21 夢の終わり
月曜日の朝はいつだって少し憂鬱だ。
これからまた一週間、早起きしてわざわざ学校に行って、面白くもない授業を聞くためだけに何時間も同じ場所に拘束される。その間はガールハントに勤しむこともできないし、お弁当を食べるにも漫画を読むにも、先生にバレないようにこっそりやらなければいけない。たしかに同級生の女の子たちと会えるのは嬉しいけれど、煩わしいことも多かった。
眠気を堪えながら教室に入るなり、目についたのは黒板近くに集まっている女子の塊だった。可愛い声で騒いでいる彼らの中心に立つのは、すらりとした長身痩躯の男。
「ご心配おかけしました! もうすっかり元通りですよ」
面堂は女の子に向かって、にこにこしてそう言っているところだった。あたるはその脇をすり抜け、ラムと一緒に自分の席に向かう。あたるも面堂も目を合わせることはなかった。あたるは面堂の方に目をやらなかったし、面堂は女子と話すのに夢中であたるが登校したことに気付いてもいないだろう。
「ラムさん、おはようございま〜す!」
メガネたちがすかさず寄ってきて、媚びた笑みを浮かべてラムに挨拶する。ラムはその下心には全然気付かないで、にっこりと挨拶を返している。
あたるが鞄を机の横にかけているとき、コースケがあたるに声をかける。
「よ〜あたる、朝っぱらから湿気たツラだな」
「やかましい、おまえほどじゃないわ!」
からかってくるコースケに軽口を叩き返して、示し合わせて分担することに決めた宿題を交換した。今日はあたるが古典、コースケが数学の宿題をやることになっていた。
お互いに回答をさっさと写しながら、くだらない雑談をする。コースケは土日に例の聖なる胃袋を持つ彼女とデートしたそうで、「おかげですっからかんだからちょっと小銭貸してくれ」と冗談交じりに言われた。もちろん断った。
「あたる、おまえは? ラムちゃんとどっか出かけたりしたのか?」
「えーと……まあ、そんなとこだな」
ラムと出かけたことには間違いないので特に考えずにそういったが、コースケは頬杖をついて意味ありげな笑みをにやにやと浮かべる。
「ほうほう! そりゃ〜お熱いことですな」
「えっ、いやっ、別にそういうんじゃなかったぞ……」
慌てて否定するが、コースケは「照れるなよ」と肩を小突いて、あたるの弁解を本気にしようとしない。メガネたちがラムとの話に夢中で助かった。聞かれていたら、先生が来るまで根掘り葉掘り問い詰められて、更に口を滑らすことになったかもしれない。
あたるはそこで自然と面堂に目を向けた。もしメガネたちに土曜日のことをうっかり喋ったりなんかしたら、今度こそ本当に殺される気がする。
そもそも、あたるとしても、あの日あったことは誰にも言いたくない。
「……しかし、本当に一週間きっかりだったな」
「なにが?」
はっとしてコースケに視線を戻す。コースケは課題プリントに目を向けたままシャーペンを素早く動かしている。それであたるも我に返って、急いで残りの数式を自分のノートに写していった。
「だからさ、面堂。遅くとも一週間で元に戻るって言ってたろ?」
「あ、ああ……そうだったな」
「あいつ、女になったらちっとはおとなしくするのかと思ったが、マジでなんにも変わらなかったよな。相変わらずえらそーだったし。女子どころか他組の男子とかも騒ぐ分、むしろ前よりめんどくせーことになってたし……いや〜、あいつが男に戻ってくれてよかったなんて思う羽目になるとは」
あたるは何も言わず、手を動かし続ける。やがてコースケはシャーペンを机に転がした。
「よし、おれは終わった。おまえは?」
「おれも」
あたるはノートを閉じてコースケに返し、引き換えに古典のプリントを受け取る。きらいな数学の授業もこれで何とかなりそうだ。
あたるは口許を手で覆いながら欠伸をする。それから頬杖をついて、黒板近くの集団をまた眺めた。
土曜日に、ラムが変なタイミングで帰ったのは、テンから宅配便のことを教えてもらったからだと後でラムから聞いた。先週ラムがしきりに宅配のことを気にしていたのを、テンはしっかり見ていた。だから留守中に届けられた荷物のことを、ラムを喜ばせるためにスクーターを駆り出してまでわざわざ知らせに来たらしい。ぼくいい子や、とラムの話の途中で口を挟んで、テンは小さな胸をそらした。
あとはあたるの見たとおりに事は進んだ。ラムは燃料を補充して面堂邸に戻り、池の畔にいるあたると面堂を見つけた。そして正面から行くとまたあたるに逃げられることを考えて、後ろから不意打ちを仕掛けたのだ。ラムの作戦はうまく行き、あたるは羽根を失い面堂は元の姿に戻った。
