09 保健室

 同級生たちからだいぶ離れて、話しても誰かに聞こえないくらいの距離になると、あたるが大きく息を吐いた。
「は〜……どうにか誤魔化せたな〜」
「……」
「他の連中はともかく、ラムの勘の鋭さだけは本当に侮れんな……」
 面堂がなおも黙っていると、あたるはちょっと立ち止まって肩越しに顔を向ける。
「おい、生きてるか?」
「……こんなことで死んでたまるか」
 渋々口を開くと、あたるはまた昇降口に向かう歩みを再開する。
「なんで怒ってんだ?」
「別に、怒ってない」
「ほ〜。じゃなんで機嫌が悪い?」
「機嫌も悪くない」
「おまえ、時々子どもみたいな意地張るよな」
 どーでもいいけどさ、と付け加えてあたるは会話を打ち切った。
 そして面堂は、その何もかもが気に入らなかった。だいたい、風邪を引いたのだって、この男が悪いのだ。シャワーを浴びる前にいきなりやってきたから、身体が冷えた状態のまま夜を過ごす羽目になった。身体に大きな負担をかけた上に眠るのも遅くなって、体力を回復する時間も取れなかった。
 なのにあたるは、何事もなかったように振る舞った。面堂にとっては午前中いっぱい頭を悩ますような出来事だったのに。あたるはいつもと変わらない顔で、変わらない態度で、それがどうしようもなく悔しかった。
「まったく、せっかく助けてやったのに……」
 あたるのぼやきに、面堂は考える前に言い返していた。
「それが間違いだったんだ」
「なに?」
「きみが余計な手助けをしなければ、そもそもあんなことにならなかった、と言っている」
「おまえ、ほんっとムカつく奴だな! おれは別におまえをこの場に捨て置いて帰ってもいいんだぞ」
「勝手にしろ」
 こんなことを言い争っても馬鹿馬鹿しいとわかっているのに、言葉が止まらない。
「ぼくなんかに手を出すほど見境がないと思われたら困るんだろ」
 それを聞いた途端、あたるは一瞬歩みを止めた。そして次に口を開いたときには少しだけ態度が変わっていて、あたるはちょっときまり悪そうに言う。
「あ〜でも言わんと誰も納得しなかっただろ!」
「きみの舌先三寸にはほとほと呆れるよ……」
 すると、あたるの方も声を低くして咎めるように言った。
「だったらおまえこそ、昨日のアレはなんだよっ」
「昨日……?」
「ほら、おまえ昨日……あのとき……最後おれに言っただろ。あれはどういう意味だ」
 面堂は戸惑った。あたるが気にするような言葉を言った覚えがなかった。しばし記憶を探る。あたると別れる前に、自分はどんな会話を彼と交わしただろうか。
 やがて面堂はおずおずと口を開いた。
「さっさと帰れ……?」
「違う、その前!」
「え〜と……心の準備ができてない……?」
「それより後だ、わざとやっとんのか!」
 あたるは苛々と歩調を速めるが、面堂にはまったく心当たりがなかった。
「悪いが、本当に思い出せない……ぼくはなんて言ったんだ?」
 他意なく口にした質問だったが、なぜかあたるは黙り込んだ。
「諸星?」
「もういいっ。忘れろ」
 不貞腐れたように言い捨てて、あたるはそれきり何も言わなかった。普段なら面堂もその様子を訝しんで更に追求していたのだろうが、今はとにかく身体が怠くて頭がボーッとする。急に今までの成り行きの何もかもが本当にバカバカしく感じてきて、黙っていた。
 そもそも、なぜあんなつまらないことで腹が立ったのだろう。


 少し開いた窓から、二年四組の生徒たちの声が聞こえる。グラウンドでの体育の授業は元通り再開していて、何も問題がなさそうだ。
 風が吹き、窓辺の花がかすかに揺れて純白の花弁が一枚はらりと落ちた。今日は八重咲きの白い薔薇が数本、切り子細工のガラスの花瓶に挿されていた。
