春の居眠り

 春のうららかな陽気は気持ちが良い。ぽかぽかしたやわらかいぬくもりに包まれていれば、たとえ授業中じゃなくたって、少しじっとして漫画を読んでいるだけで瞼が重くなってくる。教室に一人居残りながら、あたるはそれでもしばらくは頑張っていた。
 「そろそろおまえに貸した漫画返してくれ」と組の男子にせっつかれたのが一週間前である。まだ読み終わってない、来週の月曜には返すと約束したのも一週間前。今日は問題の月曜だった。にもかかわらずあたるはまだ漫画を読み終えていない。
 家に帰るとすぐテンにちょっかいを出されラムにまとわりつかれ、一段落ついたと思えば夕食の席に錯乱坊が乱入し、部屋に気が付いたらレイが上がっていて……とにかくそういう次第なので、あたるが諸星家でまとまった時間を取ることは難しい。そもそも平穏無事に家で過ごせた日など、先週はただの一日もなかったのだった。
 そんなわけで、あたるは頑張ってこの放課後を使って借りた漫画を全部読んで返さなければならないのである。彼の部活が終わるまであと二時間、急いでページをめくり続ければぎりぎり間に合う算段だった。
 だが、事前に立てた計画というのは大抵の場合なにか想定していなかったことが起きて、思い通りに事が運ばないものである。
 今日のあたるもそうだった。教室に差し込む春の日差しがどうしようもないほど眠気を誘い、漫画の読了を著しく妨げている。あたるは眠気と格闘し、落ちかかる瞼をこすり、あくびを噛み殺して、粛々とページをめくり続けた。だが、それも限界が近づいていた。
 かた、と漫画の背が机の天板に滑り落ちてぶつかった。その音ではっとして目を覚まし、ゆるんだ指にまた力を入れて持ち直す。が、五分もしないうちに全く同じことを繰り返すこと三回目にして、あたるはついに諦めた。
 あたるは読みかけの漫画を閉じて引き出しの中に突っ込んだ。腕を天板の上にのせて枕代わりにすると、瞼を閉じる。
 なんだって春はこんなにも眠くなるんだろう、うとうとと微睡みながらあたるは思った。

 眠り込んだあたるの目を覚ましたのは、扉の開く音だった。
 がら……。
 ふと心が無意識の海から浮上して、その音を捉えたのだった。腕の下にある硬い感触、座り心地の悪い椅子、遠くから聞こえる運動部の掛け声や吹奏楽部の楽器の音が、目を開けずともその場所がどこであるか感覚で伝えていた。ここは教室だ。そして、いま、誰かが教室に入ってきたのだ。誰なのか確かめる気にはならなかった。眠気は未だあたるにまとわりつき、身体は重い。だからあたるは目を瞑ったまま、身じろぎ一つせずにそのままでいた。扉ははじめより静かに閉められる。こつこつと、誰かが歩く音がする。
 すぐ前で、かた、と音がして、床をこする音がした。続いて聞こえたかすかな軋みで、すぐ前の席にその人が座ったことを悟る。へんなの、とあたるは思った。用があるなら、起こせばいいのに。
 こういうとき、あたるを起こさないようにと気を遣うような友人など思い当たらない。ラムだったら、むしろあたるを揺り起こして「もう帰ろう」と声をかけるはずだった。
 頬に、誰かの手が触れる。手の甲で、そっと表面を撫でる感触。あ、と思った。それだけで、相手が誰かわかった。あたるにこういう触れ方をする人間はひとりしかいない。
 あたるは、そのまま寝ているふりをした。起きていると気づかれたら、きっとやめてしまうから。
 こんなに毎日顔を合わせて、言い争って喧嘩して大騒ぎしても、何度キスをして身体を暴いてみせても、面堂の方からあたるに手を出してくることはほとんどない。
 面堂があたるに触れるのは、あたるが眠っているとき、あるいはこうして眠っているふりをしているときに限られていた。
 面堂の指がゆっくりとあたるの頬に触れて、目元を優しく撫でた。そして、鼻梁をたどって、あたるの唇をなぞる。顔かたちを確かめるように、一つ一つ丁寧に触れていくその指の動きは流れるように優雅で、心地よい。
 だが、面堂の指の動きが止まった。すぐ前から、ぎしりと椅子のきしむ音がする。する、と名残惜しむように、面堂の指があたるの頬を最後に優しく撫でていった。 
 離れていく、と悟った瞬間、身体が動いた。ぱっと伸ばした腕が、白く細い手首を捕らえて止める。
 顔を上げると、面堂が目を丸くしてあたるを見下ろしていた。いつもは腹の立つ言葉ばかり流暢に紡ぐ唇は、薄く開いたまま、動きを止めていた。
「まだ……」
 吐息に近いかすれた声で、あたるは囁き、面堂の腕を引く。抵抗はなかった。だからそのまま面堂の手のひらを頬に触れさせ、あたるは目を細めて頬をそっと寄せた。
「やめるなよ」
「……」
 面堂はなにか答える代わりに、静かにまた椅子に腰掛けた。ぎし、とかすかにきしむ音が、静かな教室に響く。
 それから面堂は、仰々しいほど居住まいを正した。素っ気ない表情で、小さく咳払いする。
「……少しだけだからな」
「うん」
「ぼくの迎えが来るまで、だぞ」
「うん」
「もし誰かが来たらそのときは――」
「面堂」
 あたるが面堂の瞳を真っ直ぐ見あげると、ひらひらと絶え間なく動く唇がピタリと止まった。面堂はすっと目をそらして落ち着かなげに身動ぎする。あたるはへらりと笑った。
「おまえは相変わらず誤魔化すのが下手だな〜」
「……きみにだけは言われたくない」
 面堂はむっつりと低い声で呟いて目を伏せる。俯き加減のその頬に、はっきり見て取れるくらい朱が差していることも含めて、この男は隠し事が下手なのだ。
「きみだって、考えていることがすぐに顔に出るだろう」
「そお?」
 あたるは首を少し傾げて、面堂の手のひらにかすかに頬を擦り寄せる。
「だったら、おれが今何考えてるか……当てられるよな?」
 その視線に含まれたある種の甘い熱に、面堂はすぐ気がついた。かすかに表情が変わり、少しうろたえるように目線が泳ぐ。こういうとき、面堂に考える隙を与えてはいけない。面堂が廊下に続く扉に目を向ける前に、あたるは面堂の手に自分のものを重ねて握った。
「めんどう」
 面堂は少し間をおいてから、ふとあたるに視線を戻す。ふう、と面堂が小さく息を吐く。いかにも仕方なくという態度で、そのくせ頬を赤くしながら、面堂は身を乗り出し、唇をそっと重ねるのだった。