Malfunction 02

 それから一週間ほど後のことだった。今日は金曜日で、あしたはたのしい休日だ。今週は特に誰かと会う予定もなかったから、できるだけゆっくりするつもりだった。

 面堂は本を読みながら大きくあくびをする。昨日、また冒険好きのタコ、赤丸の行方がわからなくなって、サングラス部隊の男たちも総動員して屋敷中を夜中まで探し回ったからだった。前回赤丸がいなくなったときも、赤丸はずいぶん妙なところに入り込んでしまっていたのでなかなか見つからず、おかげで面堂も赤丸の生霊に憑かれてそれなりに大変な目にあったものだった。

 夜中の三時頃になって、一号館の屋根裏の古ぼけた箱に入って出られなくなっていたところを部下の一人がなんとか発見し、赤丸をいつもの水場に戻して部屋に帰ってきた頃にはほとんど寝る時間など残されていなかった。だから面堂は眠るのを諦め、部屋の整頓をしたり、スケジュール帳を開いて今後の予定を見直したりして朝が来るのを待った。

 たとえ寝不足であっても、授業中にうたた寝するなど言語道断である。面堂は、休み時間にカフェイン入りの栄養ドリンクを飲んだり、眠くなったら手首をつねったりしてなんとか眠気をやり過ごした。

 だから、そのぶん今は本当に眠い。

 気になっていた本の続きも、なかなか頭に入らなくなってきた。同じ文章を何度も往復して、意味を飲み込んでから次の文に移り、また同じことを繰り返していく。そのうちにいよいよ瞼が重くなってきて、面堂はぱさっと文庫本を膝の上に載せた。ソファのクッションに沈み込み、とろとろとまどろみながら目を閉じる。ここまできたらベッドに移ったほうがいいのはわかっていたが、身体が重くて動けない。というより、もう動きたくない。ソファのクッションはふわふわで、体を優しく包み込んでくれる。あとすこし、ちょっと目を閉じているだけ、と言い訳しながら、面堂はやわらかい眠りの世界に身を任せていった。

 が、そのとき、ガチャッと音がした。扉が開く音。

「めんどお〜! いるか?」

 続いて、聞き慣れた声。思わず目を開けて、扉に目を向けると、防寒着を着込んでもこもこになったあたるの姿があった。

「もろぼしっ?」

 かなりおどろいた。今日はもう来ないと思っていたからだ。外ではまた雪が降っている、こんな夜、しかもこんな寒さの中わざわざ外に出て面堂のもとまでやってくるはずがないと、少なくとも面堂の方は思っていた。

「おまえの部屋、あっついな!」

 あたるは首からマフラーを取って上着と一緒に扉のすぐ横にあるポールハンガーにひょいっとかけ、セーターの首元をぐっと引っ張った。その際にあたるの白い首筋がちらっと覗いて、思わず面堂は視線をさっとそらし、膝の上の本を取り上げた。

「ぼくの部屋が暑いんじゃなくて、外が寒いんだ」

 そのままぱらぱらとページをめくっていく。あまりに眠かったから栞を挟み忘れた。しかも、もともと眠くてあまり内容が頭に入っていなかったから、どこから先を読んでいないのかいまいちはっきりしない。

「面堂」

「ん?」

 ページを睨んで記憶をたどっているうちに、あたるはいつのまにか面堂のすぐ前まで来ていた。

「なんだ、諸星?」

 あたるはにっこり笑う。そして両手を突き出し、面堂の油断しきった首を、氷のように冷え切った両手で思いっきり触ってきたのだった。

「どわあっ!!」

 あまりの冷たさに一瞬で眠気が吹き飛んだ。面堂があげた悲鳴に、あたるが声を上げて笑う。慌てて振りほどこうとするが、あたるはぎゅうぎゅうと両手を押し付けてくるばかりか、そのまま面堂のシャツの開いた首元に冷たい手を突っ込んで鎖骨のあたりを撫で回してくる。

