01 Refrain

 頭が痛い。
 ずきずきと後頭部に走る痛みに呻いて寝返りを打つ。もう一度寝なおそうと試みるが、痛みのせいで眠気はあっという間にどこかに吹っ飛んでしまった。
 しかたなく身を起こす。見知らぬ場所だった。見覚えのない真っ白なベッドに横たわったまま、白い壁、綺麗な床をぼんやり見やる。薄いベージュのカーテンがかかった窓の向こうにある景色も、やはり見慣れないもののように思った。
(どこだろう、ここは?)
 頭をさすりながら考える。でもいくら考えてもわからない。そこで今度は寝る前まで何をしていたか思い出そうと試みた。空白。まっさらな日記帳のように、どこまでさかのぼっても何も出てこない。なんだかおかしい。腕を組んで首をひねる。もっと力を入れて記憶を探っても、やはり何一つ思い出せない、どうなっているのか。
 そのあたりで一旦諦めた。今度は自分の周囲から役に立つ情報を得ようと思ってきょろきょろと部屋を見回す。そして、この部屋にいるのは自分一人ではなかったことにやっと気が付いた。
 部屋の片隅に置かれた椅子に、誰かが座っていた。男だった。壁にもたれかかるようにして眠っている。少し悩んでから、掛け布団を体から除けてベッドからひょいと降りる。靴下のまま床を歩いて近づき、その人物をしげしげと観察した。
 男は全身パリッとした真っ白い学生服に身を包んでいた。墨を流したように黒くつややかな前髪は丁寧に整えられ、すべて後ろに流してある。
(いや、その年でオールバックかよ、こいつ)
 誰だろうとかここで何をしてるんだろうとか、そういう疑問の前にそんなことをまず思った。
 膝には開いたままの文庫本が乗っていた。本を読んでいるうちに眠くなって、そのままうたた寝をしてしまったという風に見えた。くたびれた様子からして、もともと疲れが溜まっていたか寝不足だったのだろう。
 そして見ているうちに、なんとなくちょっかいを出したくなった。肩を軽く叩く。反応なし。頬をつんつんと指先でつつく。相変わらず穏やかな寝息。頬を軽くつまんでうにうにと引っ張る。不快そうに眉が寄せられ、男は小さく呻いた。そして彼の頬は思ったより柔らかくて触り心地が良かった。すべすべしているしおまけによく伸びる。面白いので両手で思いきり引っ張ってみるとさすがにうなされ出した。
「うぅ……」
 男の瞼が小さく震え、薄く目が開く。あ、起きた。そう思ったときには、男の腕がすばやくこちらに伸びていた。
「くぉら諸星、何をするっ!」
 寝ぼけ半分の割に男は威勢よくこちらの襟首を掴んで怒った。が、急に幽霊でも見たような驚きを目に浮かべた。
「も、諸星……きさま、目を覚ましたのか!」
 そうかと思うと血相を変えて両肩をガシッと掴んでくる。その勢いにいささか気圧されながら、口を開いた。
「え〜と、おまえは……?」
「え? あっ、いや、べつにぼくはおまえの看病をしてたわけじゃないからなっ?! ラムさんに、おまえの着替えを取りに行く間様子を見ていてほしいと頼まれただけで……」
「らむ……」
「……諸星、どうした? どこか痛むのか?」
 男は今度は心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる。短時間で、随分ころころと表情が変わる。
 さすがにそろそろ、はっきりさせた方がいいんだろうな、と思った。そうはいってもなんと切り出したらいいのかわからず、言葉を選びながらおずおずと問いかける。
「つかぬことを聞くようだが……その、もろぼしって、おれのことで合ってる?」
「はあ?」
「それと、おまえ、誰?」
「…………」
 彼は言葉を失って、こちらを凝視して固まっていた。
 
 現在置かれた状況を理解するまでに、長い時間はかからなかった。
 どうも自分は記憶喪失というやつらしい。周囲の人間の話を整理すると次のようになる。