 友引高校の保健室では、消毒薬の匂いに混じっていつも花の香りがする。窓のそばの灰色の薬品棚の上に、毎日新鮮な花が飾られているからだ。何かと病気をひねり出してはやってくる男子生徒たちが、サクラの気を引くつもりでしょっちゅう保健室に持ち込むのだ。
 そして面堂は、よりによってこの保健室にやって来てしまった花瓶の花を見るたびに、なんとなく気の毒になるのだった。たとえどんなにたおやかで美しい花であっても、この部屋の主の前では色褪せて見える他ないのだから。
 ピピピ、と体温計が鳴る。
 パイプ椅子に腰掛けたままぼんやりとしていた面堂は、その音ではっと我に返った。
「どれ、見せてみい」
 テーブルの向こうで、キャスター付きの事務用椅子に座ったサクラがほっそりした手を差し伸べる。面堂は言われるままに脇に挟んでいた体温計を彼女に渡した。
「三十八度四分。紛うことなき高熱じゃな」
 サクラは下を向いたときに頬にかかった長い黒髪を優雅に耳に掛けている。そんな何気ない仕草でも、サクラがやるとつい目を離せなくなるような色気があった。いつ見てもこの女性は神秘的で、凛として、浮き世離れした美しさを持っている。
「おぬし、よく今まで平気で授業に出ておったな」
「いや、てっきり寝不足のせいだとばかり……」
「おれもサクラさんのことを思うと夜も眠れなくて! その胸の中に飛び込まずにいられない!」
「おぬしは黙っとれ!」
 満面の笑みと共に抱きつこうとしてきたあたるに、サクラは間髪を入れず鉄拳をお見舞いする。あたるはべしゃりと床に倒れ込んで動かなくなったが、サクラは特に何事もなかったように面堂との会話に戻った。
「どうする、早退するか。辛くて授業も聞いておれんだろう」
「早退……」
「嫌なのか?」
 面堂は小さく頷いた。
「なにぶん身体が丈夫ですから、少し寝ていれば治るのではないかと……」
「まあ、それは否定できぬが、家でしっかり休む方が治るのも早いと思うぞ」
 サクラの忠告がもっともだということは面堂にもわかっているが、それでも面堂はその通りにする踏ん切りがつかない。
 面堂は、子供の頃からずっと「みんなの模範となるように」と母から言い聞かせられて育った。人の上に立つには、誰よりも優れた人間にならねばいけない。学業もスポーツも誰かに遅れを取ってはならない。そして、きちんと自己管理していれば遅刻も欠席もするようなことにはならない、と厳しくしつけられた。幼い頃、無理をして体を壊したり風邪で寝込んだりするようなことがあると母はひどく叱った。そんなことで将来財閥をまとめられるのか、トップが不健全な働き方をすれば部下もそうするしかなくなる、誰も安心して働けないと。
 できれば風邪を引いたことは家族には黙っておきたい、と面堂は切に思う。子どもの頃でもあんなに怒られたのだから、高校生にもなって早退して帰ってきたとなれば母からどんな恐ろしい小言を言われることかわからない。
「気分が良くなるまで休ませていただけますか」
「好きにしていい。今日は他に誰も休んでおらんしな」
 サクラは面堂の額に冷却シートを貼ってやると、頭に優しく手を乗せて言った。面堂はその心地よさに目を細め、座ったまま彼女を見上げる。
「先生……」
「ん?」
「ぼくと付き合ってください」
「いいから寝てろっ!!」
 サクラは面堂をがしっと抱えると、そのままベッドに勢いよく投げ込んだ。いくらマットレスがあるとはいえ顔から着地したので結構痛かった。
「先生、病人相手にあんまりですよ!」
「病人なら病人らしくせんかっ! そんな姿になっても中身は色餓鬼のままとは、まったく恐れ入るわ!」
「サクラさん、ぼくの頭もナデナデして〜!」
