14 行かないで

「おれとするのそんなに気持ちいい?」
 気怠い疲れが全身を鉛に変えたような心地がする。指先一つ動かすことも億劫で、枕に顔をうずめてうつぶせになっているとき、あたるがそう言った。最前までとは違い、その静かな声の調子には意地悪な意図は感じられない。面堂はのろのろと体勢を横向きに変えてあたるに顔を向けた。うとうとと眠たげな表情が目に入る。放っておけばそのまま寝入っていそうだ。
 面堂は、答える代わりに小さく頷いた。それからふと気になってかすれた声で同じことを尋ねる。
「諸星は?」
「うん……おれも」
 あたるはかすかに微笑んで、面堂にそっと手を伸ばす。頬にかかった髪をすくい、耳にかけた。その感触がこそばゆくて、面堂は目を細める。
「だから……早くおまえが男に戻ってくれないと……」
 そこまで言いかけて、あたるは目を瞑りながら黙りこんだ。そしてそのままなかなか先を口にしようとないので、面堂は少し焦れてきた。
「ぼくが男に戻らないと……何だ?」
 それでも返事がない。もう一度声をかけようと思ったが、不意にあたるがすうすうと寝息を立てていることに気が付いた。
 火曜日もそうだったが、事が終わると眠くなるタイプらしい。面堂は小さく溜息をつく。まあ、いいか。今日は別に誰かに見つかる心配もないし、少しくらい帰りが遅くなっても不審に思われることもないだろう。
 面堂はそのままぼんやりとあたるの寝顔を見つめていた。いつ見ても、能天気なアホ面だなあ、と思う。本人には毎回怒られるのだが、面堂としては別に嫌いな顔という意味で言っているわけではなかった。
 お気楽かつ軽佻浮薄な表情が絶望的に足を引っ張っているだけで、実のところ顔の造作そのものは悪くはない、と思う。こうして無邪気に眠っていると嫌でもそれを感じる。特にふっくらした頬や幼さの残る目元には、子どもの持つ愛らしさに近いものがあった。本人があんな性格でなければ、もっと女性から人気があったはずだ。
 あたるの規則正しい寝息に耳を傾けているうちに、つられて面堂もうとうと微睡み始めていた。瞼が重くなり、意識がふんわりと宙に溶けていく。眠りに落ちる寸前、面堂は最後にこう思っていた。彼があんな性格でなければ、きっと自分とは喧嘩どころかまともに話すことさえなかったのだろうと。

 そして面堂はまた、あの夢を見た。あの人に置いていかれる夢。ぐすぐすと泣く幼い自分の髪を乱暴に撫で回して、いつかまた会えるよ、という儚い約束と悲しみを残して消える幻の情景。
 現実と幻想がまだ地続きだった幼い面堂には、それがただの夢とは信じられなくて、面堂は彼の言葉についてよく考えたものだった。いつかっていつだろう。どのくらいおとなになったら、あのひとに会えるだろう。いつか会えたら、また一緒に遊んでくれるだろうか。
 現実と幻想が袂を分かち、夢というものが無意識の映し鏡のようなもの、決して現実と交わることはないものだと気が付いてからも、面堂は心のどこかで来るはずのない「いつか」を待っていた。真っ暗な夜闇に包まれて、一人うずくまって泣いているとき、髪をかき混ぜる乱暴な手つきを、そのぬくもりを思い出した。しかし本当は、彼ともう一度会うことなど絶対にありえないとわかっていた。
「行かないで」
 夢の中で面堂は何度でも彼に言う。黒い影が彷徨う闇の世界。埃っぽい匂い、足下から伝わる無機質で冷たい感触。ふれあう肩から熱が離れて、面堂は冷たい闇の中に独りぼっちになる。
「またいつか必ず会えるよ」
 彼は言う。決して実現しない約束をして、いなくなる。意識が現実に帰ってくる。
 そして、ふと気が付く。こどもの自分が消え、あの日の屋敷が消え、真っ暗な大部屋も黒い影も名も知らぬ男も何もかもが虚空に溶けて消えていっても、そうして夜闇の中に独りぼっちでいる自分は、消えずに残ったままだ。
 そして面堂は、夢から持ち帰ったかすかな悲しみを抑えこんで、もう一度目を閉じて朝の光を待つ。いつもそうだった。

