06 いつもどおりに

 今日が休日ならよかったのに。
 気を抜くと忍び寄る眠気や疲れと戦いながら、面堂はあくびを噛み殺して教科書のページをめくった。
 温泉マークが黒板にチョークを叩きつけて解説する声も、今日はどこか遠くの喧騒のように聞こえて、全然頭に入ってこない。
 今日は水曜日。面堂が女になってから三日目である。最初は物珍しがっていた級友たちも、既に面堂の姿に慣れてしまったようだ。昨日とは打って変わってからかわれたりジロジロ見られたりすることはなくなった。宇宙人が教室に飛び込んできて教室が半壊することもままある二年四組の基準からすれば、面堂の性別が変わったくらいなら大した問題ではないということなのだろう。非常に不本意ではあるが。
 昨日あのまま眠りにつこうとしたあたるをどうにか叩き起こして、サングラス部隊の一人に家まで送らせたのが十一時過ぎだった。それから何事もなかったように部屋を整えたりシャワーを浴びたり明日の用意をしたりしているうちに、三時を回っていた。
 しかも、今日はいつもの悪夢を見た。名前も知らない男と一緒に暗闇に隠れる夢。あの夢を見ると面堂は否応なしに目を覚まし、その後はなかなか寝付けなくなる。ここ最近はすっかり見なくなって忘れていたくらいだったので、よりによってこんなときに見たのは本当に最悪としか言いようがなかった。今日も夢から覚めた後は全く眠れず、最後には窓から朝日が差し込んでいた。
 おかげで今朝はとにかく体がだるい。日課であるタコの散歩のときも普段より重力を強く感じた。学校に行くのも嫌なくらいだったが、優等生としてはこんなことでサボるわけにもいかない。自分を叱咤激励し、ともすれば座り込みそうになるのを堪え、いつもよりはだいぶ遅くなったが、なんとか遅刻せず登校することには成功した。
 
 教室に入るとき、一番不安だったのはあたるが昨日のことを誰かに話していないかという点だった。いくらあの男でも流石にそこまでアホではないだろうとは思ったのだが、男は虚栄心を満たすためなら、自らの破滅すら招く秘密を人に自慢することがあると面堂は知っていた。もしあたるが同級生に口を滑らせて、それが巡り巡って女生徒に、そしてラムに知られてしまったら、と思うと、胸の中央に冷たい風穴が空いたような不安を感じるのだった。
 面堂は扉に手をかけて少しためらった。そして息を止めて一気に扉を開けた。
「あっ、面堂くん。おはよ〜」
「おはようございます……」
 廊下側の席にいた女生徒に声をかけられて、面堂は気もそぞろながらきちんと返事をする。そして教室の中央に目をやった。
 あたるは自分の席にいた。まだ朝のホームルームも始まっていないというのに、既に弁当を開けておかずをつまんでいる。相変わらずの食い意地だ。
 そしてそばにはラムがいた。昨日と全然変わらない様子であたるを見つめている。
「ダーリン、ほんとに美味しそうに食べるっちゃね〜」
「なんだ。分けてやらんぞ」
「いらないっちゃ。食べてるダーリンを見てる方が面白いっちゃ!」
 ラムはそう言ってニコニコしている。ごくごく普通の朝の光景だ。面堂は心の底からほっとして、思わず彼らの様子をじっと見つめてしまった。
 やがてあたるがその視線に気がついて顔を向けた。目線が合う。
「ぁ……」
 途端に昨日のことが頭をよぎって面堂は固まったが、そんなことをしていたらすぐに様子がおかしいとみんなに気付かれると悟った。面堂は咄嗟に口を開いた。
「朝っぱらから意地汚い。朝食ぐらい家で食べてきたらどうなんだ?」
 これはいつもの自分なら言うような言葉だろうか? 多分そうだろう。
 あたるは一瞬呆気にとられたような顔をしたが、すぐにむっとして言い返してきた。
「……聞き捨てならんな、おれはちゃんと朝飯を食ってきたぞ。そのうえで早弁しとるんだ!」
「威張って言うようなことか!」
 そして面堂は何事もなかったように席についた。
 しかし本当は、気が遠くなりそうなくらい心臓がどきどきしていた。怖かった。もしいつもどおり振る舞えなかったら、そして様子が変だと誰かに言われたら、昨日何かあったのかと聞かれたら、きちんと答えられるかわからなかったからだ。みんなの前で、ラムの前でそんなことになったら、と想像すると、とても耐えられなかった。
 
 面堂はシャーペンの頭をカチカチと押し込む。温泉マークの声は相変わらず水の中から聴いてでもいるように遠くに感じられた。それでもいつもの習慣によって半ば無意識に黒板の内容を書き写すことはできた。目に入るアルファベット、漢字ひらがなを一つ一つ自分の手で記しているはずなのに、自分がどういう文章を書いているのかはわからなかった。
 面堂は時々手を止めて、黒板のほうに目をやりながら、そこに書かれた文字を読むでもなくぼんやりとした。そのたびに浮かぶのは昨日のあたると自分のことだった。あたるの少しざらついた手のひらの感触とか、自分の情けない反応とか、そういうことを思い出すたびに面堂はさっと俯いてシャーペンを握りしめた。授業中に考えることじゃない、そう言い聞かせてシャーペンをまた動かすのだが、気を抜くとまたぼんやりして同じことを繰り返していた。
 そのうちに突然チャイムが鳴り響いて、面堂は驚いた。結局今日の単元は何も聴いていなかったことになる。家に帰ったら念入りに復習しないと試験のときに困ったことになりそうだ。
 次の授業こそ、しっかりと集中しなくては。時間割を確認して、はたと気が付いた。
(どうしよう……なんにも考えてなかったが……) 
 今日の三限は体育だ。
 ということはつまり面堂はいずれかの更衣室で体操服に着替える必要があるということだった。