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<title>Enigma</title>
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<pubDate>Fri, 18 Aug 2023 01:50:38 +0900</pubDate>
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<title>06 日曜日</title>
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<pubDate>Thu, 05 Dec 2024 18:18:50 +0900</pubDate>
<description><![CDATA[「おでかけ、おでかけ！」　今日のラムは地球人の女の子と同じような格好で、七分丈のやわらかなブラウスに細身のパンツを合わせていた。日の光を浴びてきらきらと輝く髪をアップにして、黄色いリボンで結んでいる。　ラムは、にこにこしながらあたるの腕を引いて元気よく歩いている。ポニーテールの先も踊るように揺れた。　あたるはむすっとしながら彼女に釘を差した。「あのな〜ラム、昨日から何度も言っとるだろ。今日は別にデートではないのだ。あまり引っ付くでない」「でも、二人きりだっちゃ！」「今はな。待ち合わせ場所に着くまでの話じゃろ〜が」「うん、だからもっとゆっくり歩くっちゃ～」　そういう割に、うきうきと弾む心を抑えられないのか、ラムの足取りはずいぶんと軽い。あたるはため息をついて、ラムに気づかれぬように少しだけ歩く速度を落としてやった。　今日は日曜日だった。メガネと示し合わせたとおりに、あたるはラムを連れて友引商店街まで来ていた。もちろん、雑誌と引き換えにした交換条件を果たすためだった。ラムと一緒に商店街で遊びたい、というのがメガネたち親衛隊の要望だったわけである。たしかにあの雑誌については夜は散々な結果に終わって、おかずとしては結局使えずじまいになっているが、あたるとしては雑誌に罪はないと思っている。強いて言うなら、悪いのは……。そこであたるは思考を無理やり打ち切り、ちょうど近くを歩いていた女の子に声をかけていつものように電撃をもらった。　目印になるお店の前まで来ると、親衛隊の連中はすでにそわそわしながら待っていた。「よ、メガネ」「こんにちは、メガネさん！」「いや〜〜ラムさん！　来ていただいてまっこと光栄です！！」　メガネはあたるを押しのけるようにラムに近づくと、にっこりと満面の笑みをたたえて元気よく挨拶した。「ラムさん、こんにちは〜！」「みんなも、こんにちは！」　だらしない笑みとともに次々に投げられる挨拶は、いずれもラムにだけ向けられたものだった。　あたるはラムの腕を引いて引き寄せると、彼らとラムの間に立った。「こらっ、おまえら！　おれを無視するなよっ！」「ん？　何だおまえもいたのか、あたる」「ぜ〜んぜん気付かなかった！」「おまえらなぁ〜〜！」　あたるが睨みつけると、メガネはおかしそうに肩を震わせた。　そのとき、ラムがあたるの袖の裾をつまんで、ちょいちょいと軽く引いた。「ね、ダーリンあれ見て！」「ん？」　ラムが指さす方向を見てあたるは目を丸くする。　この下町風情あふれる商店街に最も似つかわしくない人間が、やはりこちらを見て驚いたように固まっていた。「げ、面堂？」　せっかく学校の外にいるのに、どうして面堂なんぞと顔を合わせなければならないのか。　面堂の隣にいたコースケと北斗が、あたるに軽く手を上げた。　「お〜、あたるじゃねーか」「コースケ。何やってんだこんなとこで」「そりゃこっちのセリフ……と言いたいとこだが、まあ見りゃわかるな」　あたるの腕にしっかり自分のものを絡めているラムと、その周りにいるメガネたちを見て、コースケは朗らかに笑った。「しかし、おまえらど〜して面堂なんぞと一緒に――」「ラムさん！」　すぐ近くで発せられた声に、二人の会話は不可抗力で遮られた。面堂が目を輝かせてぱっと前に出てくる。