10 日頃の行い

 面堂は自他共に認める健康優良児である。爆発に巻き込まれようがハンマーでどつかれようが、いくら酷い目にあってもそこから立ち直るのはすこぶる早い。
 だから当然、風邪だって一般庶民より早く治る。次の日の朝にはすっかり健やかになっていて、昨日の体育の出来事などなかったように普通に登校したのだった。
 校庭を抜け昇降口に入れば、見慣れた顔の生徒達の姿がある。各々自分にとって最適な登校時間があるものだが、その時間がたまたま面堂と同じだった学生達である。朝の商店街で買ってきた揚げたてコロッケを頬張る男子、話に夢中になって靴箱の前で動かない女子グループ、靴を履き替えながら粛々と小テストの範囲の見直しをしている者もいる。面堂は目に映る女子生徒全員に愛想良く挨拶しながら、自分の靴箱の扉を開けた。ぱさぱさ、と乾いた音と共に封筒が足下に散る。
 面堂はかがんで一つ一つを丁寧に拾い上げ、学生鞄からたたんだ手提げ袋を出して慣れた手つきで放り込んでいく。毎朝の日課である。
 なんだかわからないが、この姿になってからラブレターの数が増えた。最初は気のせいだと思ったのだが、毎日じわじわと数を増やし続けているのでさすがに自分を誤魔化すのも難しくなってきた。女の子に好かれること自体は嬉しいが、この姿でもらってもなんとなく釈然としない。おまけに男だったときより数が多いとなるといよいよ複雑である。
 考えられる理由は、竜之介の親衛隊の一部が今の面堂の姿を気に入って、手紙を出しはじめたというところだろうか。竜之介は女子からの人気が非常に高く、誠に残念ながら面堂でも彼女の人気には及ばない。とにかく絶対数が多いから、一部が流れただけでもそれなりの数になるはずだ。差出人が無記名だったり見ない筆跡だったり、以前とは毛色が異なる点もそれを裏付けるように思う。
 面堂は手提げを肩にかけると廊下を歩き始めた。開いた窓からは朝練の生徒達の元気なかけ声が聞こえる。
 この学校の女の子の考えることはどうもよくわからない。竜之介が面堂よりたくさんチョコレートをもらうバレンタインは特にそう思う。
 ひょっとしたら竜之介はいつもこんな気持ちでいるのだろうか。

 面堂は教室の端でいつものように女子たちと談笑していたが、あたるとラムが教室に姿をあらわすと、彼女たちに断りを入れて彼らのもとに向かった。
 今日は木曜日。ラムが火炎放射器の燃料を取り寄せ始めてから四日目になる。そろそろ届いてもおかしくはないと思い、昨日の夜からずっと期待していたのだ。
「ラムさん、おはようございます」
「おはよ〜だっちゃ!」
 あたると話をしていたラムは、面堂に気が付いて挨拶を返す。あたるの方は何も言わずに、頬杖をついたまま面堂を見上げた。
「お願いしている燃料って今どうなってますか」
「昨日の夜に発送の通知が来たから、トラブルがなければ明日か明後日には届くと思うっちゃ!」
「それは嬉しいニュースですね!」
 本当は今日すぐにでも届いてほしいと切に祈っていたので正直に言うと落胆してしまったが、それを綺麗に隠して面堂は喜んでみせた。せっかくのラムの厚意を無駄にするような態度は絶対に取りたくない。それに、今後の見通しがついたという意味では全く嬉しくないわけでもないのだ。
「そーかそーか。じゃ今日も一日その姿ってことだな〜、終ちゃんは」
「きさまに終ちゃんと呼ばれると怖気立つな!」
 振り下ろされた太刀を受け止めながらあたるはなおも懲りる様子がない。
「おれを斬ったって現実は変わらんぞ終ちゃん!」
「だから終ちゃんをやめろと言っとろうが!!」
「終太郎、もうすっかり元気だっちゃね〜。安心したっちゃ」
