16 地下倉庫
戦時中に掘られた防空壕を再利用して作られた地下倉庫。ここには、友引高校の歴史ある遺物が多数保管されている。……と、言えたら良かったのだが、実際のところは種々雑多なガラクタが無秩序に漂着している、といったほうが実態に近い。捨てるには忍びないがさりとて使い途もないので、場当たり的に保管してそのまま忘れ去られたものが山のようにある。普段は鍵がかかっているから、めったに人が訪れることもない。
時々ちらつく頼りない白熱灯の下の薄暗い空間には、過去の遺物を乱雑に詰め込んだ金属製の棚が平行に規則正しく並んでいる。古いもの特有の埃とカビの臭いも満ちていて、なんとも言えず息苦しい。換気できれば多少はマシになったかも知れないが、当然この地下倉庫には窓はないのだった。
そしてあたると面堂は、そんな地下倉庫に二人揃って放り込まれていた。
「なんでぼくがこんなこと……」
面堂が箒を片手に小さくため息をつく。あたるのほうは面堂のように真面目に掃除する気はなかったので、棚に積まれたガラクタの中にまだ使えるものがないか適当に見て回っていた。美術部の古い石膏像、吹奏楽部の少し曲がった譜面台、何年も前の夏季休暇の課題プリント。どれもこれもつまらないものばかりだ。
「妥当な判断だろ、校長にぶつかったのおまえの方だもん」
「廊下に水を撒いてぼくを滑らせた人間がいうことか?」
「そう言うが、先にバケツを投げてきたのはおまえだぞ」
「では掃除ロッカーの中身をぶちまけたのは誰だったかな」
「それは隠れてるおれをおまえがロッカーごと斬ろうとするから……」
言い合いの中で流れるように最前の出来事を再現してしまい、なんだかバカバカしくなってそれ以上は何も言わないことにした。
どうせここで今更何をしたところで、廊下で派手にやり合って校長を巻き込んだ過去は変わらないのだ。面堂が滑って転んだときに刀がすっぽ抜けて校長の顔のすぐ脇の壁に刺さったことを考えれば、地下倉庫の掃除などという生温い罰で済んだのは幸運だったとさえ言える。
それでも普段のあたるだったら、面堂を置いてすぐにでも逃げ出していたところだろう。しかし、この地下倉庫の出入り口は一つしかない。その一つだけの扉から続く階段を登った先には、温泉マークが竹刀片手に仁王立ちして目をぎらぎら光らせている。「今度ばかりはずぇ〜ったい逃さんぞ!」という温泉マークの言葉通り、こんな窓もない袋小路に追い詰められてはさすがのあたるでも簡単にはいかなかった。
あーあ、今日は朝から本当についてないな、とあたるは嘆息する。
そして気分が憂鬱一色に染まっているのは、どうやらあたる一人ではないようだ。
「明日の準備もあるし、今日は早めに帰るつもりだったのだがな」
面堂はそう言いつつも実に気乗りしない顔をしていた。ほうきを動かす手付きにもやる気が全く感じられないし、そもそも掃除をサボっているあたるに何も言わない。いつもの面堂なら考えられないことだ。
「そう言う割に全然帰りたくなさそうだな?」
あたるが水を向けると、面堂は意外とあっさりそれに乗ってきた。
「今週は特に、帰るとまず父上が鬱陶しくてかなわんのだ……。昨日も散々からかわれた。見合い相手には愛想よくしろだの、おしとやかに優しく振る舞えだの、馴れ馴れしくされても絶対に刀を抜くなだの……ぼくをなんだと思っとるんだ、あの人は!」
はー、と面堂は苛立ち混じりのため息をつく。あたるは、面堂の話を聞いていて浮かんだ正直な感想を口にした。
「おまえんとこの親父って、マジで変わってるよな」
「否定はしない……」
面堂はいつになくぐったりした様子だ。よほど鬱憤が溜まっているようだった。
「だいたい、それくらいのことなら言われんでもやるというに……」
面堂が最後に付け加えた言葉に、あたるはきょとんとした。
「まさか、ほんとに親父さんの言うとおりにすんのか?」
「そりゃそうだろう。ぼくは了子の評判を代わりに背負うことになるんだぞ。たとえ話を進めるつもりのない見合いでも、如才なく穏便に済ませなければ了子の将来に影響が出る」
「ふーん……」
面堂がまともに見合いに取り組むつもりだとは考えもしていなかった。学校で数々の呼び出しを取り付く島もなく斥け続けたように、明日も面堂はそうするのだろうとあたるは思っていた。
面堂との会話はそこで途切れたので、あたるはまたガラクタの山を暇つぶしに眺め始める。しかし心はどこか別の場所をふらふらと彷徨い始めていた。
