01 イエスかノー

「ああ、みなさん! この世には、口当りの極めて結構な悪徳というのがあるものです。一たびこの悪徳に本心から惹きつけられてしまった者は、よしんば冷たい理性があたしたちを一刻そこから遠ざけるとしても、ふたたび逸楽の手によってそこに連れ戻され、もう二度と離れることができなくなってしまうのです。」

『悪徳の栄え』より


 なんでも諸星あたるの生まれた日は仏滅だったらしい。

 面堂が友引高校に転校してから、何度となく聞かされた話だった。男も女も、同級生も先輩も下級生も、それどころか商店街の大人たちも、みんなつい口をついて出たというような調子でふと話すのだった。しかもどれもよく聞くと、細部の異なった内容なのだ。ヤツが生まれた瞬間地震があっただの神棚が落ちただの仏壇が倒れただのキリストの像から血が流れただの、ありとあらゆるレパートリーで語られているそれは、要するに生まれたときから、あの男がこの世の災厄を凝縮した存在だと暗に仄めかすものだった。

 転校してすぐの頃は、その話を鼻で笑った。

 転校してしばらく経って、その話を笑えなくなった。

 今となっては、冗談みたいな逸話すべてが、誇張でもなんでもなく真実だったんじゃないかと思い始めている。

 この世界のすべての災厄、あらゆる諸悪の根源は、きっと諸星あたるなのだ。

 惜しむらくは、こんなことになる前に、さっさとそれに気がついて、あの男から距離を取って逃げておくべきだったということだ。

 面堂は、あたるのことをみくびっていた。今回ほどそれを悔やんだことはない。

 

 

 朝、教室の扉をがらりと開けると、同級生たちの視線が一斉に面堂に突き刺さった。女子も男子も言葉を失ったように黙り込み、教室に満ちていたざわめきがすっと途切れて静かになる。それでも面堂は表情も変えず、すたすたといつもどおりに自分の席にまっすぐ向かった。普段なら女生徒に囲まれかわいらしい挨拶を受けるところだったが、今日はそれすらもない。面堂は鞄を机の脇にかけると、何にも気づいていないように静かに椅子を引いて座った。

 朝の教室とは思えない静けさだった。そしてその中心にいるのは面堂なのだった。

 だがそのなかで一人だけ、いつもどおり振る舞っている男がいた。

「今日はどうした、いやにおとなしいな〜」

 しまりのないアホ面を晒して、普段と全く変わりない様子で面堂に声をかけたのは、諸星あたるだった。

「なにか悪いもんでも食ったか?」

「お……おのれは〜……」

 机に手をついて、面堂はゆらりと立ち上がった。それから机の前でへらへら笑っているあたるの胸ぐらをつかむと、今まで抑えていた怒りをぶちまけるようにがくがく揺さぶりながら怒鳴りつけた。

「いったい誰のせいでこうなったと思っとるんだ、きさまはっ!!」

「そうそう、何を隠そうおれのおかげだな! いやぁ、いいことしたあとは実に気分がいい!」

 あたるは胸ぐらを掴まれたまま、悪びれずにうひひひと笑った。

「いやほんとによく似合ってるよ、セーラー服!」

「似合ってるとか言うな!」

 面堂は視線だけで殺せそうなほどの憎しみを込めてあたるを睨んだ。

 そう、今日の面堂はセーラー服を着て登校してきたのだった。

 今朝、教室が静まり返っていたのもそれが原因だった。だが面堂だって好きでこんな格好をしてきたわけではない。全てはこの男、諸星あたるが原因なのだ。

 宇宙から凶悪な連続幸福魔なる犯罪者、『青い鳥』がやってきたのは昨日のことだった。その凶悪犯罪者は、人の願いを歪んだ形で叶える能力を持っていて、ほとんどの生徒たちは意図せぬ形で実現した願いに振り回され迷惑を被った。しかしあたるは青い鳥の癖のある能力をうまく制御した数少ない人間の一人であり、そして面堂はあたるの自分勝手な願いに巻き込まれた唯一の人間であった。あたるは、触った人間を女にする能力を手にした。そしてその能力を使って、面堂を女に変えたのだった。