 目蓋を震わせて、ゆっくりと開く。知らない部屋の匂い、覚えのないシーツの荒い感触。黄昏時の金色の光が窓からかすかに差して、薄暗い部屋のなかを少しだけ見せる。ここはどこだろう、と思った。心はまだ夢の残滓の中を揺蕩って、現実に戻ることを嫌がっている。何だか知らないけれど、とても疲れていた。眠れるならまだ眠っていたい。でも、きっとだめだろう。胸の奥に深く根差した孤独感が、いつだってそれを妨げる。
 何かが違うと気が付いたのは、そのときだった。
 面堂は誰かの気配を感じた。はっとして隣に目をやると、なんとも幸せそうな寝顔ですやすやと眠っているあたるの姿があった。面堂は息をするのも忘れるほど驚いて、ただ彼のことを見つめていた。
 心に生じた動揺が落ち着いてくると、あたるを起こさないように、面堂は慎重に静かにそっと身を寄せた。今だけは、もう少し近くであたるを見ていたかった。そして近づいた際に偶然あたるの腕に身体が触れ、あたるはむにゃむにゃ寝言を言いながら面堂に腕を回した。
「うーん……サクラさん……」
 ぎょっとして速やかにあたるの腕から抜けようとするが、あたるは思ったより力強く面堂を抱き寄せたので失敗に終わった。サクラさん、と不明瞭な声でまた呟いて、あたるは頬と頬をすり寄せる。寝ても覚めても変わらない、呆れるほどの呑気さで、あたるは幸せな夢のなかを漂っている。
 面堂はそこでふっと力を抜いて彼に身を任せた。あたたかいぬくもりが、あたるからじんわりと伝わってくる。腕のなかでじっとして、その体温におとなしく包まれていると、うとうとしてきた。面堂は目を閉じる。あたるとあの人はきっと全然違う種類の人間なのに、面堂はなぜかあの人の乱暴に撫でる手のあたたかさを思い出していた。それだけなのに、たったそれだけのことなのに、なぜだか涙が出そうだった。
 そのささやかな時間は、目を醒まして真実に気付いたあたるが、肝を潰してベッドから転げ落ちるまで続いた。そして面堂はそれを見て、声を上げて笑ったのだった。

 シャワーを浴びて身なりを整え、誰にも見られないようにひっそりと密会場所から退散してから、面堂は友引高校に戻った。そこから無線で迎えを呼び、ヘリに乗り込んで自宅へと向かう。とっぷりと日が暮れていたが、迎えに来た隊員は帰りが遅くなった理由を尋ねようとはしなかった。あたると一悶着起こして帰りが遅くなることはこれまでにも何度となくあったから、言わずとも察しているのだろう。
 面堂は窓際に腰掛けながら、眼下の白や黄色の街明かりを眺めていた。友引町。東京の片隅にあるなんてことのない地味な町。目を引く特産物もなければ名の知れた観光資源があるわけでもない。自慢できることといえばせいぜい都心からそう離れていないことくらいだろうか。だがそれだって、ベッドタウンとしては理想的というほかには、魅力になるとは言い難い。
 今でも、自分がこの町に関わるようになったことを不思議に思う。転校先の候補は他にも山程あった。しかも大抵は友引高校より条件が良かった。都心にあるとか、校舎が新しいとか、偏差値が高いとか、設備が充実しているとか、家から遠くないとか、それはもう色々と。
 でも、なぜだろうか、友引高校という名前を聞いたときに、面堂は一瞬不可思議な引力を感じた。この場所には何かがある、そして自分はそれを確かめる必要があるのだ、という妙な義務感も生じた。そこにする、と言ったとき、母だけでなく父ですらかすかに驚いていたことを覚えている。
 父はいつも通り特に反対しなかったが、母はもっと品の良い学校に通わせたがった。朱に交われば赤くなるという危惧を、彼女は息子に対して常に感じているのだ。元々庶民の学校に面堂を通わせることにも不安を感じている母のことだから、せめてその中でも一番ましな場所に送り込みたいと考えるのも詮無いことだろう。
 いつもなら母の指示にはほとんど逆らわない面堂も、自分は友引高校に行く、と言ってこのときは頑として譲らなかった。それから父と母は面堂の進路のことで長い間言い争った。