 まず、自分の名前は諸星あたるで間違いない。次に、今いる場所は病院である。なぜ病院にいるかというと、遡ること二日前、あたるは友引高校で性懲りもなく浮気をして(というのはラムという名前の美少女から得た情報である)、校舎を駆けずり回っていた(のを、しのぶという美少女も見たと言った)。あたるはそれからラムを撒いて一時的に杳として居所が知れなくなった。次にあたるを発見したのはさっき病室にいた男だ。彼は階段の方に駆けていくあたるを見かけ、追いついたときにはあたるは階段の下で伸びていた。そのあと何をしても起きないから、仕方なく保健室に運んだ(と、本人が渋い顔で説明した)。そこの廊下は、窓から振り込んだ雨でかなり濡れていたから、滑ってそのまま階段に突っ込んで落ちて頭を打ったのだろう(というのがその男の推測だった)。
 すぐに起きるだろうと最初は保健室に寝かされていたが、大方の予想を裏切ってあたるはちっとも目を覚まさなかった。そんなわけで今度は病院に移され、二日間意識が戻らず、ついさっき目を覚ましたときにはこの通り記憶に重大な欠損が生じていたというわけだ。
 物や場所、一般常識に属する類の情報に影響はないようだが、友人知人などの人間に関する記憶がことごとくアクセス不能になっている。人がわからないので、人物に関連する記憶も全て連鎖的に消えていた。つまり、相手が誰かわからないだけではなく、どこで誰と何をした、誰がどこで何をした、というような、「誰」という情報が関わるような記憶には一切触れられなくなっているということだ。
 あたるも社会のなかで人間として生きている以上、持てる思い出はすべて「誰かと過ごした記憶」でしかない。つまるところ、あたるは今までの過去をまるっと全て失ってしまったようなのだ。
 あたるはその事実を、割と冷静に受け止めた。確かに初めはびっくりしたし、あるべきものが存在しないというのはなかなか不愉快な体験ではある。でもまあ、言ってみればそれだけだ。生きるのに困るほどのことではない。
「あたる、おまえが母さんを置いていなくなったらどうしようかと思ったわ!」
「ダーリン、良かったっちゃ〜、良かったっちゃ〜!」
 どうやらよほど心配させたと見えて、ラムも母親もあたるにひしと抱きついたまま全く離れる気配がない。流石に照れくさくなって離れようとしても、かえって二人はぎゅうぎゅうと抱きつく力を強くするのだった。諦めてそのまま好きにさせていると、少し離れたところに立っているしのぶが笑った。
「あたしもひとまず安心したわ……あたるくん、全然起きないんだもの。どうなるかと思っちゃった」
「全く人騒がせなやつですね」
 隣の男もそう言って苦笑する。
「あたるくん、結局お医者さまからはなんて言われたの? まだしばらく入院する?」
「あ〜、なんかそうみたい。精密検査とかいろいろするんだと」
 記憶喪失が、脳の出血や損傷などの外傷によって副次的に発生した症状である可能性もあるので、それを調べるためにもそういった検査は必要だとかなんとかいうことらしい。まじめに聞いていなかったので詳しいことはわからない。とにかく、しばらくはこのまま病院で過ごすことになるだろう。
「あたるくん、大変だと思うけど、あまり気を落とさないでね。あたし、今日はもう帰るわね」
 そう言ってしのぶが立ち去ろうとすると、男もしのぶに並んだ。
「それなら、家までお送りしますよ。外は寒いし、もう暗いですから」
「本当? ありがとう、面堂くん」
 しのぶは男ににっこりと笑いかけている。なんだかちょっといい雰囲気だから、あたるは少しむっとした。ぜひとも間に入って邪魔したいが、今の状態では動けない。
「じゃあ、また明日ね、あたるくん」
「うん、明日な、しのぶ!」
 でも、しのぶがかわいい笑みでそういったので、ひとまずは良いことにしよう。

 次の日からは、診察を受けたり、精密検査のために病院のあちこちを行ったり来たりした。でも、一日中そういう検査をするわけではなかったから、ほとんどの時間はすることがなくて暇だった。
 持て余した時間を潰すために病室から出て病棟をふらふら歩いていると、毎回と言っていいほど見知らぬ人が話しかけてくる。
「きみはあの諸星くんだね!」
「あら、諸星くん。今度は何をしちゃったの?」
 そして彼らは、あたるの知らないあたるの話をしてくれる。新聞で、テレビで見たという人もいれば、町中で会ったことがあるという人もいた。その人たちの話を総合すると、あたるは宇宙人と対戦し、全国に石油の雨を降らせ、航空機を事象の地平面の彼方に消し飛ばし、雪女の間男で、何十人ものかかあがいて、しかもその中には小学生の幼女も混じっているそうだ。