見合いかあ、とあたるは思う。ずっと前にも、ラムの見合いを邪魔しに行ったことがある。ラムが自分に内緒でほかの男と一緒にいると思うとどうしても黙っていられなかった。結局それは誤解と行き違いによるものだったが、話を聞いたときは腹が立った。
その後しばらくして、面堂の見合いも邪魔しに行った。このときもやっぱり腹が立ったのだ。面堂が自分の知らないところで可愛い女の子とよろしくやるかと思うと、黙っているわけにはいかなかった。何につけても抜け駆けは許されざるものだ。特に他人がしたときには。
今回の件は、そのどちらとも状況が異なっている。確かにこれは面堂の見合いではある。でも別にあたるに黙って行うわけでもなく、可愛い女の子が絡んでいるわけでもなく、そもそも始める前から破談が確定している。
なら、腹を立てる理由など何もないはずだろう。むしろ、面白がるだけの理由なら山ほどあった。あの面堂が、女装して、おめかしして、男と恋の駆け引きをするなんて。いつものあたるなら、お腹を抱えて笑うくらいの出来事だ。
そう思うのに、なぜだろうか。
面堂がほかの男と見合いをするのは、どうも、あんまり、面白くない。
あたるは手慰みにくるくる回していた陸上部のバトンを元の場所に放り投げて、面堂に顔を向けた。
「面堂、おまえほんっとに明日見合いするのか?」
「なんだ、今更。散々人をコケにしておきながら」
「だーってさあ、おまえだって筋金入りの男嫌いだろ。義理でも気があるフリなんて器用な真似がおまえにできるとは思えんのだが。そもそも我慢できるのか? 男に言い寄られるんだぞ?」
「やむを得まい、了子の評判に傷をつけるわけにはいかんのだ」
失敗か、とあたるは心のなかで思う。これが面堂一人だけの問題だったら、少しつつきまわすだけでこちらの都合のいい方向に誘導できただろうが、了子が間に噛んでいるとなるとやはりそう上手くはいかないようだ。あたるは小さくため息をついて壁に寄りかかった。
「もし相手がおまえのこと気に入ったらどうすんだ?」
「ありえないことを心配しても仕方なかろう。こうなってもぼくは男だ、女性としての魅力はない」
「あんだけラブレター貰っといて……」
「あれはイタズラか遊び半分だと、きみも言ったではないか」
「……そりゃま、そうだけど」
あたるは顔に出さずに逡巡してから、それ以上は何も言わないことにした。
確かにあたるは昨日そういうふうに説明した。だが、その全てがお遊びの手紙だとは、実のところあたるは思っていない。面堂にはただ黙っていただけだ。
恋は相手に対する感嘆から生まれる。今の面堂が綺麗な顔と均整の取れた肢体を持つ美少女であることを思えば、むしろあちこちに萌芽があって然るべきだろう。たとえその中身が、男子生徒ほぼ全員から敵意を持たれている面堂終太郎である、という事実が周知されていてもだ。
そのうえで、明日面堂に会うやつは、これの中身が面堂だということを知らないのだ。
あたるは気づかないうちに腕を組み、考えながら肘のあたりを指先でとんとんと叩いている。自分でもなんだかよくわからない気持ちになっていた。そしてこういうときの対処法は一つしかない。これ以上はもう決して考えないことだ。
あたるは思考の袋小路からさっさと撤退し、もっと身近で実際的なことを考え始める。そして、あることに気がついて面堂にまた話しかけた。
「そうすると今の状況では、燃料が届いてもまだ元の姿に戻れないってことだよな」
「そうなるな」
「な〜るほど……」
「何を考えてるかわかる気がするぞ……」
面堂は心持ちあたるから身を引いたが、あたるは気にせずにっこり笑って言った。
「な〜面堂、最後にもっかいヤらね?」
「言うと思った。ぼくはもういい、たくさんだ」
「えー。なんで?」
「あんな恥ずかしい目に遭ったら嫌になって当然だ!」
「でも普通にやるより気持ちよかっただろ?」
あたるが面堂の顔を覗き込むようにして問いかけると、面堂はたじろいですぐに目をそらした。
「べつにそんなことはない……」
先程の語気の強さはどこに消えたのか、覇気のない返答にあたるは一周回ってしみじみと感心する。
「おまえ、嘘つくのほんと下手だな」
「ええい、やかましい!」
面堂が怒ると一層おかしくて、あたるはこらえきれずに笑ってしまう。結局ちゃんとした否定にはなっていないと、自覚があるのかどうか。
