15 駆け引き

 諸星あたるの金曜日は、残念ながらはかばかしい始まり方をしなかった。
 あーあ、今日の朝ごはんも小さなメザシだった、と彼は制服に袖を通しながらため息をつく。全くもってついてない。育ち盛りの男子高校生が、これっぱかしの朝飯で昼まで保つとでも思うのだろうか。
 だが文句を言ったところで無駄である。母さんは「今月は家計が苦しいのよ。我慢しなさい!」とかえって怒るし、父さんは新聞で顔を隠しながら「ローンの支払いが……」と悲しげに首を振るばかりで、朝の空気が台無しになるだけなのである。
 腹いせにジャリテンと力いっぱい喧嘩して、結局余計に腹をすかせながら、あたるは急いで家を出る。朝にしか会えない女の子と話をするチャンスを逃すわけにはいかない。そうして走っているうちに頭はすっきりして、気分も明るくなってくる。とにかく鞄の中にはお弁当があるのだから、そう悲観することはない。
 お目当ての一人目の後ろ姿を発見し、ラムの視線が刺さるのも気にせずにあたるはポニーテールの女の子の隣に並んだ。
「おはようミキちゃん、今日はランニング日和だね!」
「うわっ、アンタまた来たの」
 あたるを見るなり彼女はぎょっとしてそのまま走り抜けようとしたが、あたるも彼女と同じだけ加速してしつこく隣に並び続けた。
「ねーねー、昨日の話考えてくれた? 一緒に見にいこ〜よ、トップガン、絶対面白いよ!」
「たとえ映画がよくてもアンタと見たら台無しよ……」
「いやいや、実際やってみなくちゃそうとは言い切れない。何事も挑戦さ!」
「まあ、そうかもしれないけど……」
 お、これはいけるか、とあたるは少し手応えを感じた。ミキちゃんの表情はいまだに警戒の色が強いが、昨日より態度が軟化している。あと何回か押せばデートの約束まで漕ぎ着けることができそうだ。
 が、そのとき上空から不穏な気配があったのであたるは反射的に素早くその場を飛び退いた。
「ダーリン! 朝から浮気するんじゃないっちゃ〜!!」
 案の定飛んできた電撃がアスファルトを焦がしたので、ラムの電撃を間一髪でかわせるようになった自分に成長を感じてしまう。
 あたるはひとまず退散することにして、ミキちゃんに手を振った。
「次会うときこそデートしようね〜!!」
「次こそ絶対許さないっちゃ!」
 ひらりひらりとラムの追撃をかわし、あたるは次なる女の子の姿を求めて友引町を駆け抜けていく。
 そうしてあっという間に小さくなっていく後ろ姿を見送りながら、残された少女は呆れ顔で呟いた。
「毎朝よく飽きないわよね〜、あの二人……」
 毎朝の恒例、もはや友引町の日常風景と化した追いかけっこは、今日もつむじ風のように町を元気よく駆け抜けていった。

 平日の中から一番好きな曜日を選ぶとしたらどれを選ぶか、と聞かれれば、大抵の学生はこう答えるのではないかと思う。それは金曜日だと。なぜなら次の日は楽しい休日で、しかもそのまた次の日もなんと休日だからである。
 友引高校でもそれは変わらない。金曜日になれば、みんな明るい顔で週末の予定を話し出すし、特に充実した学校生活を送っている者は恋人と出かける約束を取り付けている。そうでなくても金曜さえ乗り切れば明日は勉強しなくていい、宿題も後回しにして構わないから夜はぐっすり眠れる。たとえ疲れていようと体力が尽きていようと、誰しもそういう希望を顔に浮かべているものだ。
 だが、そういう明るい雰囲気に満ちたクラスの中で、一人だけ異質な存在があった。
 面堂である。
 あたるの席は面堂の斜め後ろにあるので、たとえ意識せずともどうしても面堂の様子は目に付くことになる。そんなわけであたるは本人には気づかれることなくのんびりと面堂を観察していた。朝っぱらから現在の昼休みに至るまで、面堂はずっとため息ばかりついている。女子から話しかけられれば一応は明るい笑顔で応対するが、彼女たちが離れていくと、あきらかに表情が曇る。たまに本を開いても集中できないのか、ずっと同じページを眺めた挙げ句、そのまま閉じてしまう。