 じりじりと競り合いをしているときにラムがしみじみとそんなことを言ったので、面堂はパッと顔を明るくしてラムに向き直った。
「ラムさん、ぼくのことを心配してくださったんですか!」
「してたっちゃ!」
 ラムがきっぱり言うと、あたるが少し驚いたようにラムを見た。ラムはそれに気が付かずに続ける。
「今の終太郎は、普通の地球人の体じゃないから……骨格も筋肉も内臓も完全に変化してるし、正直に言うと何があってもおかしくないっちゃ」
「……と、いうと」
「たとえば、地球人なら当然持っているべき抗体や免疫記憶の一部が消えて、免疫系に問題が起きたりとか。そういう可能性もないとは限らないっちゃ」
「そ、そ〜ゆ〜ことは早く言ってくださいよっ!」
「もし今の身体に致命的な問題があったら月曜日の時点で倒れてたっちゃ。でも、あんなに長い時間走れるなら大丈夫だと思ったっちゃ」
「ああ、それで途中まで見ててくれたんですね……」
 てっきりあたるの様子を見守っているのだと思っていたのだが、面堂のことも気にかけてくれていたらしい。ラムの姿が見えなくなったのは夕方になる少し前くらいだったと思うので、結構な長い時間だったと言える。
 想い人に心配される、しかも普段面堂にあまり興味を示さないラムに心配されるというのは面堂にとって願ってもない僥倖だ。こうなる前だったら一日中上機嫌で浮かれていたと思う。いや、今も嬉しいことは嬉しいのだが、何か心に引っかかる感じがして素直に喜びきれないところがあった。面堂は何故かはわからないが、そのことにひどく不安を感じた。
「あの、ラムさん」
「ん?」
「この身体に起きた変化には、精神的なものも含まれているのでしょうか?」
 ラムは「う〜ん……」と少し考えてからこくりと頷いた。
「男女の体では内分泌のバランスが違うっちゃ。そういう物質のなかには脳に影響するものもあるから、きっと心にも変化が起きてるはずだっちゃ」
「なるほど……」
 それを聞いて、面堂は少しほっとした。
 面堂は根っからの異性愛者なのだから、女の体になった今、同性となった女性に以前と寸分違わず同じ感情を持つことはないとも考えられる。ラムが相手だからこそそれが感じられたのかもしれない。
 そうでなければ、あたると歪な関係に陥ったことでラムに罪悪感を覚えているのだろうか。だとしても、元の体に戻れば関係は自然に完全消滅するはずで、その後は双方ともに、過去を掘り返すような真似はしないだろう。自分は女ではないし、そもそもあたるにも面堂にも恋愛感情は全くないのだから、ラムの恋敵にはなりようがない。
 だからどの道、元の体に戻りさえすれば、全てが以前と同じ状態に戻るはずだ。
「それを聞いて安心しました。ありがとうございます、ラムさん」
「どーいたしまして!」
 ラムはにっこり微笑んだ。
 
 振り返ってみると、木曜日はごくごく平凡に過ぎていった。前回の授業で指名されていた問題の答えを黒板に書いたり、教科書を読み上げたり。特に何もなくただ座って授業を聞いているだけのときもあった。飛び入りの宇宙人も校外の人間も現れていない。休み時間にすれ違った温泉マークがいつになく上機嫌だったのも無理からぬ事だった。
 こんな日でなければ面堂だってきっと喜ばしい気持ちになっただろう。しかし面堂の気分は憂鬱に沈んでいる。そもそも今日ばかりはたとえ誰に何と言われようと病欠したかった。もしくはあたるに風邪が感染って向こうが休んでいればよかったのだ。ああ見えてよく風邪で寝込むくせに今回ばかりは何もないのが腹立たしい。それというのも、昨日保健室で交わさざるを得なかったあたるとの約束には「風邪が治ったら」という条件を付けていたからだった。