「い~ではないか、これを逃したらオトナになるまでまたお預けなんだぞ」
「別に構わんだろう。ど〜せぼくの方はきみほどメリットがないことだし」
面堂は、ふいっとそっぽを向いて悪しざまに言った。
「きみの言うことを聞くとロクなことにならない、それがよくわかった一週間だったよ!」
「……」
あたるは面堂を見つめて少し黙り込む。それから静かな声で言った。
「おれとやるの嫌だった?」
「え……?」
「嫌だったけど、無理に付き合ってたのか?」
あたるらしからぬ、おずおずとなされた問いかけに、面堂は戸惑いがちに目を泳がせた。
「い、いや……そこまでは言わないが……」
「やっぱり嫌だったんだろ。おれはてっきり、おまえも同意の上でのことだとばかり……」
「おい、ぼくはべつに……」
面堂は困ったように口ごもって、俯いたあたるを見つめる。あたるの沈んだ様子に変化がないことを悟ると、面堂は迷いながら続けた。
「その、今までのことは、嫌ではなかったぞ」
「本当に?」
「ああ」
「無理に付き合ってたわけじゃないと?」
「ああ」
「じゃあ今日もおれに付き合う?」
「ああ……うん?」
流れるように頷いていた面堂がなにかおかしいと気づいたときには、あたるは既に顔を上げ、いつもの気楽な笑みに戻っていた。
「そうかそうか、今日も付き合ってくれるのか! それを聞いて安心した」
「きっ、きさま、謀ったな……」
「昼に聞いた話で、おまえが案外泣き落としに弱いって気付いたからな〜」
あたるは頭の後ろで腕を組みながらにやにやと笑う。こうして言質さえ取れれば、もうしおらしい演技をする必要はないのだ。
「やはり斬るしかない……」
「おまえほんとどっから刀出してんの?」
さっき校長に没収されていたような気がしたのだが、面堂は何事もなかったように鞘から刀を抜き放った。現在、これが友引高校の七不思議の一つに数えられていることを本人は知っているだろうか。
あたるは上履きの爪先をとんとんと床に打ち付けて、いざというときしっかり動けるように身構える。ここで暴れたらまた校長や温泉マークにこってり絞られそうだが、こうなってしまっては不可抗力だ。
両者が睨み合い、まさに一戦交えようとしたときだった。ぱちっとどこかで無機質な音が響いた。同時に天井の白熱灯から光が消え、部屋が真っ暗になった。
反射的に身をすくめて、停電か、と思ったのもつかの間、闇に包まれた部屋の前方からカシャンと何かが落ちた音がした。面堂が居るはずのあたりだ。あ、と思ったときには、聞き慣れた泣き声が部屋に響いていた。
「わーん!! くらいよーせまいよーこわいよー!」
「あ〜……」
そういえば今週はまだ一回もこれを聞いていなかったなあ、とあたるは思った。一応火曜日にも同じようなことがあったとは聞いた。だがあたるはその場に居合わせなかったから、面堂が女に変わってからこれを発症するのは初めて見るのだった。
そして思ったより居心地が悪い。いくら本物ではなくても、女の子が恐怖のあまりに大声で泣いているというのは、自分に何も責任がなくてもなんとなく罪悪感を掻き立てる。
「えーと、面堂……?」
耐えきれずにおそるおそる声をかけると、闇の中で何かが動く気配がした。そのまま何かがぶつかってきて、あたるは「うわっ」と声を上げて尻餅をつく。心臓が止まるかと思った。驚きの感情が引いてから、ようやく面堂が恐怖にかられて抱き着いてきたということを悟った。あたるは慌てて面堂を押しのけようとする。
「よせよ、暑苦しい!」
だが面堂は泣きながらかえって抱き着く力を強くし、離れまいとするのだった。いつもならそれでも無理やり引っぺがすのだが、今は密着した部分にやわらかな感触があったりしてどうにもやりづらい。これだけ近いと、面堂からシャンプーかなにかの香りさえかすかに感じ取れる。そしてその匂いは昨日体を重ねたときと同じものだったので、記憶を呼び醒まされた体の一部分がぴくりと反応した。あたるは更に焦った。
「面堂、いいから離れろって!」
「わーんわーん!」
「おいっ、聞いてんのか!!」
そして面堂はもちろん聞いていなかった。
仕方なくあたるは面堂の背中をさすって、少しでも彼をなだめようと試みる。同時に昨日の話を思い出した。写真部のやつもこういう状況で面堂に触れたのだろうか。あたるはかすかに苛立ちを覚えたが、今はそんなことを考えている場合ではないので面堂になるべく穏やかに話しかける。