 本当に、隠し事のできない性格というのは難儀なものだろうなと面堂を見ていると思う。いや、恐怖症のことを鑑みるに面堂だってやろうと思えばできるのだろうが、よほど差し迫った事情がない限り面堂は嘘をついたり何かを隠したりすることがとにかく苦手だ。 
 今もこんな行動を取っていれば昨日何か都合の悪いことが起きたのだとみんなに言っているようなものなのに、面堂にはそんな自覚はないのだった。
 お昼ごはんを食べ終わってから、あたるは席を立った。午前いっぱい好きに泳がせておいたのだ、いい加減泥を吐かせても良い頃合いだろう。相変わらず憂鬱そうに本を開いている面堂に近寄ると、あたるは軽く屈んで面堂に目線を合わせた。
「よ、面堂。ど〜した、そんな辛気臭い顔して?」
 面堂の顔を覗き込むようにして、あたるはからかい半分に笑った。すると面堂は眉を寄せ、手に持っている本を壁にして、あたるの顔を視界から遮った。自然と目に入った表紙のタイトルを見て、あたるはなんとも言えない顔になる。
「『タコの心身問題』……相変わらずわけのわからん本読んでるな〜おまえ」
「失礼だな、真面目な哲学書だぞこれは。頭足類を中心に生物の意識の問題について述べた本だ。おまえも少しはこういう本も読んで教養を積んだらどうだ?」
「読むわけなかろう。タコに意識だの知性だのがあるなんて知ったら、タコ焼きが美味しく食えんではないか」
「だからきさまに読めと言っとるんだ!」
 面堂は本の角をあたるの頭にごつんとぶつける。
「いって!」
「よくもこのぼくの前でタコを食うなどとほざいたな」
「だってタコって美味しいんだもん!」
「まだ言うかきさま!」
 面堂はついに席を立って日本刀の鞘に手をかけた。普段ならそれは厄介千万の始まる合図だが、今日ばかりはその瞬間を待ち構えていた。頭に血が上れば人は目先のことに囚われ思考が単純化される。そしてその一瞬は不意打ちを仕掛けるのにはこの上ない好機となるのだ。
 あたるはにこにこと笑ってその一撃を繰り出した。
「ところで面堂、聞いたぞ。明日、見合いがあるんだって?」
 返事の代わりにカシャンと無機質な音が教室に響き渡った。面堂が動揺して刀を取り落としたのだ。
「えっ、お見合い? 面堂さんが?」
「その姿で!?」
 近くで話を聞いていた同級生のどよめきで面堂はようやく我に返ったのか、慌てて彼らに向けて弁解を始めた。
「ごっ、誤解しないでください、妹です! 妹の了子の方に見合いの話があるんです!」
「ああなんだ、妹か……」
「そっか〜、それで面堂さん朝からちょっと元気なかったのね」
「そーなんですよ、ははは……」
 同級生はその説明に納得したようである。そしてあたるはそこに、微笑みながらもう一言付け加えた。
「まあそのカッコで見合いなんてしたら、詐欺以外の何物でもないよなあ、面堂」
「諸星!」
 面堂はあたるの襟元を掴んで引き寄せると、声をひそめて言った。
「きさま……この話どこまで知ってる?」
「もちろん、おまえに都合の悪いところまで!」
「……」
 にこにこしているあたるとは反対に、面堂は黙り込む。真偽を掴みあぐねているようで、その目には迷いがありありと浮かんでいる。だからあたるは、この悪ふざけの仕上げにかかることにした。襟元を掴まれたまま、あたるはそばの男子生徒に話を振る。
「面白いこと教えてやろーか。面堂は明日な……」
「諸星、ちょっと来い!!」
 面堂はぎょっとしたように素早く話を遮ると、あたるの腕を掴んで飛ぶような速さで教室から逃げていく。あまりの慌てように、面堂に付き合って走っている間あたるは笑いをこらえるのに苦労した。このまま振り返らないでくれるとありがたい、何しろそのほうが後々もっと面白くなるに決まっているのだから。

 近くの空き教室に入ったところで、あたるは頭の後ろで手を組みながらへらへら笑って言った。
「いいのか、クラスのみんなに本当のこと言わなくて?」
「ふざけるな、こんなの他言無用に決まっとろうが!」
「そりゃ残念だな〜、なにしろおれの胸だけにしまっておくには面白すぎ……いや、話が大きすぎる」
「きさま、言い触らしたら今度こそ本当に殺してやるぞ……」
「冗談だというのに……」