「やあラムさん、まさかあなたにお会いできるとは……」　その途端親衛隊の全員が面堂に冷たい視線を投げかけるが、面堂は気にも留めていない、どころかおそらく彼らの存在を意識に捉えてすらいない。こういう無神経さが男子から煙たがられる所以である。　面堂はラムの手をさり気なく取ろうとするが、ラムのほうもほとんど無意識と言っていいほど気軽にさっとそれを避ける。背後の親衛隊がにっこりした。　ラムは何事もなかったように、面堂に微笑みかけた。「珍しいっちゃね〜、終太郎がお休みの日に友引商店街を歩いてるなんて」「たまには、庶民の生活を知る機会を持つのもいいかと思いましてね」「面堂のことだ、絶対なんか下心があるぞ」「面堂がそんな殊勝な心がけでこんなとこ来るわけねーよな」「おい、聞こえているぞきさまら……」　面堂はひくりと頬を引きつらせて、どこからともなく日本刀の収まった鞘を出してくる。　それでも寄り集まっている男たちは悪びれもせず、びーっと舌を出してそっぽを向いた。恋する男子高校生は時には小学生のような振る舞いに走ることもあるのである。　あたるはコースケに顔を向けた。「で、おまえら、こんなとこで連れ立って何をしておったのだ？」「いやほら、牛丼屋のとなりに新しい喫茶店できたろ？　そこにさ――」「コースケ！」　面堂が少しきつい声で遮った。あ、とコースケが声をこぼして口をつぐむ。　その続きを引き取ったのはメガネだった。「あ～、あそこか！　赤いリンゴの看板の店だろ？　おれも聞いたぞ。お店で働いてる女の子がなかなかかわいいんだとな」「なにぃ！」　今週、商店街に新しい喫茶店が開いたらしいとは知っていたが、働いている女の子の話は初めて聞いた。コースケやメガネに女の子の情報で後れを取るなど、一生の不覚といってもいい。「おまえら、そこに行くところだったのか」「……ま、そんなとこだ」　コースケはちらっと面堂に目を向けてから、そう言って笑った。　あたるは考える前に口を開いていた。「ならばおれも行く！」「ダーリン、いきなり何言いだすっちゃ！」　ラムがすぐにあたるに詰め寄るが、あたるは意地になって言い張った。「やかましいっ！　行くったら行く！」「もうっ、ダーリンってばまたそんなこと……！」　あたるがふんっとそっぽを向いて譲らない姿勢を見せると、断固たる表情でラムは腕を組んだ。「ダーリンが行くならうちも行くっちゃ！」「ラムさんが行くなら当然我々も！」「おともします、ラムさん！」　メガネたちラム親衛隊も、わあわあとラムの背後で騒ぎ出す。「ま〜、おまえらを見つけたときからなんとなくこ〜なる予感はしてたが……」　コースケはぽりぽりとうなじをかいて、面堂に目を向けた。「いいよな、面堂？」「かまわない」　ぞろぞろと全員で商店街を歩き始めながら、あたるは口を開いた。「なんでおれが面堂の許可をもらわにゃならんのだ」「そりゃ、言い出したのが面堂だったからな、これ」「そ〜なの？」　反射的に面堂に目を向ける。相変わらずのすました顔は、こちらに向けられる気配はない。あたるたちと並んで歩いてはいても、会話には入る気がないらしい。　休日の商店街は人通りが多く、すれ違う人々を避けていくうちに自然とあたるたちの形作る行列も細長くなっていく。気がつけば、あたると面堂は二人で並んで歩いていた。　あたるはむすっと唇を尖らせて、面堂に咎めるような目を向ける。「おい面堂」「なんだ」　すぐに返事がある。そんなの当たり前のことなのに、なぜかあたるは少しホッとした。「かわいい子がいるっちゅ〜話だったなら、ど〜しておれにも声をかけなかったのだ」「だがきみは、ラムさんたちとこうして出かけてるじゃないか」　面堂は前を見たままそっけなく言った。「そりゃ、そーだが」「なら、どのみち同じ結果になっただろう」　面堂の声色には、この話はこれで終わりだというような、有無を言わさぬものがあった。　確かに、先にほかの約束があった以上、声をかけられたところであたるは一緒に行かなかったかもしれない。でもそこは問題の核心ではないのだ。面堂が、女の子の絡む事柄に関して、あたるではなく別の人間を優先して選んだ。その点がどうしても納得いかないのだった。　それから会話はふっつり途切れ、面堂とあたるの間にはどこかぎこちない沈黙が降りた。