08 めまい
足元の地面が急に柔らかくなったような奇妙な感覚があった。
それから意識がすうっとどこか遠くに吸い込まれる感覚、自分の精神が身体の外に抜け出していくような錯覚があったと思っているうちに、面堂は気が付いたら転んでいた。
べしゃ、とうつ伏せに倒れ込んだときも、重力が奇妙に遠くに感じられる。ふわふわと宙にでも浮いているように現実感がなかった。
最初は誰も大して気にしなかったが、面堂が倒れ込んだままじっと動かないでいると、なんだか様子がおかしいと気付いた同級生が周りに集まってくる。
「おい面堂、どうしたんだ?」
「……」
「大丈夫か?」
それでも面堂が何も言わないでいると、一人の生徒が「先生呼んでくるわ!」と言い残して走っていった。
「マジでどうしたんだよ」
「ちょっと……めまいが……」
面堂はようやく身体を起こして、その場に座り込んだまま答えた。まだぐるぐると回っているような感覚が消えなくて気持ちが悪い。
そうしているうちに、近くの女子のグループの方でも何かあったことに気がついて駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
「面堂が体調不良らしい」
「え〜!!」
どんどん話が大きくなっていることに面堂はちょっと焦った。
「そんな、少し休めば治りますよ……」
そのときしのぶが面堂のとなりにしゃがみこんで、面堂の額にそっと手を触れた。
「熱があるみたい」
予想だにしなかった一言に、面堂は固まった。熱があるだって?
先生を呼びに行った生徒が戻ってきた。ふたりとも心配そうな顔をしている。
「面堂、本当に調子が悪そうだな。保健室まで歩けそうか?」
「はい、大丈夫です……」
面堂はそう言って立ち上がろうとしたが、またくらっと平衡感覚を失って、尻餅をついた。
「無理そうだね」
「……そうですね」
面堂は渋々ながら現実を認めた。
「だれか、面堂を保健室に連れてってやってくれるか?」
「はいはい、私行きます〜!」
「私も!」
先生の言葉に、真っ先に手を挙げたのは女生徒たちだった。たとえどんな状況でも、女性に迷惑をかけるのは女好きとしての沽券に関わる。面堂はやんわり断ろうと思ったが、その前に別の男子生徒が彼女たちに言った。
「おまえらよく考えろよ。面堂は歩けないんだぞ、それを女の力で運べやしないだろ」
男子生徒は屈んでぽんと面堂の肩に手をおいた。それで思い出した。彼は、さっき何やかやと言って面堂を男子更衣室に連れて行こうとした同級生の一人だった。
「おれが連れてってやるよ、な?」
「ダメよ面堂くん、こんなときだけ男子が優しくなるなんて絶対おかしい。ど〜せ下心があるに決まってるわよ!」
「失敬な、クラスメイトが苦しんでたら助けるのが人情ってもんだろ〜が!」
「それが怪しいって言ってんのよ!」
「あの〜……」
面堂本人そっちのけで、女子と男子が言い争いを始めてしまった。
何でもいいから、早く決めてほしい……と言っても、もはや彼らの耳には入らないだろう。ヒートアップしていく議論を半ば絶望的な気持ちで傍観しながら、面堂は成り行きを見守っていた。
「しょ〜がないな〜……」
すぐ隣から聞こえた声に、面堂は顔を上げる。そこには面倒くさそうな顔をしているあたるが立っていた。
「ほれ、行くぞ」
「ん?」
「保健室、おれが行ってやる」
「諸星が……?」
ぽかんとして、面堂はあたるの顔をまじまじと見上げた。この論争に誰が参加しようとも、この男だけは絶対に名乗りを上げないとばかり思っていた。面堂をどついては笑い、不幸があればそれを心底面白がって腹を抱えているような奴なのだから。
だから面堂は、真剣な顔でこう返していた。
