今夜は最高!!
※モブ→面からのあた面、モブ視点です。大人設定。
今夜は最高に運がいい!
いや、はっきり言って俺は運がない方だった。給食の残ったデザートを取り合うじゃんけんでは必ず負け、ここ一番という勝負の日には足を折って入院し、受験の日にはインフルエンザを拾って後日再試験になり……ともかくそういう調子で人生を生きてきた。
でも! 今夜は! 違う!
「社長、大丈夫ですか?」
俺はタクシーの後部座席に腰掛けながら、隣のシートで沈み込むように座っている美青年――うちの若社長、面堂終太郎に話しかける。
「う〜ん……」
「ちょっと飲みすぎちゃったんじゃないですか。二軒もはしごしましたもんね」
そう、俺はなんと社長と参加したさるセミナーの帰り道に彼と意気投合し、二人きりで居酒屋をはしごするというとんでもない僥倖に恵まれたのだった。
セミナーの後の飲み会で一度その場のメンバーと解散し別れ、それから俺達は二人で一軒目の居酒屋に向かった。
お店は社長が選んだ。そこはもちろん、高級感あふれるお高いお店……かと思いきや、俺の財布でもなんとかなりそうな、割と普通の居酒屋だったので俺は少し驚いた。あの面堂財閥の跡取りである社長でも、こんな庶民的なお店を知っているとは思わなかったのだ。
「あ、面堂さん、いらっしゃい」
店員さんがこちらを見るなりそう言って笑顔になる。ということは、常連らしい。
店員さんは社長と少し雑談をしてから、俺を見て言った。
「めずらしい〜、今日は諸星さんと一緒じゃないんですね」
「もろぼしさん?」
「ええ、いつもはその方と二人でいらっしゃるので。新しい方ももちろん大歓迎ですよ。二名様、ご案内ですー!」
カウンターに案内され、俺と社長は鞄を置いて並んで座る。
「いつもはここ、お友達と来られるんですか?」
席に付きながら、俺は社長に聞いた。すると社長はなぜか不機嫌になりながら、ネクタイに手をかけて少し緩める。
「諸星なんぞ知らん! あんなやつ……」
「なんです、喧嘩でもしたんですか?」
俺が笑うと、社長はこどもっぽく唇を尖らせてふいっと横を向いた。
「ぜーんぶもろぼしがわるい! 待たせてやればいいのだ、ぼくは知らん……いかん、あんなやつの話はよそう。酒がまずくなる」
そう言って、社長はメニュー表を取り上げながら、俺の方を見てにやりと笑った。
「好きなものを頼むがいい。今日はぼくが全部おごってやる」
「えっ! いいんですか?」
「きょうは、きみのおかげでずいぶん助かったからな。そのねぎらいだ」
社長は女子社員が相手なら何人でもすべて支払ってくれるが男性社員にはびた一文出さないことで有名だったから、俺は結構驚いた。同時に嬉しかった。プレゼンがうまくいったのもそうだが、それを認めてもらえて、社長と個人的に仲良くしてもらえるのは本当に夢みたいな出来事だった。
それからの時間はあっという間だった。あの面堂社長が選んだだけあって、食事もお酒もすごく美味しかった。それに社長は俺がビジネス関連の書籍をよく読んでいることに感心してくれて、それから今日のセミナーの感想とか、日頃の仕事の所感とか業界の動向についてとか、いろんなことを話し合った。
「うちのスチャラカ社員にも、きみの模範的勤務態度を見習わせたいところだな!」と、社長はたびたび深く頷いて言うのだった。
そしてついにラストオーダーの時間が来ても、社長は満足していない顔だった。
「まだ飲み足りない!!」
正直言って、この時点で社長はかなり呂律も怪しかったし顔も真っ赤だしで、もう帰ったほうが良さそうな様子ではあった。でも社長は「もう一軒行く!!」といって譲らない様子だったし、俺もまだ社長と話していたかったから、意を決して俺は社長に提案した。
「この辺りで明け方までやってる店を知ってるんで、そこで飲み直しましょうか」
そして俺と社長は夜の街に再び繰り出していった。
ネオンの看板がいくつも輝き、狭い雑居ビルの前で若い男がチラシを持ってお店の客引きをする夜の道を行く。社長はすっかり酔っ払って機嫌はすこぶる良さそうだった。ただ時折なにかに躓いて転びそうになるので、俺はそのたびに社長の腕を引いて転ばないようにしないといけなかった。
あやうく水溜りに足を突っ込みそうになった社長を引き寄せ助けてあげると、社長はぽんと俺の肩をたたいてにっこりした。
「きみは本当にできる男だな!」
「恐縮です」
そして社長はちらっと腕時計を見てから、楽しそうに笑う。