「たぶんブレーカーが落ちたんだろ、すぐ明るくなるから……」
「こわいよー!!」
「あ〜〜っくそ、こんなことで泣くなっての!」
あたるは困った挙げ句、幼い子どもを相手にするように面堂の頭を乱暴に撫でた。怒るだろうか、と思ったが、恐怖症で我を失っているせいか子ども扱いしてもそんなに嫌ではないらしい。依然として苦しいくらいに抱きつく力は緩まないが、泣き方はだいぶ穏やかになった。ひっくひっくと時折しゃくりあげながら、面堂はおとなしく撫でられるままになっている。そしてやめようとするとあたるの制服をぎゅっと握りしめて言外に抗議するのだ。
これで本物の女の子だったら、今日の不運に対してお釣りが来るくらいの出来事だったのだが。面堂だもんなあ、とあたるは小さくため息をつく。いっそ負債に計上すべきかもしれない。
「……」
ぐすぐすと泣いてばかりだった面堂が、ぽそりと何かを呟いた。だがあたるは別のことを考えていたのと、それがとても小さく不明瞭な声だったのとで、うまく聞き取れなかった。
「え? 今なんて……」
「行かないで……」
今度は聞き取ることが出来たが、状況に対してずいぶんと奇妙な言葉だったので、あたるは戸惑った。聞き間違いかと思うほどだが、しかし確かにそう言ったはずだ。
光の差さない暗闇では、相手の姿を目で見ることはできない。だから、本来の姿である実像ではなくて、想像力の描き出す心象を闇の中に見いだすことになる。それはひょっとしたら、面堂が無意識に取る何気ない行動、かすかな仕草、息遣いといった情報に基づいて再構成された姿なのかもしれない。
その面堂は、普段よりも随分と頼りなく感じられた。翼を怪我した鳥のように、どこにも行けずうずくまって泣くことしかできない、ちっぽけな存在だった。おばけが怖くて泣いている子ども、迷子になって途方に暮れている子ども、そういうイメージが頭を掠める。それは憎たらしいほどの自信とエネルギーに満ちた、あたるの知っている面堂とはとても結びつかないイメージだった。
そして面堂は、闇に独りだけ取り残されることを怖がっている。こうして苦しいくらいに抱き着いて離れようとないのは、独りになりたくないから、どこにも行かせたくないからなのだ。誰を? わからない。少なくとも面堂が求めているその誰かは、あたるではないと、確かな直感が告げていた。
胸のあたりで、変な感じがした。小さな硝子の欠片を飲み込んだような、かすかな痛みだった。
お昼に、なにか変なものを食べただろうか? あたるはそんなことを思った。
はじまりと同じくらい唐突に、この闇の中での時間は幕切れになった。ぱちっと音がして、地下倉庫にまた光が灯ったのだ。途端にあたるは全力で突き飛ばされた。
「ぐえっ」
「電力が復旧したようだ」
いたって冷静な口調でそう言う面堂と反対に、あたるはお腹を押さえて呻く。
「おまえほんと……そーゆーとこだぞ、男子から蛇蝎のごとく嫌われんのは……」
怨嗟混じりの言葉にも、面堂は謝罪どころか悪びれた様子一つ見せる気配がない。つくづく腹の立つ男である。
面堂はポケットから折り畳まれた綺麗な白いハンカチを取り出して、涙を手早く拭った。そうすると少し赤くなった目元以外、面堂が子どものように泣き喚いたことを示す痕跡は何もなくなってしまった。
あたるだけがまだ夢から現実に戻りきれていないような気持ちで、面堂をじっと見つめた。
「なんだ?」
その視線に気がついた面堂が、いつもと変わらない顔つきで腕を組んで見下ろしてくる。
「おまえ、さっき……」
おれのこと、誰と間違えてたの。そう聞こうと思って開いた口は、しかし途中で動きを止める。
それを言葉にしてしまえば、面堂の心の奥深くを、あたるではない誰かが占めていると認めることになる。
あたるは自分でも気づかぬうちに、質問をすりかえて続きを口にしていた。
「……さっき空き教室で、キスされなくてがっかりしてたよな?」
「いっ、きなり、何を言い出す……」
面堂はぱっと頬を赤くした。特に意図があって聞いたわけではなかったけれど、この反応はどうやら図星だったようだ。あたるは気を良くして面堂に歩み寄る。
「今なら誰もいないし……」
「いや、ちょっと待て!」
するすると近付いてくるあたるの肩を押して、面堂は慌てて言った。
「できるわけないだろう、ここは学校なのに」
