20 燕子花
塀を乗り越え、ひょいっと飛び降りればそこは枯山水の真っ只中だった。着地と同時にざっと小石が飛び散り、綺麗に整えられた波紋に穴が空いた。あたるは小石でできた波をざくざく踏んで崩しながら、土塀沿いに歩き出す。ラムがその隣に並んだ。つまりは、あたるとラムは再び面堂の屋敷に侵入していたのだった。
面堂の庭は、あたるからすると修学旅行で見物した京都のお寺のそれに似ていた。あたるの家の庭とは違って雑草なんか一本も生えていないし、地面を覆う緑も芝ではなかった。スギゴケなどの綺麗な緑色の苔が、塀と屋敷との間にある空間に絨毯のように広がっている。
おそらく面堂は庭のよく見える部屋のどこかにいるだろうから、このまま庭を進んでいればそのうち面堂を見つけることもできるだろう。
というわけで、屋敷の色とりどりの草木のなかを、見つからないように隠れて歩いていった。手をかけて剪定された立派な松や梅の木を通り過ぎ、鮮やかな新緑の茂る枝を空に差し伸べている紅葉の横を抜ける。春先にはきっと美しい花を咲かせていたのだろう枝垂れ桜の枝の下をくぐる頃には、その広さにうんざりしてきた。相変わらず嫌味なほどなんでもかんでも広くて立派である。庭の所々にはたまに大きな岩も置いてあった。詳しい人間が見たらきっとその配置になにかの意味を見出せるのだろう。もちろんあたるには何もわからないから、草木も岩も等しく隠れるのに便利な遮蔽物でしかなかった。
しばらくして、ラムが言った。
「ダーリンが終太郎のためにここまでするなんて意外だっちゃ」
聞き捨てならない言葉に、あたるは歩きながら渋い顔をラムに向ける。
「どーも誤解があるようだな。これは断じて面堂なんかのためではないぞ! おれは了子ちゃんとの約束を守るために仕方なくやっとるのだ、あんなやつど〜なろうが、おれは心の底からどーでもいい! はっきり言って芥子粒ほども興味はない!!」
話しているうちにだんだんムキになってきて、あたるは勢い任せに言い切った。
「力強い否定だっちゃ」
「だってほんとのことだもんっ!」
そのとき、庭に面した廊下を着物姿の女中さんがお盆片手に歩いていくのが目に入り、二人は近くにあった岩の陰にさっと仲良く身を隠した。見つかってまた追い出されると面倒なことになる。
視界から岩が外れる位置まで女中さんが歩いていったところで、あたるは隠れるのをやめてラムに言った。
「よし、今のおねーさんを追うぞ」
「ダーリンッ、ここまできといてまたそんな――」
「違う違うそういう意味じゃなくて!」
ラムの髪がパリッと音を立てたので、あたるはぶんぶん腕を振りながら急いで弁明した。
「ほらっ、今の状況できれいな着物の女中さんがお盆持って移動しとるんだ、面堂と相手の所にお茶でも運んでると考えるのが筋ってもんだろ!」
電撃が来る前に言い切ろうと早口で説明する。そしてなんとか間に合った。静電気で持ち上がっていたラムの髪がふわりと元に戻っていき、ラムはちょっとばつの悪そうな顔であたるを見上げた。
「ごめんちゃ、ダーリン。うちはまたダーリンが浮気しようとしてるのかと」
「うむ、わかってくれればいいのだ……」
あたるは腕を組んで、しかめつらしい声で言う。だがそんな厳かな態度も一瞬しか保たなくて、あたるはまたいつもの軽薄な笑みを口許に浮かべる。
「まあでも、確かに美人だったよなー。和装ってのもなかなかそそる……」
遠巻きに見かけた彼女の姿を思い浮かべ、にまにまと微笑む。やっぱり面堂なんか放っておいてこっちを狙うべきだろうか。そんなふうに楽しい想像を巡らせていたので、ラムがじっとこちらをじっと睨んでいることに気付くのがやや遅れた。
「ラムっ待て!! 話せばわか……」
「やっぱりうちが正しかったっちゃ!!」
うぎゃー、と響き渡った悲鳴を、屋敷に居合わせた者達がどう受け取ったかは、知る由もない。
電撃によって手脚が痺れて歩くのはそこそこ大変だったが、なんとかさっきの女中さんを見失わずに追いかけることはできた。普段から散々食らっている分身体はもう順応しきっているのだ。結果、辿り着いたのはあたるたちが今朝通されたのと同じ客間だった。あるいは、同じ造りの別の部屋だろうか? 少なくとも見分けはつかない。
そして予測した通り、そこには面堂の姿があった。ついでに今日の見合い相手も一緒だ。
面堂の家なので部屋がやたら広く調度品がむやみに高級であることを除けば、それはごくごく普通の見合いの風景に見えた。つややかな座卓を挟んで向かい合って座り、両者とも穏やかに話をしている。
あたるは庭の植え込みに身を隠しながら、その時はじめて今日の面堂の相手を見たのだった。紺色の袴で正装している男は、あたるたちと同年代に見えた。座っているのでなんともいえないが、背格好もおそらく面堂とあまり変わらない。ほっそりしていて全体的に色素が薄く、なるほどいかにも優男といった風情である。面堂とは随分毛色が違うとはいえ、女遊びに困ることはない容姿ではあるようだった。
