02 お邪魔します
ようやく一日が終わった。
風呂から上がり、寝間着に着替えて本邸の廊下を進んでいく面堂は、げんなりしながらそう思っていた。
面白がる同級生たちをあしらいながら授業をこなし、学校を後にして、なんとか無事に家まで帰ってきた。だが家は家で、サングラス部隊の連中は面堂を他人と間違えるし、父はここぞとばかりに面堂を学校の連中以上にからかってくるしで、かえって学校にいる方がマシだったのではないかと思うほど疲れるはめになった。特に父の相手が疲れた。仮にも跡取り息子の性別が突然変わったのだからもう少し心配するとか慌てるとかしないのだろうか。実は本当に父親ではなくよそのおっさんなのかもしれない。その方が嬉しい。
それにしても、今日は了子がいやにおとなしいのが気にかかる。昨日などは面堂の姿を見るなり目をキラキラさせて、その後は面堂が疲れ果てるまで散々好きなように着せ替えて遊んでいた。メイドさんに着物を持ってこさせては、この柄がいいかしら、この色が似合うかしら、などと妙なこだわりを見せて熱心に着付けるのである。女の子の人形遊びにおける情熱などついぞ知らなかった面堂は、そのとき身をもってそれを体感することになった。
それなのに今日は打って変わって、夕食のとき顔を合わせたくらいで特に何もしてこない。嵐の前の静けさなのか、実に不気味である。
自室を目指して廊下を進んでいるときも、面堂は警戒を怠らなかった。足元に注意して、紐が張ってあったり不自然な膨らみが隠されていたりしないか確認しながら慎重に歩いている。
だが時として、どんなに気を付けたところで避けられない危険というものはある。
「りょ〜う〜こ〜〜〜……」
ぽたぽたと水滴が滴り落ちる。頭の天辺からつま先まで綺麗にずぶ濡れになった面堂家の次期当主は、楚々として目の前に立っている妹をふるふると震えながら見据えた。
「何を考えとるんだ、おまえはっ!」
了子はもちろん一人ではなく、いつものように黒子を数人引き連れていた。そしてその黒子たち全員が、空になった青バケツを手に面堂の前に並んでいる。
要するに、面堂は廊下の角を曲がるなりいきなり水をぶっかけられたということだった。
悪戯癖が度を越している、可愛いけれど困った妹は、わざとらしく口元を手のひらで隠して驚いてみせた。
「あら、何も起きないなんて。水を掛けたら男に変わるかと思いましたのに」
「そんなことで治るんなら苦労せんわ!」
面堂が声を荒げると、妹は楽しそうにおほほほと笑う。そして黒子の一人が「ど〜ぞ」と言って綺麗なタオルを差し出したので、受け取って顔を拭いた。
「了子、おまえな〜……この兄がアイデンティティーの危機に瀕しているんだから、慰めようとか心配しようとか考えないのか?」
「ご安心なさって、おにいさま。お母さま譲りのお美しい顔にはお変わりありませんから、きっとすぐにいいお婿さんが見つかりますわ」
「なんの心配をしとるんじゃっ!」
了子はまたこらえきれないというように声を上げて笑った。その表情を見ていると不思議と怒る気がしなくなるのは、やっぱり妹が可愛くて仕方ないからだろうか。
「あっ、もしかして」
「ん?」
了子はぽんと手を打ってから、そばの黒子に何か囁いた。すると新たな黒子が最寄りの給湯室から三人ほど出現する。今度は全員湯気のこぼれるやかんを手にしていた。
「了子……?」
「きっと水ではいけないのね。おまえたち、今度はおにいさまにお湯をかけて差し上げなさい」
「やめんか〜〜〜っ!!」
どばしゃ、と自身に向かって空けられるやかんの中身を間一髪で回避した。この湯気の量、どう考えても熱湯だ。面堂はすぐさま踵を返して了子直属の黒子たちから全速力で逃げ出した。
面堂が黒子を振り切って自室に戻るまで、それから丸々三十分かかった。時計の短針はすでに九時を周り、月も随分と高くまで登ってきている。清澄な白い光が、窓から静かに差し込んできていた。
「まったくひどい目にあった……」
ぜいぜいと息をしながら面堂は自室の明かりをつけた。閉所恐怖症かつ暗所恐怖症の面堂にとって、これは生命線だ。部屋全体が明るい光に満たされたのを確認して、面堂はふらふらと自室に入っていった。