「ふふふ……もろぼしのやつ、いまごろ……ざまーみろだ……」
俺もなんだかよくわからないが、社長が楽しそうなのでいいこととする。
二軒目まではそう遠い距離ではなかった。俺と社長はのれんをくぐってお店の中に入っていく。
たまたま個室が空いていたので、俺と社長は個室に案内されることになった。ここに来てまた、運がいい。本当に今日は何もかもうまく行く気さえする。
「は〜、今日は暑いな。こんなもの着てられん!」
社長は白いジャケットを脱いで、お店の人に預けている。俺はというと、別に暑いとは感じなかった。たぶん社長はかなり酔っているから、それで暑く感じるのではないかと思う。
座卓の前に腰掛けると、社長はさらにネクタイをしゅるりと外して、紺色のシャツ一枚になった。
「きみのおすすめはなんだ?」
メニュー表を開きながら、社長はさらに胸元のボタンに手をかけて一つ二つ外していく。白い鎖骨があらわになって、俺の視線はそこに吸い込まれてしまった。
「……ど〜した? 聞いているのか?」
「え、あ、はい!」
我に返って、あわてて俺はメニューを指さした。
「カツオのたたきなんか、美味しいですよ……」
「なるほど。なら、どの酒が合うだろう」
「あ、おれのおすすめはですね……」
メニューを見ながらああでもないこうでもないと言い合って、店員さんを呼ぶ。
ほどなくしておつまみと二人で選んだ日本酒が運ばれてきて、俺と社長は本日三度目の乾杯をする。
日本酒はビールやカクテルなどとは違って度が高い傾向がある。具体的に言うと、ビールのアルコール度数はだいたい5%前後だが、清酒は15%前後のものが多い、といった感じだ。
だから本当は、大丈夫かなと思ったのだが……。
「あ、社長、一気に行かないほうが」
「へーきへーき、これくらい!」
社長はお猪口に注いだ一杯を、ぐいっと一気に飲み干した。
「おいしいな、この酒」
「あ、はい。魚によく合いますよね」
「どれ、もう一杯」
そう言って、社長はどんどん飲んでいってしまう。たしかに口当たりはいいが、決して弱い酒ではない。だが、なんと言っても本人が飲んで楽しそうなのだ、なかなか止められそうになかった。
しばらくして、社長はふらっと立ち上がった。
「どうしたんですか?」
「うん」
答えになっていない。社長は座布団を抱え歩いて来ると、座布団を俺の隣に置いてぽすっと腰掛けた。
「あの、社長?」
「となりの方が話しやすい」
社長はにこっと笑って言った。いつもよりも柔らかい笑い方で、思わずドキッとして俺は下を向いた。どうしよう、こんなこと思っていいのかわからないけど……めちゃくちゃかわいい。何なんだこの人。
「飲み過ぎなんじゃないですか、社長……」
「そんなことない!! まだいける!!」
このごにおよんで社長はそう言い張るのだった。まあ、本人がそう言うなら、まだ平気なんだろうが……。
そこから先は、一軒目でした話とはずいぶん方向が変わった。社長がもっと個人的な話をしてくれたからだ。妹の了子がいたずら好きで困るとか、サングラス部隊のおとこたちはいまいち頼りないからぼくがしっかりしないといけないとか、こんど敷地内にあたらしい温室ができるから楽しみだとか、そんな話だ。
いつも凛々しい顔つきの面堂社長が、どこかあどけない表情に変わって「うちのタコがかわいくて……」と話し出したときは本当にかわいくてたまらなかった。
おまけに、そろそろ平衡感覚も危うくなってきたらしい社長は、追加で注文した新しい日本酒に口をつけながら、隣の席に座っていた俺にふらりと寄りかかって、そのまま抱きついてきたのだった。
「しゃ、しゃちょう……」
「きみは本当にあったかいなぁ……」
ぎゅっと背中に手を回しながら、社長はそのまま俺の肩に顎を載せてフフッと小さく笑う。その際に、社長の熱っぽい息が首元にかかって俺はすごくドキドキした。
そのまま腕を回し返していいのか迷いながら、俺はそっとおちょこを机の上に戻した。社長は相変わらず俺をぎゅっと抱きしめている。
「あの……つかぬことをお聞きしますが」
「ん〜?」
「社長は……彼女さん、とか、そういう方は……いらっしゃるんですか?」
社長は「かのじょ……?」と、少し悩んでから、またふふっと笑って答えた。
「かのじょはいないぞ!」
「あ、そうなんです、ね……」
俺はしどろもどろになって答える。その笑いは、なんだ、どういう意味だ。俺の意図をわかって答えてくれたのか。だとしたら、だとするなら、だ。
これって、つまり、脈アリなのでは?