「まあしかし、了子ちゃんが心配したようなことはなさそうだな」
「だっちゃ」
それが二人の様子を観察して出た素直な感想だった。面堂も相手の男も良識的な距離を保ったままだし、男も今のところ礼儀正しく振る舞って、妙な行動を起こす気配はない。
「今日の終太郎、ほんとに別人みたいだっちゃね〜」
ラムがしみじみと呟いた。あたるはそれには何も答えず、面堂を眺めている。
今日の面堂は学校での立ち居振る舞いからは想像もつかないほどしとやかに振る舞っていた。というより、了子の所作をかなり正確にコピーしている。まあ、なんといっても今は了子の身代わりなのだから、合理的な判断だろう。身近な人間を模倣するのは、ゼロから架空の人物像を創造するよりずっと簡単だ。
相手の男が何か言うと、面堂は了子がするように口元を押さえて優しく笑っている。やわらかで花の綻ぶような笑い方。面堂があんなふうに笑うのを、あたるは今まで一度も見たことがなかった。そしてその微笑みは、誰とも知れぬ見合い相手の男に向けられているのだった。
ふと視線を感じて隣を見ると、なぜかラムがあたるのほうをじっと見つめていた。あたるは少し怯む。
「な、なんだよ……」
「見合い、邪魔するつもりかな〜と思って」
「はあっ? なんでおれがそんなことせにゃならんのだ」
ラムは表情を変えないまま、何の他意もなく言った。
「だってダーリンて、ああいう女の子によくちょっかい出すから」
「あのなあ!! なんでおれが面堂なんかに――」
「ダーリン、声が大きいっちゃ!」
ラムが素早くあたるの腕を引き、身を屈めて低木の陰に隠れた。直後に男の方が怪訝な顔つきで縁側に出て庭のほうを覗き、面堂も慌てて後を追って必死になにか誤魔化していた。どう説得したかはわからないが、男は納得したようだ。男は面堂に笑いかけてから、こちらに背を向けて部屋の奥に戻った。
面堂は庭をざっと見渡すと、低木の陰から様子を窺っているあたるを目ざとく見つけた。露骨に迷惑そうな顔をしながら、そのまま身振りで「かえれ」と伝えてくる。それにかちんとして、あたるも身振りで「アホ!」と悪態をついた。面堂の眉がつり上がった。直前までのお嬢さま然とした淑やかさはあっさり消え失せ、面堂はこちらを睨めつけてふるふると拳を握っている。今にも飛びかかってきそうな敵愾心あふれる様子は、まさしくあたるの知っているいつもの面堂だった。あたるはなぜだか少しほっとした。
もう少しおちょくれば、見合いなんか放り投げてこっちに来るのではないだろうか。あたるはさらに身振りで面堂を怒らせる言葉を伝えようとする。
しかしそのとき男が戻ってきて、面堂になにか声をかけた。すると面堂はまた良家の子女の顔に戻って、男に和やかに笑いかける。まるで仮面を付け替えたように、雰囲気も仕草もその一瞬でがらりと変わった。別人みたいだ、というラムの所見はたしかに正鵠を射たものだった。
それは偽物には見えないくらい精巧な仮面だと思う。もし面堂のことを何も知らなかったら、どっちが素顔なんだかわからなかったかもしれない。
ぼんやり考えていると、不意にラムの様子が変わった。空を見上げ、何かに気を取られている。
「どーした?」
不思議に思って声を掛けるが、ラムは答えなかった。あたるもつられて空を見上げるが何も見えない。何だろう、と思っている内に、あたるは音に気付いた。聞いたことのある音。耳を澄ましてみて確信した。スクーターのエンジン音だ。
ラムはそろそろと屋敷内の二人に見えないように移動して、彼らの視界の外に出たところでふわりと空に上がっていった。あたるも一緒に移動していたが、追いかけられるのはここまでだ。眩しい青空を、片手でひさしを作って眺めてみる。案の定、テンがスクーターに乗ってやってきているのが見えた。
「ラームちゃ〜ん!」
「テンちゃん! どうしたっちゃ?」
テンはラムと合流すると、スクーターを宙空で一時停止させる。面堂邸は冗談みたいに広大な敷地を持っているのに、よくラムのところまで辿り着いたものだ。さすがに偶然で合流できるとは思えないので、そのへんの黒服におおまかな居場所を聞いたのかもしれない。
「ラムちゃん、あんな……」
「ふんふん……」
テンがぽそぽそとラムに耳打ちすると、ラムは目を瞠って「ほんとけ!?」と声を上げた。
「うん、間違いないで!」
「それは何よりだっちゃ! ありがと、テンちゃん!」
ラムはにっこり笑ってテンをぎゅっと抱き締める。それからあたるの前にひらりと降り立つと、顔の前で両手を合わせた。
「ごめんちゃ、ダーリン! うち、今すぐ戻らないといけないっちゃ!」
「え……」
「またあとでね!」
「おいっ、ラム!」
止める間もなく、ラムはふわりと空へ舞い戻り、友引町のある方角へ向けてテンといっしょに矢のように飛んでいってしまった。
「なんだよっ、こんなときに……」
あたるは恨みがましくラムとテンの消えた方角を見上げた。しかし持ち前の楽観的思考はあたるの頭からすぐ不都合なことを追い出してしまうので、新しく発生したこの状況ならではの利点に目を向ける。
