03 武士に二言なし
ラムの火炎放射器が燃料切れになり、青い羽根の効力を打ち消すことが不可能になったのがわかってから、面堂は腹いせにあたるをたたっ斬ろうとして体力の続く限り追いかけ続けた。校舎を一周し、グラウンドや体育館を通り過ぎ、そこから高校の敷地外へ飛び出して商店街を駆け抜け、最終的に公園に辿り着いた頃には空が黄昏色に染まり始めていた。はじめのうちは二人の様子を空から見守っていたラムも、飽きもせず延々と続く鬼ごっこに呆れて先に家に帰っていった。面堂が刀を持って追いかけている状況では浮気の心配もない。
「諸星〜〜〜〜っ、いい加減観念しろ〜〜!!」
女の子になってもタフなところは全く変化がなかった面堂は、息を切らしながらもまだ追いかける余力を持っていた。
赤く染まる公園の芝生を抜ける小道にも、ベンチにも、至るところにカップルの姿がある。その中の数組があたると面堂の剣幕にぎょっとしながら道を開け、二人はその中央を突っ切っていった。夕暮れ時のロマンチックなムードも台無しだ。面堂は抜身の日本刀を閃かせながらどんどん先へ進んでいった。
噴水広場から西に進むと、公園を外れて徐々に樹木が増えて見通しが悪くなる。おまけにあたりはどんどん暗くなりつつあった。あたるは道から外れて雑木林の奥の方に進んでいったのだが、低木を避けたり木の根に足を取られているうちに、面堂はふとあたるを見失ったことに気がついた。
「くそっ、どこに行った……」
さんざん追いかけ回してこんなところまで来て、あたるに一矢報いることなく帰るのは嫌だった。面堂はあたりを見回しながら歩き続ける。
西の茜色はこうしている間にも輝きを失い、東側の空では薄闇と共に星がちらほらと顔を出しつつある。周りの木々は黒い輪郭だけになって、空に向かって枝を張り出していた。風が吹くとその大きな影はゆらめいて、葉のこすれる音が頭上からざわざわと降り注ぐ。
ふと、何かに影を踏まれでもしたように、面堂はとつぜん立ちすくんだ。
もうすぐ暗くなるんだ。
そう気が付いて、急に胸の奥がすうっと冷たくなった。
いつもなら、こんな時間まで外をほっつき歩いていることなんかない。授業がすべて終われば家から迎えのヘリや車が来る。たとえ帰る前に暗くなってしまったとしても、まず町なかにいる。町であればそこら中に電気の光がある。皓々と輝く看板の光、営業中のお店や民家の窓から漏れる光、街灯や信号の光。完全に暗い場所なんか存在しない。すれ違う人々の中に女性の姿を見つけるのだって容易いことだ。
でも、この場所には全てがない。
面堂は深呼吸して気持ちを落ち着かせる。たとえ暗くなっても、ここは開けた場所だから、取り乱すほどの恐怖を感じることはないのだ。そう、怖くない、怖くない……。
不意に背後でガサッと音がしたとき、面堂は考える間を置かずに白刃を振り向きざまに振るっていた。
あ、と思ったときにはもう遅い。手応えがあった。つまり何かを斬ったということだ。がさりと音を立てるような何かを、手加減無しに。
面堂の前で、質量を持ったものがズルリと斜めに滑り落ちる。声も出せない状態にあったのは面堂だけではなかった。
真っ二つに斬られた木の幹の根元に、諸星あたるが間一髪のところでしゃがみ込んでいた。
言葉を失ってあたるを見つめている間に、ゆるやかに傾いた広葉樹がドサリと音を立てて横ざまに倒れた。地面に走った鈍い衝撃に我に返って、面堂はようやくポツリと呟く。
「諸星か……」
「……な、な……」
あたるは呆然とへたり込んでいたが、面堂の声に正気付き、わなわなと震えながら面堂に食って掛かった。
「一歩間違えば死んでたぞ!! 何考えてんだこのバカ!」
「だって、暗かったから……」
「暗いからっていちいち人を殺してるのか、おのれはっ!!」
