19 他人事

 了子の黒子が担ぐ駕籠(かご)に乗せられ、休日の早朝くんだりからあたるとラムは面堂邸までやってきた。肝心の面堂本人からは「絶対に来るな、ラムさんはともかく諸星は死んでも来るな」と前日から散々念を押されていたが、もちろんあたるは綺麗サッパリ無視して了子に会いに来たのだった。
 しかし、面堂を相手にするのだったらそれくらいの態度で丁度いい。面堂の言うことを素直に聞いてやるような性格の人間だったら、そもそも面堂とはまともに付き合っていられないのである。
 黒子に案内されて了子のもとに通されると、あたるはすぐさま全速力で了子に駆け寄った。
「おはようございます、諸星さま」
「おはよ〜了子ちゃん! 早起きするといーことあるっていうけど本当だね、こうして了子ちゃんに会えたんだから!」
「ダーリン、いきなり手を握ってるんじゃないっちゃ!」
「何を言うのだラム! 握手は親愛の情を示す挨拶だ、それを責められる謂れはないぞ!」
「下心があれば責められて当然だっちゃ!!」
 いつもの調子で口喧嘩をしていると、了子はそれを見て楽しそうにくすくす笑う。そしてあたるに向かってまた優しく微笑んだ。
「急なお願いにも関わらず、お越しいただき感謝いたします。おにいさまもきっとお喜びになりますね!」
 少なくとも面堂は絶対に喜ばないという確信があったが、この際面堂の反応についてはどうでもいいだろう。あたるは了子に向かってにっこり笑い返す。
「了子ちゃんとの約束だからね! でも、どーせならかわいい了子ちゃんを見守るほうがいいな〜。だってほら、面堂なら一人でもぜったい平気だもん!」
 へらへら笑ってまた了子の手を握ろうとすると、ラムは素早くあたるを了子から引き離して電撃を発した。
「いい加減にするっちゃ!」
「どわわわ!!」
 しかし了子は眼の前の派手な痴話喧嘩にも動じない。了子は窓にゆっくりと歩み寄ると、外に目を向けてガラスに手を触れた。
「おにいさまもそうおっしゃいます。何があっても一人で平気だと。本当に、そうであるとよいのですが……」
 了子らしからぬ歯切れの悪い言い方に、思わずあたるとラムは喧嘩をやめて顔を見合わせた。了子は振り返ると、話を続けた。
「実は、お相手の素行があまりよろしくないという情報が、先ほど……。要するに、好みの女性と見るととても手が早いのですって」
「う〜む、そりゃ女の敵ってやつだなぁ」
 と言った途端ラムの視線が刺さったが、あたるは気づかないふりをして真面目くさって続けた。
「なら面堂が了子ちゃんの身代りになってほんとによかった!」
 面堂は相手を勢い余って斬り捨てる可能性こそあれど、まかり間違っても男に黙っていいようにされる性格ではないのだ。
「大丈夫だよ! だって面堂はさ……」
 あたるはそれを了子に伝えて安心させようと思って、とりあえず今週の面堂の行動をざっと思い返してみた。
 この一週間、面堂がどういう毎日を過ごしたか。あたるには何度も体を許した、しのぶが止めなければ男子更衣室に引っ張り込まれるところだった、実際写真部にはあっさり暗室に連れ込まれた、そして周囲の男子による下心のこもった様々な行動にも結局最後まで気付かなかった……。
 あたるはぱちくりとまばたきする。
(あれ? ちょっと待て……これ本当に大丈夫か?)