それもやはり二人にとっては珍しいことだった。面堂と一緒にいて、二人とも黙っていることなんか今まで一度でもあっただろうか。少なくともあたるには思い当たらない。　ラムは後ろでメガネたちと学校の話をしているし、二人の前を並んで歩くコースケと北斗は牛丼屋のメニューについてぐだぐだと言い合っている。前後がいつもどおり賑やかな分、間に挟まる自分たちの沈黙が余計に際立つように感じた。　やがて面堂は少し歩調を速め、思い出したようにコースケに向かって声をかけた。「コースケ、さっきの話だが。やはりぼくは賛同しかねる、と言っておく」　面堂はそのまま、またコースケの隣りに並んだ。「いやいや、噂によれば、聞けばわかるはずなんだって。今のところ確かめる方法はないけどさ〜」「さすがにエセ科学の領域ではないのか。電力の配給元によってオーディオの音が変わるなんて」　話を聞いているうちに、ふと気付いた。面堂はさっき、コースケ、と呼びかけた。苗字ではなかった。そのことが妙に気にかかって、何度もそのことを考えた。今までそんなの気にしたことなんかなかったから、いつからかなんてわからない。　おれのことは、一度だって「あたる」って呼んだことないくせに。まあ、いまさら呼ばれたって気持ち悪いだけとはいえ。　そもそも、なぜ今になって急に、そんな些細なことが気に障ったのか、あたるは自分でもよくわからなくなった。もやもやした気持ちは大きくなるばかりで一向に消える気配がない。「ダーリン、ど～かした？」「ん？」　いつのまにか親衛隊の輪から抜けたラムが隣を歩いている。ラムは首をかしげて、少し心配そうにあたるの顔を覗き込んでいた。「なんだか、むずかしい顔してるっちゃ」　あたるはぱちくりとまばたきしてから、真面目くさった声で答えた。「いや、これから会う女の子にど～ゆ～切り口で連絡先を聞き出そうか考えとってな……」「心配して損したっちゃ」　ラムの呆れた顔をよそに、あたるは頭の後ろで腕を組んでうひひと笑う。「いや～楽しみだな～！」「うちのスペシャルな電撃の前でも同じことがいえるか、今度はそれを考えてみたらど～だっちゃ？」「それはまた別の機会に！」　へらへらといつも通りに笑うあたるに、ラムは小さくため息をつく。だが、あたるは気にしていなかった。　そうだ、今からかわいい女の子に会うというのに、なぜ面堂なんぞのことで頭を悩ませなければならないのだ？　そんなくだらないことで。　あたるは前を歩く面堂の背中を蹴っ飛ばしたくなる気持ちを抑えて、代わりにまだ見ぬ女の子への期待に胸を膨らませることにした。　きっとそれが、自分にとって一番正しいことだから。]]></description>
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<title>05 残映</title>
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<pubDate>Mon, 28 Oct 2024 20:56:50 +0900</pubDate>
<description><![CDATA[
　かち、かち、かち、と規則正しく時を刻む秒針に耳を傾けながら、あたるは布団の中で天井を見上げた。暗闇の中ぼんやりと浮かび上がる豆電球の小さな光を見るともなく眺めながら、秒針以外の音に耳を澄ませる。何もない。身を起しかけた時、押し入れから、ごそごそと音がしてあたるはまたぱっと布団にもぐった。どきどきしながらまた耳を澄ます。音はすぐに静かになった。ラムかテンのどちらかが寝返りを打っただけのようだ。あたるはしばらく身を固くしたまま、かち、かち、と一定のリズムに耳を傾け続け、やがて今度こそ起き上がった。そろそろと机のそばまで這って鞄を手に取ると、そのまま細心の注意を払いながら音を立てずに静かに廊下に出る。ここまでくればある程度安心できる、廊下の電気を点けてあたるは鞄を開け、中をごそごそして黒いビニール袋を引っ張り出す。あたるはそれをわきに抱えて、そろりそろりと階段を降り始めた。