「おぬしは論外じゃ!!」
 ゾンビじみた生命力で復活したあたるを、サクラは丸めた参考書でスパンとはたき落とした。それから頭痛をこらえるような表情で額を押さえて深いため息をついた。
「おぬしらを相手にしてると気力がいくらあっても足りん……」
「う〜ん、憂い顔も素敵っ」
「諸星あたる、おぬし病人ではないのだからさっさと授業に戻れ!」
「いやじゃ。おれは先生に面堂の付き添い頼まれたんだ」
「だから、もう十分役目を果たしたろうが」
「でも連れてったあと授業に戻ってこいとは言われてないもん」
「またそ〜ゆ〜屁理屈を……」
 サクラが腕を組んであたるに長いお説教をしようとしていたとき、保健室の扉がガラリと音を立てて開いた。三人は同時に目を向ける。立っていたのは、一年生に数学を教えている若い男性教師だった。
「サクラ先生、商店街の鰻屋さんからお電話ですよ」
 彼がそう言うと、サクラの表情がぱっと明るくなったが、間を置いてちょっと固くなる。
「まさかこの前のツケの……?」
「いえ、またなんかの除霊の依頼みたいで」
「ああ、そうですか! 素晴らしい。ではすぐに……」
 サクラは廊下の方にさっさと向おうとしたが、不意にピタリと立ち止まって振り返った。
 白いベッドのなかで上半身だけ起こしている面堂と、そのそばの椅子に胡座をかいて座っているあたるを交互に見てサクラは考え込んだ。
「サクラ先生、どうされました?」
「いや……」
 彼女は少し逡巡してから、半ば独り言のように言った。
「まあ、さすがに共食いはないか……」
 だがそれでも彼女はツカツカとあたるに詰め寄ると、しっかりと釘を刺した。
「よいな、なるべくすぐに戻ってくるつもりだが、おかしな真似をしたら承知せんからな」
「へいへい、何もしないって」
 若干の不安とウナギへの淡い期待を綯い交ぜにした表情に浮かべながら、サクラは数学教師と共に保健室を出ていった。
 面堂はそれからすぐにベッドに横になると、白い掛け布団を肩まで引き上げて、その上から毛布をしっかりと身体に被せた。こうすると少しは悪寒がマシになった。
 まさか熱があるとは思わなかった。しかし温泉マークの話に集中できなかったのも、冬用ジャージを着ても寒いくらいだったのも、風邪のせいだと考えればたしかに納得できる。
「共食いだと。サクラさんもおもしろいこと言いよる」
「きみと同類扱いされたって面白くもなんともない」
 ふいっとあたるとは反対の方に体を向けて、面堂は毛布にくるまったまま目を閉じた。自宅のそれとは似ても似つかぬ貧相な寝具でも、ただ身体を休めることができるというだけでほっとする。このまま少し眠ればきっと体調も良くなるだろう。
「いいじゃないか。どうせ科学で証明されてしまった紛うことなき事実だぞ」
「……」
 そう、このまま眠れれば、だが。背中を向けて寝る体勢に入っているのが見えないわけがない。
「いくら気に入らなくても現実は現実だ。浮き世とは実に無情なものだな、面堂」
 つまりこの男はわざと面堂を休ませないように邪魔している。
 面堂は無視を決め込もうと決意した。が、返事をしなくてもあたるは絶えず話しかけ続ける。そのうち諦めるかもしれないと淡い期待を抱いて我慢してみたが、五分くらい経っても状況に変化がない。布団に潜っても変わらない。むしろ何を言っても聞こえないと思ったのか、これ幸いと好き放題の悪態をすらすらと並べ始めたので、面堂はついに堪忍袋の緒が切れ、がばっと起き上がった。
「いーかげんにしないかっ!!」
「お、やっと怒った」
 するとかえって嬉しそうに笑うところが憎らしい。
「こんなときくらいそっとしといてやろうとか、そういう親切心はきみには無いのか!?」
