11 手紙

 面堂が待ち合わせの場所として利用することに決めたそこは、なんの変哲もない中流向けの住宅である。本来ならサングラス隊員に割り当てられる場所なので、それも当然だった。諸星あたるの家ほど安普請ではないはずだとは言っても、一般家庭を見慣れていない面堂からすれば似たようなものに見えた。
 面堂は懐から銀色の鍵を取り出した。がちゃ、と鍵が音を立てる。そのままゆっくりと扉を開け、面堂はするりとその奥に身を滑り込ませた。面堂はローファーを脱ぎ、きっちりと靴箱に揃えて入れた。そろそろとフローリングの上を進み、内部の様子を窺う。
 備え付けの家具はまだあまり使われておらず、新しい印象を受ける。白い壁紙にも傷や汚れは見当たらない。リビングの壁際には大型のテレビが一台据えられ、その前には木製ローテーブルと生成り色の布張りのソファがあった。南側には庭に繋がった大きな窓がある。そして部屋の窓には全てダークブルーのカーテンが付けられており、今は残らず閉められていた。面堂はローテーブルの上に鞄と手提げを置くと、とりあえず手近な窓に近づいてカーテンを開け放った。陽光が部屋に差し込んで、部屋の雰囲気もいくらか明るくなる。
 面堂邸から離れたときの自分の部下たちは、まさしくこういう環境で暮らしているのだ。そう思うと、馴染みの部下の見慣れぬ一面をはからずも垣間見たような気がして、なんだか不思議な感じがした。
 興味を惹かれた面堂は、他の部屋もいくらか見て回った。リビングの奥はキッチンになっている。そこから家事室、風呂場、トイレなども見つけた。リビングからつながる廊下を進むともう一つ部屋があって、そこは寝室になっていた。面堂はダブルサイズのベッドを見るなりぎくりと固まり、慌てて扉を閉めた。階段を上がって二階の様子も見てみたが、もうひとつ一回り小さな寝室があり、他は書斎に使えそうな部屋や、空室が見つかるだけで、あまり面白いものはなかった。
 一通り家の様子を確認し終わって、面堂はとりあえず一階のリビングに戻ってきた。
 面堂はソファにとさりと身を投げ出す。座った途端なんだか疲れを感じて、長い溜息をつきながらくったりと背もたれに身体を預けた。
「は〜……」
 ここまでたどり着くのに、随分と長い道のりがあった気がする。なぜあたるのような男のために、わざわざこんな手間暇をかけてやっているのかと、面堂はちょっと虚しい気持ちになって考えた。
 そもそも、なぜ最初の夜、あたるのあんな馬鹿げた提案に乗ってしまったのか。
 心当たりなら、そりゃあ、いくらでもある。
 たとえばこんな理由だ。いくら取り繕っていようが、面堂だって思春期の青少年の一人なのだ。男女がする夜の営みに興味がないわけがない。だからあのときは、つい魔が差してしまったのだろう。
 あるいは、あたるの演説に妙な説得力があって、ついその場の雰囲気に流されたのだとも思う。こういう場合でなくても、あたるからの唐突な無茶振りに勢いで乗ってしまうことは前々からよくあった。
 時間をかけて考えて行けば、こうやっていくらでもあの日の行動の動機は見つかるだろう。だが、おそらくどれだけ考えたとしても、わからないことが一つあった。
 そのいくらでも出てくる動機から、実行するに至らしめた最後のひと押し。それは何だったのだろう? いくら動機があっても、実際にやろうと思わなければ、結局なんの意味も無かったはずなのだ。
 あたるに押し倒されてキスされそうになったとき、あたるを押しのけてしまえば、今までの出来事すべてが起きずに済んでいたはずだ。なのにどうして自分はそうしなかったんだろうか?