「何をたくらんでる?」
「おまえ、たまに人が親切にしてやろ〜と思えば……!」
「ダーリンの普段の行動を思えば当然の反応だっちゃ!」
「おれはサクラさんに会いたいだけじゃっ!」
あたるが声を荒げると、それで言い争っていた女子の一人が状況に気づいた。彼女はすぐさまあたるに食って掛かった。
「ちょっと、諸星くんなんて一番ダメよ! 私達の面堂くんを汚す気でしょ〜が!!」
「あのな〜、そんなにおれが信用できんか!?」
コースケが「できる方がおかしいだろうな〜」と冷静に言ったが、あたるは無視した。
「おまえらな、いくらおれが女好きでも今の面堂にまで手を出すと思うのか!?」
心臓が止まるかと思った。面堂は無意識に胸のあたりの布地をギュッと握って動揺を押し隠す。何もこんな人前でそんな話をしなくたっていいだろうに、何を考えているのだこの男は。
「諸星くんならありえそうよね」
「諸星ならやりそうだ」
しかも全然説得できていないと来た。最悪だ。
ざわざわした喧騒の中で、あたるの隣に立っているラムはちょっとの間あたると面堂を見比べていたが、ふいに首を傾げてこう言った。
「やっぱり……ダーリンと終太郎、今日はいつもと違うっちゃ」
「えっ……」
ぎく、と身体がこわばった。胸の奥にいきなり氷をねじ込まれたような冷たい恐怖で、瞬きすることすらままならなくなる。心の奥まで見透すような美しい瞳で、ラムは二人を不思議そうにじっと見つめていた。
「ひょっとして、何かあったのけ?」
「……」
言葉が出てこない。全身から血の気が引いて、手のひらに冷たい汗が滲む。
だがあたるは面堂とは反対に、しっかりと地面を踏みしめながらクラスの人間を見回して言った。
「あのなっ! この際言っておくが、おれが好きなのは女であって決して男ではない!! たとえどんな美女だろうが本質が男なら問題外だ! そのおれがだ、よりによって面堂なんかに手を付けるほど見境がないと思われちゃ困るんだよっ!!」
あたるは半ば怒鳴るようにして言うと、肩で息をしながらその場の全員を挑むように睨んだ。勢いに圧されて誰も口を利かない。しばしの間しんと静寂がグラウンドを包むが、まずラムが顎に人差し指の先を当てて口火を切った。
「確かに、それもそうだっちゃ」
続いてしのぶも言う。
「ほかの男の子ならともかく、あたるくんだもんね~」
「さすがの諸星でも面堂はないか……」
次々と同意の声が広がっていく。あたるは、それ見たことかと言わんばかりにふんと鼻を鳴らした。
「えらい時間を食ってしまった。ともかく行くぞ!」
「わっ……」
あたるは面堂を背負いあげた。落ちないように慌てて首元に手を回す。あたるはすたすたとグラウンドを横切って、昇降口に向かい始めた。
―─面堂なんかに手を付けるほど見境がないと思われちゃ……。
面堂は、さっきのあたるの言葉を思い出して、なんとなく不愉快な気持ちになった。
(ぼくを散々追い回して頼み込んできたのはそっちじゃないか。あの言い草はないだろう……)
確かに、疑いを晴らすためならああ言うべきだったかもしれない。事実それで助かった。そしてなにより、面堂だってあたるから好意を寄せられるなんて願い下げだと思っている。だったらあたるの言葉に腹をたてるようなことはなにもない筈なのだ。
(昨日は、あんなに、しつこく言い寄ってきたくせに……)
こんな奴にどう思われようがどうでもいい、と自分に何度も言い聞かせるが、さっきの言葉はそのたびに頭の中に蘇ってくる。もやもやした気持ちになって、同時に苛立ちが募った。
あたるは何も言わずに歩き続けている。何にも気にしていない様子だ。だから面堂も、あたるの言葉に心を乱されたなんてことを悟られないように黙っていた。