 ちゃき、と首元に突き付けられた刀を前にそう言うと、面堂はふんと鼻を鳴らして刀を引っ込めて鞘に収めた。
「鎌をかけてるわけではないだろうな。そもそもこんな話をどこで掴んだ? 家族の他はまだ誰も知らないはずだ」
「うむ、知りたければ教えてやろう。それはな……」
「了子の黒子だっちゃ!」
 最後まで言い切る前に、突然ラムがあたるの後ろからひょっこり顔を出した。面堂はよっぽど動揺したらしくラムを見た瞬間近くの机に勢いよくぶつかったが全く気付いていない。そもそも、ラムが付いてきているのもやっぱりわかっていなかったようである。
「ら、ラムさん……」
「ま、ラムの言うとおりだ。昨日うちに了子ちゃんの黒子が来て、おまえのことをよろしく頼んでったわけなのさ。おまえが男と見合いすることになったから、何も起きないように見守ってほしいってな」
 これが止めの一撃だった。面堂は顔を赤くしたり青くしたりしてわなわなと震えていたが、最後には膝から崩れ落ちて床に手をついた。身も世もない嘆きようは悲劇役者さながらだが、それはまったく演技ではないのだった。
「了子、よりによって……ラムさんの前で……こ、こんな……」
「大丈夫、うちとダーリンが何事もないように見守ってるから心配ないっちゃ!」
「もうその時点で事が起きてるんですけどね……」
「しかし面堂、ちっとばかし説明してもらいたいんだが……なんで了子ちゃんの見合いをおまえが代わることになったのだ?」
 面堂は虚ろな顔つきであたるとラムを見上げてしばらく考え込んでいたが、やがて諦めたように溜息をついた。一番隠しておきたかった相手に知られた今となっては、そこに枝葉末節を付け加えたところでこれ以上失うものは残っていないのだ。
 面堂はスカートの埃を払ってから近くの椅子に座りなおすと、昨日の顛末を説明し始めた。
 
 昨夜、帰宅するなり了子からまさに寝耳に水としか言いようのない新事実を明かされた面堂は、一も二もなく両親のもとに向かった。家族の団欒に使われるリビングルームの扉を開くなり、面堂は父のほうへと詰め寄っていく。
「父上、これはどういうことですか!」
「なんだ終太郎、騒々しい」
 不躾ですよ、と母も刺繍をする手を止めて咎める。だがなりふりかまってはいられない面堂は、なおも言葉を止めない。
「了子が見合いをするということ、なぜぼくに黙っていたのです!」
 しかしそれに答えたのは、父ではなく了子のほうだった。
「私がそうしてほしいと頼んだのです。お父さまは関係ありませんわ」
「何を考えているのだ、了子! 兄であるこのぼくに黙って、どんな馬の骨とも知れん男と見合いをするなんて!」
「おにいさまだって、水乃小路家の妹様とお見合いの話があったとき、一言だって私に教えてくださらなかったじゃありませんか」
「それとこれとは話が別だ!」
「いいえ一緒です! 先に裏切ったのはおにいさまの方ですよ。それなのに私に文句を言う筋合がありますか!」
 了子はツンと澄まして素っ気なく言った。了子がそうやってむくれる様子はなんとも可愛らしいが、これは非常に厄介なサインでもある。こうなった了子はそう簡単には自分の信念を曲げることがないからだ。
「父上! そもそもなぜこんな話を受けたのですか! 了子はまだ中学生、男なんぞと交際なんて早すぎますよ!」
 このままでは埒が明かない以上、面堂は再び父に向き直って言った。すると父はなぜか笑って「いや〜、それがな!」と何やら面白い打ち明け話をするときのような話しぶりになった。
「実は先方と話を付けたとき、向こうのお子さんはてっきり女の子だと思っていたのだよ」
「は?」
「要するに、本当は終太郎にと思って持ってきた見合い話なんだ、これ。いやはやまさか息子だったとはな〜!」
 はっはっはっは……と父はなおも笑っている。面堂は刀を抜きたくなる衝動をなんとかこらえた。ここで怒ったところでどうにかなるような人間ではないと、肉親である面堂が一番良くわかっている。
「間違いがわかった時点で断ればよかったではないですか!」