「は〜……」
 面堂は答えの出ない問いの回答を探すことを放棄して、ソファに力なく横たわりながらまた長々とため息をついた。
 一番腹が立つのは、おそらくあたるの方は、こんな風にうじうじ考えて後悔しているはずがない、ということだった。

 面堂は少しそうして休憩してから、ゆっくり身を起こしてローテーブルの上に並んだ鞄と手提げをいくらか暗い面持ちで見つめた。
 確認したくはない。かと言ってやらないわけにはいかない。今日送られてきた不可解な手紙の山は本当に脅迫状なのか、それとも新手のラブレターなのか。読んでしまえばもうそんなことに頭を悩ます必要はなくなるのだ。
 面堂は深呼吸してから、思い切って手提げをテーブルの上でひっくり返した。ばさっと音を立ててモノトーンの紙の山ができる。面堂はその中の一つを無造作に選ぶと手紙の封を切った。そして中身に軽く目を通して、少し拍子抜けした。
「なんだ……やはりラブレターか……?」
 恋文にありがちな表現を中心に、特に害のない無難な文面が続き、面堂は気もそぞろに読みすすめていた。だが、徐々に内容に違和感を覚え始め、手紙の最後のほうに差し掛かる頃にはその違和感はいよいよ強くなり、そして最後に決定的な文が現れたことで思わずぐしゃっと手紙を握りつぶしてしまった。
「…………」
 面堂は無言で額を手のひらで押さえながら、しばらくじっと目を閉じていた。今読んだのは一体なんだったのか。いやもう考えないほうがいい。忘れよう。それがいい。少なくとも脅迫状ではないのだ……。
 面堂は握り潰した手紙をローテーブルの端にとりあえずよけて、気を取り直して新しい封筒を手に取る。そして最終的にまた手紙をぐしゃりと握り潰した。
(こ、これは……まさか……)
 わなわなと震えながら、面堂は一抹の恐怖に駆られる。どうか間違いであってほしいという切なる祈りを胸に次々と手紙を開封していくが、そのたびに思いは虚しく裏切られていった。モノトーンの封筒の山をあらかた確認し終わる頃には、面堂はこの世の不幸を全て背負ったかのように背中を丸めてすっかり項垂れていた。
 どのくらいそうしていただろうか。突然、インターホンが鳴り響いた。
 面堂は虚ろな顔を上げ、機械的な足取りで玄関に向かって行った。扉を開けると、呑気な微笑みを湛えたあたるが立っていた。
「お、面堂。ってことはここで合ってる……」
「諸星いいいい!!」
「どわっ」
 面堂はずかずかとあたるに詰め寄ると、あたるの胸ぐらを掴んで中に引きずり込んだ。玄関の扉が閉まるのと、あたるが面堂の腕を振りほどいて文句を言うのとは、ほとんど同時くらいだった。
「……っくりした、何すんじゃいきなり!」
「やかましい! こんなことになったのも全部きさまのせいだ!」
「いきなり何の話だ!?」
「読んでみろ!」
 面堂は折りじわのついた白い紙を一枚あたるの鼻面にべしっとたたきつける。
「んん? 手紙……?」
 あたるは何のことやらという顔でぽりぽりと頬をかく。それからつらつらと内容を読み上げ始めた。
「拝啓面堂様、青葉若葉のみぎり、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます、木々を渡る風もさわやかなこの頃……」
「時候の挨拶なんか読まんでいい、その先!」
「え〜と……あなたの御姿を拝見してから我が心は千千に乱れるばかりです、心からお慕い申しあげております……なんだ、普通のラブレターではないか」
「本当にそうか? 最後まで目を通してみるんだな……」
 あたるは言われるままにさらさらと続きを読んでいく。
「つきましては僭越ながら次のことを心よりお願い申し上げます、面堂様にはどうかそのまま麗しい淑女でいていただきた、く……はあ?」
 あたるは思わず朗読を止め、呆気にとられて面堂を見上げた。
「するとこれ、男が……」
「アホのきさまでもさすがに状況が呑み込めてきたようだな!」
 あたるはリビングのローテーブルの上に無造作に積まれた開封済の手紙に気付くと、荷物を傍らに放り出しながらソファに座ってそちらも手に取った。軽く中身をチェックしてはポイポイと横に投げていく。
「こりゃすごい。ひと山全部差出人が男とは」
「しかもどいつもこいつも異口同音の内容ときた、まったく腹が立つ!!」
「なるほどな〜」
 それからあたるは半ば独り言のように呟いた。
「そりゃ本人に直接言う方が早いわな……」
「……それはどういう意味だ?」
 面堂がすかさず問いただすと、あたるは声に出さずに、やべ、と口を動かした。いよいよ面堂の表情が険しくなると、あたるはへらへらと笑って誤魔化そうとする。
「いやー、別におまえが気にするようなことじゃ」
「まさか今日やたらと呼び出しを受けていたのと関係があるんじゃなかろうな?」
「う〜む、鋭いな……」
「説明しろ!」
「それは構わんが」
 あたるは再び胸ぐらを掴まれながらも飄々とした態度を崩さず、傍らに携えていた紙袋をすっと持ち上げる。
「まぁ、茶請けでも食いながら話さんか?」