　あたるが向かった先はトイレだった。といっても用を足しに来たわけではない。あたるは背中でトイレの扉を締めながら、がさがさと黒い袋の中身を取り出した。
　それは今日思春期真っ盛りの男子一同で取り囲んで楽しんだ雑誌だった。あたるはにっこりしながら、いそいそと雑誌を開く。
　放課後、メガネからある条件と交換に手に入れたものである。といっても条件そのものは非常にたわいないものだ。今度の日曜日にラムと一緒にメガネたち一行と遊ぶだけでいい。たぶん、以前あったラムの歓迎会と似たようなものになるだろう。
　多人数で眺めるときは、好きなページを好きなだけ楽しむことはできないが、今はあたるの好きなように雑誌のページをぱらぱらとめくることができる。まずはざっと中身を確認した。コラムや広告はもちろん飛ばし、めぼしい女性の写真にあたりを付けていく。
　こうして俯瞰すると、今日議論の対象になっていた二人の女性はやはり特に魅力的だと感じた。顔だけならもっと好みに感じる子もいるのだが、全体的な雰囲気を総合すると結局この二人に目が行く。特にあたるは、昼もなんとなく選んだ長い黒髪の女性に惹かれた。
　どこか冷たい印象を与える涼やかな目元。墨のように黒い髪を流して、どこか物憂げな表情でカメラに目を向けている。すらりと長い手足と細くて華奢な体をぞんざいにシーツの上に投げ出している姿が、かえって一層色っぽかった。
　やはり、この写真にしよう。あたるは便座に腰掛けて、膝の上に雑誌を置く。ズボンの前を寛げて、間から自分の男性器を取り出した。　
　彼女の姿を注視しながら、あたるは自身のものをこすり上げていく。長く流れる黒髪が少し乳房にかかって、白く透き通るような肌と綺麗なコントラストを作り出していた。あたるは目を細めてそのふくらみに見入り、手の動きを速めていく。だが、どこかで同じものを見た気がするのが少し引っかかっていた。なんだっただろう。こっそり見た深夜番組か、学校で誰かが持ってきた別の雑誌だったか。
　――諸星……。
　そのとき、頭をかすめた記憶の残像に、背筋がぞくっとした。同時に手が止まる。
「……あ」
　既視感の正体が分かった。
　この人、あのときの面堂に、にてる。
　あたるは反射的にぱたっと雑誌を閉じた。そしてあの日の記憶を頭の中から急いで追いやってから、開きなおし、別の女性の写真を探していく。
　だが、動揺している心では、この人がいいなんてすぐには決められない。ページをぱらぱら行ったり来たりしたあげく、はっとして昼間のことを思い出した。あの、もう一人の女性ならきっと……。
　また雑誌をぱらぱらとめくって、彼女の姿を探す。すぐに見つかった。白熱する議論のなか何度もそのページで開かれた雑誌には、わずかに開き癖が付いていた。
　甘いはちみつ色の髪を肩のラインで揃え、健康的な身体を色っぽく差し出す愛らしい姿に、あたるはほっとした。そう、こういうのを求めていたのだ。
　あたるは彼女の写真を見つめながら、また足の間に手を伸ばしてこすり、性感を高めていく。
　だが、いつもどおりにはいかない。普段ならもう射精に近づいているくらいの時間をかけているのに、あたるのそれはいまいち反応が悪かった。
　さっき、ぎょっとして気分が一度冷めてしまったせいだろうか。この女の人の写真はこんなに色っぽいのに、どうしても気分が乗ってこない。
　あたるは諦めずにしばらく続けていたが、やがて手を止めて深く息を吐いた。だめだ。この調子じゃ、いつまでたっても終わらない。
　二人とも眠っているとはいえ、あまり長い間布団から抜け出していると気づかれるかもしれない。明日起きるのだってつらくなる。だから、ほんの少しだけ、ほんの助走のあいだだけ。あたるは自分にそう言い聞かせて、目を閉じる。いままで何としても頭の外に追いやっていた人間の肢体を、仕方なしに脳裏に呼び戻した。
　もろぼし、とこちらの名前を呼ぶ掠れた声。傲岸なまでに自信に満ちた普段の態度とは全然違って、面堂は不安そうにあたるの愛撫を受けとめている。気持ちいいことが好きなくせに決して自分からはそれを認めようとしないから、あたるもつい意地になっていろんなやり方で面堂自ら快楽を求めるように仕向けた。そのときの実に悔しそうな表情。
「ん……っ」
