05 残映
かち、かち、かち、と規則正しく時を刻む秒針に耳を傾けながら、あたるは布団の中で天井を見上げた。暗闇の中ぼんやりと浮かび上がる豆電球の小さな光を見るともなく眺めながら、秒針以外の音に耳を澄ませる。何もない。身を起しかけた時、押し入れから、ごそごそと音がしてあたるはまたぱっと布団にもぐった。どきどきしながらまた耳を澄ます。音はすぐに静かになった。ラムかテンのどちらかが寝返りを打っただけのようだ。あたるはしばらく身を固くしたまま、かち、かち、と一定のリズムに耳を傾け続け、やがて今度こそ起き上がった。そろそろと机のそばまで這って鞄を手に取ると、そのまま細心の注意を払いながら音を立てずに静かに廊下に出る。ここまでくればある程度安心できる、廊下の電気を点けてあたるは鞄を開け、中をごそごそして黒いビニール袋を引っ張り出す。あたるはそれをわきに抱えて、そろりそろりと階段を降り始めた。
あたるが向かった先はトイレだった。といっても用を足しに来たわけではない。あたるは背中でトイレの扉を締めながら、がさがさと黒い袋の中身を取り出した。
それは今日思春期真っ盛りの男子一同で取り囲んで楽しんだ雑誌だった。あたるはにっこりしながら、いそいそと雑誌を開く。
放課後、メガネからある条件と交換に手に入れたものである。といっても条件そのものは非常にたわいないものだ。今度の日曜日にラムと一緒にメガネたち一行と遊ぶだけでいい。たぶん、以前あったラムの歓迎会と似たようなものになるだろう。
多人数で眺めるときは、好きなページを好きなだけ楽しむことはできないが、今はあたるの好きなように雑誌のページをぱらぱらとめくることができる。まずはざっと中身を確認した。コラムや広告はもちろん飛ばし、めぼしい女性の写真にあたりを付けていく。
こうして俯瞰すると、今日議論の対象になっていた二人の女性はやはり特に魅力的だと感じた。顔だけならもっと好みに感じる子もいるのだが、全体的な雰囲気を総合すると結局この二人に目が行く。特にあたるは、昼もなんとなく選んだ長い黒髪の女性に惹かれた。
どこか冷たい印象を与える涼やかな目元。墨のように黒い髪を流して、どこか物憂げな表情でカメラに目を向けている。すらりと長い手足と細くて華奢な体をぞんざいにシーツの上に投げ出している姿が、かえって一層色っぽかった。
やはり、この写真にしよう。あたるは便座に腰掛けて、膝の上に雑誌を置く。ズボンの前を寛げて、間から自分の男性器を取り出した。
彼女の姿を注視しながら、あたるは自身のものをこすり上げていく。長く流れる黒髪が少し乳房にかかって、白く透き通るような肌と綺麗なコントラストを作り出していた。あたるは目を細めてそのふくらみに見入り、手の動きを速めていく。だが、どこかで同じものを見た気がするのが少し引っかかっていた。なんだっただろう。こっそり見た深夜番組か、学校で誰かが持ってきた別の雑誌だったか。
――諸星……。
そのとき、頭をかすめた記憶の残像に、背筋がぞくっとした。同時に手が止まる。
「……あ」
既視感の正体が分かった。
この人、あのときの面堂に、にてる。
あたるは反射的にぱたっと雑誌を閉じた。そしてあの日の記憶を頭の中から急いで追いやってから、開きなおし、別の女性の写真を探していく。
だが、動揺している心では、この人がいいなんてすぐには決められない。ページをぱらぱら行ったり来たりしたあげく、はっとして昼間のことを思い出した。あの、もう一人の女性ならきっと……。
また雑誌をぱらぱらとめくって、彼女の姿を探す。すぐに見つかった。白熱する議論のなか何度もそのページで開かれた雑誌には、わずかに開き癖が付いていた。
甘いはちみつ色の髪を肩のラインで揃え、健康的な身体を色っぽく差し出す愛らしい姿に、あたるはほっとした。そう、こういうのを求めていたのだ。