 あたるが途中で言葉を切ったまま考えこんでいると、今度は了子があたるの手を取って言った。
「諸星さま。今日お越しいただいたこと、重ねて感謝申し上げます。おにいさまのこと、どうぞよろしくお願いいたしますね」
 了子はあたるの顔を覗き込むように見上げる。了子特有のいたずらっぽい目付きの奥に、どこか探るような光があるように感じるのは気のせいだろうか。あたるは少し視線を下げてへらりといつもの気楽な笑みを浮かべる。
「了子ちゃんのためなら……お安い御用だよ」
 すると了子もにこりと笑い返す。とても可愛らしい微笑みは、しかしその内心を読み取らせる手掛かりをどこにも有していない。この兄妹が、顔立ちは似ているのに知り合いみんなから「本当に血が繋がっているのか」と揶揄されるのは、こういった表情の違いも原因だろう。
 
 それからあたるとラムは、黒子の案内で面堂のもとへと向かった。面堂は今、正月にいつも同級生を呼んでいるお屋敷にいて、見合いもそこで行うということらしい。以前、「あそこは本邸にある自室とはまた別の、自由に使える自分の部屋のようなものだ」と本人から何気ない調子で説明を受けたことがある。一般的に高級住宅と言われる家よりはるかに立派で広大な屋敷を指してそう言われるのだから、聞いている方はたまらない。
 屋敷につくと、今度は黒子から忙しく働いている女中さんの一人に取り次いでもらった。それがまた可愛い女性だった。すかさず口説こうとして電撃を食らってから、彼女の案内であたるとラムは板張りの廊下を歩いていった。途中で別の女中さんとすれ違うたびにちょっかいをかけてはラムに怒られ、繰り返すたびに案内の女性も次第に苦笑いを隠せなくなっていく。だが、いつもと比べると女中さんの人数自体はかなり少ないようだ。理由を聞くと、面堂の指示で人数を最低限に抑えているのだという。
 そんな調子で客間に通され、お茶を飲みながら少し待っていると、ようやく面堂が準備の合間を縫って二人の前に顔を出した。そして面堂はあたるを見るなりげんなりした様子で腰に片手を当てた。
「諸星、あれほど来るなと言ったのに……」
 面堂は上品な色合いの着物を身につけていた。水辺に咲くカキツバタの花を縫い付けた薄浅葱色の振袖に、麻の葉柄の赤い帯を締めていて、それが面堂の雰囲気によく合っている。学校に来るときは髪を飾ることはなかったが、今日は了子と同じように大きなリボンを結んである。あたるは面堂の姿に少し驚いて、いつものように混ぜっ返すのも忘れていた。代わりにラムが面堂にふわりと近付いて、無邪気に歓声を上げる。
「わー、終太郎すごくかわいいっちゃ!」
「えっ、ええと……ありがとうございます!」
 女性としての可愛さを褒められた落胆と、なにはともあれラムに褒められた喜びとを天秤にかけた結果、僅差で後者が勝ったらしい。面堂は少し躊躇ったあとにラムに嬉しそうに微笑みかけた。しかもこの機を逃さずラムの気を引こうとしている様子だったので、あたるはラムの肩をつついてこちらに注意を向けさせる。
「ラム、地球の言葉教えてやろうか!」
「うん!」
「今の面堂みたいなのを、馬子にも衣装というのだ!」
「諸星、ラムさんに変なことを吹き込むな!!」
 面堂はあたるに掴みかかろうとするが、女性用の着物は派手な動きには向かないということを完全に失念していたらしく、動き出してすぐに足を取られて体勢を崩した。
「うわわっ」
「おっと!」
 慌ててあたるは面堂が転ばないようにふらついた体を受け止めた。が、面堂は礼を言うどころか火傷でもしたようにあたるから飛び退いた。
「諸星がぼくを庇うとは実に気色悪いな!」
「おまえな〜……」
 確かに面堂がこうなる前だったら絶対に放っておいたと思うが、女の子を前にするとどうしても体が勝手に動くのだから仕方がない。
「おれだって了子ちゃんの頼みでもなけりゃ、おまえなんかどーなろうが知ったこっちゃないんだが」