 少し遠いし、校内の風紀に関してもあまりいいとは言えない。もし悪い友人ができたらどうするのか、と母は反対した。
 父は面堂の肩を持った。どうせ自由にできるのは子どものうちだけだ、好きにさせてやろう。登下校にはヘリを使わせてやればいいし、終太郎だって友人の良し悪しの判別くらいつく。仮に悪い友人ができたところで、そういう関係は長続きするものじゃない。
 にっちもさっちもいかなくなった夫婦喧嘩の沙汰は、祖父がつけた。
「新しい学校でも、みんなの手本になるんじゃぞ〜終太郎〜!」
 その一言で、面堂は自分の好きにする自由を得たのだった。
 あのとき、なぜそこまで友引高校に拘ったのか自分でもよくわかっていなかった。あんなひなびた高校に、なにか特別なところなんて冷静に考えればあるはずがないのだ。
 だが、転校して諸星あたるに出くわしたときには、ああ、これだったのか、と納得したのだった。
 今の日本にあたるを知らない人間はおそらくいないだろう。宇宙から来たインベーダーと地球を賭けた鬼ごっこをし、どうにか勝利をもぎ取って地球を救った男。そしてすぐに地球の石油という石油を自宅までのタクシー代に使った挙げ句、丸々一週間も石油の雨を降らせ、その傍迷惑な行為で評判を全て台無しにした。
 面堂も中継で鬼ごっこの様子は毎日見ていた。男のほうには興味はなかったが、対戦相手がなんとも美しい女性だったからだ。そういえば、中継地は友引町だったな、と面堂はあたるを見ながら思っていた。どこかで聞いたことがある名前だと思ったのも、妙に心がかき乱されるのも、そのせいだったとすればなるほど合点がいく。
「なんだよ、おれの顔に何かついてるか」
 あたるのことをまじまじ見つめていると、彼は気分を害したように睨み返してくる。確かこの男、中継ではあの美しい女性と結婚したということだった。テレビで見ているときもひどく驚いたものだが、実際にこうして目の前にしてもやはり全然釣り合っているとは思えない。それどころか。
「びっくりするほど締まりのないアホづらだなあ……」
 思わずそう口を滑らせると、あたるはすぐさま倍にして言い返してきた。
「何じゃきさまは、人の顔見るなり失礼なこと言いよって! ヘリ登校なんてぶっ飛んだ真似するわ、見境なく女は口説くわ、常識っつーもんはないのか!? 言っとくがな、しのぶはおれの女だ、わかったらしのぶにちょっかい出すなよ!!」
 面堂という人間を相手にそんなふうにずけずけと物を言う人間にも初めて会ったので、そこでまた驚くことになった。だが面堂だって言われっぱなしで黙ってはいない。売り言葉に買い言葉を繰り返すうちに、出会って十分ほどで面堂とあたるはめでたく犬猿の仲となった。そしてその嘆かわしい悪縁は、現在のところ途切れることなく続いている。
 面堂にとって、そしてひょっとしたらあたるにとっても、この関係は一言では表現しがたいものだった。顔を合わせれば喧嘩ばかりで、いがみあってはこんな嫌なやつはいないと思うのに、気が付くといつも一緒にいる。友達ではないと思う。ライバル、とも思わない。それは面堂にとっては、トンちゃんだけを指す言葉だから。じゃあ他になんと言えばいいのだろう、と面堂は考える。いくつも言葉が浮かんでは、すぐに打ち消す。それを何度も繰り返す。窓硝子に映った鏡像は、いつしか途方に暮れた顔をし始める。答えなんか出るわけない。そもそも、自分があの男を好きなのか嫌いなのかさえ分からないのに。
「若、到着まであと五分です!」
 ヘリを操縦する黒服の声で、面堂は物思いから現実に引き戻された。窓から見える町並みはとっくに友引町ではなくなって、子供の頃から馴染みのある景色に入れ替わっている。
