01 切り傷

 ――なんでもおれの誕生日は仏滅だったらしい。それも、十三日の金曜日。
 生まれてこのかた、両親から何度となく聞かされた話だった。本当かどうだか定かではないが、あたるが生まれた瞬間地震があっただの神棚が落ちただの仏壇が倒れただの、とにかく不吉極まりない出来事が雨あられと一斉に両親に襲いかかったのだそうだ。そしてその不吉な予兆に違わず、あたるは昔からとんでもない出来事の渦中に放り込まれては、みんなから諸悪の根源として名指しされることとなった。
 だが、どこまでも続く凶相の星の下に産まれたことは果たして自分の罪だろうか、とあたるは言いたいわけである。たまたまその日に生まれたのは自分の意志によるものではない。奇怪な出来事に出合い、奇妙な連中とやたらめったら縁があり、最終的に全てがめちゃくちゃになっていくのだって、あたるの力でどうにかできることでもないのだ。
 かつてギリシアの哲学者エピクテトスは言った。自分の力の及ばない、外的要因に心を悩ませるべきではない。自分の力の及ぶもの、要するに自分の心の状態だけに気をつけて生きるべきだと。そうすれば何があってもくよくよせずに幸せに生きていくことができる。
 あたるも、世の中はすべて気の持ちようでどうとでも変わると思っている。顔がまずくたって、背が思ったほど伸びなくたって、それはそんなに悪いことじゃないかもしれない。夕飯のおかずが少なくたって、女の子に引っぱたかれたって、その次にはなにか良いことがあるかもしれない。いつまでも落ち込んでいたら、そういう幸せの兆しさえ見逃して、惨めな状態が続くかもしれない。
 涙が出るほど悔しい出来事、辛い出来事があっても、次の日にはけろりと笑っていられるのも、そういう気持ちを忘れないよう心掛けていたからだった。
 でも、時にはどんなに懸命に気を付けていたところで、路傍の石に足元を掬われ全ての努力が水泡に帰すこともある。
 だからあたるも、面堂さえ転校してこなければ、今でも幸せに満ちた明るい世界で呑気に面白おかしく生きていたのかもしれない。でもそれだって、あたるの力の及ばない、どうにもならないことなのだ。
 やっぱり、仏滅の日に生まれたというのは本当のことなんだろう。


「闇鍋ディスコ?」
 面堂は体育館の壁にもたれかかりながら、コースケの言葉をそっくり繰り返した。
 生徒主催の納涼ディスコパーティーの当日のことだった。
 会場の中で女の子相手に無節操に愛想を振りまいていた面堂を、「話がある」と言って連れ出したのがついさっき。そして、あたるを含む裏方メンバーが、面堂に企画の概要を説明するところだった。
「そ。サプライズとして、急遽やることになったのだ」
「実行委員代表メンバーとして、おまえにも参加してもらおうと思ってな」
「それは構わないが」
 面堂は少し考えるような顔をしてから、首を傾げて言った。
「……闇鍋とはなんだ?」
「はあっ!?」
 面堂を取り巻く面子の間にどよめきが走る。あたるたち友引高校の不真面目男子たちにとっては、健全な男子高校生たるものがよもや闇鍋を知らないなど、信じがたいことだったのだ。面堂としても、こんな些細な質問で彼らがここまで動揺するとは思わなかったのか、かすかに怯んだようだった。
「おまえマジ? 闇鍋やったことないの?」
「ああ……庶民の間では一般的な鍋料理なのか?」
「いや、一般的っていうか……」
 同級生の一人が説明しようと口を開いたが、あたるは素早く会話に割り込んだ。
「まあそんなとこだな。面堂、おまえ闇鍋を知らないなんて他人に言ったら恥だぞ恥。健全な男子高校生なら誰しも一度は体験してる通過儀礼なのだから!」
 口からでまかせを並べ立て、あたるはびしっと指を突きつけながら堂々と言い切った。面堂はちょっと面食らった顔をして、顔を背けながら腕を組んだ。面堂がきまり悪いと感じているときによくやる仕草だった。
「仕方ないだろ、ここに転校するまで、貧乏人と話す機会なんかなかったんだ」
「いちいち角の立つ言い方するやっちゃな〜……」
「事実を述べたまでだ」
 面堂はすました顔を崩さずにそっけなく言った。面堂の周りの男子生徒の纏う空気が冷ややかなものに変わっていくが、態度を改める気なんかこれっぽっちもなさそうだった。