 あたるに触れられた瞬間、一瞬身体から力が抜けて意識が遠くなったのを面堂は覚えている。視界が霞んでクラクラするのを堪え、なんとか気を取り直したとき、すぐ何かがおかしいと気が付いた。短く切り揃えられていたはずの髪は腰まで伸び、身体は丸みを帯びて胸には膨らみができた。白い学生服はセーラー服に変化して、プリーツスカートが風でかすかに揺れる。

 要するに面堂は、自分で言うのも何だが、どこからどう見ても非の打ち所がない美少女に変わってしまったのだ。

「無駄じゃ面堂、かわいい女の子に睨まれてもぜ〜んぜん怖くないわい!」

「くっ、諸星なんぞに舐められるほど顔が良いなんて、ぼくの美貌は罪深いな!」

 あたるの隣でコースケが、「女になっても性格は全く変わっとらんようだな〜」と呆れ顔で言った。

「で、面堂、結局ど〜なんだ?」

「なにが!」

「ほら、昨日の話……」

 ぎく、と面堂は肩をこわばらせた。

「い、今その話をするやつがあるか……」

「おれ中途半端は嫌いだもん。イエスかノー、どっちだ?」

 あたるはいつもどおりの飄々とした顔で面堂を見つめている。その視線を避けて面堂はさっと俯いた。それから鞄を取り上げて中の教科書を取り出しながら、どうにかこの場を誤魔化す方法を思案し始める。

 急に喧嘩をやめて黙りこくった二人を、クラスメイトたちがちょっと不思議そうに眺めている。

「あたるくん、昨日の話って?」

「それはな、しのぶ……」

「そ、そうだ諸星っ、さっき先生がおまえに話があると言って探してたぞ!」

 面堂は慌ててあたるの話を遮るとそのままガタッと席を立ち、すぐさまあたるの腕をつかんだ。

「ぼくもちょうど職員室に用事があるのだ、今すぐ向かおう!」

「ちょっと、面堂くん……」

「あとでまたお話しましょう、しのぶさん!」

「あとでな、しのぶ〜!」

 ひらひらと手を振るあたるを引きずって、面堂は飛ぶように教室から飛び出していった。

 残されたしのぶは、呆気にとられて開けっ放しの教室の扉をぱちくりと眺めた。

「なんだったのかしら」

「ダーリンも終太郎も、朝から元気だっちゃね〜」

 ラムも感心したように呟いた。あの二人が仲良く奇行に走るのはいつものことなので、ふたりとも大して気にする様子はない。しのぶは同級生と元の会話の続きを始める。ラムの方は、あたると面堂がいない隙に仲良くなろうと目論む男子生徒たちに囲まれて雑談をする。

 しばらくして、朝のホームルームが始まる直前に二人は戻ってきた。あたるはちょっと不機嫌な顔をしていたし、面堂の方はなにやら疲れた顔をしていた。おおかたどこかで喧嘩をしてきたのだろう、少なくともクラスメイト達は皆そう考えた。あたると面堂が何について話をしようとしていたのか、気にする者は誰もいなかったのだった。

 そしてその日一日、二人の間にあった微妙な距離と緊張感についても、気付く者はいなかった。あたるはさりげなく面堂に近づいて二人きりで話をしようとあれこれ工夫を凝らし、面堂はそれを器用に回避していた。移動教室の際は必ず誰かとくっついて歩いていたし、休み時間はいつも以上に女生徒の輪に加わってあたるを寄せ付けないように気をつけていた。

 例外は、昼休みに写真部の男連中に呼び出されて、そのあと一人で帰ってきたときくらいだろうか。何があったか知らないが、すこぶる機嫌が悪かったのでさすがにそのときはあたるも近づく気にならなかった。

 あたるは頬杖をついて、相も変わらず女生徒に話しかけに行く面堂を遠くから眺めた。

「あいつ、そう来るか……」

 あたるがぼそりと呟いた言葉に、コースケが反応した。二人が見つめる視線の先では、面堂が女生徒達に髪の毛をいじられたり手を握られたり抱き付かれたりしている。面堂は困った顔をしつつも嬉しそうな様子を隠せていない。