面堂は元気そのもので怒り狂っているあたるの顔をまじまじと見る。面堂の太刀筋は反射的なものゆえに迷いがなく、非常に素早かった。おまけに出し抜けの不意打ちとくれば、常人ならまず避けられなかったはずだ。それこそ、逃げることに関しては他の追随を許さない諸星あたる以外の人間には不可能だった。
面堂はそのことを踏まえた上で、万感の思いを込めて言った。
「よかった、相手が諸星で……」
結果、べしっと頭をはたかれた。
「ほう、ぼくに話が」
斬り倒された幹をベンチ代わりにして、面堂とあたるは二人並んで腰掛けていた。あたりはすっかり暗くなっていたが、先程のような恐怖はない。怖いことは怖いが、一人ぼっちでいるよりはましだ。たとえ相手があたるであっても。
「だったら逃げ回らずに最初から言えばよかったではないか」
「他の連中には絶対聞かれたくない話だからな」
「なるほど」
道理で今日はどこまでも逃げ続けると思った。確かにこれだけ長時間走り回れば誰しも二人を見失うし、追いかける気力もなくなる。ラムやテンどころか、面堂家の部下たちも今彼らがどこにいるのか把握していないに違いない。おまけにこの時間帯の雑木林にはぞっとするほどひと気がないのは面堂がこの身で実感したばかりである。内緒話にはうってつけだ。
「おれも悩んだんだが、こんなことを相談できるのはおまえだけだと思ってな」
あたるは足をぶらぶらさせながら、こちらを見ないで言った。特に何かしらの感情が含まれているわけではないような、いつもどおりの声音だ。
面堂はあたるの横顔に目をやって、少し悩んでから言った。
「……まあ、さっきの件はぼくに非がないこともないし……ぼくにできることなら言ってみろ」
「頼み、聞いてくれるのか?」
「代わりに今日のことは不問にしてもらうぞ!」
「武士に二言はないな?」
「了子に累が及ばないなら、かまわん。きさま程度の人間の頼みを聞くくらい容易いものだ」
きっぱりと言い切る。実際大した手間ではないだろうと思った。この男の頭の中は、可愛い女の子とデートすることしかないのだ。どうせ今回もそういう話に決まっている。
あたるは面堂の言葉を聞くとにっこり笑った。それから身を乗り出し、面堂の耳元でその「頼み」の内容をささやいた。
面堂は絶句した。
それからのこと、どうやってあたるから逃げ出したとか、いつ家に帰り着いたとか、面堂はよく覚えていない。
「昨日言ったよな……武士に二言はない、おれ程度の頼みを聞くことくらい容易いって」
あたるはじりじりと面堂ににじり寄ってくる。面堂は身構えながらその分だけじりじりと下がる。
「苟も面堂家の人間たるものが、一度した約束を簡単に破っていいのか、えーっ!」
「だからって、ぼくとセッ……同衾したいなんて頼み、おいそれと聞けるわけないだろ!」
性交を意味する言葉を婉曲的に言い替えながら面堂はヤケクソになって叫んだ。
「ぼくは男なんだぞ! だいたいこんなの、ラムさんを裏切ることになるじゃないか!」
だがあたるはそれで怯むどころか、我が意を得たりと言わんばかりに指を立てて神妙な顔をする。
「そう、そこなんだよ!」
「は?」
「おまえは男だ。つまりおまえとおれが関係を持ったって、決して女の子と浮気したことにはならないのだ!」
「きさまは時々とんでもない詭弁を思いつくな!」
「おれは真面目に言っとる、詭弁のつもりはない!」
あまりにも常軌を逸した発想だが、あたるは至って真剣な表情を崩さないのだった。
「それにほら、『ダフニスとクロエ』ってあるだろ。純真な恋人同士の話ってことで有名なやつ。あのダフニスだって、クロエとヤる前に年上の女から手ほどきを受けて、一足先に童貞を捨ててるんだぞ。しかし、だからといってダフニスを浮気者扱いする奴はいない」
「……」
「おれたちだって本命の女の子との本番で失敗しないように、できるものなら練習しときたいとは思わんか?」