 あるいは、と面堂は思う。ラムの取り寄せている燃料が今日届くのであれば、それでもよかっただろう。そうなれば面堂は元の姿に戻ることができて、あたるとの約束も自然消滅するはずだった。
 しかし誠に遺憾ながらそのどれもが実現しなかった。世界は実に非情である。面堂は鞄から日本史の教科書と資料集を取り出して机に並べながらため息をついた。約束は約束だ、今更逃げるわけにも行かない。
 ――今度は邪魔の入らないところで、続きしようか。
 昨日交わしたその約束が意味するところは明確である。だが、状況は言葉ほど単純明快ではない。
 そもそも面堂の家にいる限り「邪魔が入らない」と言い切れる瞬間はないからだ。面堂家ではサングラス部隊が様々な用向きの元に屋敷中に散開している。さらに屋敷には了子の黒子だって同数程度いる。そちらの動向については面堂も完全に把握することはできない。真吾に至ってはいつもどこで何をしているのやら、さっぱりだ。そしてこれら全員が、いつ面堂の様子を見に来てもおかしくはないのだ。
 火曜日は運良く誰にも気取られることなく事の終わりまで済んだが、次も同じように無事に済むと考えるのは楽観的すぎるというものだ。
 面堂はポケットの中に手を入れて、そこに収まっている小さな鍵の感触を確かめる。友引町にある、サングラス隊員向けの社用住宅の鍵だった。昨日調べたところ、この家なら今は誰も使っていないし、鍵を持ち出したところで気付く人間もいないということがわかった。相変わらず管理が雑な連中だが、今回ばかりはありがたい。
 しかし問題はここからである。
「よっしゃ、またおれの勝ち〜!」
「あたるっ、おまえ絶対なんかやってるだろう!」
「言いがかりはよしてもらおうか、メガネ。ほれ百円、とっとと出せ」
「ちくしょ〜〜……」
 メガネと花札に興じているあたるを横目で見ながら、面堂は頬杖をついた。
 ラムやしのぶは無論のこと、コースケ、メガネ、北斗といった連中にも絶対に勘付かれてはならない。そしてタイムリミットは今日の放課後。ここを逃すと、また先日のように面堂の自室に突然現れてそのまま事に及ぶ可能性が高い。それを避けるためにも、機会を見計らってあたるをどこかに連れ出すか何かして、二人で話をする必要があった。
 そういうわけで面堂はいつもより注意深くあたるを観察していた。あたるの行動は実に単純だ。隙を見ては女の子をデートに誘ってラムに電撃を食らって、授業中は居眠りしているか漫画を読むか早弁している。学校に何しに来ているつもりなのだか、本人にもわかっているのだろうか。まあ、そこまではいつもと変わりない。
 ただ今日はどういうわけか、休み時間になると他クラスの男子生徒が代わる代わる現れては、あたるを呼び出して廊下に出て行くのだった。そして戻ってくるとあたるはジュースのパックとかお菓子の袋とか真新しい雑誌とか、そういうものを嬉しそうに持っている。
 そうやって絶え間なく呼び出しをされているので、今日のあたると二人で話すのはいつもよりずっと難しいと言わざるを得ない。
 おまけに今日はなんの因果か、面堂もなにかと声をかけられることが多かった。しかも大概「あれを運ぶのを手伝ってくれ」とか、「一緒にあれを探してくれ」とか、「あの場所についてきてくれ」とか、いいから他の奴に頼めとしか言えない雑用絡みが多かった。実際そう言って断っていたのだが、その隙にあたるの方が別の人間に誘い出されて姿を消している。
 まるで学校中から妨害を受けているような錯覚に陥る始末だった。何もできないまま、時間だけが虚しく過ぎていく。
 しかし、昼休みになった時、状況の好転を望めるきっかけがあった。
「ラムちゃん!」
「あれっ、ランちゃん。どうしたっちゃ?」