 離れた際に袖に焚きしめた香がかすかに漂って、あたるは更になんともいえない気持ちになる。ほんの少し抱きとめただけだが、あのままでいたらこの甘い香りをちゃんと味わうことができたのだろうか、などという考えが頭を掠めて少し自己嫌悪した。アホらしい、どんなにいい匂いがしたところでこれは面堂なのだ。だったらそんなことをする価値などないに決まっている。
「そういうことなら、ここまでわざわざ出向いた時点で義理は果たしただろう。さ、遠慮なく帰れ」
「この水まんじゅう美味いなぁ。中に何入ってんだ?」
「柚子餡だ……って、そんな話をしてるんじゃないっ!!」
 あたるは面堂の怒声を聞き流しながら、のんびりと煎茶をすする。確かに面堂の家で出るお茶は、あたるが面堂に淹れてやったような安物より段違いで美味しい。
 ラムの方は、お盆のうえの小箱に並んだ彩り豊かな干菓子をつまみ上げ、楽しそうに眺めては食べている。花や紅葉など、色んな形をしているのが気に入ったようだ。
 二人で仲良くお菓子を食べて寛いでいると、やがて面堂が意を決したようにあたるのそばに膝をついて坐った。そうしてあたると目線を合わせた上で、真面目な顔をして言う。
「いいか、よく聞け諸星……了子が何を言ったかはこの際どうだっていい。これは面堂家の、ないしはぼく個人の問題だ。おまえのような他人には一切関係がない。だから、部外者には立ち入ってもらいたくないんだ」
 あたるはお菓子に伸ばしていた手を途中で止めて、面堂を見つめる。面堂の目は真剣だ。そこに怒りや驕りはなにもない。それは、対等の立場と理解力を持つ人間に対し、率直な言葉と誠実な態度で説得を試みている人間の目だった。
 だからこそ、面堂の言葉は普段なら届かない心の奥まで入り込んだ。でも、面堂が意図した形では全く無かっただろう。
 おまえのような他人には、という言葉をあたるは頭の中で繰り返した。他人か。毎日周りの人間をうんざりさせるほど喧嘩して、かわいい女の子を競って追いかけて、気がつけば隣りに並んでいても、面堂にとってあたるは今でも、誰でもない他人なのだ。
 また胸のあたりでへんな感じがした。硝子の欠片は昨日よりも少し大きかった。そしてその感覚が呼び水となって、記憶のなかでそれと結びついていた疑問がまた浮き上がってくる。あの暗闇で、面堂はあたるを誰と間違えていたのだろう。
 もしここいるのがあたるではなく、その誰かだったら、面堂は今と同じことを言っただろうか。
 あたるが黙っていると、面堂は肩をすくめた。
「まあ、もちろんタダとは言わない。そ〜だな……手土産にその水まんじゅうを一箱持たせてやろう。それでいいだろう?」
 これで方が付いたと言わんばかりの晴れやかな顔で面堂は言う。あたるはその瞬間、かっとなって反射的に口を開いていた。
「いやじゃ。おまえがなんと言おうがおれは絶対に帰らん!」
「きさまは本っ当に話のわからんやつだな〜!!」
 面堂は丁重な態度を放り投げて怒り心頭に立ち上がった。
「いーからとにかくきさまは帰れ!」
「やだ!」
「帰れったら帰れ!」
「やだったらやだったらやだ!」
 とても高校生とは思えない低次元の言い争いは、本人たちは真剣ゆえになかなか終わらない。しかしラムは笑うことなく冷静に成り行きを眺めている。
 お互いに息切れするまで延々と言い合った挙げ句、面堂はこれから最後通告でもするような厳しい目つきであたるを見据え、低く抑えた声で言う。
「どうしても、今すぐ帰る気はないと言うんだな?」
「そーゆーことになるな」
 面堂はじっとあたるを睨んで黙っている。あたるもその視線を受け、座卓にだらしくなく頬杖をつきながらまっすぐ睨み返した。先に目を逸らす気はさらさらなかった。
「……そうか」
 だが、面堂の方は意外にもあっさり先に折れた。