そして、全てがあっけなく終わったのだ。
面堂は女子と話しながら、ずっとにこにこと笑っている。
あんなに幸せそうな顔で笑う面堂など、見たことがない。面堂がラムからチョコレートを貰ったときの笑顔が、唯一比肩できるくらいだろうか。
そのせいか、いつもよりも面堂の周りに集まる女子の数が多かった。よく見ると他組の女子も混じっている。教室の前を通りかかった女の子も思わず足を止めて、じっと面堂に見入ったり友達同士でなにか話して笑ったりしている。
朗らかな優しい微笑みは、たとえどんな人間であっても実際以上に感じよく見せるものだ。まして面堂がそんな表情をしていたら、女の子が注目するのもやむを得ないかもしれない。何なら男子の方も今日は時々面堂を眺めて、ミケランジェロの彫刻でも見かけたような顔で感心している。これも滅多にないことだ。
「やっぱり面堂くんは男の子のほうがいいね」
一人がそう言うと、面堂は力強く同意した。
「ぼくもそう思います。ぼくは女性というものを心から尊敬していますが、やはり男性として傍で女性をお助けするほうが性に合っていますからね」
頼もしいね、と誰かが言う。女子の輪にさざ波のようにやわらかな笑いが広がった。
その波が引いたときに、別の女生徒がまた笑ってこう言った。
「でも、女の子の面堂くんがもう見られないのは正直ちょっと残念だわ。凛々しいお姉さんって感じで、私女なのに毎日見とれちゃってたもん」
「わかる〜、綺麗だったよね。竜之介くんとはまた違うかっこよさがあって素敵だったなあ」
「ははは……」
面堂は苦笑する。それから口の端に笑みを湛え、どこか歌うような調子で言った。
「――もしも皆様、お気に召さぬとあらば、こう思し召せ、ちょいと夏の夜のうたたねに垣間みた夢まぼろしにすぎないと」
きょとんとしている女子の輪に向かって、面堂はいたずらっぽく笑いかける。
「シェイクスピアの『夏の夜の夢』ですよ。ぼくたちみんな、妖精のいたずらでおかしな夢を見ていただけ、そう思ってください。青い鳥のことも、ぼくが女になったことも、全部夢だったんです」
女の子たちが、うっとりした顔で「面堂くんって博学よね〜」と感心した。読書が好きなだけです、と面堂は口では謙遜するが、どことなく満足げな微笑みを見れば、そう言われたくてシェイクスピアを引いてきたことはあたるにはすぐ読み取れた。こういう厭味な行動はなぜ同性にしか真意が伝わらず、異性はころりと騙されるものなのか。これは人類永遠の謎だろう。
あたるはこれ以上いらいらしないように、面堂から顔を背けて頬杖をついた。ふん、シェイクスピア読んだくらいでいい気になるなよ、と不貞腐れる。文学好きな女の子に話を合わせるために頑張って図書館に通ったことがあるから、実を言うとあたるも内容くらいは知っているのだ。
そして内容を知っているからこそ、面堂の言葉にも一理あると認めてしまう自分に余計に腹が立ってくるのだった。
面堂は今までの出来事を総括するのにシェイクスピアを引用した。全ては『夏の夜の夢』と同じだと。ある意味でそうなのかもしれない。妖精パックの手違いは、本当は好きでもなんでもない人間をまるで運命の恋人のように思わせ、夢中で追わせた。二組の男女は恋心がねじれてもつれあう。そして妖精の女王タイタニアはロバの頭を被った機屋に恋をする。それがひどく滑稽で、憐れなくらい場違いな事にも気がつかない。だが一晩明ければ魔法は解けて、正気に返ったタイタニアは自分の間違いを知る。
そして最後には元通り、妖精の女王は夫のもとに帰り、二組の若い男女はあるべき形に落ち着いて、全てが丸く収まるのだ。
あたると面堂も、夏の夜の夢を見ていた。自分達はこの一週間、内緒の恋人同士のように振舞った。夢中になって児戯に浸り、お互いを貪り合い、求める物を与えあった。それは愛の悦びにも似ていた。そしてその夜も明け、もはや偽りの恋人同士ではなくなった。あたるはもう面堂を抱きしめることはないし、面堂もあたるを求めてすがりつくことはない。今そんなことをすれば、それはもう正気の沙汰ではないのだ。あたるも面堂も、今までの日常に戻っていく。夢を見ていたことすら忘れて。
すべてが元通り。そう、これが、自分たちにとって、考えられうる限り最善の結末なのだ。
あたるはもう一度面堂に目を向けた。面堂は本来の自分に戻った。女生徒と語らいながら、とても嬉しそうに、屈託なく笑っている。あたるが眺めていることなんか気付きもしない。
だから、本当に、これで終わってよかったのだろう。