「やめんかきさまっ、勝手に部屋に入ってきただけでは飽き足らずこんなッ…、今すぐたたっ斬ってやるっ!」

「おまえほんと体温高いな、すげーあったかい」

「あのなあっ!!」

 急激に体温を奪われ思わず腕にゾクッと鳥肌が立ってしまう。面堂はついにあたるの手首をガシッと掴むことに成功すると、ぺいっと無理やり自身から引き剥がした。

「ぼくはきさまの湯たんぽではないっ!!」

「そりゃそーだ!」

 言いながらあたるはまた笑って、ポケットに手を突っ込んだ。最初からそうしていればそこまで冷え切らなかっただろうに、おそらくこうして面堂をからかうためにわざと手を冷たくしてきたのだろう。つくづくいやらしいことをする男である。

「で、なんの用で来たのだ、きさまは」 

「いま、おれの部屋ストーブ壊れてんだよ。寒くてしょーがないから、おまえんちで暖を取ろうと思ってな!」

「またろくでもない理由で……」

 面堂は呆れたが、ふと気になって面堂はあたるを見上げた。

「だったらラムさんはどーしてるんだ?」

「UFOの点検で今日はあっちに帰ってる。まあ、もともと冬でもビキニだがな、あいつは」

「ああ、そういえば……」

 言われて気づいたがたしかにそうだった。地球人とは鍛え方が違うという話だが、たぶん体質の問題が大きいだろう。

「ジャリテンもラムに引っ付いて向こうに行っててな〜、部屋に一人だとどーも落ち着かないんだよな。いっつも騒がしいから……」

「なるほどな」

 それで今日、わざわざ雪の中やってきたのかと、面堂はようやく納得した。

 面堂は脚を組んでふふんと笑った。

「まあ今日は特別寒いからな、きさまがおとなしくしているなら、ぼくの部屋にしばらく滞在することを許可してやらんこともないぞ。ぼくのあたたかい寛大さに感謝するがいい。ただし、余計なことはするなよ、ぼくは読書をつづけるつもりだが、きさまはちゃんと端っこに座ってだな……」

 そのままくどくどと「諸星が今日守るべき注意事項」について話し続ける面堂にはまったく注意を払わず、あたるはずかずかと部屋の中を歩きまわってエアコンの温かい風が当たる場所を探し当てると、その風に向かって手をかざしている。