あたるは彼女の写真を見つめながら、また足の間に手を伸ばしてこすり、性感を高めていく。
だが、いつもどおりにはいかない。普段ならもう射精に近づいているくらいの時間をかけているのに、あたるのそれはいまいち反応が悪かった。
さっき、ぎょっとして気分が一度冷めてしまったせいだろうか。この女の人の写真はこんなに色っぽいのに、どうしても気分が乗ってこない。
あたるは諦めずにしばらく続けていたが、やがて手を止めて深く息を吐いた。だめだ。この調子じゃ、いつまでたっても終わらない。
二人とも眠っているとはいえ、あまり長い間布団から抜け出していると気づかれるかもしれない。明日起きるのだってつらくなる。だから、ほんの少しだけ、ほんの助走のあいだだけ。あたるは自分にそう言い聞かせて、目を閉じる。いままで何としても頭の外に追いやっていた人間の肢体を、仕方なしに脳裏に呼び戻した。
もろぼし、とこちらの名前を呼ぶ掠れた声。傲岸なまでに自信に満ちた普段の態度とは全然違って、面堂は不安そうにあたるの愛撫を受けとめている。気持ちいいことが好きなくせに決して自分からはそれを認めようとしないから、あたるもつい意地になっていろんなやり方で面堂自ら快楽を求めるように仕向けた。そのときの実に悔しそうな表情。
「ん……っ」
脳裏にそれが浮かんだ瞬間、鈴口から透明な雫がじわりと溢れた。それを指に絡め、上下に手のひらを動かす。指の滑りがよくなって、くちゅくちゅと卑猥な音がする。面堂は毎回この手の音を嫌がった。少なくとも、表面上は。
面堂は耳責めにも敏感だったがこういう音そのものにもよく反応して、わざと聞かせてやれば感度がさらに上がった。しきりに声を抑えようとしていたのだって、自分で自分の喘ぎ声に興奮してしまうという理由も間違いなくあったはずだ。あいつは本人の意志とは裏腹に、とにかくあらゆる快感に弱かった。
――きみがぼくをこんなふうにしたんじゃないか……。
ぞく、と身体の芯から震えが走る。面堂は、しかもそれをあたるのせいだと言う。
次第に腰のあたりがぴりぴりと痺れてくる。下腹部の脈動が強くなって、息が乱れた。そろそろあいつのことを考えるのはよそう、とあたるは頭の片隅で思った。ここまでくれば助走は必要ない。なのにそうしないまま、自分を追い詰める手の動きを速めていく。
「は、ぁ……」
快感に小さく声を零しながら、あたるは熱っぽい息をこぼす。最後に面堂としたセックスで、面堂が散々嫌がった末にあたるに囁いた言葉をゆっくりと思い返した。
――浅いところをやさしく突いて、我慢できなくなるくらい焦らしてから……いちばん奥まで挿れて、イかせてほしい……。
面堂がそう言って、縋るように見上げたあの瞬間、あの目つきを思い出した途端、ぞくぞくと全身が熱くなる。あの面堂が、あんなはしたない欲望をあたるだけに打ち明けて、快楽をねだった。あのお上品な面堂が……。
「っん……!」
びくっと腰が跳ねる。白濁した液体が勢いよく迸り、手のひらを汚した。精液が尿道を駆け抜ける強烈な快感に、目の裏がちかちかする。拍動に合わせて断続的に飛び出した精液は、やがて勢いを失っていった。はあはあと息を乱しながら、あたるはゆっくりと壁に頭をもたせかけた。
直前の興奮は嘘のように消え去り、今度は疲れと重い倦怠感が全身を支配する。冷静になった今となっては己の行いに対する後悔と嫌悪ばかりが感じられて、つくづく嫌な気分になる。
(なんでこうなるんだ。今日こそあいつと関係ないオカズで抜くはずじゃなかったのか、おれは……)
手のひらにべったりと付着した粘性の液体を、トイレットペーパーでのろのろと拭う。一度では取り切れず、同じ動作を何度か繰り返した。人生で一番無為でくだらない瞬間を選ぶとしたら、こういう事後処理をしている時間だとあたるは思う。