「そんだけ大声出せるなら元気だろうに」
「きみのせいで大声出しとるんだっ!」
 ぜいぜいと肩で息をしながら怒鳴ったが、耐え難い疲労感に襲われて面堂はまたぱたりとベッドに横になった。それが身体から来る疲れなのか精神から来る疲れなのかは判別し難い。面堂は長いため息を喉の奥から吐き出した。
「ほんとにもう戻ったらどうなんだ……どうせサクラ先生、チャイムまでに帰ってこないぞ」
「そーだろうな〜」
「わかってるならなぜ行かない? 先生がいないなら用なんか無いだろう」
「さあ何故でしょうかねえ、面堂くん」
 あたるはずいっと身を乗り出すと、シーツの上に両肘をついて手のひらで頬を支える。女の子がやったらかわいいポーズでも、あたるがやると実に胡散臭い。
 あたるは面堂の鼻先でにんまりと笑っている。
「おれが本当にサクラさんだけを目当てにして来てるんだったら、どうしてさっき引き止めなかったのか不思議に思わんか?」
 にこにこと微笑んでいるあたるの顔を見返しながら、面堂はその随分と回りくどい言葉を頭の中でゆっくり解きほぐす。そして言外の意味を読み取った瞬間、一気に身を引いた。
「っな、何考えてるんだ、本気か……」
「もちろん」
「ここは学校だぞ!」
「見りゃわかる」
「そうじゃなくてっ!」
 限界までベッドの端に寄って枕を盾にするが、あたるは笑みを浮かべたままベッドの周りのカーテンをシャッと引いた。
「いや〜、相手がおまえだとどうもみんな油断するみたいだな。サクラさんいつもはもっと厳しいのに」
「誰かに見られたら……」
「だからカーテン引いたろ」
「サクラ先生がいつ戻ってくるかもわからないし……」
「しばらく戻ってきそうにないとおまえも言ったじゃないか」
 次々に反駁されて面堂は言葉に詰まる。あたるは面堂の手から枕を取り上げて、ぎしりと音を立てながらベッドの上に乗った。
「ちょっとだけ。なぁ、いいだろ?」
 あたるは少し甘えた声で囁く。その声の調子は昨日の夜と同じで、面堂はゾクリと震えた。今その声を出すなんてずるい、と思う。
 いいだろと聞かれれば、勿論いいわけがない。面堂は疲れていて寝不足でおまけに風邪を引いている。さっきあたるに腹を立てたばかりだし、そもそもここは保健室で、いつ誰が入ってきてもおかしくない。
 だから本当に、いいはずないのに、どうして拒絶できないのだろう。
 ぎし、とスプリングがまた軋んだ。面堂はそっと近付いてくるあたるを避けなかった。あたたかい感触。目を閉じて、ただそのぬくもりを感じていた。あたるは面堂の背中に手を回して、少しずつ角度を変えながら面堂の唇をついばむように味わっている。
「ん……」
 幾ばくも経たないうちに口内に舌が入り込んできて、面堂はくぐもった声を漏らす。頭の片隅に残る理性は、こんなこと今すぐにでもやめるべきだと叫んでいるのに、身体はどうしても言うことを聞かない。それどころか、面堂はあたるの舌に自分のそれを絡めて、夢中になって応えた。
 きっと麻薬というのはあたるとするキスのようなものなのだろう、と面堂はぼんやりと思った。どこまでも気持ちが良くて、どうしようもなく有害で、逃げようにも逃げられない。
 キスが長引くにつれて、体に力が入らなくなってくる。だから、あたるにそのまま押し倒されたときも、面堂には抵抗らしい抵抗はできなかった。
「っまて、これ以上は」
「ちょっとだけ、ちょっとだけ」
「さっきもそう言って……っ、んっ、やめ……」
 そのとき、ガラッと扉の動く音がした。
「サクラ先生〜!」
 反射的にびくりと肩が跳ねる。驚きに身をすくめて固まっているのは面堂だけではなかった。二人とも身じろぎ一つせずに、息を殺して耳を澄ましていた。