 聞きながら、あたるは苦笑いした。さすがに荒唐無稽すぎやしないかと思う。どこかの都市伝説と混同しているのではないだろうか。でもとりあえず、そういうイメージを持たれるくらい、いつも面倒事ばかり引き起こしてきたのは間違いないようだ。
 病室で退屈しているあたるの見舞いに毎日来る者は、両親を除くと三人いた。
 まずはラム。青緑色の長い髪に二本の角を持った鬼族の可愛い女の子。大抵朝イチに見舞いに来てはそのまま病室で話をしたり二人対戦のボードゲームをしたりして、長く暇な病院での時間を潰す手助けをしてくれる。姿がないときは、あたるの記憶を取り戻す手段を病院の外で探しているようだ。普段は優しいが、あたるが可愛い女の子を追い回そうとすると大変に怒って電撃を放ってくるのでなかなか困ったところがある。
 次にしのぶ。ショートの黒髪でラムとは違うタイプだが、清楚な雰囲気でこの子もかわいい。幼なじみで、あたるとは長い付き合いらしい。毎日一回は様子を見に来てくれる。しかし、肩に手を回すだけで怒るのでこちらも注意が必要だ。
 そして最後の一人。
「あれ、今日はラムさんはいないのか?」
 病室に入るなりそう言った長身痩躯の男が、三人目の該当者だ。しのぶたちの話によると、ラムやあたると同じ高校に通っている同級生ということだった。
「まあな。詳しいことは知らんが、取り寄せてたがくじゅつろんぶんとかが届いたから調べてるそーだ」
「記憶を取り戻す方法についてか」
「そゆこと。あいつも熱心だよな〜」
 一番の当事者とは思えないような気楽な顔で、あたるはへらへらと笑った。
「きみが能天気すぎるんだ。普通ならもう少し動揺すると思うが」
 彼は、病室の片隅にあるパイプ椅子に座ると、そのまま文庫本を開いて読み始めた。
 あたるにとっては、意外な行動だった。病室で初めて会ってからこれまでの様子からして、ラムがいないなら彼はそのまま帰るだろうと思っていた。なにしろこの男は、来たところでずっとラムの方を見てばかりだし、あたるへはいつも二言三言腹の立つ嫌味を投げるだけで帰っていくのだから。
「で、どんな調子だ。記憶は戻りそうか?」
「いや、それが全然。せっかく昨日、上着のポケットからすごいメモ帳見つけたのに。今まで会った女の子の電話番号が片っ端からメモしてあってさ。でも今のおれじゃ、相手がどんな子かわからんから電話しづらくてな……困ったもんだ」
「さすがにもうちょっと真面目なことで困ったらどうなんだ……?」
「何を言う、かわいい女の子より重要なことなんかこの世になかろう!」
 あたるは大真面目にきっぱり言い切る。すると彼は呆れたように息を吐いて、窓の外に目を向けた。一面に広がる薄暗い灰色の雲。今にも雨が降りそうな天気だ。
「そうだな。それが、きみの本来の性質だ」
「どーゆー意味だ?」
 彼はあたるのほうを見ずに、文庫本に視線を落としてページを繰った。
「記憶があってもなくても言ってることがまるで変わらん、ということだ」
「あ、そうなんだ」
 それっきり彼は本に集中し始めたので、自然と会話は途切れた。あたるのほうも、別に男を相手に仲睦まじく話をしたいわけではない。病院の一階に入っているコンビニで買ってきた数独の冊子を開いて、空欄を埋め始めた。
 静かだった。時折病室の外から物音や話し声がする他は、彼がページをめくる乾いた音しかしない。
 苦もなく正しい数字を埋められるうちはあたるも彼のことなんか頭からすっかり締め出していられたが、答えに詰まり始めると注意が散漫になってくる。ばらけた意識は数独から外れて、自然と彼に向いていった。
 彼はすっかり本に没頭していてこちらの方には全く注意を向けていない。だからなんの気兼ねもなく観察することができた。長い脚を組んで座っているその様は、悔しいが確かに絵になる。あたるは恨みを込めてその横顔をじとりと睨んだ。
 病棟をうろうろしていると、見知らぬ女の子があたるに愛想良く話しかけてくるときがある。それで喜ぶのはまだ早い。
「毎日あなたを見舞いに来る素敵な男性は何者なのか」
