12 何もされなかった?
茶の淹れ方など知らん、と面堂が正直に言うと、あたるはブツブツ言いながらも面堂の分も用意してくれた。
「ほれ、わざわざ淹れてやったんだから感謝しろよ」
あたるは急須を傾けて湯呑みを二つ緑茶で満たし、片方を面堂のほうに差し出す。面堂は湯呑を取り上げて、湯気を立てる薄緑色の液体をじっと見つめた。
「で、さっきの話だが。今朝のラムとおまえの話を、聞いてた奴がいたようだな。そして人の噂っつーのは風より早く走るもんだ」
諸星あたるとはそれなりに長い付き合いになる。だからあたるの家に乗り込んでいったことは多々あるのだが、それは喧嘩を売りに行くためだったので、客として認識されたことはなかった。当然今までお茶を出されたこともない。
「午前中にはもうほとんどのやつが、おまえが明日には男に戻るかもしれないって知ってたみたいだ。本当なのかって、色んなやつからひっきりなしに……おい面堂、おまえちゃんと聞いてるか?」
あたるはお茶を一口飲んでから、面堂が湯呑を覗き込んだまま動かないことに気が付いたようで、ちょっと眉を寄せた。
「べつに毒なんか入ってないぞ」
「それは、わかってる」
そんなことを気にしているわけではないのだと、説明したところであたるは理解しないだろう。市井で生まれ育った人間には当たり前でも、面堂にとっては遠い世界の話である物事は少なくない。面堂は高校生になるまで夜店も闇鍋も知らなかったし、カップラーメンはまだ食べたことがなかった。
そしてこの緑茶は、家の外で知り合いに淹れて貰った初めてのお茶でもあったのだ。面堂は恐る恐る湯呑に口をつける。そして一口コクリと呑み下してから、感慨と共にしみじみ呟いた。
「まずい……」
「文句言うなら飲むな、このアホ!!」
あたるが両手でローテーブルを叩いたことでガッタンと天板が揺れるが、面堂は意に介さない。しっかりと湯呑を握ったまま、その薄くて安っぽい風味をゆっくりともう一度味わった。
幸い今のあたるにとっては、面堂の失礼な物言いよりも目の前の今川焼きのほうが遙かに大事だった。あたるは不機嫌な顔をしながらも、興味を今川焼きに移して話を続ける。
「ともかく、おまえが男に戻るかと思うと残念でならん連中もいるのだ。というのも……」
あたるによれば、その理由は様々であった。単純に女になった面堂の見た目が好みだというだけの人間もいれば、意中の女性が面堂に惚れているために、面堂の存在が邪魔だと思っている人間もいる。面堂は女たらしで有名だが、その面堂本人が女になってしまった、という皮肉な状況そのものを面白がっている者もいる。中には、このまま面堂が女でいれば将来金目当ての結婚ができるかもしれないと踏んでいる打算的な男も混じっていた。手紙を出すという行為は一緒でも、その裏にある事情は様々だった。そしてそのすべてが、判子を押したように似たりよったりの内容に収束していったというのもまた驚くべきことであった。
「羽根は早ければ明日には消えるとくれば、何かするにも今日しかあるまい。ある者はこ〜しておまえに嘆願書を出し」と言いながら、あたるは机の端に寄せられている紙の山を指先でとんとんと叩く。
「そしてある者はこのおれに協力を依頼した」
「つまり……?」
面堂が静かに先を促すと、あたるは真剣な面持ちで、そっと傍らに置かれていたたいやきの袋を撫でながら言った。
「つまり、このたいやきだの今川焼だのをやるから何とか面堂をこのまま女にしといてくれと……」
しーん、と静寂がその場を包む。面堂は何も言わず、あたるもむしゃむしゃと今川焼きを食べ続けていて、双方言葉を発さない。あたるが新しい今川焼きに手を伸ばしたところで、ようやく面堂は口を開いた。
「要するに、きさまは今日一日そうやって賄賂を受け取っていたわけだな……?」