 その頃はまだ面堂が転入してからあまり経っておらず、あたるもまだ面堂と気安く話すような仲にはなっていなかった。
 それどころか当時のあたるにとって面堂は鼻持ちならない嫌なやつでしかなかった。はっきり言って、あたるは面堂が大嫌いだった。しのぶが面堂に並々ならぬ好意を寄せているのが気に食わなかったし、クラスの女子がこぞって面堂を持ち上げてきゃあきゃあ騒ぐのも不愉快で仕方ない。こんなやつ、転校してこなければよかったのに、と思うこともしばしばだった。
 もちろん、あたるだけではなくて他の男子生徒も同じ思いを持っていた。四組の男子生徒は、面堂とそれ以外、というようにきっぱり別れていて、間には埋めがたい溝があった。
 だから、「面堂にも闇鍋の仮装をやらせよう」とあたるが提案したときには、満場一致の賛成が得られた。遺恨を晴らす絶好の機会というわけだ。
「……と、いうわけで、会場が暗くなった隙にみんなのなかに混じって誰かとパートナーになる。そして明かりがついたらあらびっくり、という寸法だ」
「ふーん……確かに余興には十分か」
 そこでついに面堂は、みんなが待ち構えていた言葉を口にした。
「どういう仮装をするんだ?」
「ふっふっふ……」
 その場にいた男子生徒が一斉に不穏な笑いを浮かべるので、面堂は少し怯んで一歩後ろに引いた。
「な、なんだ、気味の悪い……」
「今日のおれたちの晴着はこれさ!」
 あたるは風呂敷の包みをほどいて、中の衣装を面堂に見せた。
 ドレスだった。何着もある。まだ特売セールの値札がついたままで、いやにサイズが大きい、おまけに誰も好んで着ようとしないような奇怪なデザインのものが詰まっていた。
 面堂は一瞬固まってから、おずおずとあたるの手にあるドレスを指差して言った。
「冗談だろう?」
「本気だぞ」
「90%オフと書いてあるのだが……」
「すごいだろ、こんなに安いの見たことあるか?」
 面堂はすでに逃げ腰で、そろそろとあたるたちから距離を取り始めていた。当然予測していた反応なので、彼らも退路を断つように散開しながらじりじりとにじり寄る。
「ちょっと急用が……」
「こんな時間にどんな用があるってんだ」
「きみたちに話す義理はない。そこを通せ」
「理由もなしにブッちぎろうなんて、そ〜は問屋がおろさんぞ」
 面堂はそこで一か八かの賭けに出た。校舎目指して全力で駆け出し、あたるの横をすり抜けようとするが、すんでのところであたるにタックルされ芝生の上に倒れ込む。
「はっ、放せ諸星っ!!」
「ようやったあたる! そのまま押さえとけよ!」
「きさまら、よってたかって汚いぞ!」
「それ、貧乏人の力を思い知れ!」
「やめろ〜〜!!」
 いやだいやだと暴れる面堂を数の暴力で押さえ込み、無理やり服を剥ぎ取ってドレスを着せたのが五分前。面堂は意気消沈してあたるたちから少し離れた場所でうずくまっている。愉快痛快、笑いが止まらない。いい気味だと思った。金と権力を臆面もなくひけらかそうが、どうにもならないこともあるとこの男もようやく学んだだろうか。
 面堂の服はこちらでしっかり確保しているので、もう逃げ出そうとはしなかった。他の着替えを探すには、この格好で一人明るい場所に出ていく必要があるので、そっちのほうが受けるダメージが大きいと踏んだのだろう。ひとまず面堂はほっといて、あたるたちも準備を進めていくが、彼らがドレスを着て大げさな厚化粧をする段階になってもまだ面堂は動こうとしなかった。
 仕方なくあたるは面堂に近寄って声をかけた。
「こら面堂、いーかげん観念せんか!」
「こんな目に遭わせた張本人がよく言うな!」
 すると、ぱっと顔を上げて面堂が言い返す。
 そしてあたるはぎくりとした。ゆるくカールした金髪のかつらを被って女の格好をしていると、あの面堂なのにちょっと可愛いと感じてしまったからだ。
「い、意外と似合うじゃん……」
「きさま、こんな悪趣味なドレスがぼくに似合うと言うのか!」
 すると面堂はやにわに立ち上がってあたるに掴み掛かった。確かに妙にリアルなキングコブラが巨大な卵を飲み込んでいる図柄はどうかとは思うが。しかも全面プリントだからとにかく目立つ。