ラムがいない、ということは、今なら自由に女の子にちょっかいをかけられるということではないか。あたるは思わずにっこりした。
「そ〜だ、今のうちに了子ちゃんに会いに行こ〜っと!」
うきうきと踵を返してその場をはなれようとする。だがその足取りは、影でも踏まれたように不意に止まった。
今朝の憎たらしいほどそっけない面堂の言葉が頭をよぎる。
――ここまでわざわざ出向いた時点で義理は果たしただろう。
だから帰っていいと、他ならぬ本人がそう言ったのだ。おまけにつつがなく進んでいる今までの様子からすれば、これから先も何か起きるとは思えない。了子の懸念は杞憂だったと判断しても差し支えはないだろう。だからあたるがここで面堂を置いて帰ろうが、了子のもとに向かおうが、何ら問題はないのだ。
あたるはしばらくそのままでいたあと、振り返る。その場で何度か足踏みしてから、結局元の方へと歩き出した。
(まあ、最後にちょっくらこのアホらしい茶番を見納めして、後でせいぜい笑ってやろう)
そう、ただそれだけなのだ、とあたるは心の中で力強く考えた。少し気分が良くなった。身をかがめて、今度は前より少し彼らに近い位置にある大きな岩の影に身を潜める。そこからそっと覗いてみた。そして、少し外していた間に状況に変化があったことをあたるは見てとった。
あいつ、いつの間にか隣に座ってるのか、とあたるは思った。
男は面堂の隣に寄り添うようにして座っている。今のあたるの位置からだと見えないのではっきりとは言えないが、二人は机の上にある何かを一緒に見ているようだった。まあ、そこまではいいとしよう。しかし男は卓上に何気なく置かれた面堂の手に自分の手を重ねた。面堂はぎょっとした様子で男を一瞥してから、さりげなく手を引き抜こうとする。すると男はそうさせまいと手を握る。面堂はまた別のやり方で抜け出すことを試みる。男もそれに対抗する。話の内容とは全く関係ないところで両者は静かに争っていたが、相手の意志のほうが強かったようで、そのまま手を繋ぐ形になった。
(面堂も何考えてんだか。あんなのさっさと振りほどけよ……)
男は面堂の手の甲を親指の腹でゆっくりと愛撫している。面堂がそれで困っていることには気づいているのに、男は笑みを浮かべたまま決してやめようとしない。それを見てあたるは他人事ながら胸のざわつくような警戒心を覚えた。
ああいうことをするのは、割とやばいタイプの遊び人だ。了子が不安がるのも当然だろう。問題は、面堂にその感覚があるかどうか。
あたるは小さく息を吐いた。そうだ、もちろん、あいつにはそういう感覚がわからない。実際に牙を剥かれるその瞬間まで、面堂は自分が獲物にされたことにはついぞ気が付かないのだ。
とはいえさすがに面堂も、この状況が自分にとって望ましいものではないことだけは理解しているらしい。時折どうにか離れようと試みてはいる。そうすると、思い出したように男が面堂の耳に何か囁きかける。その度に面堂はびくっとかすかに体を強張らせて固まり、離れる機会を逸している。
もう耳が弱いのもバレてんじゃねーか、とあたるは呆れた。
さて、これからどうするか。
先ほどとは状況が変わった。了子からは面堂のことを見守るようお願いされている。ただ、見守る以上のことは頼まれていない。そもそも面堂家の人間にとって見合いが気軽に邪魔できる類いのものなら、飛鳥のときにだって了子はそうしていたはずだ。しかし了子はあのとき、露骨な妨害はしなかった。なら今回も、余計なことはなるべくしないほうがいいだろう。
だいたい、助けようにも、肝心の面堂の態度が気にくわない。
地下倉庫では誰か知らないやつに向かって「行かないで」と言えたくせに、あたるには「帰れ」の一点張りだ。それを思うと腹の底からむかむかしてきた。だったら望み通り帰ってやろうじゃないか。それで面堂がどうなろうと、本人も言ったようにあたるには関係がない、身から出た錆というやつだ。どうしても助けが要るなら、面堂が昨日のやつを呼べばいい。そんなに信頼しているならすぐに来るだろうし、あたるのような赤の他人なんかよりずっと頼りになるはずだ。
どうなっても知るか、あんなやつ。
やはり放っておこうと心に決めたちょうどそのとき、面堂が寄る辺ない表情で庭に目を向けているのを見てしまった。面堂は、あたるたちがどこかにいないか探している。
「……」
あたるはそこで覗くのをやめ、隠れている岩に背中をつけて静かにもたれかかった。
あたるは深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。面堂を助けるつもりはない。そんなことは、了子にも面堂にも、誰にも頼まれてはいないし、やったところで一文の得にもならないどころか逆に厄介事を背負う羽目になるのはわかりきっている。
ただ、あいつがあんな顔をするから。あんな顔で、探していたから。それだけなのだ。