 当たり障りのない世間話の最後には、ほぼ確実にその質問が飛んでくるからだ。
 一日に数度のペースで何度も訊かれると、いくらかわいい女の子が相手でもさすがに嫌になってくる。「あんなやつどーでもいいからおれと仲良くなろうよ」と頑張ってみても、うまいこと言って逃げられてしまうのだ。
 こうして見ていても、やはり腹が立つくらい綺麗な顔だ。男のくせにやけに睫毛が長く、伏せた目の下に影を落としている。整った眉も、すっと通った鼻梁も、薄く形のいい唇も、ほっそりした首筋も、ただそこにいるというだけで女の子の注目を集めてしまう。それは、あたるにとってはあまり喜ばしくない傾向だった。
 あたるは鬱屈した苛立ちをため息に込めて外に吐き出す。数独の冊子を閉じ、見知らぬ女の子から散々された質問を、今度は自分が口にした。
「前から気になってたけど。おまえ、なんでいつもおれの見舞いに来るんだ?」
 少し刺のある言い方になってしまった。彼は少し時間を置いてから顔を上げてこちらを見た。集中していたからなのか、あるいは話しかけられると思っていなかったのか、あたるの声を聞いてほんの少し驚いたようだった。だが、それも一瞬のことで、すぐに目を逸らしていつものすました態度に戻る。彼は小さく肩をすくめた。
「きさまのような男を何も知らない看護婦さんとふたりきりにさせたら、危険だからな」
「おれは野獣かっ?」
「きさまが野獣より危険だから監視しているのがわからんのか!?」
「余計なお世話じゃっ!!」
 威勢よく言い返しながら、あたるは改めて思った。胸の中でざわめく感情の名前はどう考えたって一つしかない。
 ――おれ、こいつ、嫌いだな。
 まず顔がいいのが気に食わない。それに負けず劣らず紳士気取りの涼しい態度も憎らしい。極めつけに、こうして男には露骨に冷たい対応をするくせに、女にはしっかり愛想よくしてニコニコ笑う。たとえ同族嫌悪と言われようと、ムカつくものはムカつくのだ。
 ふいっと顔を背けながら、あたるはその気持ちをストレートに言葉に乗せる。
「つーか、おまえいつまでいんだよ、そろそろ帰れよ。男に甲斐甲斐しく様子見られても別に嬉しくないんだが!」
「……そうだな。ぼくもずっときみにかかずらっていられるほど暇ではない」
 彼は文庫本にイチョウの葉をかたどった金色の栞を挟んで、静かに閉じる。その優雅な指の動きにつられてあたるが本に目を向けると、タイトルが見えた。ドストエフスキーの『虐げられた人びと』。
 彼は立ち上がる。
「あまりラムさんやしのぶさんに迷惑をかけるなよ、諸星」
「あ……ほんとに帰るの?」
「言っただろう、ぼくも暇ではないと」
 彼は相変わらずこちらを見ないまま扉の方に歩いていく。その背中を、あたるはベッドの上から目で追った。
 ムカつく男だ、こんなやつさっさとどこかに行ってほしい、本気でそう思っていたのは確かだ。なのに、いざそれが実現する段になったら突然逆の衝動が胸をついた。あたるは咄嗟に彼に声をかける。
「あのさ」
「用があるなら他の人に頼め、ぼくはもう帰る」
 だが彼は振り向くどころか歩みを緩めもせずにさっさと病室を出ていこうとする。本当にかわいげがない。
 注意を惹くなら、名前を呼んだほうがいいのだろう。そこでまた困った。彼の名前がわからない。今まで気にも留めていなかったから、覚えていないのだ。しのぶがこの男になんと呼びかけていたか考えてみて、ようやくあやふやながらそれらしい記憶に行き当たった。
 時間がないので話題は適当。あたるは彼が消える前に急いで言った。
「めんどう……だっけ? おまえは、実際のとこおれとどういう関係だったんだ?」
「……」
 彼は扉に手をかけたまま少しの間黙っていた。
 そして振り向いて、落ち着き払った冷たい声でそっけなく言った。
「なにも。ただの同級生。それ以上でも以下でもない」
 事も無げな投げやりな言い方にまたむかっとした。抱いていた反感が再び優勢になり、あたるは手でシッシッと追い払う仕草をする。
「あっそ。じゃ、なおのこと言う、はよ帰れよ」
「言われなくても」
 最後まで涼しげな態度を崩さずに、彼はさっさと帰っていった。姿が見えなくなるとあたるはホッとした。彼がいなくなると同時に、胸の中のざわざわとした落ち着かない気持ちも消えたからだ。
