05 やみのなか

 子どもの頃から繰り返し見る夢がある。
 内容は至って他愛ないのだが、面堂にとっては悪夢の部類に属する夢であった。
 その夢の中では面堂はほんの小さな子どもで、自分はもう高校生なのだということをすっかり忘れている。服装も、小さい頃よく着せられた群青色の袴姿だった。ダークスーツとサングラスで身を固めた背の高い男たちに囲まれて、幼い面堂は屋敷の中のある部屋に立っていた。
 ここに来る前に、面堂は敷地内で侵入者を見つけて、それを捕まえた。見たこともないおとなの男である。どこからきたか問い詰めてもその男は答えないので、面堂は侵入者を丸木に縛り付けて部屋の中央に据え、一生懸命尋問をしている。
 そして面堂の隣にはやはり見たことのないおとながいた。その男は面堂のことを「坊っちゃん」と呼んだ。家の使用人はみな面堂のことを「若」と呼ぶ慣わしなので、その男もやはり外から来たのだろう。ただ、なぜかこっちの男は面堂と一緒に侵入者をやっつける役割を持っていた。夢なのだから、整合性がないのも仕方があるまい。
 夢を見るたびに、面堂は彼らのことをよく観察しようと試みる。そしていつもうまくいかない。彼らはピンぼけした写真のようで、漠然とした輪郭、抽象的な色彩が幽霊のように揺らめいているだけなのだ。顔貌も服装も体格も、ヴェールの向こうにある。だから面堂が彼らの中に見出すのは、当時の面堂が感じた生の感情だけだ。
 しばらくのあいだ、面堂は楽しく遊んでいる。隣りに立つ見知らぬおとなは面堂がうまく侵入者をやっつけられるように何くれとなく手を貸したし、それで上手くいくと我がことのように喜んでいる。侵入者は怒っているが、きちんと拘束してあるので怖くはない。周りで見ているサングラスの男達も面堂の一挙手一投足にぱちぱちと拍手を送る。
 やがてその平和は侵入者が戒めを自力で解くことで終わりを告げる。今まで散々いじめたので侵入者はとてつもなく怒っていて、もし捕まったらただ事では済まない。面堂が立ちすくんでいると、見知らぬおとなは面堂をひょいと担ぎ上げて出口へと走る。侵入者は黒い影に変わって追ってくる。二人は屋敷の回廊をひた走り、たまたま見つけた部屋に入り、そこに置かれたなにか暗くてせまい容れ物に隠れることにする。
 彼らが身を潜めて幾ばくもしないうちに、扉が勢いよく開け放たれる気配がした。
「どこだ、……!」
 黒い影はだれかの名前を呼ぶが、面堂にはいつも聞き取れない。でもそれが自分たちを指す名前だということだけはわかるので、面堂は怖くて小さな顔を両手で覆う。
「どこに隠れた……」
 かつ、かつ、かつ。大理石の床を靴底が叩く音。それがゆっくりと部屋を横切る。不意に、がしゃん、と鋭い音が鼓膜を叩く。ぱり、ぱり、と割れた欠片を踏みながら、黒い影は囁く。
「ここじゃない……」
 そしてまたがしゃんと何かが割れる。探している。また歩き出す。がしゃん。かつ、かつ、かつ……。闇の中で機械的に繰り返される、静寂と破壊。次第に耐えられなくなって、面堂は声を殺してすすり泣く。
 すると隣で座り込んでいる男が、面堂をなだめるように頭を撫でる。ちょっと乱暴で力強いが、嫌な感じはしない。男は小さくため息をついてつぶやく。
「いかんな〜。完全におのれを忘れとる……」
 それから面堂に向き直って、ぼんやりとした輪郭が苦笑する。
「坊っちゃん、泣き虫だなあ。こんなことくらいで泣いてちゃだめですよ」
「だって」
「おれたちは坊っちゃんの泣き虫を直すためにわざわざ来たんだから」
 面堂は涙を手の甲で拭いて、きょとんとして男を見上げる。時々彼はこういう奇妙なことを口走った。
「まあ、なんだ、心配しなくていい。あの考え無しのアホ……じゃなくって、こわいおにーさんはおれがなんとかしてやるから」
 な、と言って男は面堂の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。朝きちんと櫛で整えてもらった髪が乱れる。
 そして男は面堂を置いてその場を離れようとする。咄嗟に面堂は彼の大きな手のひらを掴む。
「行かないで」
 子どもなりに、彼をこのまま行かせたら、もう帰ってこないということは理解できた。
「せっかく、ともだちになれたのに……」
 心の奥から滲み出す悲しみと共にそう言うと、男はひどく驚いたようだった。それから面堂の濡れた頬を袖口で拭ってやって、最後にぽんと頭に手のひらを載せる。そのあたたかな重みに、面堂は何も言えなくなった。
「またいつか必ず会えるよ。おとなになったら、……に来ればいい。そこで待ってる」
 肝心なところはいつもぼやけていて、手を伸ばしても届かないところにある。繰り返し見る夢の中、何度耳を澄ましても、彼の言葉は拾えない。
 彼は隠れ場所を飛び出して、遠くに走り去っていく。黒い影も彼を追って走る。面堂は一人暗闇に取り残され、遠のいていく二つの足音と破壊音をただ何もできずに聞いている。闇に溶ける恐怖と、名も知らぬ友人がいなくなる悲しみに貫かれて、面堂はいつもそこで目を覚ます。
 そしてベッドサイドのランプに弱く照らされた部屋の内装と長く延びる影をぼんやり眺めながら、やがて自分はもうとっくに子どもではなくなっていて、今しがた夢の中で話していた男は空想の世界にしかいないことを思い出すのだった。