あたるは、面堂にも決して見つからないように慎重に身を隠した。ラムがいたときなら面堂にいくら見つかっても平気だったのに、一人になった今は面堂に気付かれるくらいなら死んだほうがマシだという気がする。
そうしながら、二人の様子をまた窺っていた。
「……不思議ですね、あなたとはどうも初対面だという気がしないんです。ずっと昔に、どこかでお会いしたことがありませんか?」
男は悪びれもせず、面堂に向かってそんなことを言っている。対して面堂の対応は始めの頃と比べるとやや辛辣なものだった。
「いえ、あなたが誰であろうと、この私とは間違いなく初対面ですね!」
この私、の部分を強調して面堂は実にきっぱりと言い切る。それはそうだろうな、とあたるも思った。何しろ、この姿の面堂がこの世に出現したのはつい今週の出来事なのだ。
男は面堂がかすかに苛立ちを滲ませている様子にくすりと笑って、それから少し改まって面堂に向き直った。
「さて、了子さん……そろそろ、教えていただいてもよろしいでしょうか」
「何をですか?」
「あなたの本当のお名前を」
たった一言で、場の雰囲気がふっと変容するのが、傍目にも感じられた。面堂はほんの一瞬表情を強張らせたが、その反応はよく見ていたとしても気づくのが難しいくらいのかすかなものだった。面堂は無垢な少女を装った微笑みを浮かべて、あくまで白を切り通す姿勢を見せる。
「おっしゃる意味が、よくわかりませんが……」
「いえ、あなたにはよくわかっているはずですよ、私の言いたいことが」
男はかすかに首を傾げて微笑みながら、面堂を見つめている。
「確かにあなたは写真の了子さんととてもよく似ているし、お話に聞いていた了子さんの人物像とも違うところがありません。ご家族のことも、家の事業のことも、ここで働いている人たちのことも、何から何までよくご存知ですね。でも、逆に言うと……中学生の女の子がそこまで知ってるのはおかしいと思うんですよ」
そこで反論を挟もうと口を開いた面堂の唇に、男は人差し指の先を押し付けて黙らせ話を続けた。
「さっき私があなたにした質問、高校物理の知識がないと答えられないものだったんですよ。あなたは全然お気づきにならずに正しい答えを口にしましたが……。他にもまだありますよ、全部お聞きになりたいですか?」
「……」
面堂は何も言わなかった。それからやや間を置いて、視線を下げながら、結構です、と一言だけ口にする。暗に相手の主張を認めたも同然だった。
試験週間に面堂のノートを借りようと毎回群がるあたるや四組の赤点組に対し、面堂は「普段から真面目に勉強しろ」とか「学校の試験範囲なんか一般教養だろうが」とか度々馬鹿にしながら言ってきたわけだが、今回ばかりはその勉学と教養というやつが面堂を背中から刺したのだ。世の中本当に何がどうつながるかわからない。
そしてこの事態をあたるが面白がるべきかどうか、それも正直わからない。
「ご家族の誰かが私の評判をお聞きになったんでしょうね。あなたを代理に立てたのは。いえ、それは別に構わないんです。確かに私はいわゆる放蕩息子で、可愛い娘に進んで近づけたいタイプの人間ではないと思いますよ」
男は鷹揚とした笑みを崩さぬままで、どこか落ち着かない様子で時折髪を触っている面堂とは対照的だった。
「たとえ後でもう一度了子さんに会いに行ったとしてもそれはあなたではない。今日ここにいるあなたがどこに行ったか聞いても、そもそも替玉だったということをそちらがお認めになるはずがないので、教えてはいただけないでしょうね。今日を限りに、私がもう一度あなたと会える可能性は極めて低いと言える」
男は面堂をまっすぐ見つめ、穏やかながらきっぱりとした口調で言った。
「となれば、いま、この場で、あなたを貰っていくしかない……と、いうわけですよ」
面堂は固まった。それからわざとらしく笑って、その場の空気を変えようとする。
「お、お戯れを……」
「冗談だと思いますか?」
男はにこりと微笑む。面堂は黙っている。答えられなかったのだろう。男は軽い口ぶりで話しているにも関わらず、冗談で片付けられないような響きが奥底にあったからだ。
男は面堂の手を取って、熱っぽい口調で面堂に訴えた。
「あなたが何者でも構わない、ぼくはあなたがほしい……」
面堂は我に返って素早く行動に出た。弾かれたように手を振り払い、やにわに立ち上がると、部屋の一角を目指して一目散に走り出した。その方角には、ついさっきあたるとラムを屋敷の外へ放り出した木彫りのクマがある。男はまだ仕掛けのある畳のあたりにいるから、辿り着きさえすればこの状況からは難なく抜け出せるだろう。
結局あたるの思った通り、こちらの助けなんかなくても、面堂一人でなんとかなるのだ。あたるがこうしてまだ近くにいることも面堂に気付かれずに済むだろう。そのことに安堵しつつ見守っていると、面堂は走り出してすぐに着物に足を取られて思いっきりすっ転んだ。
(何回同じこと繰り返すんだよあのバカは〜!!)