「そういう言い方もできる」
その返答を最後に、また彼らの間に長い沈黙が降りる。やがて面堂はゆらりと立ち上がると、恐ろしいほどの無表情でそっと日本刀を取り上げ、その鯉口を切った。
「お、おい面堂……」
あたるの方も不穏な気配を察してそろりと立ち上がったが、彼が廊下に向かって駆け出す前に面堂は手加減せずに白刃を一気に振り下ろした。
「死ね、諸星!!」
「待て待て、たしかに諸々受け取ったがおれは別に協力するとは言っとらんぞ!」
「それじゃ詐欺だろうが! この極悪人め、やはり死ね!」
「おまえ一体どっちの味方なんじゃ!」
恐るべき反射神経で捕らえられた白刃が、互いに拮抗する力によって震えながら宙空で制止している。今回ばかりは本気で力を込めているのであたるの方も歯を食いしばって刀を受け止めていた。そうでなければ本当に殺していたかも知れない。
しばしそうしてにらみ合っているうちに、段々と怒りが大きく燃え広がり、その矛先があたるその人からもっと広範な対象へと広がっていく。賄賂を差し出し共謀を試みた奴らも、妙な手紙を出した奴らも、みんな目の前の男と同罪だ。
「だいたい何だ、大の男が揃いも揃って影でコソコソと! 面と向かってぼくに訴える気概もないのか!」
「なかなか理不尽なこと言うよな、おまえも!」
「どこが!」
「だってさあ。おまえも、今日色んなやつに別の場所で話をしようって言われただろ?」
「それがどうし……」
言い返している最中、あ、と思って面堂は不意に言葉を失った。そういうことだったのか。今日起きたあらゆる奇妙な出来事もようやく腑に落ちた。あたるを捕まえるのに躍起になっていたから大して気にかけなかったが、確かにやけに変な用事でどこかに誘われることが多い日だった。
「それじゃ、おまえ全然気付いてなかったのか?」
「……」
面堂はふっと刀から力を抜いた。あたるが怪訝な顔をして見上げるのも構わずに、無言で白刃を鞘に収めてふらっとソファに腰掛ける。
「面堂……?」
あたるの呼びかけにも面堂は反応しない。黙り込んだまま、膝に載せた日本刀を見つめていた。
どいつもこいつも、よってたかって人のことをなんだと思っているのだ。
面堂は男としての自分に自信を持っている。男に生まれたことを後悔したことなんか一度だってないしこれから先も絶対にありえない。だから今の状態は非常に不本意で、一刻も早く元に戻りたいと思っている。
でも、これだけたくさんの人間が、面堂が女でいることを望んでいるという事実を突きつけられると、自分という存在を根底から否定されているような気持ちになった。
面堂はたまらず口を開く。
「諸星……」
なるべく感情を抑えたつもりだったが、その沈んだ声にはどことなく硬質な響きがあった。
「ん?」
「おまえも……ぼくは女のほうがいいと思ってるのか」
口にしてからすぐに、訊かなければよかったと思う。答えなんかわかりきっているのに。そもそも最初に面堂を女に変えようなどという馬鹿なことを思いついたのは他でもないこの男なのだ。
だが、他の誰にどう思われていたとしても、あたるには、この男にだけは、本当の自分を否定されたくなかった。
面堂は拳をぎゅっと握って、あたるからの返答とそれに伴うはずの苦痛に備えた。そしてあたるは言った。
「いや、それはない」
え、と間の抜けた声が出た。思わず顔を上げる。
「やっぱ可愛い女の子見付けて口説くときは、おまえがしゃしゃり出てこないとつまらないんだよなー……」
はー、とため息をつきながら、あたるは腕を組んで面堂の隣に腰掛け、ソファにもたれかかる。その様子はどう見ても本気で言っているとしか思えなかった。
「ラムの電撃をかわし、出しゃばるおまえを出し抜いてこそ、ガールハントの醍醐味ってものがある!」