「そ〜ゆ〜わけにもいかんよ。せっかく乗り気になってもらったのに、今更無かったことにしてくれなんて言ったら気を悪くするだろう。まあ、何事も経験と言うし、見合いくらいなら害もなかろうて!」
「万が一何かあったらどーするんですか! ええい、ぼくは反対だ! 断固反対だ! 了子の見合いなんてぜ〜ったいゆるさん!!」
「そこまでおっしゃるなら、いっそおにいさまが代わりに出席なさったらいかがです!」
「またそうやって無茶なことを!」
 面堂と了子が睨み合い、またひと悶着起こそうとしたまさにその瞬間、父がにっこり笑って大きな声で言った。
「なるほど、そりゃあいいな!」
「父上、今なんと?」
「それなら了子を男の前に引っ張り出さなくて済むし、先方との約束も果たせる。一石二鳥だ!」
 この父親は毎度毎度たわけたことを突然言い出して、家族を、特に息子を困らせて喜んでいるものなのだが、今回ばかりはさしもの面堂も唖然として二の句が継げなかった。それからはっとして父にどうにか食って掛かる。面堂家では、黙っていればそれはそれでどんどん話がまずい方に運ばれていってしまう。
「な、な、何を考えてんですか! ぼくは男ですよ、無理に決まってる!」
「しかし今は女にしか見えん。大丈夫、バレやせんよ」
「ですが、いくらなんでもこれは……」
 面堂が必死に言い募っていると、今度は了子が「あんまりですわ、おにいさま!」と大きな声を出した。
「おにいさまは、結局我が身のほうが可愛いのでしょう。いざ話の風向きが変わったら途端に及び腰になってしまって。やっぱり私のことなんてどうなってもいいと思っているんだわ!」
「なっ、何を言うのだ、そんなはずがないだろう!」
 だが了子はほろほろと涙を流しながら俯いてしまう。面堂はぎくりとして、今の状況も何もかもが頭から吹き飛んで了子に駆け寄った。
「了子、話を聞いてくれ……」
「ああ、私は悲しい、私はこんなにもおにいさまのことを思っているのに、おにいさまは……」
「了子、泣くんじゃない……おまえのためなら、ぼくは何だってする覚悟があるぞ」
 悲しむ妹をどうにか元気づけようと、面堂は優しく彼女の頭を撫でて言う。すると了子はおずおずと顔を上げて涙に潤んだ目で面堂を見上げた。
「本当に……?」
「もちろんだ」
「おにいさま……」
 了子はそっと面堂の手を取って兄の顔を感慨深げに見つめる。それからくるっと父の方に顔を向けて言った。
「というわけですのでお父さま、おにいさまはやっぱり私のために代わりにお見合いに出る覚悟があるそうですよ」
「えっ?」
「そうか。まあ、元々終太郎のための見合い話だからな。何事も経験と言うし、見合いくらいなら害もなかろうて!」
「えっ!?」
「あらかじめ色々試着しておいてよかったですわねおにいさま。あのとき特にお似合いでしたお召し物、調整ももう済ませてありますのでご安心なさいませ」
 月曜日、家に帰ったあと了子に着せ替え人形さながらに散々弄ばれた記憶の数々が走馬灯のように頭をよぎっていって、面堂は震える声で呟いた。
「まさか最初からこのつもりで……」
「さあ、何のことでしょう」
 おほほほほ、と了子は今までの涙が嘘のように楽しげに笑う。
 面堂は父や了子を説得するのを諦めた。もはやこうして足元を掬われた以上、どうあがこうとも、そのまま転ぶ以外できることは何も残されていない。今面堂に残された抵抗など、せいぜい土曜日が来る前に世界が滅亡するよう祈ることくらいなのだ。

 面堂から事のあらましを聞き終わったあたるは、開口一番にこう言った。
「な〜んだ。つまるところ結局いつもの兄妹喧嘩ってことではないか」
「そりゃ〜赤の他人のおまえは簡単にそう言えるだろうがな……」
 面堂は実に苦々しげに言った。とはいえ否定はしないので、当事者にとってもやはりそういう認識であるらしい。毎度のことながら随分奇妙なやり方で喧嘩をする兄妹である。
 そして今回の了子の用意周到な罠の張り方は見事と言う他ない。しかも面堂の想い人であるラムをごく自然に、なおかつ確実に巻き込むやり方に至っては、もはや芸術的ともいえる。女の子はやっぱりすごいなあ、とあたるは感心してしまう。その巧みな手練手管にはこれからも彼女たちから大いに学ぶことがあるだろう。