人は失敗からものを学ぶ生き物だと思っていたが、面堂はそれには当てはまらないようだ。
「だっ、大丈夫ですか!?」
すかさず男が駆け寄ってくる。その結果、からくり仕掛けの有効範囲から男は離れることになった。何から何まで裏目に出るときはあるものだ。
男は面堂を抱き起こそうとするが、面堂は再びその手を払いのけた。
「さっ、さわるな……じゃない、こういうときは……そうだ、人を呼びますよ!」
何悠長なこと言ってんだよこのバカ! とあたるは内心毒づく。面堂の欠点、いざというときの機転の効かなさ、状況への流されやすさがこれほど綺麗に出た瞬間もなかった。
男は小さく口元を釣り上げると、そのままぱっと面堂を後ろから抱きすくめた。
「こんなところ、見られてもいいならどうぞご自由に」
「ひいっ……!?」
「今でさえ、こんなに愛らしいのだから……褥で乱れるあなたはさぞ魅力的なのでしょうね」
男の言葉を耳が捉え認識した瞬間、あたるは自分で意識する前に既に飛び出していた。なにか非常に強い衝動、あたるよりも一回り大きな見えない力があたるを鷲掴みにし、あたるの四肢を勝手に動かしている。ハンマー片手に土足で上がり込むと躊躇なく座敷を駆け、目にも留まらぬ速さで男の頭に振り下ろした。
「いい加減にしろこの変態が!!」
がん、と良い手応え。一拍置いて、男がずるりと畳の上に崩れ落ちる。
「ふっ、悪は滅びた……」
昨日の反省を活かし、今回は手加減せずに強めに殴っておいた。それでもまだ腹の虫は収まらない。あたるはむしゃくしゃした気持ちのまま面堂に向き直った。さあ、このバカになんと言ってやろうか。
言いたいことはそれこそ山ほどあった。だから昨日おれが言ったのに、了子ちゃんもこれを心配してたのに、おまえは本当に人の言うことを聞かない、人の親切を無碍にしてこのザマか、などなど。思いつくまま気の済むまで、さんざんなじってやろうと思っていた。
「もろぼし……」
でも、面堂があたるを見上げて心底ほっとした表情を浮かべた途端に、あれほど強く感じていた怒りがふっとどこかに逃げていくのを感じた。あたるは自分でもそのことに戸惑った。
しかしここで黙っているのも変に思われるだろうから、普段の自分なら言いそうなことを口にしておくことにした。
「これで貸し一つだな、面堂」
「う……」
面堂は実に嫌そうな顔をした。ということは今ので正解だったようだ。そこでいくらか調子を取り戻し、あたるは呆れ顔で面堂を見下ろした。
「だいたい、なんで柄にもなくおとなしくしてたんだよ。あんなのさっさと殴り飛ばせばよかっただろ!」
「ぼくもよっぽどそうしようかと思ったが、普通の女の子がこういうときどうするのかわからなくて」
「普通の女の子だって殴るわあんなの!!」
「うーむ、そういうものか……」
面堂は妙なところに感心している。呑気なものだ。こいつは本当に、たった今自分の身がどういう危険に晒されていたか理解しているのだろうか。
あたるが呆れていると、面堂は急に血相を変えてあたるに飛びついた。
「ラムさんは!? いっ、今の、ラムさんは見てないだろうな!」
「ラムは、よくわからんが、急用ができて帰ったぞ」
「良かった……」
「おれが見てるのは良かったのか?」
自然と棘のある言い方になっていた。
「おまえはもっと際どいものを見てるだろう」
え、と思わず言葉に詰まるが、面堂は自分の言葉に含蓄された意味を自覚していないようで、胸に手を当てて安堵の息を吐いている。
際どいもの、って、要するに。あたるは思わず面堂の身体のラインを目で追って、その下にあるものを思い出した。ぱっと目を逸らして、それ以上先を考えないようにする。
と、そのとき、足元で倒れている男がかすかに身じろぎした。
「う〜ん……」
「こいつまだ息が……よし、今度こそとどめを」
「待て待て、一応この人は客人なんだ。これ以上は流石にまずい!」
ひとおもいに楽にしてやろうとあたるが構えたハンマーを、面堂は慌てて掴んで止めた。このまま思い切り振り下ろしたらさぞすっきりすることだろうが、残念ながら今はその時ではないようだ。
「じゃ、おまえが逃げるしかないな」
あたるはぽいっとハンマーをその場に投げ捨てて、面堂の手を引いた。そのままさっさと走り出そうとしたが、面堂はまたしても着物の裾に足を取られて転びかけた。よほどこの着物が苦手なようだ。それでもあたるが昨日あんなことをしなければ、ここまで足元がふらつくこともなかったのだろうが。