「誰が出しゃばっとるか!」
いつものように言い返したまではいいものの、なぜか胸の奥が苦しいくらい熱くなってきて、それ以上はもう何も言えそうになかった。面堂は慌ててまた俯いた。こんな顔を見られたらなんと言われるかわからない。そう思わざるを得ないくらい、自分でも戸惑うような、涙が出そうなほどの安堵を感じていた。
「しかしまあ、男連中が今のおまえをかわいいと思う気持ちもわからんでもないが」
「なっ、何をバカな……」
「なにしろ今日もおまえの写真がほしいってやつ結構いたからな。そーだ、いま撮っていい? 割といい値で売れそうでさ!」
「何が写真だ、揃いも揃ってくだらんことを! やっぱりきさまもあの連中と変わらんではないかっ!!」
「あの連中……って、まさか写真部のことか?」
どうやら怒りに任せてうっかり口を滑らせたらしい。面堂は自分の迂闊さを呪いながら、さっとあたるから顔を背けた。
「面堂、聞いてんのか」
「……」
「こら面堂、こっち向け」
なおもそっぽを向いて無視していると、あたるは面堂の肩を掴んでぐいっと無理矢理自分の方に向ける。否応なしに目が合った。どこか剣呑な目つき。
「何があったか話さないと……」
あたるはそれ以上先を言わなかったが、何があったか話さないとまたろくでもないことになりそうなのは顔を見ていればわかった。
「……わかったから、まずその手をはなせ」
面堂は肩の手を振りほどいてから、仕方なく火曜日のことを話し始めた。
初めて女として登校した火曜日の昼休み、面堂は写真部の男たちに呼び出しを受けた。
「ラムちゃんのかわいい写真が撮れたから焼き増しして分けてやろうか」
と、彼らはそう言ったのである。もちろん断る理由もなかったので、面堂は二つ返事でそのままついていった。しかしいざ写真部の部室につくと、問題の写真はまだ現像したばかりで、今は暗室にあるという。
「え……中に?」
面堂は暗室の前でたじろいだ。暗室内部は名前の通りもちろん暗い。余分な光でフィルムを駄目にしないようにするための部屋なのだから当然の話だ。そして部室にある暗室の広さなどたかが知れている以上、目の前の部屋は絶対に暗くて狭いことが確約されているのである。
「邪魔をしたな……」
「わーっ、待て待て!」
すたすたと足早に部室の出口に向かう面堂の肩を、写真部の一人が慌てて掴んで止めた。
「なんでここまで来て帰るんだ、写真が欲しくないのか?」
「そりゃラムさんの写真は欲しいが!」
「なのに行かないなんて、やっぱ本当なんだ。有名だもんな〜、面堂は閉所恐怖症の暗所恐怖症だって」
「ば、バカにするなっ!」
面堂は肩に置かれた手を払い除けて、ムキになって声を荒らげた。
「こんな暗室くらい……」
「平気なのか?」
「……」
面堂は口をつぐむ。嘘をついてもつかなくても喜ばしい状況になるとは思えなかった。だがラムの写真はほしい。誤魔化したままこの場を離れるのが得策なのはわかっていても、動けないのはそのささやかな欲のせいだった。
「大丈夫、暗室って言っても、セーフライトがあるから完全に真っ暗ってわけじゃない。怖がる必要はないんだよ」
「別に怖がってるわけではないっ!」
「そおか、じゃあ何も問題ないわけだね! よかった、さっそく中に入ろうか」
「えっ、ちょっと……」
ぐいぐいと背中を押されて、面堂は勢いに乗せられてそのまま暗室に連れ込まれてしまった。
黒い遮光カーテンをめくった先では、ぼんやりとした赤い光がかろうじて部屋を照らしている。狭苦しい机の上では、容器の中で現像作業中と思われる印画紙が、現像液に付けられていた。
たしかに真っ暗ではないから我を忘れて泣き出すほどではないが、この暗さと狭さはけっこう怖い。できることなら一刻も早くこの部屋から出ていきたい。部屋の中ほどまで進んでから、面堂は写真部の連中を振り返った。