 昼休みになったとき、教室の扉の前にランが現れたのだ。やわらかな髪をふわりと揺らし、ランは微笑みながらラムに手を振った。
「わあ、蘭ちゃーん!」
「あらダーリン、こんにちは!」
 そして誰よりも素早くランに駆け寄ったのはもちろんあたるだった。あたるはニコニコしながらランの手を握る。
「嬉しいなあ、ぼくに会いに来てくれたの!」
「もうっダーリン、ランちゃんはうちに会いに来たっちゃ!」
 少し遅れてラムも生徒たちの上を飛び越し、すぐにあたるをランから引き離す。ランはくすくすと笑った。
「ダーリンって本当にいつも元気よね〜」
「そりゃもう、かわいい蘭ちゃんを見たら元気いっぱいになっちゃうもん! そういうわけだから蘭ちゃん、ぼくとデートしようよ!」
「どういうわけでそうなるっちゃ!!」
 いつものようにラムから電撃を喰らい、あたるはべしゃりと床に崩れ落ちた。それからラムは気を取り直してランに向き直る。
「ランちゃん、うちに何か用だっちゃ?」
「あのね、ラムちゃんにも、小学校のクラス会のお知らせもう来たでしょ?」
 ランの方も床で伸びているあたるに特に触れることなく本題に入っていった。
「うん。今度は何も起きそうにないから楽しみだっちゃ!」
「それがね……今朝、弁天から電話があって……」
 そこでランは声を潜めると、ラムに何かを耳打ちした。
「えっ!? それってちょうどクラス会の……」
「そうなのよ」
 ランは困ったような顔で頷いた。ラムは少し考えこんでから、ふわりとリノリウムの上に着地してランと並ぶ。
「作戦会議だっちゃ……」
「あたしもそれを言いに来たの」
 そして二人は頷きあうと、足早に廊下を歩いていった。
 友引高校に来る前のラムは結構やんちゃな子どもだったと聞く。きっとまたその頃のトラブルが再燃したのだろう、と面堂は思った。
 それよりも、今はあたるを確保する千載一遇のチャンスかもしれない。ラムが席を外している今なら、あまり苦労せずとも誰にも気取られずに例の話を持ちかけられるはずだ。
 面堂は席を立ってあたるの元へ向かおうとするが、ちょうどそのとき声をかけられた。
「お〜い面堂、ちょっといいか」
 教室の反対側の扉のほうから、同級生が手招きしている。こういう時に限って邪魔が入るのは何故なのだろう。面堂は迷ったが、仕方なくそちらの方に向かった。
「こいつらが、話があるってよ」
「ほう?」
 廊下には面識のない他クラスの生徒が二人立っている。
「何の用だ」
 無愛想に必要最低限の言葉だけを口にすると、男二人組はちょっと怯んだようにたじろいだ。女子になら惜しみなく笑顔を向けるところでも、男子が相手だとそんな労力を使う気も起きないので、面堂は無表情のまま腕を組む。
「場所を変えても構わないか?」
「いーや構うぞ。ここで手短に話せ」
「ここじゃちょっと言いづらい話で……」
「なら聞く耳を持たん。ぼくは忙しいのだ」
 取り付く島もない回答に、他クラスの二人は困ったように目配せを交わした。煮えきらない態度に苛々しながら、面堂はあたるの方を一瞥する。すると、既に復活している上にいつもの面子と教室を出ていくところだったので、またタイミングを逃したことを知った。
「ここで話すか、とっとと消えるか、今すぐ決めろ……」
 そしてそれはこの二人のせいだとしか言いようがないので、やり場のない怒りを込めて睨みつけると、男子生徒はそのまま逃げ出すようにその場を去っていった。
「いやちょっと今のかわいそうじゃねーか?」
 先程面堂を手招きした同級生が苦笑しながらそう言ったが、面堂は肩をすくめた。
「どこが。あれくらいで逃げるなら元々大した用事などなかったんだ」
「話くらい聞いてやればいいのに」