　脳裏にそれが浮かんだ瞬間、鈴口から透明な雫がじわりと溢れた。それを指に絡め、上下に手のひらを動かす。指の滑りがよくなって、くちゅくちゅと卑猥な音がする。面堂は毎回この手の音を嫌がった。少なくとも、表面上は。
　面堂は耳責めにも敏感だったがこういう音そのものにもよく反応して、わざと聞かせてやれば感度がさらに上がった。しきりに声を抑えようとしていたのだって、自分で自分の喘ぎ声に興奮してしまうという理由も間違いなくあったはずだ。あいつは本人の意志とは裏腹に、とにかくあらゆる快感に弱かった。
　――きみがぼくをこんなふうにしたんじゃないか……。
　ぞく、と身体の芯から震えが走る。面堂は、しかもそれをあたるのせいだと言う。
　次第に腰のあたりがぴりぴりと痺れてくる。下腹部の脈動が強くなって、息が乱れた。そろそろあいつのことを考えるのはよそう、とあたるは頭の片隅で思った。ここまでくれば助走は必要ない。なのにそうしないまま、自分を追い詰める手の動きを速めていく。
「は、ぁ……」
　快感に小さく声を零しながら、あたるは熱っぽい息をこぼす。最後に面堂としたセックスで、面堂が散々嫌がった末にあたるに囁いた言葉をゆっくりと思い返した。
　――浅いところをやさしく突いて、我慢できなくなるくらい焦らしてから……いちばん奥まで挿れて、イかせてほしい……。
　面堂がそう言って、縋るように見上げたあの瞬間、あの目つきを思い出した途端、ぞくぞくと全身が熱くなる。あの面堂が、あんなはしたない欲望をあたるだけに打ち明けて、快楽をねだった。あのお上品な面堂が……。
「っん……！」
　びくっと腰が跳ねる。白濁した液体が勢いよく迸り、手のひらを汚した。精液が尿道を駆け抜ける強烈な快感に、目の裏がちかちかする。拍動に合わせて断続的に飛び出した精液は、やがて勢いを失っていった。はあはあと息を乱しながら、あたるはゆっくりと壁に頭をもたせかけた。
　直前の興奮は嘘のように消え去り、今度は疲れと重い倦怠感が全身を支配する。冷静になった今となっては己の行いに対する後悔と嫌悪ばかりが感じられて、つくづく嫌な気分になる。
（なんでこうなるんだ。今日こそあいつと関係ないオカズで抜くはずじゃなかったのか、おれは……）
　手のひらにべったりと付着した粘性の液体を、トイレットペーパーでのろのろと拭う。一度では取り切れず、同じ動作を何度か繰り返した。人生で一番無為でくだらない瞬間を選ぶとしたら、こういう事後処理をしている時間だとあたるは思う。
（そりゃ、写真見て妄想するより実際のセックスを思い出すほうが生々しいに決まってるけど……）
　性器についた残滓も綺麗に拭いたあと、あたるはすべてを水に流して立ち上がる。そしてそのとき初めて、オカズになるはずだった雑誌が膝の上でとっくに閉じられていたことに気づいた。あたるは今日で一番重たい溜め息を零す。それから長い時間をかけて石鹸で手をきれいに洗った。
　
　足を乗せるたびに容赦なくみしみし音を立てようとする階段を宥めすかし、建付けの悪い扉を細心の注意を払って静かに開いて静かに閉じる。また足音を殺してそろそろと布団に戻ると、ようやく一息つける。
　好奇心旺盛で純粋な女の子と、小憎らしいほどませているがやはり純粋な幼児と同じ部屋で暮らすのは、ことに思春期真っ盛りの男子高校生には難儀なことだった。ラムが来る前なら自室内で済ませていたあれやこれも、夜中に人知れずひっそりと処理する以外どうしようもない。
　それでも、以前はここまで慎重に慎重を重ねてまで部屋を離れることはなかった。気付かれても、トイレに行ってた、と正直に言えば済む話だ。決して嘘にはならない。
　けれども、たとえこちらから話さなければ決してバレるはずがなくとも、面堂で抜いていることを、この世の何にも、ほのめかすことすらしたくなかったのだ。
　面堂で抜いている、という言葉が頭によぎった瞬間、あたるは布団を頭まで引き被って低く呻いた。気色悪いことこの上ないその言葉は、しかしこれ以上ないほど現実を正確に表していた。
　面堂は、あの一週間を思い出すことがあるだろうかと、この不本意な自慰のあとは大抵考える。