「おれたち怪我しちゃって〜」
「先生、あたるに変なことされてないですかー」
 聞き覚えのある声と共に、数人の足音がした。ガラッとまた扉が音を立てる。今度は扉が壁にぶつかる鈍い音もした。
「お? 先生がいないぞ」
「嘘だろ、超がっかりだな……」
 話し声から察するに、入ってきたのは二人だけのようだった。それからなにか硬いものが床をこする音がした。つまりは、テーブルの前のパイプ椅子に座ったということだ。テーブルは部屋の東側にあり、二つ並んだ保健室のベッドとは反対側にある。
「自分で手当する羽目になるなら転ばなきゃよかった」
「それな」
 かたん、かた、と何か蓋を開けるような音がした。あたると面堂は相変わらず指先一つ動かさずに彼らの動向を窺っている。
「そういえばあたると面堂は?」
 不意に飛び出した自分たちの名前に、面堂は声を出さないでいるのがやっとだった。心臓がドキドキして苦しい。
「面堂はそこで寝てんじゃねーの?」
「あたるはどこ行ったんだろな」
「さあ。どーせまたサボりだろう」
 今度はごそごそと何か動かす気配。言葉通り自分たちで傷口を消毒しているのだろう。二人はそのまま取り留めのない雑談を始めた。
 今まで黙って様子を窺っていたあたるは、面堂の耳元に顔を近づけて可聴域ギリギリの声で囁いた。
「よかったな。気付いとらんぞ」
「い、いいから離れんか……」
 面堂もできる限り声量を絞って囁き返した。
「下手に動くと……」
 あたるはマットレスを指差す。確かに、スプリングのきしむ音がしていたら、面堂が起きていると考えてもおかしくない。そしてそうなったら、彼らが面堂の様子を見ようという気を起こさないとも限らない。あるいは音の正体を探りにこちらに来られて、ベッドのそばに上履きが二組あるのに気付かれたら大変まずいことになる。あたると面堂がカーテンを閉めた保健室のベッドの中で二人きりで何かをしていた……なんて噂が流れたらどんな悲惨なことになるか、想像もしたくなかった。
「じゃあせめて、耳元で喋るのをやめろ……」
 ぐ、とあたるの肩を押して、面堂はできる範囲であたるを遠ざける。
 あたるはきょとんとまばたきした。そしてゆっくりと口元に弧を描いていく。
「もしかしておまえ……耳弱いの?」
 しまった、と思った。
 この笑い方は、まずい。面堂をからかう種を見つけて、気の済むまで弄り倒そうとしているときに嫌というほど見た顔だ。あたるがこの表情をするときは大抵ろくでもないことになる。
「よっ、寄るな……」
「否定せんのか。なるほど、なるほど」
 慌てて押しのけようとする面堂の腕をさっと捉えると、あたるは素早く面堂を抱き込んだ。重心が短時間でずれた事によって、マットレスが結構大きな音を立てたので、面堂はぎょっとする。
「今なんか音しなかったか?」
 カーテンの向こうの男子生徒が、雑談を中断してそう言った。
「マジ? 廊下?」
「……いや、先生じゃないようだ」
「なーんだ。早く戻ってこないかな〜」
 残念そうなため息一つと引き換えに、彼らは商店街で見た可愛い女の子の話に戻っていった。
「ほれ、おまえが暴れるから」
「くっ……」
 面堂が大人しく抱かれるままになっているのをいいことに、あたるは面堂の耳に唇を寄せる。唇が触れた瞬間びくっと肩が跳ねたが、あたるはかえって抱きしめる力を強くした。
 あたるは左の耳殻を優しく咥えて、ぺろっと舐める。その感触で肌がぞわりと粟立って、面堂はきゅっと強く目を瞑った。唇をするすると滑らせて耳朶にたどり着いたときには、軽く歯を立てられる。
「ぁ……」
 堪らず声が出そうになって、面堂は慌てて手のひらで口元を覆って抑え込む。
「へー、ほんとに弱いんだな、耳」