「それで……写真は?」
「そのことなんだが……」
入り口を固めるようにして彼らは並んで立っていた。
「全部ウソだったんだ、悪いな」
一人の手が部屋のスイッチにかかる。ぱち、と音がして暗室は真の暗黒に包まれた。
「そ、そ、それで……どうなったんだ……」
「想像はつくだろう……」
面堂が湯呑を手にしながら暗い声で言うと、あたるはいよいよ身を乗り出して話の先を促した。
「んなっ、ま……まさか……」
「そうなんだ。ぼくは奴らの一人に抱き着いて泣くはめに……!」
「…………」
あたるは神妙な顔で黙り込んでから、また口を開いた。
「……他には?」
「ついでに身体を撫で回された。くそっ、思い出すだけでもおぞましい!」
ぎりぎりと湯呑みを握りつぶす勢いで悔しがっていると、あたるは肩から力を抜いてぐったりとソファにもたれかかった。
「なんだ、それだけか……」
「それだけとはなんだ、きさまーっ!」
いつものように日本刀で斬りかかると、あたるもお馴染みの反射神経ですばやく白刃取りする。
「ぼくの被った屈辱の大きさがわからんとは!」
「いや、だって、その状況だろ。てっきりおれは……」
あたるはそこで口ごもった。面堂はぎりぎりと力を込めてあたるを急かした。
「言いたいことははっきり言え」
「いや〜、その……」
あたるはへらへらと笑って誤魔化そうとするが、面堂はあたるから目を逸らさない。
「言え」
「ほら、早とちりだよ、ただの……そ〜だよな、そもそもおまえあの日まだ処女だったしな……」
「はあっ!? いきなり何を……」
また脈絡のない言葉で煙に巻こうとしているのかと思ったが、文句を言う前にはっと気が付いた。
「き、きさま、どういう下世話な想像を……」
「おまえに危機感がないだけだと思うが……」
驚きのあまり固まっている面堂からさっと刀を取り上げると、あたるはそれを脇に放った。
「複数の男に囲まれて、女一人、他に助けの来そうにない密室に連れ込まれる……こんな状況誰がどう考えても危険だろ」
とん、と肩を押してあたるは面堂をもう一度ソファに座らせ、自分も隣に腰掛けた。
「友引高校が平和だからよかったものの、別の高校ならこうはいかなかったかもな」
「し、しかしぼくは男で……」
「あのなっ、元が何でも今は女の子なの。自衛しろ。自覚を持て」
「そんなこときさまに言われる筋合いはない!」
「……」
あたるは面堂の腰に腕を回してぐっと抱き寄せた。そして耳元に唇を寄せて少し低い声で囁く。
「どこ触られた?」
「は?」
「写真部。どこ触ったんだ、あいつら」
「そ……そんなこと聞いてどうする……」
「いいから」
耳元に息がかかってぞわぞわとする。たまらずあたるを押しのけようとするが、向こうはかえって腕の力を強くした。
「せ、背中……とか?」
「それから?」
する、と手のひらが制服の下に滑り込んできて、ぴくりと身体が強張る。あたるの手が背中をゆっくり撫でさすり、その感触にぞくぞくして息がかすかに乱れた。
「諸星……、一体何なんだ?」
「別に。なんとなく?」
耳朶を軽く甘噛して、あたるは首筋を唇でなぞる。するすると下に移動して、開いた襟元にたどり着くと鎖骨をぺろりと舐めた。びくっと体が反応する。
「んっ……」
「本当に何もなかった?」
「さっきからそう言ってるだろうが!」
あたるは面堂の襟のスカーフに手をのばして結び目をほどき、しゅるりと音をさせながら抜き取った。そのまま制服も脱がしにかかったので、面堂はハッとしてその手を掴んで止めた。あたるは咎めるように面堂を見る。
「なんだよっ、今更!」
「ち、違う! そうじゃなくて」
面堂はあたるから目を逸らしながら、廊下の方を指さした。
「寝室は……あっちだ」