「嫌だ。あの手の呼び出しは写真部のときに懲りた」
「へ〜、なんかあったの」
「言いたくない」
 面堂はその気持ちを態度でも示すようにふいっと背中を向けて、さっさと自分の席に戻ろうとした。が、その瞬間ぐいっとセーラー服の裾を引かれて止められる。
「待て面堂」
 しかもそれがあたるの声だったので、面堂は驚いてぱっと振り返った。
 確かにさっき教室から出ていくところを見たと思ったのだが、廊下からひょっこり顔を出しているのは間違いなくあたるである。
「それ、火曜日の昼休みの話だろ?」
「な……なぜ知ってる?」
 しかも、今の話を聞いていたらしい。
「写真部で何かあったのか?」
「きみには関係ない」
「そりゃま、そ〜だが」
「そんなことより諸星、少し話が……」
 この機を利用してさっさと問題を片付けてしまおうと思ったが、今度はコースケが廊下から顔を出してあたるの襟首をぐいっと掴んだ。
「あたるっ! 何油売ってんだ早く行くぞ!」
「あ、そーだった。悪いな面堂、あとにしてくれ!」
「おいこらっ、諸星!」
 これでは事情を説明するどころではない。このままでは放課後になっても合鍵のことを話せないのではないかという一抹の不安も感じ始めた。
 三十分ほど経った頃、あたるはニコニコしながら腕いっぱいに白い紙袋を抱えて戻ってきた。その頃にはラムも教室に帰ってきていて、自分のお弁当を食べていた。
「ダーリン、それ何?」
「たいやき。メシ食った帰りに五組のやつらに会ってな。そいつらにおごってもらったのだ」
「へ〜、なんだか今日はみんなダーリンに優しいっちゃね」
「ま、日頃の行いってやつかな……」
 するとたいやきの匂いを嗅ぎつけた男子たちが、誘蛾灯にたかる虫のようにあたるの机に集まって行く。
「あたる、たいやき分けてくれ」
「アホ、誰がやるもんか」
「一人じゃ食いきれんだろ、おれたちが手伝ってやる!」
「それが余計なお世話だというのがわからんのか!」
 深海生物の触手よろしく貪欲に伸ばされる腕から紙袋を素早く遠ざけて、あたるはべーっと舌を出した。
「仮に食い切れんとしてもだ、ど〜せならサクラさんにプレゼントするに決まっとろうが!」
「ケチ!」
「どこが日頃の行いじゃ!」
「地獄に堕ちろ!」
 散々な捨て台詞を吐いて、誘蛾灯の虫たちは自分の席にぞろぞろと帰っていく。
 あたるはたいやきを二つに割ってほこほこと立ち上る湯気を楽しんでいる。あたるが男子を相手に親切にされるようなことをするはずもない以上、どうもこの一連の出来事には裏があるような気がしてならない。だが今のところ、謎を解くヒントになるような出来事はなかった。
 そのときあたるが面堂の視線に気が付いた。あたるはサッと紙袋を抱えこむ。
「なんじゃおまえまで。やらんぞ!」
「誰も欲しいなんて言っとらんわ!」
 面堂はガタッと立ち上がって反論した。そしていい加減思い通りに動く気配のないあたるに腹が立って来ていたので、喧嘩でも売らないと気が収まらない。面堂はせせら笑いを浮かべて挑発した。
「他人から施しを受けて喜んでいるとは、相変わらずプライドの欠片もない男だな」
「なんだとお〜?」
 あたるの方もガタッと席を立つ。そしてこの後の展開を経験から予測した同級生たちもガタガタと机を動かしてなるべく二人から離れ始めた。
「人からの親切をそんな風にしか言えんとは、おまえこそ心根の卑しいやっちゃな!」
「貧乏人にだけは言われたくない言葉だ!」
「お〜そうか、んじゃもう一度言ってやる!」
 面堂が鞘から刀を抜き放つのを見るや、あたるもひょいと紙袋をラムに預けて身構えて言った。
「面堂のいやしんぼ!」
「アホか、それじゃ意味が違うだろうがっ!!」