あたるはため息をつく。こうなれば仕方ない。
「じっとしてろよ」
「は?」
こちらが何をするつもりか面堂が察する前に、あたるはさっさと面堂の膝裏と腰のあたりに腕を回し、横向きにひょいと抱えあげてしまった。面堂は死ぬほど驚いたようで、声もなく身を固くしていた。その隙にあたるは座敷から縁側に出て庭に降り立ち、とっとと走り出す。文句を言われる前に行動してしまえばこっちのものである。
「な……なん……」
少しして面堂が意味をなさない言葉を発する。驚きのあまり麻痺した言語中枢が徐々に仕事を思い出しはじめたのかもしれない。まだ到底十分とは言えないが。
その間にあたるは土塀の合間に見つけた小さな木戸の掛けがねを外して、屋敷の外側に出てしまっていた。
「……諸星……きさま、どういうつもりだ!」
しばらくして、面堂が意味の通じる文章をなんとかひねり出してあたるに言った。
「おまえがど〜〜しても走れんようだから、おれがわざわざ運んでやってんじゃねーか!」
「だからってこの抱え方はおかしいだろう!」
「他にどうしろと!? 肩に担ぎ上げるほうがいいのか!?」
面堂は無言になる。そして答える代わりに、振り落とされないよう、あたるの首に腕を回してしっかりしがみついた。
「今日は何もかも最悪だ……」
「奇遇だな、同じ意見だ」
さっきは一瞬しか捉えることのできなかった香りが、今はあたるの周りの空気にふわりと溶け込んでいる。今日の面堂からは、梅の花に似た甘い香りがするのだと、そのおかげでわかった。嫌いではない匂いだ。だから、重くてもさっさとおろしたいとは思わなかった。
アスファルトで舗装された車道は避けてひと気のない方へと向かう。他の連中に見つかったら言い訳するのが面倒だ。人影に注意しながらそばの林沿いをひた走っていくと、林の合間に土を固めただけの細い小道を見つけた。あたるは先の様子を窺う。人の気配はない。丁度いいので今度はそこに入っていった。小道はゆるやかに曲がりながら木々の間を抜けていて、木漏れ日が優しく陽光の粒を辺りに散らしている。頭上からは小鳥のさえずりが時折降ってきて、どこかで鶯が機嫌よく歌っているのも聞こえた。気持ちのいい散歩道、というのがあたるの印象だった。しかし、使われている形跡はほとんどない。おそらく面堂邸にはここより広々として景観の良い散歩道がたくさんあるのだろう。
途中で林は途切れたが、小道の方は芝生のなかを突っ切って更に続いている。左手の方には池があったが、あたるは特に気に留めずにひょいひょいと先に進んでいく。
「もっ、諸星、ちょっと待て! ここで止まってくれ!」
だが突然面堂がじたばたと身じろぎしたので、あたるはよろめいて立ち止まった。
「いきなり何だよっ、あぶねーな!」
「ぼくを降ろしてくれ」
「え、でも靴は」
「そんなのどうでもいい」
面堂は断固たる口調で言い切った。勢いに圧され、よくわからないままとりあえず面堂をその場に降ろす。白い絹足袋が汚れるのも構わず、面堂は地面にしっかり立つと、ひどく真剣な眼差しでじっと池の方を見つめた。それから吸い込まれるようにそちらに歩き出すので、あたるも戸惑いながら後から付いていく。随分高そうな着物なのに、こんなふうに草の中を歩いていいものなのだろうか。
面堂が向かったのは、道から少し外れた場所にある比較的小さな池だった。ゆっくり歩いても五分もあれば一周して戻ってこられるだろう。所々にある飛び石を目で辿ると池の中ほどに小島があって、そこに植えられた小さな松の木が枝を池の水面におずおずと差し伸べている。水面には睡蓮の葉が並び、綻びかけた黄色や白のつぼみが鮮やかに陽の光を反射していた。そばには鴨の群れがいて、水面に浮かびながらのんびりと羽繕いをしている。面堂がゆっくりと歩み寄っていった水辺には、カキツバタも植えられていて、綺麗な青紫色の花を咲かせているのだった。
眺めるには悪くない風景だ。とはいえ、面堂がこんなにも注意を惹かれるほどに特別なものには思われなかった。あたるにはさっきまでいた屋敷の庭のほうが気合を入れて世話されているように見えたし、植物の種類自体もずっと多かった。
「おい、何なんだよ、一体」
「そうだ、確かここだった……」
面堂はあたるの言葉には反応せずにつぶやく。蜃気楼に思いがけないものを突然見せられでもしたようだった。あたるがもう一度せっつくと、ようやく面堂は白昼夢から覚めて、いつもの冷静な態度を取り戻した。