 面堂は恨みつらみをぶつけようとしたが、冗談みたいなおめかしで彩られたあたるの顔を間近に見て気力が急に失せたようで、あたるをついっと突き飛ばす。それからため息混じりにスカートについた埃を払った。
「だいたいどうして当日の、それも直前に……予め教えてくれればもっとまともなドレスを用意してきたのに」
 化粧が済んだメンバーはそれを聞き、おどけてしなを作りながら答えた。
「そうだろうと思ったから黙ってたのよ」
「アンタの場合、悪趣味なドレスでなきゃ冗談にもならないでしょ〜」
「何よっ、アンタたちはシンデレラの意地悪な姉のつもりなの!」
 するとなんやかやで面堂も適応し始め、女言葉で彼らに言い返し始めるのにはあたるも驚いた。
 こいつ、案外この状況を楽しんでいるんじゃないだろうか。昼間の、お堅い優等生を気取る態度とは随分違うように感じる。それとも、あたるが知らなかっただけでこういうお遊びに付き合う気安さも元からあったのだろうか。
 嫌な奴でしかないはずの面堂が、他の友人と変わらない身近な存在に感じられて、そしてそれがすごく変な感じだった。
「諸星!」
「な、なんだよ」
 急に矛先がこちらに向いて、あたるは身構える。面堂はあたるの戸惑いを知ってか知らずか、面堂は少し屈んであたるの指先からさっと口紅を取った。
「借りるぞ」
「えっ、おまえも使うの」
「だって一本しかないんだろう」
 そういうことじゃない、と言うべきかあたるは悩んだ。だったら何が困るのだと聞かれても答えられないことはわかっている。なにしろ面堂が化粧をしようが何をしようが、あたるには関係ないしどうでもいいことなのだ。少なくともそのはずだった。
 面堂は口紅の軸をくるくると回している。そして鏡を手に取ると、口紅の先を口元に運んですっと薄紅色を唇にのせた。あたるはどぎまぎして思わず目をそらした。どうして慌てたのか、自分でも全くわからなかった。
 無意識に指先で自分の唇に触れる。同じ色。当たり前だ、そんなこと。この場の全員が同じ口紅を使ったのだから。ただ、面堂があたるのすぐ次にそれを使っただけだ。
 面堂はすでに完全に開き直っていて、粛々と自分に化粧を施していく。腹立ち紛れに発した「どうせならうんと綺麗になりたかったのに」という言葉通り、おふざけの色が強いあたるたちと違って、バランスのよい薄化粧だった。
 あたるは、何も言わずにその様子を眺めていた。こうして見ると、たしかに女子が騒ぐのもまあわからんでもないというような気がした。男の顔の美醜なんか全く興味がないので、そういうふうに思ったのは今日が初めてだった。そして間違いなく今日が最後だろう。今面堂の容姿が意識に上ったのは、奴が女装しているからに違いないのだ。女となれば、たとえ紛い物でもあたるはどうしても無視することができない性分だった。
 面堂はぱちりとアイシャドウのケースを閉じる。そしてそのとき初めてあたるが自分を眺めていることに気付いた。面堂はふんと鼻を鳴らして睨み返してくる。
「何見てる。きみだって化粧してるんだからおあいこだろ〜が」
 いつもだったらそれに対して倍ぐらいの憎まれ口を返すのに、あたるは気もそぞろに面堂の顔をじっと見つめたままだった。
「諸星……?」
 面堂は首を傾げる。ふわりと偽物の髪が揺れる。あたるはさっきの級友の言葉を思い出さずにはいられなかった。
 こいつの場合、悪趣味なドレスでなきゃ冗談にならない。
 あたるは何も言わずに面堂に近づいていく。面堂はいよいよ不審そうに眉をひそめているが、あたるがかなり近くまで来ても別に避けるでもなくそのまま腕を組んで様子を窺っている。
 近くで見ても、やっぱりかわいいなと思った。そして随分と無防備だった。本当の女の子だったらこんな風に不用意に近づかれた時点で警戒するものだが、少しもそんな素振りがない。
 だからたぶん、今なら、とあたるは面堂を見上げながらぼんやりと考えていた。首に手を回して、ぐっと引き寄せてしまえば……。
 だが腕を伸ばしかけたまさにそのとき、赤いマントを羽織った変わった仮装のおじさんが姿を現したので、あたるは慌てて面堂から離れた。おじさんがあのタイミングで現れたことに、あたるは今でも深く感謝している。我に返って本調子に戻れたのは、面堂から意識を逸らす対象が目の前に現れたおかげだった。