「社長……」
意を決して俺が腕を回し返そうとしたときだった。
「もう一杯飲む」
「あ、ちょっと社長、もう飲まないほうが……」
社長はするりと俺の腕から抜け出し、徳利からお猪口にまた透明な日本酒を注ぎ出すので、俺は慌てて止めた。今の時点でかなりぐでんぐでんに酔っているようだし、これ以上飲むと気持ち悪くなってしまうかもしれない。
「歩けなくなっちゃいますよ〜、あんまり飲むと」
「そ〜なったらきみが家まで送ってくれるんだろ?」
「えっ?」
「美味しいからまだ飲む……」
あ〜、飲んじゃった……。もうやめたほうがいいだろうに。いや、それより、いまの! やっぱり、そういうことなのか? 脈アリで、今夜、社長の自宅に行ってもいいってことなのか?
つまりそれって、……そういう、ことだよな。
「……」
今日、ちゃんとした下着だったろうか。いや、大丈夫、おろしたばかりのやつのはず。
どきどきしながら、俺は社長の肩にそっと腕を回す。社長は嫌がらない。それどころか、へにゃっと甘えるように俺にもたれかかって、かすれた甘い声で言った。
「きみも、もっと飲まないのか?」
「じゃあ……もう一杯だけ」
それより先は、念の為にやめておいた。
そんなわけで、潰れる寸前まで飲みまくった社長からなんとか自宅の住所を聞き出して、肩を貸しながらどうにかタクシーに乗りこんだというわけだった。
「ふんふんふふ〜ん…」
社長は目を瞑りながら、最近のヒット曲を口ずさんでいる。社長も、こういうポップな歌を聞くんだな、と意外に思った。
「社長は、声がきれいですね」
「そおか?」
「とってもお上手ですよ」
「ふん、当然だ」
社長はふんぞり返って得意げになると、そのまま甘えるように俺の肩に頭を乗せた。俺は心臓が飛び跳ねてしまって、社長の長くてきれいな弧を描く睫毛を、形の良い鼻梁を、ふっくらとして柔らかそうな唇を、固まったまま見つめるしかなかった。
ここがタクシーの中じゃなかったら、そのまま口付けてしまったのに。
ほどなくして、港区のさる高層マンションの一つの前でタクシーは止まった。タクシー代くらいは俺が払えると思ったのだが、社長は「ぼくが払う」と言って聞かなかったので、そのまま任せることにして、俺は社長に肩を貸しながらふらふらとマンションに向かった。
社長の鍵でオートロックをはずし、エレベーターに乗りこんで、ある高層階のボタンを押す。俺は社長の体温を感じながら、いよいよだと思ってドキドキしていた。
憧れの人だった。手が届くはずないと思っていた。とても綺麗で純粋で、やさしい人。その人が今手の届くところにいて、あと少しで手に入るかもしれないと思うと、天にも昇る心地だった。
「着きましたよ、しゃちょう」
「うん……」
半分眠っているのか、あまり気のない返事で社長は答える。そこから社長の部屋まで、ほんのすこしの距離だった。廊下から見える夜景はきらきらと輝いていて、俺なんかでは、どこかの展望台からじゃないととても見ることができないだろう美しい景色だった。こんな光景を、当たり前に毎日見ているはずの社長は、やはり凄い人なんだなと実感する。
「社長、自分で開けられますか?」
「ん〜……」
「あ、ちょっと……」
懐からカードキーを出したところで、社長はそれを落としてしまった。社長は空になった手を見てぼんやりと首を傾げる。
「う〜ん……? どこかに行ってしまった……」
「大丈夫です、ちゃんとありますよ……ほら、しっかりして」
俺は社長が倒れないようにそっと屈んで、カードを拾い、社長の手に戻す。すると社長はまた楽しそうにフフッと笑う。