「おいっ! 聞いているのか、諸星!」

 するとあたるは振り返って、見ている方の気が抜けるような呑気な笑い方でヘラっと笑った。

「ぜ〜んぜん!」

「きっ、きさま、せっかく人がこ〜して親切にしてやっとるとゆ〜のに……! そこに直れ! そのねじ曲がった根性もろともたたっ斬ってやる!」

「おっと!」

 面堂は鞘から刀を抜き放ってあたるに斬りかかった。あたるもすぐさま両手を上げてぱしっとそれを受け止める。

 面堂とあたるはぎりぎりと至近距離で睨み合った。

「きさまは実に冷たい男だな、面堂! こんな寒い日くらい、あたたかく出迎えてくれてもいいだろうに!」

「あたたかく出迎えようとしたぼくの話を丸っと無視したのは誰だと思っとるんだ、おのれはっ!」

「だ〜って、退屈なんだもん、こ〜ゆ〜ときのおまえの話!」

「なんだときさま!」

 面堂がさらに刀を押し込む力を強めようとしたときだった。

「あ、そ〜だ思い出した!」

 そう言って、途端にあたるの目にきらきらといたずらっぽい輝きが宿った。思わず面堂はたじろいで、刀から力を抜く。

「なんだ、ど〜した?」

「おれ、今おもしろいもん持ってる」

 あたるはそのままするっと刀の切っ先から抜け出すと、ズボンのポケットのなかをごそごそして、何かを引っ張り出した。

「ほら、これ!」

 あたるはふふんと笑って、得意げにそれを見せてくる。

 それは真ん中の穴に赤い紐を通した五円玉だった。面堂はそれを一瞥してから、眉を寄せて腕を組んだ。

「貧乏人のくせにお金をおもちゃにするな、バチが当たるぞ」

「おもちゃにしとるわけではない。なんだおまえ、こ〜ゆ〜の知らんのか?」

 こ〜ゆ〜の、と言われても面堂にはなんの事やらさっぱり見当がつかない。

 面堂が黙っていると、あたるはやれやれと肩をすくめて「これだから金持ちの坊っちゃんはな〜」とばかにした笑みを口の端に浮かべる。面堂はムッとしてあたるを睨んだ。

「きさまのよ〜な貧乏人のやることなど、いちいち把握していられるか!」

「いちいち角の立つ言い方するやっちゃな〜!」

 あたるは親指の先でピンッと五円玉を弾きあげて、くるくると宙を舞った五円玉をぱしっと受け止める。それから紐の部分を持って、ずいっと面堂に迫った。

「これで何ができると思う?」

 へらっと笑ってあたるはそんなことを聞いてくる。

「何もできるとは思えんが……」

 たかだか五円玉だ。駄菓子の一つも買えない。公衆電話だって五円玉ではどこにもかけられない。五円玉一つでできることと言ったら、せいぜい神社のお賽銭として投げることくらいだろうか。

 訝しむ面堂を前に、あたるは自信満々に言った。

「これを使えば、なんと催眠術がかけられるのだ!」

 面堂は、まじまじとあたるを見てから、脱力してぽすっとソファに背を預けた。何を言うかと思えば……。

「きさまは本当に根っからのアホのようだな!」

「おまえ信じてないだろ!」

「信じるほどバカだと思うのか、このぼくが」

 面堂は、あたるのせいで放り出したままになっていた本を取り上げて、再びページをめくり始めた。

 あたるは意外としつこかった。すっかり興味を失った面堂の隣に座って、なおも五円玉片手に絡んでくる。

「まあ待て。これを使って、暗くて狭いところなんか怖くないって暗示をかければ、おまえのいつものこわいよ〜だって治せるかもしれんのだぞ!」

「アホらしい……プロのカウンセラーの催眠療法だって効かなかったのに、きさまごときのシロート催眠術がこのぼくに効くはずなかろうが」

 面堂はあくびを噛み殺しながらさらさらと本の内容に目を通していく。

 だいたい、この手の怪しい催眠術なら妹の了子がさんざん面堂に試してきたのだ。それも、黒魔術の色のついた、もっと本格的なオカルト催眠術を。

 もちろん、了子のおふざけが面堂にかかることなどただの一度もなかった。

「まぁまぁ。何事もやってみなくちゃわからんだろ」

「時間の無駄だ」

「賭けるか?」

「賭けない。やる意味がない」

「なんだよ、ノリ悪いな」

「あと少しで読み終わるんだ、これ以上邪魔をするようなら部屋から追い出すぞ」

 顔を上げずにそっけなく言う。残すところ50ページ弱といったところだろうか。あたるが邪魔しなければ、無理なく今日中に読み終わりそうな分量だ。

 だがあたるはあくまで駄々をこね続けた。

「ちょっとくらい付き合ってくれてもいいじゃねーか、面堂のけち!」

「ぼくは金払いのいいほうだと思うがな」

「せっかく雪の降る中、寒いの我慢してここまで来たのに。そんな健気なおれに対する仕打ちがこれか!?」

「ストーブ壊れただけだとさっき自分で言っとっただろうに!」

 面堂は聞えよがしにため息をついて、諦めてぱたんと文庫本を閉じた。

「あ〜もう、わかったわかった……そこまで言うならやるだけやってみろ」

「やたっ!」

 あたるは小さく拳を握ってにっこりした。対する面堂は終始白けた顔のままである。

 どうせ時間の無駄でしかないが、これであたるが静かになるなら付き合ったほうが幾分かましだろう。

「よし。ではいくぞ!」

 あたるは元気よく面堂に向き直ると、あらたまって咳払いをし、赤い紐を持って五円玉を左右に規則正しく揺らし始めた。

「この五円玉を見つめていると……おまえはだんだん眠くなる……」

 あたるは単純な文言を繰り返し続ける。なんて馬鹿馬鹿しい時間だろうか。

 面堂は、アホらしさにあくびを噛み殺しながら、ソファにもたれかかって単調な動きで揺れ続ける五円玉を見つめていた。

 それからどれくらい時間が経っただろうか。

「……面堂。面堂」

 ふ、と目を開ける。

「おはよう、面堂」

「ん……?」

 ぼーっとしながら、面堂は顔を上げる。こちらを見つめているあたるの顔と、いまだ手に握られている紐と五円玉を目にした途端、面堂はすべてを思い出した。

「どーやら、途中で眠ってしまったようだな……」

 面堂は目をこすり、ふわわ……と口元を押さえて小さくあくびをする。

「だからそんなの、素人がやったところで効くわけないと言ったんだ。これできみもよくわかっただろう」

「うーん……」

 あたるはどこか心ここにあらずといった様子でふらふらと五円玉を宙にさまよわせて、それを胸ポケットにぽいっと放り込んだ。それから、面堂の顔を覗き込みながらこう言った。