「面堂のヤツ、ずるいよな~。いくら今は女だからって、クラスの女子とあんなにべたべたして」

「お、なんだ。羨ましいのか?」

 あたるはにやりと笑ってわきわきと手を動かした。コースケはガタガタッと机ごと後ずさる。

「なに、遠慮は要らんよ、友達だろ?」

「おれに触るな! 絶交するぞ!」

 抱えた椅子をあたるに差し向けて本気で嫌がるコースケを見て、あたるはケタケタと笑った。頭に付いた小さな青い羽根が揺れる。

「安心しろ、女にして面白いヤツしか触らんから」

「……ま、それもそうか」

 コースケは警戒を解いて椅子を床に置いた。

 あたるの羽根の効果は「触ったものを女に変える」という極めてシンプルなものだから、他の生徒の願いと違って日常生活に支障をきたす場面は殆どなかった。女の子に触れても当然ながら何も変化はないので問題はないし、男に関してはむしろわざわざ触りたくなんかないので、こちらも特に問題なし。万が一触れてしまったところで、世の中に一人女が増えるだけだと思えば、あたるとしては何も困ることはない。まあ、相手が錯乱坊や温泉マークだとすると想像もしたくない事態になるかもしれないが、気を付けていれば避けられる範囲だ。

 無機物や無生物に触れた場合も、少なくとも見た目には特に変化はなかった。ただ、あたるの触れた物が文法上すべて女性名詞になっている可能性は十分あった。ここが日本ではなく別の言語圏だったら、今頃その物体の人称代名詞に関する問題で友引高校を大いに混乱させていたことだろう。

 だからはっきり言ってあたるは、今の状態でも生きていく上で何一つ不都合を感じていない。あたるの羽根に迷惑しているのは、この世でたった一人だけ。

「アイツいつまであのままなんだ?」

 二人で面堂と女生徒達をもう一度眺めはじめたとき、コースケが尋ねた。

「おれの羽根次第だろ~な〜」

「そうじゃなくて。ラムちゃん、あの火炎放射器の燃料取り寄せてんだろ。どれくらいかかるんだ?」

「長くて一週間だと」

「ほ~」

 二人が話題にしているのは、青い鳥の羽根を燃やす力を持った特殊な兵器だった。ラムはそれを使い、青い鳥の悪夢のような願いから友引高校のほぼ全員を救ったのだ。もちろん、面堂だけは例外となったが。

 その原因は、竜之介の父親だった。あたるの逃げ足も速いが、竜之介の父親もまた異様に身体能力が高い。まして竜之介を本当の男にするためなら文字通り何でもするような人間だから、本当にびっくりするほど器用に炎を避け続けた。羽根を燃やす中で最終的に竜之介の父とあたるの二人が残ったのも驚くことではないだろう。

 ラムはどちらを優先するかを選ばなければならなかった。銃に残された燃料はすでに心許ない。二人はとにかくちょこまかと逃げ回り、捉えるのは至難の業だった。一方を追い詰めるので精一杯だろう。そんなとき、他ならぬ面堂がラムに「レディーファースト」を申し出たのだった。プライドの高い面堂のことだから、竜之介にいい顔をしたくてやせ我慢したのかも知れない。あるいは、とにかく燃やせばいいのだと高をくくっていたか。

 ラムは竜之介ファンの女生徒や竜之介に憧れている男子生徒の力も借りて、どうにか竜之介を元通りの女の子に戻すことは出来た。その後面堂と共にあたるを追うも、大方の予想通り途中で燃料切れを起こしてしまったのだった。

「まさかジャリテンの炎でも燃えないとは……」

「思いもしなかったよなぁ」

 あたるはそのときのことを思い返した。テンの吐いた炎を食らってあたるが黒焦げになっても、青い羽根だけは何事もなかったようにふわふわと揺れていたときのことを。

 面堂はわなわなと震えてから、八つ当たりよろしく愛用の日本刀をあたるに振り下ろした。いつものようにはっしと白刃取りをして、「随分ひ弱になったな〜」とからかったら、面堂はあたるをきつく睨みつけた。怒りと悔しさと恥辱で頬が火照り、目尻にはじわりと涙が浮かんでいた。刀越しに間近に迫ったその表情を頭に思い浮かべて、あたるはまた頬杖をついた。

「そ〜だあたる、おまえバス停前にできた新しいラーメン屋行ったんだろ。どうだった?」

「……」

「あたる?」

「ん? あ〜……普通だな」

 あたるは伸びをして、弁当の包みに手をかける。それ以降は面堂の方には目をくれずに弁当の中身をつつき始めた。