「うるさいなっ」
「女の子みたい」
「それ以上言うと殺すぞ……」
 地獄の底から響くような面堂の囁き声に、あたるは怯むどころか心底楽しそうな忍び笑いをこぼした。
「いい加減にしろっ、バレたらどうする」
「ど〜しよっかなあ。やめたら代わりに何してくれる?」
「お、おのれは〜……!」
 こんな時まで人をおちょくるのをやめないあたるに、面堂はムキになって小声で言った。
「きさまのような貧乏人の軍門に降るくらいなら死んだほうがマシだ!」
「ほ〜おぉ?」
 あたるの声のトーンが数段落ちる。面堂から売られた喧嘩をあたるが買わなかったことはない。ここまでは面堂も予想していたが。
「なら、お望み通り社会的に死んでもらおうか」
「え……?」
 そう来るとは思っていなかった。
 意味がすぐ呑み込めず面食らっているうちに、あたるは面堂の首をしっかり押さえ込む。逃げる余地をなくしてから、あたるはまた面堂の耳をかぷりと甘噛みした。
「っ、ふ……ッ」
 しかも今回は明らかに本気で性感を高めようという意図がある。喘がせるつもりなのだ。学校の保健室の、何も知らない同級生がいるこんな場所で。面堂は慌てて顔を背けようとしたが、すでに対策されている以上今更どうにもならなかった。
「ば、バカっ。こんなのきさまだって無傷では済まないぞ」
「死なば諸共……」
「きさまと心中なんか御免だっ」
 面堂はあたるを引き離そうと頑張るが、このゴタゴタを同じ空間で駄弁っている二人に気づかれないようにと思うと大した抵抗はできない。むしろ今まで気付かれていないのが奇跡的なくらいだ。たぶん、開いた窓からグラウンドの生徒たちの声がしていなければとっくにバレていたのではないだろうか。
 結局どうにもできないまま、なすすべもなく弄ばれるしかなかった。何度も甘噛され、つうっと舌先で舐めあげられ、時折息を吹きかけられると体が熱くなり呼吸が乱れてくる。それでも面堂は、喘ぎ声だけはあげまいと意志の力で自分を制御していた。
「へえ、なかなか頑張るな」
「うるさい、しゃべるな……」
 耳元で声がするだけでびくっと身体が小さく跳ねる。じわじわと弱い快感が降り積もり、身体全体がおかしくなりつつあった。そして面堂のその様子をあたるは楽しんでいて、わざと面堂が堪えるか堪えられないかの境目を衝くようにじっくりと耳を責め続けた。
「っ、諸星……もうよせ……」
 なんとか息を殺しながら、弱々しく、しかし必死に訴えかけるが、あたるの責めは少しも和らがない。
「いやだ、おまえが降参するまでやめない」
 あたるは面堂の必死の努力を弄ぶように、耳元にふーっと息を吹きかけた。
「ひ……ッ」
 強い快感がぞくぞくと背筋を走り抜けて、面堂はあたるの体操服をぎゅうっと握りしめて声をこらえた。ぎりぎりだった。今はどうにか声を我慢できているが、もはや時間の問題かもしれない。
 このままではまずい。面堂はじわりと涙を浮かべながら考えた。確かにあたるに屈服するくらいなら死んだほうが良いという思いは変わらない。変わらないが……誇りを守って命を絶つ覚悟はあっても、誇り高き面堂家次期当主としての評判を地に落とす覚悟はなかった。それこそ死んでしまったほうが遥かにマシだ。だったら……。
「わ、わかった、きみの条件を呑む、だから、ほんとに、やめてくれ……」
「本気か?」
「面堂家の家紋に誓ってもいい」
 こんなことで誓いを立てて御先祖様にどう顔向けすればいいのかという思いもあったが、一秒でも早くあたるから解放されるためにはなりふり構っていられなかった。
「よし、乗った。おれの条件は……」
 あたるが声を潜めてその内容を囁くのと、三限終了のチャイムが鳴り響くのはほとんど同時だった。