「な~にを今更。おととい保健室でもしたろうが」
「あっ、あれは、おまえがどうしてもと言うから! ぼくはあんなこと本当はするつもりじゃ……」
「なら、今もおれがどうしてもって言ったらしてくれるわけか?」
「揚げ足を取るな!」
ぴしゃりとすぐ言い返されるが、あたるはめげなかった。お小遣いをねだる子どもがするような熱っぽい眼差しとともに、少し甘えた声で言う。
「どうしてもキスしたい……だめ?」
「いや……だめ、というか」
どうもあたるのこういう態度に弱いらしい面堂は、頑なだった態度に隙を見せ始める。
「学校みたいな公共の場でするのは……」
「それはもうわかった。結局おまえはどうしたいんだよ。キスしたいのか、したくないのか?」
「そ……それは……」
眉を少し下げ、随分と困った様子でじりじりと後退していく面堂を、あたるはゆっくり壁際に追い詰めていく。とん、と面堂の背中が壁に当たって、それ以上は退けなくなっても、あたるは足を止めなかった。お互いの制服がかすかに触れ合う距離、少し背伸びすれば届くところでやっと止まって、あたるは面堂を見上げた。そっと手を伸ばして、面堂の唇に指先を這わせる。柔らかくて、少しだけかさついていた。指を何度も往復させ優しく撫でていると、面堂はくすぐったそうに目を閉じる。それでも、あたるの好きなようにさせている。
結局面堂は、キスしていいともキスしたいとも言わなかった。でも、そんなの聞かなくてもこれを見れば十分だ。
そして空き教室でしたのと同じように、すっと身を寄せて踵を上げ、スカーフを支え代わりに掴みながら面堂の首の後ろに手を回した。
初めての夜と同じように、最初はほとんど触れるか触れないかくらいの軽いキスから始めた。吐息が重なり、唇を合わせると途切れ、また少し離れて呼吸する。何度か繰り返すと、面堂はあたるがキスをしやすいように少し身を屈めてあたるのうなじにそっと手を回す。それであたるは背伸びする必要がなくなり、キスに集中できるようになった。
軽く触れるだけだったキスは少しずつ長くなり、合間に漏れる息に熱がこもり始める。ゆっくり時間をかけて唇を味わい、角度を変えて重ね、そのうちどちらからともなく口をかすかに開いて舌を絡め始めた。学校の喧騒から隔絶された薄暗い地下室では、湿った音がよく聞こえる。
安定を求めて頬にそっと手を添えたとき、指先が面堂の耳に少し触れた。面堂がそれに反応して一瞬ぴくっと身を固くする。キスで感覚がいつもより鋭くなっているのだろう。わざとやったわけではなかったが、その過敏な反応に悪戯心をくすぐられて、あたるはキスを続けながら優しく耳を触り始めた。
「んっ……?」
面堂が驚いたような声を零すが、あたるはひとまず無視した。外側を人差し指の先をかすかに当ててすーっとなぞる。数度それを繰り返して面堂に耳のことを意識させてから、耳殻を軽く摘んでくにくにと刺激してみた。それだけでぞくぞくしたのか、面堂はふるりと身を震わせた。その間も面堂の歯列をなぞるように優しく舐めたり、ざらざらした舌を擦り合わせてその感触を楽しんだり、口内を丹念に味わうことはやめない。
「ふ、ぅ……っ」
しばらくすると面堂がキスの最中に抑えた声を上げ始める。悪くない反応だ。色々と試しているうちに親指の腹で全体をゆっくりと撫でさするのが一番反応がいいとわかった。基本はそうしながら、たまに軽く爪の先を立てると、大げさなくらいびくりと身体が跳ねる。そのままかりかり刺激してみれば、甘い声が鼻から抜けていった。気持ちいいらしい。
面堂がキスで感じやすいのも耳責めに弱いのもとっくに知っていたけれど、そういえば両方同時にやるのはこれが初めてだった。
こういうのは、足し算みたいなものだと思っていた。複数の快感が同時に起きても、それを足し合わせた総合的な大きさはそれぞれの快の感覚から予測可能で、大幅に外れることはないだろう、と。でもこうして面堂を観察していると、それは思い違いで、実際は掛け算の方に近いのではないかと思った。両方の快感が相互に影響しあって、全体の総和より明らかに強い快感が生まれている。
「んっ、ふ……ぅ、ふぁ……」
いま面堂の口からこぼれる喘ぎは、セックスのときに聞くそれとほとんど変わらない。身体の際どい場所には一切触れていないのに、キスだけで犯したときと同じくらい感じている。そう思うと、体の奥から興奮がぞくぞくとこみ上げてくるのを感じた。状況さえ許せば、このまま面堂を抱いてしまうのに。