「なら仕方あるまい。これ以上無駄にできる時間はないしな」
 面堂は疲れたように小さくため息をつく。それきり、あたるを追い出すのをきっぱり諦めたようで、あたるとラムに潔く背を向けて歩き出す。面堂がこんなに簡単に身を引くとは思わなかったので、あたるは肩透かしを食ったように面堂をじっと見つめる。そしてあたるはそのとき、面堂の足取りが重く、なんとなくふらついていることに気が付いた。
 ――こんなことで体力を使い切って、明日に響いたらどうしてくれる……。
 もしかすると本当に明日に響いてしまった感じだろうか、これは。確かに昨日はかなり負担の大きい抱き方をした自覚はある。それが計三回。その後すぐに公園から学校にかけて散々走り回った。あたると別れてから、今日の準備に追われてあまり休む暇もなかっただろう。
 そもそも、さっき面堂が転びそうになったのは、本当に女物の着物に慣れていないせいだったのか。
 あたるは面堂のなんとなく危うげな足取りをぼんやり眺めていた。だから、本当に部屋をただ退出するつもりなら何も用がないであろう方に面堂が向かっていっても、別のことに気を取られているあたるはそれを変だと思っていなかった。
 面堂は座敷の片隅にある立派な床の間まで行くと、くるりと二人の方を振り返る。
「申し訳ありませんラムさん! 諸星はとっとと失せろ!!」
 そう云うなり、面堂はそこに置いてある木彫りのクマを勢いよく蹴倒した。その瞬間あたるとラムが座っていた場所の畳がぐるっと勢いよく半回転する。
「おわっ!?」
「ちゃっ!」
 落下して二人がどさっと尻餅をついたが速いか、モーターの起動する甲高い機械音が響き、床が動き出した。正確には、床下に隠されていたベルトコンベアのベルト部分が、どこかを目指して二人をせっせと運び始めたのだった。
「こっ、これはいつぞやの……」
 この家で過ごしたある正月の実に嫌な思い出が蘇った。だが今更気づいたところで遅い。今落ちてきた場所は完全に塞がれていて、コンベアを逆走したところで元の場所に戻ることはできそうになかった。
 最終的に屋敷の玄関どころかその門前にぽいっと放り出される。ラムはふわりと地面に降り立ち、あたるはべしゃっとうつ伏せに倒れ込んだ。
 あたるはすぐさまガバっと上半身を起こし、屋敷に向かって怒鳴った。
「てめーっ、覚えてやがれ面堂〜〜!!」
 面堂のところまで聞こえるかどうかは定かではないが、少なくとも多少の気晴らしにはなる。
 そしてあたるは怒り冷めやらぬままその場に胡座をかいてしっかり閉ざされた門扉を睨みつけた。全く腹が立つ、いったい誰のためにわざわざこんな朝っぱらから来てやったと思っているのか。
「やあ、やっぱりあんた方でもだめでしたか」
 背後からそんなふうに声をかけられ、あたるとラムはきょとんとして振り返った。見ると、黒いスーツのそこかしこに土埃をつけた集団がどこからともなくぞろぞろと集まってきていた。
「あれ、サングラスの……どうして?」
「部下にこんな姿を見せたくないと言って、若は我々のことも近づけてくれないんですよ〜……」
 近くにいた一人がそう言って肩を落とした。周囲の黒服も各々大きく頷いているので、みんな似たような経緯で目の前の屋敷から追い出されてきたようだ。
「まあお相手もきちんとしたお家の方ですから、我々がいなくても何事もないとは思うんですが、お側で若をお守りできないのは心配ですねえ……」
 一人の黒服が、門に目をやりながらもどかしげに言う。
 やはりというべきか、面堂に似て真面目だがどこか抜けているサングラスの集団は、了子側が掴んだ情報までは辿り着いていなかった。情報共有もされていないようだ。ということは、たぶん面堂も知らない。そして屋敷の中に身辺警護の男は一人もおらず、必要最低限のかよわい女中さんがいるばかり。
 うーむ、とあたるは唸って腕を組む。どうもなんだか嫌な感じだ。