 面堂は窓から視線を外し、座席に寄りかかる。実にくだらないことを考えていた。あんな男が自分にとって何であるかなんて、わざわざ決める必要などないのだ。さっきのことがあったから、変に感傷的になったのかもしれない。面堂は目を閉じて、思い返す。彼の体温と安らかな寝息。あれになにか特別なものを感じるのも、ラムの話にもあった身体の変化に伴う意識への影響のひとつに違いない。理由がはっきりしているから、胸に生じた穏やかなぬくもりを冷静に受け止めることができた。
 
 面堂の乗ったヘリは、本邸のすぐ横にあるヘリポートに着陸した。プロペラが生み出す風圧で芝生が同心円状に波打つなか、面堂は軽い身のこなしで広大な自宅に降り立った。
 鞄を持って本邸に向かう前に、最後に軽く身なりを確認した。あたると別れる前にも入念に調べたのだが、それでもなにか不審な点が残っていないか不安だった。きちんとハンガーにかけたおかげで制服に皺はついていない。乱れもない。手首の痕については、普通にしていれば袖の下に隠れる。あたるの言うとおりなのが憎らしいが、迂闊に動いたりしなければ誰にも気づかれないだろう。
 ただ一つ気になるのは、あたるの悪趣味な悪ふざけのせいでクシャクシャになったスカーフだった。もう一度生地を引っ張ってしゃんとした状態に戻そうと虚しい試みをするが、やはり何度やっても元には戻ってくれない。面堂は思わずスカーフを引きちぎりそうになったが、自制して冷静になるよう自分に言い聞かせた。
 なぜあたるはよりによって制服のスカーフで手首を縛ったのだろう。あの倒錯した情事を象徴する物を胸元に結んで、馴染みの部下の前に姿を晒す羽目になるなんて、本当に今までのなかでも最悪の展開かもしれない。たしかに、今日あたるとセックスしたことは誰も知らない。だから、スカーフの乱れた理由だって推測できるはずはない、それはわかっている。それでも、まるで情事そのものを他人に見せているような錯覚が面堂を苦しめていた。
 面堂が本邸の玄関に近付くと、黒服の部下が巨大な扉を開いていく。彼らの顔を見ないよう努めながら、面堂は足早に中に入っていった。ひとまず自室に直行し、さっさと制服を着替えてしまおう。そうすれば少なくとも家族にはこれを見られないで済む。
 だが今日という日はどうしても面堂の都合の悪いようにしか物事を運ぶ気がないらしい。
「おにいさま、お帰りなさい!」 
 どうやら了子はずっと面堂の帰りを待っていたようで、靴を脱いで上がるのとほとんど同じくらいのタイミングで、近くの部屋から姿を現した。
「っ、……ただいま、了子」
 内心の動揺を押し隠し、面堂はなんとか平静な態度で彼女に微笑みかけた。
 そしてそのとき彼女がきちんとした身なりをしているのに気が付いて、首を傾げた。了子が着ているのは桜の花が描かれた華やかな振袖だ。つまりは正装をしているのだった。
「どうしたのだ、その格好は?」
 面堂が尋ねると、了子はその場でくるりと回ってみせる。
「おにいさま、これ、私に似合っています?」
「うむ、とてもよく似合っているが……」
 今は正装の理由のほうが気になるのだが、了子は面堂の言葉を最後まで聞かずに、嬉しそうに手を合わせた。
「ほら、やっぱりね!」
 そして傍に控えていた了子のお付きのメイドさんに向かっていたずらっぽく笑いかける。
「ね、私の言ったとおりでしょう! おにいさまなら分かってくださると思ったわ!」
「おい、了子……」
「この子は私には白い牡丹のほうが合うと言うの。でも私はやはり桜の花が好きですから、どうしてもこっちのほうがいいと思って」
「ちょっと待て、了子!」
 上機嫌に話し続ける了子の言葉を一旦中断させるため、面堂は彼女の両肩に手を置いて注意を引く。そして了子が言葉を止めてこちらを見上げたところで、改めて尋ねた。
「了子、なぜ正装などしている? 来客の予定はなかったはずだろう」
「よくぞ聞いてくださいました!」
 すると面堂の愛しい妹は、どこか挑戦的なまでに輝かしい笑顔を兄に向けた。
「おにいさまには今まで内緒にしておりましたが、私、週末にお見合いすることになっていますのよ」