そのあたりからまた面堂の様子が変わってきた。それまでただキスと愛撫を受けるだけだった面堂は、顔を背けようとする仕草をしながら、あたるの肩に触れて軽く押す。その意味はわかる、もうやめよう、と言いたいのだ。確かに気が付いてみればそれなりに長い時間口付けていることになるかもしれない。
だが、あたるはまだキスをやめたい気分ではなかった。面堂の意思表示には気付かないふりをして、かえって面堂の後頭部に回した片手に力を入れてしっかり引き寄せる。あたるが要求と正反対の行動を取ったので、面堂はかなり戸惑ったようだった。
「んッ、んぅ〜……!」
抗議するようにくぐもった声を上げながら、あたるの肩をしきりに叩いたり押したりして注意を引いている。意味が正しく通じなかったとでも思っているのだろう、相変わらず面堂はあたるのことをアホだと思っている。あたるは今度も無視することにした。
面堂の舌に軽く歯を当てると、面堂が小さく声を漏らし、逃げる舌を追って舐めれば面堂の指にかすかに力が入る。先を尖らせてつつき、絡めた舌を強く吸い上げてやる。面堂の身体がびくっと跳ねた。身体が密着している部分から直に、その動きの細かなところまではっきり伝わった。
そしてこういう距離だからこそ、面堂がなんとかあたるから逃れようとしているのもよくわかった。せめてもの足掻きのつもりなのか、背中を壁に預けてあたるから限界まで離れようとしているが、意味のある抵抗とはとても言えない。むしろあたるは、ここまで来てまだそういうことをする面堂の往生際の悪さに苛ついた。
自分たちが今しているのがどういう行為なのか、面堂にもわからせてやりたくなった。あたるは中指を面堂の耳に挿し入れた。電流が走り抜けたように、面堂の全身がびくんと震える。それを確認してから、あたるは指をゆっくり出し入れし始めた。面堂にこの音がよく聞こえるように、指で執拗に耳を犯していく。
「ふっ、んぁっ、ぅあ……ッ」
面堂は今までで一番甘い声をこぼし始め、時折身体をぞくぞくと震わせた。肩に置かれた手からあたるを遠ざけようとする意思が徐々に抜け、再びされるがままになっていく。あたるは胸をくすぐるような満足を覚えた。
面堂がキスをやめたがっていた理由をあたるは深く考えなかった。面堂にとっては単純に長過ぎて嫌になったか、疲れたか、あるいはその両方だろうと踏んでいた。だから面堂が不意に膝から力を抜いてその場にふにゃりとへたり込んだときには、かなりびっくりした。
「お、おい面堂?」
思わずキスを中断して声をかけても、面堂はぐったり壁に寄り掛かったまま、荒く息をするばかりで何も言わない。その様子はつい先日の体育で、面堂が突然倒れたときとよく似ているように感じた。
「え、と……」
女の子が相手なら、こういうときいくらでも労りや心配の言葉が出てくるのに、面堂が相手だと何を言ったらいいのかわからない。あたると面堂は、そういう優しい言葉を交わす仲には程遠かった。とりあえず今知りたいのは面堂の状態、あるいは保健室に連れて行く必要があるかどうかだが、相手を気遣う意味合いの言葉を抜いてそれを尋ねるうまい言い方が思いつかなかった。
結局あたるは、ぎこちなくこう尋ねるだけだった。
「その……いきなりどうした?」
「うるさい、さわるなっ……」
面堂はあたるが伸ばした手をぱしっと振り払った。いつもなら腹を立てるところだが、少なくともこういうことをする元気はあるとわかったので、あたるは少しほっとした。
面堂は非難がましい目であたるを睨んでくる。
「だからこうなる前にやめたかったのに、きさまというやつは……!」
「……どういうことだ?」
あたるが首を傾げていると、面堂はなぜか言葉に詰まり、質問から逃げるように俯いて口を閉ざした。そして座り込んだままなかなか立とうとしない。ここがホコリまみれの地下室だということを考えると、やはりなんとなく行動に違和感がある。
「まあ、おまえが何を怒ってるのかはしらんが……座るんならもうちっとマシな場所があるんじゃないか?」
「そんなことぼくだって百も承知だ!」
「だったら、なぜそうしとるんだ?」
そこでまた面堂からの返答がなくなり、しばし会話が途切れる。面堂は床の一点を睨んだままむっつりと黙り込んでいた。それでもあたるが辛抱強く待ち続けていると、やがてぼそりと小さな声で言った。
