18 日の名残り
空の端が赤く色付いて、西日が人々の影を長く引き伸ばしている。あたるの影も足元から前にまっすぐ伸びて、時折花壇や自動販売機などに当たると直角に折れ曲がった。
乾いた風が時折公園の木々の間を抜けていった。疲れた体には、風の冷たさがとても心地よく感じられる。今このあたりで一寝入りしたらさぞかし気持ちがいいだろう。その考えは何度となくあたるを誘惑するが、実行には至らない。自身の影に平行するもうひとつの影を一瞥すれば、それは不可能だとすぐわかるからだ。
「なんでおまえ付いてくんの?」
あたるはあくびを噛み殺しながら、隣を歩く面堂には顔を向けずに問いかけた。
青い鳥に遭遇した日、怒り心頭の面堂に追いかけられながら全力疾走で逃げ回った場所は、他ならぬこの公園だった。振り返ってみれば、ほんの数日前のことなのに、なんだか遠い昔のことのように感じる。そして今は自宅に戻る最短ルートとして、同じ遊歩道をたらたらと歩いているのだった。
あいかわらずこの時間の公園内はカップルが多くて、若い男女が連れ立ってそぞろ歩いている姿がそこかしこにあった。そしてもしかすると、事情を知らない他人からはあたると面堂もそういう風に見えているのかもしれない。そんな誤解をされるのは非常に不本意だから、面堂にはさっさと別の道を行ってほしかった。だがそう願っても無駄だろう、結局面堂は自分が女だという前提のもとに物事を見ることはどうしてもできないのだ。
「あのな、好きで行動を共にしてるとでも思うのか」
面堂も、こちらには目を向けずに投げやりに答えた。
それでも足音が重なっているから、歩調だけはきれいに揃っていると、見なくてもわかる。いつも一緒にいるせいなのか、気を抜くとそうなってしまうのだ。これじゃさぞかし仲がよく見えることだろうな、とあたるは苦い思いでため息をついた。今かわいい女の子に声をかけたとしても、いつもとは違う理由で冷たくあしらわれるに違いない。
「きみがそのへんのベンチで眠り込んだら今までの苦労が水の泡だ。きっちり家に帰るのを見届けるまでは安心できん」
「細かいこと気にするやつだなあ……仮にそうなってもなにか困るか?」
「なら、ラムさんが探しに来て、学校が終わってからどこにいたとか、今まで何してたとか、そう聞いたとしてもきみはちゃんと答えられるのか?」
あたるはその状況をまじめに想像してみた。
「自信ないな……」
「そらみろ」
悔しいが確かに面堂の言うことにも一理あった。夕方の今ならそのへんでガールハントしていたという言い訳は難なく通るだろうが、夜遅くなってからでは同じ言葉でも不自然に映るだろうし、疑う気持ちも強くなっていることは想像に難くない。
面堂は最後に子どもを諭すような口調でこう付け加えた。
「第一、女性には無用な心配をかけるものじゃない」
ふん、と鼻を鳴らしてあたるはそっぽを向く。面堂のこういう、いかにも自分は女性の味方ですよ、と言わんばかりの態度は今も昔も嫌いだ。どうせ一皮剥けば考えていることは他の連中と変わりないのに、自分の手だけは汚れていないような顔をする。あたるがいつも面堂を陰険と評する所以である。
それきりしばらくあたると面堂は口を開かなかった。するとまた眠気が瞼の奥に忍び込んできて、あたるはのろのろと目をこする。なんだかしらないが今は本当に眠い。セックスした後、こんなにも眠くなるものだとは知らなかった。はじめのうちは疲れが原因かと思っていたが、おそらくそれだけではない。男の体にある生理機構がなにか悪さをしているのではないかと思う。
噴水のある広場まで来たとき、面堂がぽつりとまた口を開いた。
「ようやく一週間が終わるんだな」
そうだな、とあたるは頷いた。
夕日が少しずつ地平線に消えていき、あたりはどんどん暗くなりつつある。一日が終わる。そしてたぶんこれを境に、あたると面堂が密かに交わした協定も、終わりを迎えるのだ。あたるが面堂を今日みたいなやり方で困らせることはもう二度とないのだろう。面堂が、あたるには決して向けてこなかった表情を見せることもない。面堂から自身を取り繕うものすべてを剥ぎ取り奪い去ったときに初めて現れる、あのすがるような潤んだ眼差し。あれに見られていると、頭の奥で何かが狂わされていく感覚があった。
それらはみんな、沈みゆく夕日と一緒に跡形もなく消えていく。
「明日には……きっと元に戻れると思うと、ほっとする」
面堂はまた静かな声で言葉を続けた。あたるはそこで初めて面堂を見た。
面堂は相変わらずあたるには注意を向けずに、公園の遊歩道のまわりに植えられた木々を眺めている。青々と茂っているはずの葉も、今はただの黒っぽい塊にしか見えない。夕日の名残にかすかに赤く染まる横顔は、いつもよりも感傷的に見えた。ひょっとしたら、面堂も、この一週間に対して何かを思っているのだろうか。