(そりゃ、写真見て妄想するより実際のセックスを思い出すほうが生々しいに決まってるけど……)
性器についた残滓も綺麗に拭いたあと、あたるはすべてを水に流して立ち上がる。そしてそのとき初めて、オカズになるはずだった雑誌が膝の上でとっくに閉じられていたことに気づいた。あたるは今日で一番重たい溜め息を零す。それから長い時間をかけて石鹸で手をきれいに洗った。
足を乗せるたびに容赦なくみしみし音を立てようとする階段を宥めすかし、建付けの悪い扉を細心の注意を払って静かに開いて静かに閉じる。また足音を殺してそろそろと布団に戻ると、ようやく一息つける。
好奇心旺盛で純粋な女の子と、小憎らしいほどませているがやはり純粋な幼児と同じ部屋で暮らすのは、ことに思春期真っ盛りの男子高校生には難儀なことだった。ラムが来る前なら自室内で済ませていたあれやこれも、夜中に人知れずひっそりと処理する以外どうしようもない。
それでも、以前はここまで慎重に慎重を重ねてまで部屋を離れることはなかった。気付かれても、トイレに行ってた、と正直に言えば済む話だ。決して嘘にはならない。
けれども、たとえこちらから話さなければ決してバレるはずがなくとも、面堂で抜いていることを、この世の何にも、ほのめかすことすらしたくなかったのだ。
面堂で抜いている、という言葉が頭によぎった瞬間、あたるは布団を頭まで引き被って低く呻いた。気色悪いことこの上ないその言葉は、しかしこれ以上ないほど現実を正確に表していた。
面堂は、あの一週間を思い出すことがあるだろうかと、この不本意な自慰のあとは大抵考える。
昼の様子だとそうは思われない。過ぎ去ったことをわざわざ蒸し返すような性格の男ではないから、すっかり忘れてしまっている方が面堂らしいと感じる。そもそも面堂からすれば、女の身体であたるに犯された記憶なんか速やかに記憶の墓場に埋葬して二度と目にしたくないくらいだろう。
あたるは瞼を閉じる。そのうちに夢を見る。夢の中で、あたるはあの日と同じように、池の畔に立っている。眩しいくらいの青空。鮮やかな芝生の緑が、きらきら光る。空高く膨らむ入道雲の下で、柔らかな綿雲がゆっくりと風に流されていた。足元では青紫色のカキツバタの群生が、空飛ぶツバメのように悠然と揺れる。
正面には面堂が立っている。着ているのは詰襟の白い学生服だ。片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で鞘に収めた日本刀をゆるく握って、さざ波の立つ水面を眺めている。
声をかけると面堂はこちらを向いた。あたるの目を見ながら、不思議そうに少し首を傾げる。
いますぐ彼に何か言うべきことがある、とあたるは思い、その内容を捕まえようと一生懸命考えるのだが、あたるにはどうしてもそれが何かわからない。早く見つけないと、それがあたるの中からも、面堂の中からも永遠に失われてしまうとわかっているから、焦って思考を追いたてるけれど、そうするほどに言葉は指の間からすり抜けてさらさら流れ落ちていく。
ばたばたと鳥の羽ばたく音がする。青紫色の翼を持ったツバメが池の淵から一斉に飛び立って、あたると面堂の間を急いで抜けていく。あたるは思わず腕で顔を覆って、忙しなく頬をかすめゆく羽根を避ける。そして群れの最後の一羽が飛び立ってようやく腕を降ろすと、ツバメも、花も、面堂も、みんな姿を消していて、あたるは一人池の畔に立っている。
そして、不意に気付く。手遅れだと。何もかも、どこか遠くに飛び去って、もう捕まえることができないのだと。何かをするには遅すぎた。姿を消したものを射止めることなど誰にもできはしない。