「いや、なんというか……驚いたんだ。小さい頃、ここでよく遊んだのを思い出して」
面堂は、池のそばに屈み込むと、その水面を覗き込む。青空と白い雲を反射した水面が、鏡のように面堂の姿をさかさまに映した。あたるの位置からだと、面堂がふたりいるようにも見える。
「友達と会う場所だったから。ぼくが寂しいときはいつも一緒に遊んでくれたな……」
面堂はカキツバタの花に軽く触れて、懐かしそうに微笑んだ。
あたるは表情にこそ出さなかったが、内心かなり驚いていた。それなりに長いこと面堂と付き合ってきたにもかかわらず、今日初めて聞く話だ。まさかあの水乃小路飛麿以外にも、こいつに友達がいたとは。
「そいつ、今はど〜してんの?」
すると面堂は水面を見つめたまま少し黙り込んだ。風が吹きぬけてカキツバタの花がかすかに揺れた。池にさざなみが立ち、それがゆっくりとさかさまの面堂にたどり着くと、鏡映はぼやけて消える。
「それが……わからんのだ。本当に小さな頃だったし、いつの間にかいなくなっていて……随分あとに当時の世話係に聞いたこともあるんだが、憶えていないと言った。あの頃は了子が病気がちで色々大変だったから、まあわからなくもない。ぼくもどうしても名前が思い出せなくて、探しようがなかった」
あたるはそれを聞いて呆気にとられた。
「なんじゃそりゃ。そいつほんとに実在の人間だったのか?」
「じゃああの時ぼくは誰と遊んでたって言うんだっ!」
面堂はあたるに食って掛かるが、気を取り直して立ち上がると、池の方をぼんやり眺める。あたるも隣に立ったまま同じようにしていると、また面堂が口を開いた。
「母上は……了子の具合が悪くなると、いつもかかりつけ医と付きっきりで様子を見ていた。そういうとき、ぼくがそばに行くことは許されなくて……」
それもまた、初めて聞く話だった。そもそも面堂が自分の個人的な話を他人に打ち明けること自体が非常に珍しいのだ。
「それが何日も、長いときは一週間以上続いた。もちろん、ぼくまで病気にならないようにという配慮だったんだろう。だがぼくはほんの子どもだったから……どういう気持ちでいたか想像はつくだろう」
面堂は少し俯いて苦笑する。あたるは何も言わずに、面堂の話を聞いていた。
あたるは一人っ子だったから、面堂の気持ちがわかるといえば嘘になる。理解はできるが、それは辞書を読んで概要を暗唱するようなもので、決して共感を伴ったものではない。母親が一番恋しい時期に、母親から一人だけ引き離される子供の気持ちを、幸運にもあたるは知らなかった。
「それでも、ここに来れば一人じゃないと思えば、頑張れたんだ……」
そこで面堂は、あたるの方に顔を向けた。その背後では白い雲が悠然と流れて、木々が風に揺れていた。
「諸星、おまえとこの場所に来ることになるなんて、不思議なこともあるものだな」
そう言って、面堂はあたるにふわりと笑いかけた。春の花が日差しを浴びて綻ぶように、面堂は微笑む。面堂が普段あたるたち男子に向ける皮肉まじりの冷笑とも、ラムたち女子に向ける媚びへつらう笑みとも違っていた。思いがけない偶然を面白がっている微笑みでもあり、秘密を共有した共犯者に対する微笑みにも思われた。
あたるのうちに、なにか得体の知れない衝動が湧き上がった。今週、それは見えない力で何度もあたるを動かしてきた。そして今、その衝動は何かの言葉をしきりにあたるに囁くのだが、あたるにはそれが何なのか見当もつかないのだった。でも、きっとあたるには今、面堂になにか言っておくべきことがあるのだ。それだけはわかった。
「面堂、あのさ……」
あたるはあてもなく口を開く。この言葉の終着点がどこなのか、自分自身にもわからないまま。
面堂が不思議そうに首を傾げる。波打つ水面がきらきらと光っている。カキツバタが風にそよぐ。そういうときのこの花は、ツバメが翼を広げた姿に似ていた。眩しいくらいの青紫。綺麗だな、とあたるは目を細めて思った。
「おれは……」
池にのんびりと浮かんでいた鴨の群れが、ぱたぱたと一斉に飛び立っていく。面堂はそれを目で追いかけ空を見上げ、ふと大きく目を瞠った。
そして面堂がさっと身を屈めるのと同時に、あたるは背後から謎の炎を思い切り食らった。
「どわっちちち!!?」
熱さにあたるは思わず飛び上がった。