それから面堂は、ぼんやりと空を見上げながら、半ば独り言のように呟いた。
「これでようやくラムさんに顔向けができるな……」
この異常極まりない一週間を総括した感想が、結局そうなるのか、とあたるは呆れた。他にもっとないのかこいつは。
「ど〜せラムはおまえが男でも女でも何にも気にしてないぞ」
「え?」
いつもなら怒るタイミングだったと思うが、なぜか面堂は意表を突かれたような顔であたるを見た。面堂は一拍おいてからあたるの言葉を受け取って、ふっといつもの取り澄ました笑みを浮かべる。
「それもいい、外面にとらわれずにぼくを見てくれているのだから」
「というより、おまえに興味がないだけではないのか?」
「どうしてそう底意地の悪いことしか言えんのだ、きさまは!!」
あたるは面堂に向かってびーっと舌を出す。自分の胸に聞けばいいのだそんなことは。あたるはポケットに手をつっこみ、知らず知らずのうちに歩調を乱して大股に歩いていた。
たぶん夕日だ、夕日が悪いのだ。あれがわけもなく哀愁漂う雰囲気を醸すから、ついそれに釣られてしまった。
あたるはずんずん前に進みながら、見えない後ろに向かってやや低い声を投げかける。
「だいたいどっちか気にしてないっていうだけなら、おれだってラムと変わらんだろーが!」
「きみは本当に浅はかだな! もし本当に外面を気にしていないなら、きみはぼくが男のままでも今日と同じことができるって意味になるんだぞ!」
まったく思いもよらなかった反論を突きつけられて、あたるはなにもないところで躓きそうになった。
「……それは考えてなかった」
「だろうな。よく考えてから物を言え、まったく!」
あたるは自分でもそうと知らぬうちに歩みを止めていた。動揺を顔に出さないように努めているうちに、面堂が追いついてくる。その頃にはどうにか落ち着きを取り戻して、あたるはずれた鞄を肩にかけ直しながら、また何事もなかったように並んで歩き始めた。
辺りに降りている薄闇の帳の助けもあってか、面堂はあたるの様子が一瞬変だったことには気付かず話を続けた。
「そもそも普段からちゃんとものを考えて生きてるのか? きさまの思考がわからん。ラムさんという素晴らしい女性がいながら何故ぐずぐずしていられるのか、そこからしてまず理解できん……ぼくだったらすぐにでも結婚するのに。大体きさまには女性への思いやりというものが――」
話は流れるようにあたるへの説教、というより嫉妬による八つ当たりに移っていく。あたるは歩きながら適当に相槌を打ってはいたが、話の内容はほとんど頭に入ってこなかった。
なんでおれはさっきあんなことを言ったんだろう、とあたるは思っていた。面堂の言うことこそもっともだ、他ならぬあたるこそ誰よりも気にしているはずのことを、なぜあんなふうに言ったのだろう。
今のあたるは漠然とした不安に囚われていて、他の何もかもがぼんやりと遠いものに感じられた。そして不安の中心にいるのは、どういうわけか面堂なのだった。
しかもあたるは、この気持ちには覚えがあった。はっきり思い出せないが、ずっと前のことだという気がした。ぼんやりと靄のかかった記憶を探り、一つ一つに目を凝らす。どこかにあるはずだ。
不意にあたるは思い出した。あの日だ。面堂が転入してきてすぐの頃、生徒主催の納涼ディスコパーティー……。
「諸星! 人の話を聞いているのか!?」
そのとき、面堂があたるの顔を覗き込むようにして言った。あたるはきょとんとしてその少し不満げな表情を見返し、それから潔く首を横に振った。
「ぜーんぜん!」
「きっさま、よくもぬけぬけと……」
質問されたから正直に答えたまでの話なのだが、その返答は当然のごとく面堂を怒らせる結果になった。
「その曲がった根性叩き直してやる!」
「おまえもワンパターンだな!」
どこからともなく湧いて出た刀の切っ先をひょいと身をひねって避け、あたるは鞄をしっかり握り直して公園を軽快に駆け始める。学校方面に向かっているので方角こそ逆だが、月曜日とまったく同じ時間帯に同じことをしているのであたるは我ながら呆れた。ワンパターンはおれも同じだな……。
「逃さんぞ諸星!!」
だが、こうして面堂から逃げ回るのは正直言って楽しい。ラムの電撃とはまた違う身のこなし方と駆け引きがあるのだ。今回はどうやって出し抜こうか、どこで撒いてやろうか、考えているだけでわくわくする。走っているうちに、元来楽観的なあたるは直前のやり取りも不安も忘れてしまって、追いかけっこにすっかり夢中になっていた。
何にせよ、これで恋人同士に間違われる懸念だけは杞憂で済むだろう。