　昼の様子だとそうは思われない。過ぎ去ったことをわざわざ蒸し返すような性格の男ではないから、すっかり忘れてしまっている方が面堂らしいと感じる。そもそも面堂からすれば、女の身体であたるに犯された記憶なんか速やかに記憶の墓場に埋葬して二度と目にしたくないくらいだろう。
　あたるは瞼を閉じる。そのうちに夢を見る。夢の中で、あたるはあの日と同じように、池の畔に立っている。眩しいくらいの青空。鮮やかな芝生の緑が、きらきら光る。空高く膨らむ入道雲の下で、柔らかな綿雲がゆっくりと風に流されていた。足元では青紫色のカキツバタの群生が、空飛ぶツバメのように悠然と揺れる。
　正面には面堂が立っている。着ているのは詰襟の白い学生服だ。片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で鞘に収めた日本刀をゆるく握って、さざ波の立つ水面を眺めている。
　声をかけると面堂はこちらを向いた。あたるの目を見ながら、不思議そうに少し首を傾げる。
　いますぐ彼に何か言うべきことがある、とあたるは思い、その内容を捕まえようと一生懸命考えるのだが、あたるにはどうしてもそれが何かわからない。早く見つけないと、それがあたるの中からも、面堂の中からも永遠に失われてしまうとわかっているから、焦って思考を追いたてるけれど、そうするほどに言葉は指の間からすり抜けてさらさら流れ落ちていく。
　ばたばたと鳥の羽ばたく音がする。青紫色の翼を持ったツバメが池の淵から一斉に飛び立って、あたると面堂の間を急いで抜けていく。あたるは思わず腕で顔を覆って、忙しなく頬をかすめゆく羽根を避ける。そして群れの最後の一羽が飛び立ってようやく腕を降ろすと、ツバメも、花も、面堂も、みんな姿を消していて、あたるは一人池の畔に立っている。
　そして、不意に気付く。手遅れだと。何もかも、どこか遠くに飛び去って、もう捕まえることができないのだと。何かをするには遅すぎた。姿を消したものを射止めることなど誰にもできはしない。
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<title>04 帰り道</title>
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<pubDate>Thu, 10 Oct 2024 19:16:16 +0900</pubDate>
<description><![CDATA[
　放課後、鞄を掴んで帰ろうとしたときに、メガネに声をかけられた。
「あたる、ちょい待て」
「ん？」
「ほれ、いいからこっち来い」
　チビやカクガリたちも揃って手招きしている。ということは大方ラムに関することだろう。本人に聞かれるとなにかと不都合があるかもしれないので、少し待っているように頼み、あたるは彼らに近寄った。
「今度は何がのぞみだ？」
「まあひとまず聞け」
　メガネは手短にあたるに用件を告げた。
「なるほどな？　協力するかはそっちの出せる見返り次第だが……」
「その点抜かりはない」
　メガネはあたるを手招きすると、ぼそぼそ耳打ちした。
「……なにいっ、本気か!?」
　思わず大声を出すと、彼らは揃ってシーッと唇の前に指を立てた。
「おっと」
　あたるは手のひらで口許を覆った。メガネの言うとおり、まだ教室に残っていた同級生が目を丸くしてこちらに注目していた。幸い、彼らが声を潜めると、すぐに興味を失っていった。それを確認してからメガネはまたあたるにひそひそと言った。
「おまえが条件を呑むなら、の話だぞ」
「取引成立！」
　一切の迷いなくすぐさま快諾すると、メガネたちもにんまりと笑う。
「うむ！　じゃ、今度の日曜だぞ。ゆめ忘れるなよ！」
　あたるはにっこり笑い返して、メガネと握手を交わした。
「じゃ、前金の品をいただこうか」
「よし。残りは約束を果たしたあとに」
　メガネは鞄から黒いビニールに包まれたブツをあたるに手渡した。
「ダーリン、それなーに？」
「わーっ!!」
　出し抜けにひょっこり顔を出したラムに、全員がぎょっとして仰け反った。がったんと椅子をなぎ倒しながら黒いビニールを背中に隠す。