 あたるは内心どきどきしていた。いったい何を考えていたのだろう。あの面堂相手に、あの瞬間の自分は何をするつもりだったんだろう。一瞬でもあんなことを考えた自分が信じられなかった。きっと口紅が悪いのだ。同じ色、同じものを使ったから。変に意識したのはそのせいだ、それ以外にない。絶対。
 次の日、いつもの白い学生服を着た面堂と顔を合わせたとき、あたるはホッとした。前日のようにどぎまぎすることはなかったし、顔を見ていても何も感じなかったからだ。面堂は、やっぱりあたるの大嫌いな面堂だった。単純に女装が原因で調子が狂っただけだったのだ。
 あたるはそのことに心から納得する。なんだかすごく安心して、そして安心したせいか空腹をおぼえた。腹が減っては戦はできぬし、ガールハントだってそれは同じだ。心身ともに満たされたときにこそ功を奏するのだ。温泉マークの目を盗みながらお弁当の包を開いて、教科書の壁に隠れて中身をつつく。ツヤツヤと輝くウズラの卵が美味しい。
 卵をむしゃむしゃ食べているうちに、以前夢のなかでバク使いの夢邪鬼と名乗る奇妙な男に会ったことをなんとはなしに思い出していた。獏に悪夢を提供した見返りに、半ば脅し取るような形でその男からもらった夢のタマゴ。そのタマゴを使えば、こちらの希望通りの夢を生み出すことができた。
 いい夢だったよなぁ、と思う。女ばかりのハーレムの夢。ラムがいて、しのぶがいて、他にも美人なおねーさんがいっぱいいて……。
 あれ? と、あたるは箸をくわえたまま手を止めた。そういえば、もう一人いた。あたるは斜め前の席に目を向ける。視線の先では面堂が姿勢良く座って、大人しく授業に耳を傾けている。タマゴが生んだ夢のハーレムには、面堂が混じっていた。たくさんの女性の中で、たった一人、面堂だけが男なのにその空間にいた。
 それに気がついた途端、あたるはなぜだかひどく不安になった。
「諸星ーっ!!」
「いてっ!」
 スカーンとなにか硬いものが額に直撃した。白いチョークだ。
 見ると温泉マークが遠投のポーズのままあたるを睨めつけている。あたるはがたっと席を立った。
「何をする、弁当に粉がかかったじゃないか! 食べ物を粗末にするなんて最低だぞっ!!」
「文句の前にまずメシを食うな!」
「メシでも食わんとやってられるかこんな授業!」
「な、なんだときさま〜!!」
 わなわなと震えて温泉マークが黒板消しを握りしめたので、あたるは素早く弁当に蓋を被せた。あれが飛んできたら流石に味に影響が出る。
 だがその前に、面堂が手を挙げた。
「先生。諸星なんかほっといて先に進んでもらいたい」
「面堂……」
「ぼくたちのクラスは、ただでさえ遅れ気味なんだから。補習なんか御免だ」
 それから面堂は振り返ってあたるに言った。
「きみもい〜かげんその悪癖をやめられないのか?」
 なんてことのない一言だったと思う。面堂なら言ってもおかしくないし、なんなら以前にも言われたことがあるかもしれない。いつもなら、せいぜいちょっとムカつくくらいで終わったはずだ。
 でもあたるは昨日からの一連の出来事を持て余して、嵐の前のように心にさざなみが立っていた。そしてそれは全部他でもないこの男のせいなのに、当の本人は涼しい顔でお決まりの優等生を演じている。何も知らないで。そう思うとなんだか無性に腹が立って、あたるは机に転がっていたチョークを面堂に投げつけた。
「無礼者、何をする!」
「おまえにゃおれの気持ちなんかわからん!」
「そんなものわかってたまるか!」
 ガタッと面堂も立ち上がって応戦の態勢を取る。あたると面堂は温泉マークの制止も虚しくチャイムが鳴るまで喧嘩を続けたので、結局まともな授業にはならなかった。
 
 時計が十一時をまわる頃になると、諸星家ではもう灯りを消す時間だった。その頃になると、眠そうな目をしたラムが「おやすみ、ダーリン」とあたるに声をかけて押し入れに入っていくのだった。そしてラムがそこで穏やかな寝息を立てるのを聞きながら、あたるは闇の中手探りで机に向かってデスクライトの灯りをつける。引き出しの奥から引っ張り出した日記を机に置いて、その表紙を開いた。部屋を包む夜闇のなか円錐状に日記を照らすやわらかな光は、小さな舞台照明のようだ。白いページの上で、緑の軸の鉛筆が踊りながら一日の軌跡を描いていく。毎日の日課だった。