面堂はあたるの顔を見返しながら押し黙る。昨日のことも含め、心のどこかではあたるが自分をからかっているのだと面堂は信じていた。危うく死ぬ羽目になったのだから、こんな度を越した悪戯でも、面堂を限界まで困らせて溜飲を下げるつもりだと思えば納得できないこともないだろう。
しかし昨日からの一貫した態度に加え、その表情や身振り、声の調子から、面堂も嫌々ながら次のことを認めざるを得なかった。
どうもあたるは、これを正真正銘、本気で言っているらしい。
ならばこちらも真面目に取り合うのが礼儀というものだ。面堂は迷ってから、居住まいを正して挑むように先を促した。
「いいだろう、続けろ」
「よし。次におれが女の子とすけべえをしたいと考えたとしよう。だが相手が普通の女の子なら、一生に一度しかない処女を奪ってしまうことになる……すると少なくともその点についての責任は取らねばなるまい」
「当然の成り行きだ」
「だがおまえは一週間もすれば男に戻る。浮気相手も責任を取るべき女の子も最初からいなかった、というわけだ。つまりおれたちは何の気兼ねも後腐れもなくオトナの楽しみを一足先に謳歌することができるってことなのだよ!」
こんなときばかり頭の回転が速い男である。その思考力を普段の勉学にほんの少しでも使えばいいだろうに。
それに、確かに筋は通っているが、あたるの議論には一つ致命的な欠点がある。面堂は冷ややかに腕を組んで、そこに攻撃を加えた。
「諸星。この話、きみはともかく……ぼくの方にはまったくメリットがないぞ」
「何を言うのだ、面堂!」
しかしあたるは、それでも引き下がらなかった。ずいっと身を乗り出し、面堂が面食らうのも構わず熱っぽく続ける。
「面堂、おまえならギリシア神話のテイレシアースの話も知ってるだろう」
どちらかというとあたるがそれを知っていることに驚くが、確かに面堂はその神話を知っていた。さっきの『ダフニスとクロエ』といい、面堂を説得するために一日かけて図書館で知識を補強してきたのかもしれない。
テイレシアースの神話については、オウィディウスの『変身物語』、アポロドーロスの『ギリシア神話』などを紐解くことで詳細を知ることができる。
それはこんな話である。ある日テイレシアースはキュレネー山中の森の中で交尾をしている二匹の蛇を見つけた。その蛇を杖で殴りつけたところ、なんとテイレシアースは男から女に変わってしまった。それから七年間、彼は女として暮らした。そして八年目になって同じ蛇のつがいを見つけ、もう一度殴ることで、彼はようやく男に戻ることができたのだった。
しかし、話はこれだけでは終わらない。
あたるは真剣な顔で続ける。
「かつて雷神ゼウスと妻のヘラは夫婦喧嘩をした。男と女ではどちらのほうがセックスの快楽が大きいのか、激しく言い争ったのだ。さいごに二人の神々は男女どちらの経験もあるテイレシアースに意見を求めることになった。テイレシアースによれば、性交の喜びを十とするなら――」
「十のうち男の快楽は一にすぎず、女は十の喜びもてその心を満たす……」
あたるの言葉を引き取るように面堂が呟くと、あたるはにやりと笑ってさらなる誘惑を並べていく。
「おまえはその、我々男が一生知り得ない女の快楽ってやつを垣間見ることができるんだぞ」
「……」
「しかもチャンスは今回きりだ」
なんだかどんどんうまく丸め込まれている気がする。
最後の抵抗として、面堂はあたるを半ば睨むようにしてこう言った。
「たとえぼくに興味があるとしても、相手がきみでなければならん理由はあるまい?」
「なら聞かせてもらうが……おまえ、こんなこと頼める友達他にいるのか?」
「…………」
もちろんいる訳がない。そして当然あたるにだっているはずがない。あたるの知人で顔が良い男は面堂を除くとレイとつばめくらいだが、レイは文字通り話にならないし、つばめにはサクラがいるのだからこんなことをする必要がそもそもない。何より大きいのは、こんな馬鹿げた話を大真面目に検討する根性を持っているのは、あたると面堂くらいしかいないということだ。