 なにはともあれ、了子は面堂が自分に黙ってよその女の子とお見合いをした件がよほど腹に据えかねたらしい。その気持ちはあたるにもよくわかるので、より一層、了子の肩を持つ気になった。
「それにしても、了子ちゃんはおれのこと信頼してくれてるんだな〜! 飛鳥ちゃんのときもこっそり呼んでくれたもんね」
「勘違いするな、了子はおまえを体のいい玩具にしてるだけだ!」
 それはそれでどうかと思うが、たぶん気にしてはいけないのだろう。面堂に睨まれラムの視線が若干冷たくなっても気にせずに、あたるは了子のことを考えてニコニコしている。可愛い女の子のことを考えている時間は、あたるにとって世界で一番楽しいひと時なのである。
「諸星、了子がなんと言おうが明日は来るな」
「そーはいかない、了子ちゃんと約束しちゃったからな」
「来るな! どうせきさまのことだ、途中で抜けて了子に一人で会いに行く気だろう!」
「やだな〜、おれがそんな薄情な真似する男に見える?」
 面堂はその返答として、腕を組んで冷ややかに目を細めたので、あたるは先人の残した諺に思い至る。なるほど確かに目は口ほどにものを言うようだ。
「終太郎、ダーリンのことはうちがし〜っかり見張っておくっちゃ」
「恩に着ます、ラムさん」
「こら、それじゃ話があべこべではないかっ!」
「話をややこしくしとる本人が口出しするんじゃない!」
「なんだよ、元はと言えばおまえがそんなややこしい状態になってるのがそもそもの原因だろうが!」
 あたるがそう言い返した瞬間、面堂は目を瞠った。あたるのほうも口にするなり、あ、と自身の失言に気付いたが、一度放たれた言葉はもう取り返しが付かない。
「だれの……」
 面堂は震える声で呟いた。それからガバっとあたるの胸倉を掴んで今度は声を限りに怒鳴った。
「誰のせいでこんな身体になったと思っているのだ、おのれはーっ!!」
「そ〜だった。おれのせいだったね!」
 とだりあえず笑顔を浮かべてその場を取りなそうと試みるが、面堂をさらに逆上させるだけだった。
「きさまをたたっ斬れば羽根の効果も消え失せるかもしれんなあ!?」
 もうこうなったら宥めようと思っても無駄だろう。あたるは開き直って意地悪く笑った。
「良家の子女がそんな乱暴なことしようなんざ感心せんな〜、面堂」
「きさま、どうやら余程ぼくの手に掛かって死にたいようだな……」
「さ〜、そいつはどうだろう」
 とはいえこのままでは面堂に穏やかならぬ仕打ちを受けることは必定なので、この場を穏便に切り抜ける必要がある。まずは胸倉を掴む手をどうにかしなくてはならない。
 振りほどこうとしても簡単にはいかないだろう、面堂だって当然あたるがそうすることを予想しているはずだ。だったらいっそのこと、とあたるは考える。
 あたるは面堂のほうにまず一歩近付いた。そのまま面堂の制服のスカーフを掴んでつま先立ちし、すっと顔を近付ける。
「ッな……」
 キスでも仕掛けるような流れの動きに面堂はたじろぎ、あたるの制服を掴む力が緩む。その瞬間あたるは面堂の肩をとんっと押して軽く突き飛ばした。
 あたるはぺろりと舌を出して笑う。
「引っかかってやんの」
 面堂はふらりと背後の机に寄り掛かってあたるを唖然とした顔で見つめた。あたるは更に面堂をおちょくるように、ひらひらと指先でつまんでいる布を揺らしてみせる。
「さて面堂、これは何だと思う?」
 それが赤いスカーフだったので、面堂は慌てて自分の胸元に手を触れる。もちろんそこにスカーフはない。
「いつのまに……」
「すごい早業だっちゃ!」
「諸星、それを返せ!」
 面堂はすぐに取り返そうと腕を伸ばすが、あたるはひらりと身を躱して教室の扉を駆け抜けていく。面堂もすぐに後を追った。
「闘牛士の気分ってこんな感じかな!」
「なら角に刺されて倒れる気分も味わったらどうだ!」
 窓から差す陽光を反射して、面堂の抜き放った白刃が鋭く光る。
「いい加減付き合いきれないっちゃ……」
 やれやれと肩をすくめて、ラムは今週何度目かわからない小競り合いを見送っていた。