「面堂、おれのことどう思う?」

「はあ? 食い意地の張ったアホ面の貧乏人以外の印象があると思うのか」

 何をいまさら当たり前のことを、と拍子抜けしながら答える。あたるはなぜかふうっと大きく息を吐いた。

「あ〜、うん。そうか。元に戻ったな……」

 その態度と言葉に、面堂は不穏なものを感じ取った。眠る直前の、ゆらゆら揺れる五円玉が頭をよぎる。あたるのあやしいシロート催眠術。そんなもの効くわけないと高を括っていた。だがひょっとすると、これは……。

「……ちょっと待て。まさかきみはさっき、ぼくに同じことを聞いたのか」

 あたるは口元に小さく笑みを浮かべながらすっと視線をそらした。

「えーと、まあ……?」

「……ぼくはなんと言ったのだ」

「なにが?」

「だからっ、さっきの質問にぼくはどう答えたんだ!」

 面堂が詰め寄っても、あたるはあくまで視線をそらしたままだった。

「いや〜、べつに……」

「何なんだ、その煮えきらない答えはっ!! 正直に答えないとたたっ斬るぞっ!」

「おまえほんっとその性格どうにかならんのか!?」

 面堂がふたたび振りかぶった刀をはっしと白刃取りし、あたるはため息をついた。

「しゃーないな……ほれ、耳貸せ」

 あたるに手招きされてかがみ込んだ面堂は、あたるがぽそぽそと耳元で囁いたことばを聞くやいなや無言のままぽろっと刀を床に落とした。

「…………」

「青くなった」

「う、う、うそだっ! ぼくがそんな……」

「嘘かどうかは、おまえが一番わかってんじゃねーか?」

「……」

「赤くなった」

「うるさいバカっ!!」

「照れるな照れるな〜」

 あたるはへらへらと笑って馴れ馴れしく面堂の肩に触れてくる。面堂はそれを悪しざまに振り払ってあたるを睨みつけた。

「さっきぼくが言ったことはぜんぶ忘れろっ!」

 あたるはその刺すような視線を受けても、楽しそうな笑みを崩さなかった。

「いや〜、あれはなかなか忘れられそうにないぞ。なにしろ、『ぼくはきみの――」

「わーっわーっ、言わんでいいっ!! だまってろ!」

「むぐ」

 あわててあたるに飛びかかって口をふさぐ。それから面堂は真っ赤になった顔を覆ってしゃがみこんだ。

「あんな言葉をきさまに聞かせたなんて、一生の不覚、面堂家末代までの恥だ……」

「おまえのその末代までの恥って実際のとこいま何個あるわけ?」

「よけいなお世話だっ!!」

「うわっ」

 ぎらりと白刃を光らせ、面堂はゆらりと立ち上がってあたるの首元に刀を突きつけた。その口元は微笑んでいるが、目つきは殺意に満ち満ちている。

「こ〜なったらきさまを殺してぼくも死んでやる……」

「よっ、よせ面堂っ、死ぬならおまえ一人で死なんか!」

「肝心のきさまを野放しにしては、死んでも死にきれるかっ!!」

 面堂は刀を構えて、まっすぐあたるに狙いをつけた。

「諸星! いままでの恨み辛み、今こそすべて晴らさせてもらおうか!」

「ふんっ、おまえがそ~来るなら仕方あるまい、受けて立ってやろうっ!」

 あたるのほうもどこからともなくいつものハンマーを取り出すと、両手で握ってしっかりと構えた。

 そして両者はそれぞれの獲物を手に、相手めがけて駆け出した。

「ゆくぞ、面堂!」

「諸星、覚悟ーっ!!」

 ばき。

「ふっ。勝負あったな、面堂」

「無念……」

 一騎打ちの末にぱったりとふかふかの絨毯の上に倒れ伏したのは、悲しいかな、やはり面堂の方なのだった。