「もどってきた。魔法みたいだ」
そのふにゃっとした笑顔はどこか幼くて、俺はつられて微笑んでしまう。本当に、可愛い人だ。
「大丈夫ですか、また落としそうですが」
「ん……へいきだ……」
そう言いながらするっと指の間からカードを落としそうになっているので、俺は慌てて手を伸ばす。必然的に手が触れ合って、俺はドキドキした。なんて柔らかくてきめ細かな肌なんだろう。同じ成人男性とは思えなかった。手のひらでこれなら、他の部分はいったいどれだけ滑らかなんだろうか。俺はそっと俺にもたれかかる社長の横顔に目を向ける。気怠く伏せられた黒い睫毛や赤い唇。胸元のボタンが外され、紺色のワイシャツからちらりと白く覗く首筋を見ているだけで、俺はゾクッとしてしまう。
この扉を抜ければ、と、俺は思う。この人の唇も、この人の白い首筋も、この服の下に隠された美しい肢体も、ぜんぶ、俺のものになる。
おぼつかない手付きで玄関の鍵を外す社長を手伝って、俺はついに扉を開けた。
そのときだった。
「おい面堂! 今日は早めに帰ってくるって言ったじゃねーか、いつまで待たせ……、」
部屋の中から走る音がしたと思ったら、扉に手をかけて、一人の男が現れた。
「え?」
「は?」
俺と彼は見つめ合った。名も知らぬ男、面堂社長の部屋でずいぶんくつろいだ服装をしている男は、目を見開いたまま、俺と、俺に肩を借りてふにゃっと寄りかかっている面堂社長を交互に見た。
そして彼は、すっと目を細めて低い声で言った。
「あんた、誰」
「え……っと、おれは、面堂社長の部下の――」
「いや、いい。答えなくて」
あまりにも予想外のことだった。まさか、ここで、他人に出会うとは。戸惑う俺のまえで、彼は静かに社長の方を指さした。
「こいつ、飲みすぎたの?」
「え、あ、ああ……そうなんだ。それでおれが家まで送ることになって」
「ふーん……」
「もろぼし?」
ここで社長がはっとしたように彼を見つめた。
「あれ……? なんで諸星が部屋に……?」
「はあ?」
そこで見知らぬ男がいよいよ気を悪くしたようで、社長に詰め寄った。
「あのなあ! おまえが呼んだんだろ、今夜は仕事が早く終わりそ〜だからって! だいたい――」
「諸星ぃ〜」
男の話を全く聞かずに、社長はふらっと俺から離れて彼の方に歩み寄ると、そのままぎゅーっと抱きついた。
「そうか、ここにいたのかあ〜諸星〜」
「あのなあ〜……」
深くため息をついて、彼は社長の背中に腕を回して頭を優しく撫でる。その慣れた手付きに俺はもうピンと来てしまった。
これは……彼女はいないかもしれないが。これは……。
諸星、諸星、と甘えた声で彼に抱きつく社長を前に、俺はもう動けずただ立ち尽くすしかなかった。
「あ〜……じゃあ、そ〜ゆ〜ことなんで」
彼はするっと社長の腰に手を回して抱き寄せながら、冷たい笑みを浮かべて扉に手をかける。
「どうも」
バタン! 目と鼻の先で、必要以上に力強く閉められた扉を前に、俺はヘナヘナとその場に崩れ落ちた。
はっきり言って俺は運がない方だった。給食の残ったデザートを取り合うじゃんけんでは必ず負け、ここ一番という勝負の日には足を折って入院し、受験の日にはインフルエンザを拾って後日再試験になり……ともかくそういう調子で人生を生きてきた。
今夜こそ、今夜こそはその呪われた運勢から抜け出せると、ついさっきまではそう思っていたのに。
「は……はは……」
乾いた笑いが喉をついて出る。扉の向こうでわあわあと騒がしい言い合いが始まるのを遠く耳にしながら、俺はしばらく、その場を動けそうになかった。