　ラムは首を傾げた。
「へんなの。そんなにあわてて……」
「べっ、べつに何もおかしなことはないっ。い～から、とっとと帰るぞ！」
「うん！」
　幸い、ラムの関心はあたると一緒に帰ることの方に移ったので、それ以上ごまかす必要はなかった。ほっとしながら鞄を閉めて、肩に担ぎ上げる。
　そこで、視線を感じてあたるは顔を上げた。見えない線を辿るように顔を向けると、少し離れたところに面堂が立っている。面堂はどこか呆れた顔であたるたちを眺めていたのだ。
　あたるは、その表情にムッとした。
　面堂を睨みつけながら、びーっと舌を出してみせる。この安い挑発に面堂は乗ってくるはずだ。何度繰り返したって面堂はあたるから売られた喧嘩を買わずにはいられないし、あたるもそうだった。
　面堂はあたるからふっと視線を外して肩をすくめた。
　面堂が見せた反応は、それだけだった。
（……あれ？）
　あたるはきょとんと目を丸くしてまばたきする。
「ダーリン、いこ！」
　ラムはカバンの持ち手に両手を添えて、ふわりと浮き上がる。
「そーだな」
　ま、いいか、どーだって。
　あたるは少しずれた鞄の位置を直しながら、口許に手のひらを当てて大きく欠伸をする。昨日もラムと花札をしていたらいつものように明け方になっていて、ろくろく寝ていない。早く帰って昼寝しよう、いやその前に商店街でたい焼きでも買っていくべきか……。
　あたるの頭はその重大な選択にかかりっきりになったので、直前の小さな出来事など綺麗さっぱり忘れてしまった。

　放課後の道を、ラムと二人で歩いていく。たなびく雲を茜色に染める夕焼け空も、その裾はすでに青い夜の色に変わり始めていた。まぶしく輝く夕日にあたるは目を細める。ちょっと前までなら、今の時間でもあたりはかなり暗かった。ずいぶん日が長くなってきたものだ。
　今日の夕飯はなんだろう。エビフライだといいなあ、なんて考える。諸星家の食卓に供されるエビフライは小さくて数もそんなに多くはないけれど、それでもエビフライには変わりない。
「今日も学校おもしろかったっちゃ～」
　道すがら、ラムがそんなことをいうので、あたるは聞えよがしにため息をついた。
「おまえの感覚は時々ホントわからん。ただ朝早く起きておとなしく座って将来役に立つのかもわからんことを念仏みたいに聞かせられるばっかだろ。休み時間ならともかく、何がそんなに面白いのだ？」
「全部おもしろいっちゃ！」
　ラムはにこっと笑いながら迷いなく言った。
「先生たちのおはなしも、ダーリンと食べるおひるごはんも、みんなでする教室の掃除も、それから……」
　ラムが上げる事柄は、あたるにとってはすべてが愚にもつかない退屈な日常だった。なのにラムは、その一つ一つがきらきら光る宝石でもあるかのように、いとおしそうに話すのだった。やっぱり、よくわからん感覚だな、とあたるは思った。
「うち、最初はしのぶのことが嫌いだったっちゃ。でも、今はそ〜でもなくって……うちとダーリンと、しのぶと終太郎、いまは竜之介もいて……みんなで遊びに行くのも良いなって思うようになってきて」
　ラムは空を見上げながら、ふふっと笑う。
「メガネさんたちも、四組のみんなも、先生たちも町の人たちも、いい人ばっかりで、うち、みんながとっても好きだっちゃ」
　ラムはふわりと浮き上がった。黄昏時の金色の光がラムの髪に当たって、きらきらと光る。その光の中で、ラムはあたるに向かってにっこりと笑った。
「うち、地球に来てよかった。毎日すごく楽しいっちゃ！」
　あたるは、ふん、と鼻を鳴らして渋い顔をしてみせる。
「おまえは良くっても、こっちは毎日大変じゃ。わけの分からん連中に絡まれるわ、ガールハントも邪魔されるわ、ロクな目に遭わん！」
　努めてすげない態度になるよう心掛けたのに、ラムは相変わらず優しい顔で微笑んでいる。
「ダーリンだって、毎日とっても楽しそうだっちゃ」
「……」
　あたるは何も言わずにラムの顔を見返してから、そっぽを向いて足を早める。
　ラムが傍を飛びながらいたずらっぽい声で言った。
「照れてるっちゃ？」
「んなわけあるか、アホ！」