 あたるはラムが眠っているときにしか日記に手を触れない。絶対に一人きりだと確信できるときにしか、日記を書くことはなかった。一度ラムに勝手に持ち出されたことはあったが、絶対に勝手に日記を読まないことを誓わせて以来、ラムは誠実に約束を守っている。日記の中身は自分のなかだけにしまっておきたいので、彼女がこちらの意志を尊重してくれるのは何よりもありがたいことだった。
 あたるにとって日記は日々の記録というよりは、昼間処理しきれなかった感情の埋葬に近いものだった。その時々に生じた感情の目録を作り、きちんと状況と結果を整理して、墓石に名前を刻むように淡々と事実を連ねていく。だから他人が読んだとしても、日記からは無機質な印象しか受けないだろう。でもそれは、知らない人の墓の前に立っただけでは、いくら目を凝らしても何も感じ取ることができないのと同じなのだ。その下に眠っているもの、確かな実体を持っていたものの記憶があれば、すぐに様々な感情が蘇ってくる。そしてあたるにとってそういう感情とは、心の柔らかい部分についた傷だった。
 今日という日を終えても、あたるはまだ平常心を取り戻せていなかった。一日の出来事をつらつらと書いているときにも、あのときの戸惑いがしきりに思い返されてならない。そしてようやく温泉マークの授業のくだりに差し掛かり、いざ書き留めようとしたところで、自分が語る言葉を持たないことに気がついた。鉛筆を時折くるくると回しながら、一向に変化のないページを眺めて途方に暮れる。
 なぜ夢のなかに面堂がいたんだろう。
 昨日ああして面堂をからかうまでは考えたこともなかった、小さな疑問だった。だが、いくら考えても答えの出ない疑問なのだった。メガネなら、そのあだ名の元になった眼鏡をしかめつらしく光らせながら、難問(エニグマ)と呼ぶのかもしれない。
 あたるは長いことぼんやりと白い紙をただ眺めていた。が、ふと我に返って時計を一瞥して、少し丸まった黒鉛の先端を紙に押し当て、するすると滑らせていく。早弁したことを書いた。温泉マークにチョークを投げられたことも書いた。だが、ウズラの卵を食べたことも面堂にいやみを言われたことも書かなかった。
 つまりあたるはその疑問の存在を無視し、なかったことにした。きっと大した意味なんかない、書き留める価値もないのだ、と自分に言い聞かせて、忘れるように努めた。実際それはうまくいったように思えた。一週間もしないうちに、納涼ディスコパーティーのことも獏のことも頭をかすめもしなくなったからだ。
 二度と思い出すつもりはなかったし、実際そうなるはずだった。なのにそれをもう一度思い出す羽目になったのは、ひとえに面堂が夕陽のなかであんなことを言ったせいだった。
 
 今日は日曜日だった。ラムは小学校のクラス会に行くと言って朝から出かけてしまった。今回はテンもラムについていったから、いつになく部屋は静かだ。弁天さまやランちゃん、おユキさんも一緒だと思うと、なんとも羨ましい限りである。
 だから今日のあたるは誰にも邪魔されることなくガールハントができるわけだが、今はそういう気分ではなかった。ラムがいないとやはり熱が入らないのだ。なら久しぶりにしのぶとデートしようと電話したが、それも断られてしまった。「今日は久しぶりに家族みんなで出かけるの」と楽しそうな声で言われれば、「よかったね」以外に返せる言葉はない。仕方がないので畳の上に寝っ転がり、お菓子を食べながら本棚から出した本を開く。が、やはりこれも集中できない。結局あたるは、畳に寝そべって、開いた文庫本を胸の上に載せたまま、ぼんやりと天井を眺めていた。
 随分と長い一週間だった。青い鳥が来て、面堂が女として過ごしたのがたったの六日だけだなんて、信じられないくらいだ。
 今週は毎日欠かさず、面堂とふたりきりで長い時間を過ごしていた。なのに土曜日にあっけなく別れてから、面堂とはそれっきり一言も話していない。なんだか変な感じだ。しかし、むしろそんなふうに感じるほうがよほどおかしいのだ。本来は、これこそが正しいあり方なのだから。