「立てない……」
「だから、なんで?」
「きさまもわからんやつだな! きさまのせいで立ってられなくなったんだッ!!」
面堂はヤケクソ気味に声を荒げた。そこまではっきり言われて、あたるもようやく事態を把握できた。つまり面堂は別に体調が悪いわけではなく、単に今のキスで腰が砕けて動けなくなったということらしい。
思ってもいなかった展開に、あたるはしばし固まった。
「……そんなに気持ちよかった? いまの」
「〜〜〜っ、ほっとけ!!」
面堂はぱっと両手で顔を覆った。でも、真っ赤になった耳までは隠せていないので、いまどんな表情をしているかは想像できてしまう。
その瞬間、頭の奥でくらりと目眩にも似た感覚がした。熱を孕んだ衝動があたるの自制心を溶かしていく。あとに残るのは、むき出しの欲望だけ。
今すぐ、面堂が、ほしい。
あたるは無意識に唇を舐める。それからそっと面堂の前にかがみ込むと、彼の顔の横に手をついた。
「面堂……」
するとその気配を感じ取った面堂が顔を覆う手を除けた。そしてあたるの顔が思いのほかすぐ近くにあることに驚いて身を固くする。面堂が口を開いて何か言いかけたが、あたるはその前に再び唇を重ねた。
キスをしながら面堂の胸元に手を伸ばす。制服越しに膨らみを揉むと、面堂の肩がぴくっと跳ねた。そのままゆるく刺激していけば、ん、ん、とキスの合間に面堂が小さく声を漏らす。それが余計にあたるの欲に火をつけ、目前の快楽に夢中にさせていく。あたるはセーラー服の下にするりと手を差し入れた。そのまま指を上に這わせていくと、さすがに面堂もあたるが今どういうつもりなのか気が付いたようだった。
「諸星っ、まさかこんなところで――」
「むしろここなら誰も来ないって」
冗談じゃないとばかりに面堂はあたるを諌める言葉を次々と口にする。そのくせあたるの愛撫自体は振り払わず、はっきりした拒絶を示す行動には移ろうとしない。本当にひねくれてんな、とあたるは思う。こうして散々取り繕ってみせたところで、面堂だってあたると同じものが欲しいのだ。それを認めさせるのに、手間がかかるだけで。
面堂ははじめのうちこそ絶え間なく悪態をついていたが、あたるが服の下に隠れていた肌を優しく撫で、制服を捲りあげてあちこちにキスをしているうちに段々と口数が減ってくる。面堂の薄く筋肉のついた腹筋をなぞり、肋骨のあたりの薄い皮膚をくすぐって、谷間に顔を埋めて際どいところに唇を落とした。そうしているうちに面堂の呼吸が浅く早くなり、吐息に小さく声が混じるようになる。頃合いを見て面堂の下着に手をかけ、カップをすこしずらして薄く色づいた部分を外に晒した。今度もはっきりした拒絶はされない。肝心なところには触れないようにしながら、ちゅ、ちゅ、とぎりぎりのところにキスをしていく。面堂がもどかしげに身をよじるが、あたるは面堂を抱き寄せ、逃してはやらなかった。堪え性のない面堂がこういう責め方をいちばん苦手としていることを、あたるはよくわかっていた。
「あ……諸星……」
面堂が観念したように身体から力を抜いて、あたるの肩にこてんともたれかかった。面堂の熱っぽい吐息が首筋にかかる。その感覚にぞくぞくする。ここ数日で随分と肉体の誘惑に弱くなった。回数を重ねるほどにずぶずぶと深みに嵌って、段々危険な深さに足を突っ込んでいるのはわかっているのに、抜け出せなくなっている。
結局のところ、みんなの言うとおりあたると面堂はどこまで行っても同類だ。こうなったらお互いを食い尽くすまで共食いせずにはいられない。
あたるはぺろりと唇を舐めて、面堂のプリーツスカートに手を伸ばした。
物音がした。
びくりと面堂が固まり、あたるも反射的に動きを止める。音は扉の向こうから聞こえた。とんとんとん、と規則的な一定のリズムでそれは徐々に大きくなる。
今、そこで、誰かが階段を降りている。
「諸星、誰か来るっ……」
面堂が押し殺した声で囁いた。切迫した響きの中にはかすかに怯えが混じっている。これはきっと、あたるもそういうふうに感じるべき状況なのだろう。しかしあたるは、何事もなかったようにまた面堂の体に触れて、首筋に何度もキスを落とす。面堂が驚いて息を呑み、やがて抵抗し始めるが、あたるはそれでもやめようとしない。
音はどんどん大きくなる。
「諸星、聞こえなかったのか、誰か来る、こんなところを見られたら……」
面堂の声に含まれる怯えの色が濃くなった。