こんなことをするやつは一人しかいない。黒焦げになったあたるはぱっと振り返って空を見上げた。
「ジャリテンよくも……!!」
その言葉は半ばで途切れる。そこにいたのがあたるの考えていた人物ではなかったからだ。
「成功だっちゃ〜!」
大型の白い銃を手にしたラムが、空中でぴょーんと更に跳ね上がった。諸手を挙げて浮き上がっている様子は実に楽しげである。だが、もちろん燃やされた方のあたるはちっとも面白くないので、明るい青空のなかを飛び回るラムに下から怒鳴った。
「ラム、何すんじゃいきなり!」
「人助けだっちゃ!」
「おれをワケもなく燃やすことのどこが人助けだっちゅーんじゃおのれは!!」
あたるがわめき散らしても、ラムは白い銃を抱えたままけろりとしている。
「だいたい、おまえ用事があって帰ったんじゃなかったのか!?」
あたるがそう言ったちょうどそのとき、背後の面堂が気の抜けるような声で不可解な単語を唐突に口走った。
「おとこだ……」
思わず振り返る。そして今度はあたるが大きく目を瞠る番だった。
放心して座り込んでいる面堂は、もうあのカキツバタの振り袖を着ていなかった。見なれた白い学生服姿で、なんなら学校の上履きすら履いている。腰まで伸びていた黒髪は元通り短くなって、丁寧に化粧を施していた顔は素顔に戻っていた。
一言で言おう。面堂が男に戻っている。
あたるは反射的に頭の上に手を伸ばした。ない。毎日風に揺られてそこにあった小さな羽根の感触が、消えている。次にラムの手に握られた火炎放射器に目を向けて、何が起きたかを全て理解した。ついさっきラムに怒っていたことも頭から吹き飛んで、あまりにも突然訪れたあっけない幕切れにしばし唖然としていた。
面堂のほうも、まだ夢でも見ているような顔でぺたぺたと平らな胸を触ってみては、骨ばった手を何度となくひっくり返してまじまじと眺めていた。
衝撃で一時的に麻痺した精神活動が正常に戻り始めると、あたるはおずおずと面堂に声をかけた。
「面堂、あの……」
「ぼくは男に戻った!!」
「おわっ!?」
だが面堂が突然がばっと立ち上がって大声で叫んだので、あたるは死ぬほど驚いて仰け反った。
面堂はあたるには目もくれずにラムに駆け寄ると、泣きながらその手を取って力強くぶんぶん上下に振った。
「ありがとうございますラムさん!! この御恩は一生忘れません!!」
涙声で何を言っているか非常に聞きとりづらいが、たぶん面堂はそう言った。
「助け合うのが友達だっちゃ!」
ラムだけがいつもの調子でニコニコして、その暑苦しい感謝を受け取っている。あたるは面堂がいつまでもラムの手を握っているのを見てなんだかムッとしたので、二人の間にすっと割って入った。
「よかったな、良いオトモダチで!」
とはいえ面堂はいまだにわなわなと感動に震えていて、自分がラムと引き離されたことに気づいているかどうかも怪しい有様である。あたるは面堂に向き直って咳払いをし、注意深く声をかける。
「おい、面堂……」
「男に戻った!」
「面堂、ちょっと」
「男だ!」
「おいこら面堂!!」
だが、どんなに呼びかけても面堂はまったくこちらに注意を向けない。それどころか最終的に面堂は両手を広げて当て所なく駆け出した。
「ぼくは男だ〜〜〜〜〜!!!」
全速力で面堂邸のいずこへなりとすっ飛んでいく面堂を、あたるはまたしても唖然と固まって見送った。すっかり姿が見えなくなってから、あたるはぽつりと呟く。
「すげー速さ……」
「これで一件落着だっちゃ!」
ラムがふわりとあたるの隣に降り立つ。あたるは少しの間彼女を見つめてから、肩をすくめて同意した。
「……そ〜だな。一件落着」
「ねえダーリン、さっき終太郎に何か話そうとしてなかったけ?」
そう言われてあたるは面堂の去っていった方向に目を向ける。そのまま無意識に羽根のあったあたりの髪を触ってぼんやりと考えていた。が、ふいっと踵を返して素っ気なく言う。
「いーや、あんな間抜けと話すことなんか何もない! アホらしい、もう帰ろーぜラム」
「うん!」
ラムがにこりと微笑んで腕に手を回す。最初こそ慌てて振りほどこうとしたが、ラムの嬉しそうな顔を見ていると何も言えず、そのまま好きにさせることにした。まあ、たまにはこういう日があってもいい。何にせよ、ここには口さがない他人の目はないのだ。
二人は並んで歩き始めたが、あたるはふと思い出したように足を止め、あたりを恐る恐る見回して呟いた。
「いや……帰り道、どっちだ?」