 やがてあたるは身を起こし、机に向かった。とさりと椅子に腰を下ろしながら引き出しを開け、奥から日記帳を取り出す。ぱらぱらとページをめくって、今週の分を読み返した。
 大部分は、いつもと同じ、当たり障りのない内容だ。女の子にちょっかいをかけてラムに怒られたり、面堂と喧嘩して廊下を走り回ったり、しのぶに机を投げられたり、コースケやメガネたちと商店街で買い食いしたり、あたるのありふれた日常が記されていた。
 その中に、面堂との非日常の記録が混ざり込んでいる。それらは全て、書いた本人のあたるにだけ真意がわかるよう注意深く書かれていた。別にラムを疑っているわけではないが、ラムでなくてもなにかの拍子に誰かが偶然この日記を読まないとも限らない。そもそもあたるとしても、面堂との恋愛ごっこの模様を日記にあけすけに書き留めるのはどうにもできなかった。
 だがどんなに短い文章であっても、あたるにだけは、読めばすぐにその日の出来事を思い出せる。
「夜の公園が暗いとかいうくだらん理由で死ぬところだった。代わりの犠牲者は雑木林のブナの樹。」
「遠出した。疲れたしすごく眠いから今日はこれだけ。」
「三限の体育はサクラさんがいない隙に保健室で遊んだ。意外と悪くなかった。」
「たくさん賄賂をもらって非常に得をした。あと、おれの淹れる茶はまずいそうだ。」
 ぱらぱらと紙を繰りながら、あたるはそうした素っ気ない記述から一日一日のことを思い返していた。時には手を止め、目を閉じて、その時のことを頭の中に思い浮かべた。思い出は、現実よりぼやけて曖昧な代わりに、感情によって様々な色を付けられる。それは、自分にしか知り得ない、自分しか見ることのできない、唯一の情景だった。
 ゆっくりと進んでいたあたるの手はやがて止まる。
「罰として地下倉庫の掃除。さぼった。邪魔は入ったけど、やり残しはないと思う。きっとこれで、遊びは終わり。」
 金曜日の日記。そこで、あたるの拙い文字で書かれた文章は途切れた。あたるは、最後の文とその先の白紙を睨むように見つめる。
 土曜日にあたる昨日の日記は、いまだ全くの空白のままだった。書くべき言葉が見つからなかったのだ。あの日と同じように。
 でも、いい加減何かは書かないと、先に進めない。
 あたるはついに腹をくくって、今まで先延ばしにしてきた作業を始めた。机に頬杖をつきながら白紙を見つめたり、手持ち無沙汰に鉛筆をくるくる回したり、椅子の背にもたれ掛かりながら天井を見上げたり。そうして散々悩みに悩んだ末に、たった一行書くだけで良しとした。
「池の(ほとり)、カキツバタが綺麗だった。」
 そう、これだけ読めば未来の自分も、この日に何があったかすぐに思い出すだろう。
 そこまで書き終えると、あたるは鉛筆を机の天板に放り投げる。ようやく人心地ついて、ぐっと伸びをした。こんなことにずいぶん時間をかけてしまった。
 それからふと窓に目を向けた。四角く切り取られた青空のなかを、白い帆を広げた雲がゆったりと流れていく。それは昨日の、あのキラキラ光る水面の前でみた空模様とよく似ていた。
 眩しい青空の下、不思議そうに首を傾げてあたるを見ていた面堂。その仕草は、ずっと前、面堂が闇鍋ディスコの夜に見せたものと全く変わっていなかった。
 あたるは無意識に唇を指でなぞる。
 どんな感情でも、墓石に刻んでしまえば、それは静止し決して動くことはない。時が経てば墓碑銘もわからないくらい風化して、やがて消えていく。だがそうせずに放っておいたって、余分に時間がかかるだけで同じ結果になると思っていた。手についた切り傷が、少しずつ小さくなって消えていくように。
 いつまでも消えないこの傷は、待っていても化膿していくばかりなのだろうか。
「……」
 あたるは机に視線を戻すと日記をじっと睨む。やがて手を伸ばして力強くぱたんと閉じた。引き出しを乱暴に開けて、それをまた奥の方に突っ込んで、勢いよく元に戻した。こうしてしまい込んでしまえば、もう目には入らない。目に入らなければ無いのと一緒だ。
 あたるは机に上半身をぐったりと投げ出し、ひんやりした天板に頬を付けた。
 ひとりでいるのはどうしようもなく退屈だ。はやくラムとテンが帰ってくればいい。