面堂の自室は広い。特に友引高校に通うような一般庶民からすると、優に普通の家一軒分以上の広さがあるらしい。面堂にはそういう自覚はなかったが、遊びに、というか冷やかしに来た同級生に驚かれて初めてそれを知ったのだった。更にバスルームや簡易的なキッチンも部屋に併設されていると説明すると、驚きを通り越して嫌味に感じられたらしく、金持ちはいいよなと冷ややかに言われた。まあ、面堂もそのとおりだとは思うので否定はしなかった。
部屋に入ってすぐ目に入るのは、南側にある大きな窓である。面堂はこの窓から見える景色が好きだった。菜造じいを始めとする庭師たちが丹精込めて四季折々の花を咲かせている庭がよく見える。今は、春咲きの薔薇が一斉に花開いて彩りを添えていた。
窓の傍にはキングサイズのベッドが一つ。サイドテーブルにはシンプルなデザインのランプと、読みさしの本が一冊おいてある。更に反対側、壁一面を利用した本棚には父母から読むように言われた本や勉学のための本などが整然と並べられていた。面堂家には家族共用の巨大な図書室も存在しているので、これでも必要最低限のものに絞られている。つまりさしあたって読む予定があるか、よく読み直す本だけだ。本棚の前には、広い天板を持つ上品な書斎机と革張りの椅子があった。
「くそ、すっかり体が冷えた……」
くしゅ、とくしゃみが出る。面堂は暖炉のなかに設えられた暖房器具のスイッチを入れてから、ふかふかの絨毯の上をよろよろ進んでいった。それから部屋中央のソファにたどり着くと、その上にどさりと身を投げだした。本邸の大浴場で入浴したのが随分前のことに思える。面堂はなんとなく、びしょびしょになった白無地のパジャマに目をやる。
女になっても身長が変わらなかった為、女物の寝間着は用意せずに済んだ。が、やはり体つきは大きく変わったので着心地は全く違う。胸のあたりは軽く締め付けられる感覚がして苦しい。反対に腰の部分はがばがばで、紐をかなりきつめに締めないと下履きがするりと滑り落ちてしまう。しかも今は水分で生地がぺったり体に張り付いていて、体のラインがはっきりと出てしまっている。自分の体なのに見てはいけないような気がしてドギマギした。
(いかん……どうも調子が狂う)
さっさとシャワーを浴び直して着替えたほうがいい、と判断して面堂は立ち上がった。
そして、いるはずのない男の顔を間近に捉えた。
「よっ、面堂!」
「どわっ!?」
思わず仰け反りながら後ろに下がった。そして体が反射的に動いて日本刀を閃かせた。
「諸星、きさまどこから入った!?」
「勝手口が開いてたぞ。不用心だな〜」
器用に白刃取りをしながら、あたるは真面目くさった顔で面堂を見上げた。
「女の子なら戸締まりはきちんとしないと……」
「このままたたっ斬ってくれようか!」
じりじりと力を込めようとしたとき、またくしゃみが出て思わず力が抜ける。あたるはその隙をついて刀の刃先をひょいと自分から遠ざけた。
「なんだ、おまえ水浴びでもしてたのか?」
「ぼくじゃない、了子が……」
「了子ちゃんが水浴び!? それは見逃せん!」
「そ〜じゃない! おいこら諸星、どこへ行く!」
ひらりと身を翻して扉の方へ向かうあたるを、面堂は慌てて止めにかかる。刀を放りだし、いつもの感覚で面堂はガシッとあたるを羽交い締めにした。
「きさま~、了子に手を出すなというのに!!」
「おい、面堂」
「何を言おうと無駄……」
「胸あたってるぞ」
「ひっ!」
反射的にあたるから手を離した。
「なるほど、ノーブラか……」
「この変態が!!」
どか、と近くの置物をあたるの頭に振り下ろすと、面堂は胸の前で腕を組みながらあたるから距離を取る。
「男相手に言ってて気持ち悪くならんのか、きさまは!」
「だって今は女の子だも~ん」
「清々しいほどの女体主義だな……」
「人のこといえるか?」
最後の言葉は聞かなかったことにして、面堂は気の進まないまま口を開く。
「わざわざ来た理由は、昨日の話か?」
「それ以外になかろう」
「……」
面堂は何も言わずにふいと顔を背けた。それから、昨日の放課後のことを思い出していた。