 普段は面堂とあたるがやり合っていても面堂に加勢が来ることはまずないのだが、今回は先程たいやきを分けてもらえなかった級友からあたるにヤジが飛んだ。
「いやしんぼはオメーだろあたる!」
「そーだ、たいやき独り占めしたくせして!」
「こらおまえら、面堂なんかの肩を持つ気か!」
「たしかに面堂は厭味なやつだが食い物を出し惜しみしたことはないぞ!」
「そーだそーだ、やっちまえ面堂!」
 めったにない声援を受けて、面堂の方もちょっと毒気を抜かれて呟いた。
「食べ物の恨みというのは実に恐ろしいな……」
「ダーリンがたいやき分けてあげればみんな応援してくれるっちゃ!」
「ぜーったいやだっ!」
 あたるはきっぱりと言い切る。こちらはこちらで恐るべき食い意地であった。
 そういうわけで面堂とあたるは今日もいつものように喧嘩を始めた。しかししばらくして面堂は、あたるがちゃんと立ち向かってこないことに気づいた。いつもならあたるの片手にはハンマーがあって、面堂を気絶させようと虎視眈々と狙っているのに、今日は反撃の手段を全く持たないまま面堂の刀を避けるばかりである。
「諸星、本気でやり合う気はあるのか!」
「だーって……」
 あたるはひょいひょいと器用に切っ先を避けながら肩をすくめる。
「おれ、女の子には手を上げない主義だもん」
「戯言を!」
 そんな理由で手を抜かれていると思うと非常に腹立たしい。こんな状態に落ち込んでいても、面堂は自分を女だと考えたことは一度もないのだ。こうなったら徹底的にやりあって、あたるの思い違いを正してやらねば気が済まない。
「ええい、これでもまだ世迷い言をほざくか!」
「っく……」
 面堂が本気で刀を振り下ろしてぎりぎりと力を込めると、さすがにあたるも歯を食いしばって懸命にそれを押さえていた。
 力が拮抗し、白刃を挟んでしばらく睨み合っているうちに、ふと気が付いた。
 クラスメイトはみんな巻き込まれるのを嫌がって二人からはかなり距離を取っている。もしここで何か会話をしたとしても内容を聞き取ることはできない。そもそも喧嘩のさなかの言い合いに興味を持つものなどいないだろう。
 今こそが、面堂の求めていた好機というやつではないだろうか。
 面堂はあたるにしか聞こえないように声量を絞って口を開いた。
「諸星、一度しか言わないから、よく聞け」
「ん?」
 面堂は何も説明せず、昨日調べた社宅の住所を淡々と告げる。
「覚えたか」
「まあ……」
 何のことやら、という顔で怪訝そうに見上げてくるあたるに、面堂はささやき声で続けた。
「今日の放課後そこに来い」
「おい、さっきから何の話を……」
「続きをしたいんだろう、昨日の」
 面堂がそう言った途端、あたるはあからさまに動揺してバランスを崩した。そのまま押し負けて後ろざまに倒れる。
「あっ! 見ろ、面堂が勝ったぞ!」
「うるせー、まだ負けとらんわっ!」
 あたるは級友に野次り返して立ち上がろうとするが、その前に面堂はぴたりとあたるの首筋に切っ先をつきつけた。
「これでもそう思うか?」
「うっ……」
 あたるは観念したように小さく息を吐いた。代わりに非難を込めた目で面堂を見上げる。
「おまえな、こういうやり方はズルいだろ」
「きみが勝手に転けたんじゃないか」
「おまえのせいだおまえの!」
「なんとでも言え」
 面堂は取り澄まして刀を鞘に戻した。しかし実に気分がいいので自然と口元が弧を描いていく。あたるとの小競り合いで、面堂が勝ったと言える回数はその実多くない。というより大抵負けるか引き分けで終わるので、ほとんど無いかもしれない。だから、たとえ偶然の賜物だろうが狡いと言われようが、あたるに完勝できたのがとても嬉しかった。
