョコ菓子をもぎ取って元の場所に戻す。
「さっき甘いものもおつまみと称して買い込んでただろうがきさまは!」
そう言ってレジ前の無駄遣いを止めるくせに、自分はというとドリンクのコーナーから栄養ドリンクを一瓶取り出してカゴの中に入れている。疲労回復、と大きな文字で書かれたそれを見て、あたるはげんなりした。
「そんなモン飲むほど仕事したいわけ?」
「仕事したいんじゃない、必要だからしている、それだけだ」
「熱心なことで……」
「きさまこそ、も〜すこし真面目に働いたらど〜なんだ。ぼくはきさまのよ〜なスチャラカ社員なんぞ、いつだってクビにできるんだからな!」
「へいへい、わかってま〜す」
「本当にわかっとるのか?」
まだなにかいいたげな面堂を「あっレジが空いた!」という一言で躱し、お会計を済ませて白いビニール袋に荷物を詰めていく。
あたるはちらっと腕時計を見た。
「おっと。そろそろ九時か、急がないと映画始まっちゃうな」
「きみが余計なものばかり買おうとするからだろう」
「おやつは余計なものなんかじゃないぞ! 生活必需品!」
「アホなこと言ってないでさっさと行くぞ」
詰め終わった袋を半分持って、面堂はさっさと出口の自動ドアに向かっていく。置いていかれないように、あたるも慌てて自分の分の袋を持ってその背中を追いかけた。
煌々と白く輝く蛍光灯の下から夜闇の中に出た途端、あたるを出迎えたのは相変わらずの生ぬるい熱風だった。
「あち〜……」
自動ドアが閉まるなりぼやくあたるに、面堂はふふっと笑った。
「さっきも聞いたぞ、それ」
「さっきも今も暑いんだからしょ〜がね〜だろ!」
横断歩道の前で立ち止まった面堂の隣りに並ぶと、がさ、と袋が音を立てて揺れる。
二人で信号が変わるのを待ちながら、あたるは「そ〜いえば」と口を開いた。
「今回は三連休なんだよなあ」
「ああ……それがど〜した?」
不思議そうに首を傾げる面堂に向かって、あたるはへらりと笑ってみせた。
「いや、だったらゴム二箱買っとけばよかったかな、と……」
「何言ってるんだ、ばかっ!」
「いてっ」
ふくらはぎを思い切り蹴飛ばされると同時に、歩行者信号がぱっと青に変わった。足を押さえるあたるを置いて、面堂はずんずんと早足で横断歩道を渡っていく。
「おいこら面堂、ちょっと待てっ!」
「うるさいっ、きさまが早く来い!」
振り返らずに声を張り上げる面堂を、あたるも小走りで追いかける。追いついてもあくまでこちらを見ない面堂の赤く染まった頬をちらっと見上げながら、やっぱりもう一箱買えばよかったな、とあたるは思った。
映画が始まるまで、あと十分。