 あたるは意気揚々とベッドに背中を投げ出す。白くて清潔なシーツの感触が気持ちいい。その優しい感覚に身を任せながら、一人になった自由をあたるは楽しんでいた。だが、それも最初のうちだけで、いつもと同じ灰色の退屈が部屋の隅からそろそろと忍び寄ってくる。
 暇だなあ、とあたるは思う。ぬくぬくと暖かい病室は、居心地は良くても刺激がない。
 あたるは頭を巡らせ、空になったパイプ椅子を眺める。そこにさっきまで座っていた男、文庫のページをめくる指先が見せた流れるような所作を、あたるは思い返していた。
 やっぱり帰さなきゃよかったかな。
 ぼんやりとそんなことを考えていた矢先、視界の端で扉が動くのが見えた。目を向けると、そこには制服を着たしのぶの姿があった。
「こんにちは、あたるくん」
「しのぶ!」
 あたるは思わずニッコリした。やはりさっき帰ってもらってちょうどよかったのだ。ラムもいないから、これで首尾よく二人きりである。
「さっき面堂くんとすれ違ったわ。あたるくん、面堂くんとなにかあった?」
「いや、別に」
 あたるはすぐに首を振る。少し話をしたくらいで本当に何もなかったと思う。
「そう」
 しのぶも、それ以上は特に何も言わなかった。
 いつもの通り、しのぶはまずあたるの状態について尋ね、あたるは昨日と同じ答えを返した。何も思い出せていないと。それからしのぶは今日学校であった出来事について話してくれた。代わりにあたるは病院で出会った人について話す。女の子にひっぱたかれた話をすればしのぶは呆れるし、子供のごっこ遊びに付き合った話をすればしのぶは笑った。窓の外がだんだん薄暗くなり始めると、しのぶは時計を見て言った。
「あ、もうこんな時間ね。そろそろ帰らなくちゃ……」
「そ〜か。また明日な!」
 あたるはにっこり笑ってひらひらと手を振る。だが、しのぶはすぐには立ち上がらなかった。どこか心ここにあらずといった様子で、足元に視線を落としながら頬にかかった髪を耳にかけている。
「しのぶ?」
「あたるくん……あのね」
「あ、わかった。おれと別れるのが寂しいんだろ? しのぶならどれだけ居てくれても大歓迎――」
「違うわよっ!!」
「い、いててて!」
 肩に回した手を思いっきりつねられて、あたるは涙目になってしのぶから離れた。しのぶはすごく可愛いが、それと同じくらいすごく手厳しい。ラムもそうだが、どうやら自分の周りには一筋縄では行かない美少女ばかりいるようだ。
「言おうか迷ったんだけど」と前置きしてから、しのぶはあたるが全然予想もしていなかったことを告げた。
「面堂くんは……あたるくんのこと、ずっと心配してたのよ」
「へ、めんどう?」
 あたるはぱちくりと瞬きする。誰だっけそれ、とまず思った。そして、さっき頑張って思い出したばかりの名前だということに思い当たる。興味がないからまた忘れかけていたのだ。
 その程度の存在でしかないはずの男が、あたるを心配していたという。
「……なんでそんなに?」
 それが正直な感想だった。
「きっと、その答えはあたるくんしか知らないと思うわ」
 しのぶは微笑んで、あたるに「またね」と小さく手を振った。
 病室に一人残され、あたるはしのぶがいなくなってからも扉をしばしの間眺めた。数独の冊子をまた手にとって、開きかけたが、思い直してやめる。そのまま横にぽいっと放って、あたるはベッドから降りて窓に歩いていった。外を覗く。灰色の雲は更に濃くなり、すでに雨が降り始めていた。
 濡れたアスファルトが、街灯を反射して白く光っている。もうとっくに帰ったことはわかっているのに、あたるは傘をさす人々の中に、白い学生服をぼんやりと探していた。
 しのぶが言ったことは本当なのだろうか。今度あいつが来たときに、ちょっと聞いてみようか、とあたるは思った。けれどもそれから彼は、一度も姿を見せなかった。毎日ラムが病室に現れて一日を過ごし、しのぶが見舞いに来て、その合間に二年四組の同級生が代わる代わる冷やかしに来ても、そのなかに彼はいなかった。そうするうちになんやかやで退院することになり、その頃にはしのぶの言葉もあの男のこともすっかり忘れてしまった。