 対してあたるの方は当然面白くないわけである。立ち上がって制服のホコリを払いつつ、面堂の笑みを見て嫌な顔をする。
「その勝ち誇った顔、腹立つな〜」
「勝者の特権だ」
 面堂が少し乱れた前髪を櫛で整えていると、あたるはすれ違いざまに、面堂にだけ聞こえるような声で言った。
「あとで覚えてろよな……」
 面堂は思わず振り返ってあたるを目で追うが、そのときにはもうあたるは面堂には目もくれずにラムの元に戻っていた。
「珍しいっちゃね〜、ダーリンが終太郎に負けるなんて」
「やかましいっ、もう言うなそのことは!」
 ラムから紙袋を受け取って、あたるはたいやきをまた食べ始めている。面堂のほうも、見物していた女生徒に話しかけられてもうあたるどころではなくなっていた。彼女たちと談笑しながらも、面堂は頭の片隅でさっきの言葉についてずっと考え続けていた。
 あとで、という言葉。もしあたるが今の出来事に対する意趣返しを、あとですることを考えているなら。
(今日の放課後……ぼくは諸星に、何をされるんだろう……)
 その疑問が頭をかすめた瞬間、ぞく、と身体の奥に震えが走る。そして面堂はそのこと自体に動揺した。これではまるで、何かが起きるのを期待しているようだった。

 放課後、昇降口で面堂はいつものように靴箱の扉を開ける。
「うわっ」
 すると、かつてないほど大量に封筒がぱらぱらこぼれ落ちたので面堂は驚いた。
「どーなってるんだ、いったい……」
 しかもその大半は女子が好むような可愛い封筒ではなかった。白や灰色といったモノトーンの、無地の封筒が多い。今までになかった事態に面堂は言葉を失って立ち尽くす。
(きょ……脅迫状……? いや、そんなまさか……)
 中を読めばはっきりするが、こういうプライベートな手紙の場合、女性の気持ちを慮って人前で開かないことにしている。もし勘違いだったら申し訳がない。
 ふるふると拳を握りしめながら散らばった手紙を見下ろしているとき、状況を知らない男子生徒が呑気に声をかける。
「よお面堂、今帰りか」
「見ればわかるだろ!」
 キッと睨みつけると、彼は怯んで身を引いた。
「あの、なんつーか、今時間あるか聞きたかったのだが……」
 またその手の話か、と面堂はうんざりする。今日で何度目だろう。
「ない。忙しい。邪魔をするな」
 にべもなく言い捨てると、面堂は気を取り直して封筒をかき集めてさっさと手提げに放り込んでいく。
「いや、ほんと少しでいいから……」
「ぼくは今すこぶる機嫌が悪い。引き下がる方が身のためだぞ」
「そこをなんとか……」
 なおも食い下がる級友に、面堂は八つ当たり半分で普段なら絶対にあたるにしかやらないことをやった。太刀を鞘から抜き放って、蛍光灯を反射してぎらりと光る白刃を構えて言う。
「もう一度言う。邪魔をするな」
「まっ、また明日な~!」
 彼は引きつった笑みを浮かべると、さっさと引き返していった。面堂は太刀を鞘に収めて靴箱に残っていた他の封筒も回収し、ローファーを引っ張り出してコンクリートの上にやや乱暴に投げ出す。
 とんとんとローファーのつま先でコンクリートをつついているとき、さっきの同級生の声が耳に入った。
「だから無理って言っただろ、あれは面堂なんだぞ……」
 振り返ると彼は柱のそばで別のクラスの人間と何か言い合っている。彼らにとって急を要する用事でもあったのかもしれない。しかし仮にそうだとしてもこちらには関係ない話だ。まして男が面堂に持ちかける用事なんか、ノートを貸せだの憧れの彼女を返せだの、毎回ろくな事ではないので無視するに限る。
 それに、はやくこの奇妙な封筒の正体を確かめないことには気持ちが落ち着かない。面堂は早足で昇降口を抜けていった。