こどもの頃から、いつもしのぶに怒られていた。「あんたはいつだって後先を考えないわよね!」母さんもそうだった。「あたる、おまえには目先のことしか見えないの!」
あたるは面堂の唇を親指の腹でなぞりながら、夢見心地に微笑んで言う。
「……どーでもいいよ、そんなの」
面堂の顔色がさっと変わった。
そして腰が砕けていたとは思えないほどの渾身の力で、面堂は突如あたるを突き飛ばした。
「おわっ!」
あたるは近くにあった過去の遺物に背中からぶつかるも、なんとか転ばずに済む。
「面堂っ、なにす……」
「おい、おまえら大丈夫だったか!?」
だが文句を最後まで言い終える前に、温泉マークが扉を開けて彼らの前に飛び込んできた。埃を被ったコントラバスの空きケースに変な体勢で寄りかかっているあたるを見て、温泉マークは竹刀を肩に乗せながら怪訝な顔をする。
「……何やっとるんだ、諸星?」
「いや、別に……」
あたるはかろうじてそれだけ言うと、やや分別を取り戻してそろそろと面堂から更に距離を取る。
心臓がどきどきしていた。認めたくはないが、今面堂があたるをこうして突き飛ばさなかったら、間違いなく温泉マークに非常にまずいところを見られていた。
面堂は温泉マークがあたるに注目しているうちに素早く着衣の乱れを整えたようだった。心中はどうあれ、あたるも面堂も、お互いから目をそらして何食わぬ顔で黙っている。
幸い温泉マークは、目の前の問題児二人が平静な表情の裏に動揺を隠していることには全く気付いていない。
「いきなり暗くなって驚いただろ。家庭科室でオーブンを使ってる時に、ちょうど錯乱坊が御祓い中の日本人形の髪をドライヤーで整えてやろうとしたらしくてな、いまブレーカーを戻してきたところだ……」
やれやれと肩を落として温泉マークは言った。結局今回の停電にも錯乱坊が絡んでいたようである。普段はあたるばかり矢面に立たされるが、錯乱坊だってあたるに勝るとも劣らないトラブルメーカーなのだ。
話している途中で、温泉マークが面堂の様子に目を留めて少し心配そうな表情に変わった。
「どうした面堂、おまえがこんなところでへたり込むなんて……体調が悪いんじゃないのか?」
「へっ? あ、その、そういうわけではないが……」
あたるとのキスで腰が抜けただけ、なんて当然言えるはずもないので、面堂は視線を泳がせながらしどろもどろになっている。
あたるはまた足音を殺してそろそろと移動し始めた。
「しかしおまえ、一昨日も体育で倒れたんだろ? 無理はよくないぞ」
「だから、別に体調が悪いわけではないと言っているっ! いいからぼくに構うな!」
「そう言うがな、おまえに何かあるとおまえの実家から色々――」
みし、とハンマーが温泉マークの頭に落とされる。温泉マークは一瞬動きを止めたあと、やがてぱったりと地下倉庫の床に崩れ落ちた。
ぽかんとしてこちらを見上げる面堂に向かって、あたるはハンマー片手ににやりと笑った。
「おとりの役割ご苦労だったな、面堂!」
温泉マークが面堂に気を取られているすきに、あたるはその背後にひっそりと回り込んで一撃お見舞いしたのだった。
ちょんちょんと足先で温泉マークをつついてみる。動く気配はなかった。いいところで邪魔してくれた恨みなんかちっとも込めていないが、しばらくは目を覚まさないだろう。面堂はそれを見ながら呆れた顔をしている。
「この男に対してはつくづく情け容赦というものがないな、きみは」
「ま、そこはお互い様なんでな」
悪びれずにへらへら笑い、あたるはハンマーを地下倉庫の棚に戻して手の埃を払う。
「さて、邪魔者もいなくなったし帰るとしよう!」
そのまま面堂に向かって、あたるは気楽な笑みとともに片手を差し出した。
「……なんだ、その手は」
「だって、立てないんだろ?」
面堂は探るような目でじっとあたるを見つめたあと、ふんと鼻を鳴らしてその手を払い除けた。
「きさまの手なんか借りん!」
それから危なかっしくふらつきながらも自分の足で立ち上がる。あたるは振り払われた手を引っ込めながら、面堂をじとりと睨んで一言投げた。
「強情っぱり」
「きさまには及ばん」
面堂は澄ました顔であたるの横を抜けていく。さっきあたるに力なく体を預けたときの儚げな様子はもうどこにもなかった。あたるは小さくため息をついて、足元の気絶した温泉マークを一瞥する。やっぱりもう少し強めに殴ればよかった。