　あくまでラムから顔をそらし続けてすたすた歩いていく。隣りで飛ぶラムが、鈴を転がすように笑っているが、あたるはとりあえず聞かなかったことにした。ラムの方も、それ以上あたるをつつくことなく、「今年の夏こそテンちゃんに泳ぎの特訓してあげないと……」となにか考えている。ラムの考える特訓がフツーであるはずがないので、できるなら巻き込まれたくはない。が、きっとまたあたるも否応なく巻き込まれるのだろう。いつだってそうなのだ、ラムが来てからは。
　確かに、今のあたるの世界は前とは大きく変わった。
　ラムがいて、しのぶと、面堂と、竜之助に、テンや、サクラや、錯乱坊もいて。他にも数え切れないほど、色んな人達と出会ってきた。以前と比べると、あたるの周りはずいぶんと賑やかになったものだ。
　あたるは歩きながら、夕陽に染まる道に長く伸びる二つの影を、あいかわらず顔を背けたまま見つめる。
　今、終わりなく続くこの騒がしい日常が、嫌いじゃない、なんて。そんなこと、ラムには絶対言うつもりはないのだ。
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<title>03 いつもどおり</title>
<link>https://mnms.casa/enigma/article/pt2-3</link>
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<pubDate>Wed, 24 Jan 2024 23:00:47 +0900</pubDate>
<description><![CDATA[
　数日後のことだった。
　休み時間になって、先生の姿がすっかり見えなくなった頃合いに、同級生のひとりがあたるを手招きした。
「おい、あたる、おまえも来いよ」
　男子ばかりが一つの机に群がって全員がニヤニヤしているなら、そこから推測できるものは明白である。あたるはにんまりと笑ってすぐに呼びかけの方にすっ飛んでいった。
「どんなの？」
「まあ見てみなって」
　思った通り、彼らが囲っていたのはいわゆる成人向けに分類されるはずの雑誌だった。四方から突き刺さる女子からの軽蔑の眼差しも、目の前の刺激的な写真を拝む代償と思えば安いものである。
　艶めかしい肢体を惜しみなくカメラの前に晒し、扇情的な表情を浮かべている女性たち。年齢や顔立ちは様々だが、肉感的なからだつきをしていることだけは全員共通している。怪しい色合いのホテルのベッド、退廃的な病院廃墟、意味深に家庭的なアパートの一室など、シチュエーションも色々である。
　あたるは勿論その雑誌を楽しんでいた。が、他の仲間と同じくらい真剣に眺めていたとまでは言い難い。あたるは彼女たちの姿を見つめながら、ぼんやりとあの一週間のことを思い出していたからだ。
　こうして他の子も見ると、やっぱり面堂のやつってスタイル良かったんだなあ、とあたるは改めて思っていた。巨乳推しの女の子たちと比べても、それほど差があるようには感じないのだ。それに面堂は身長が高く手足もすらりと伸びていたので、海外のお洒落な雑誌のモデルのようだった。痩身にほどよくついた筋肉が、引き絞った健康的な陰影を身体に与え、何とも言えない色気があった。
　ただし男の情欲をそそる類いの色気に関しては、雑誌の女性たちのほうが圧倒的に上だ。比べることすら失礼かもしれない、そんなふうに思うほど。
　面堂はいくら見た目が可愛い女の子になっても、やはり本質的には男だったとしか言いようがない。言動も仕草も歩き方も立ち居振る舞いも、それどころか表情一つ取ってもそこには女らしさなどなかった。たとえ面堂が何らかの要因で男に戻れなかったとしても、いま写真の女性が浮かべている媚笑なんか一生掛かったって会得できなかったはずだ。
「……あたるはどうよ、どっちだと思う？」
「え？」
　あたるは面食らって顔をあげる。全く聞いていなかったが、他の面々は何やらずっと議論していたようだ。一人がぱらぱらとページをめくって二人の女性を指した。
「だから、この二人ならどっちが咥えるの上手いと思う？」
　検証する機会が一切ないことを考えるとなんとも不毛な議論である。だがそういうくだらない議論こそ、若者は夢中になって言い争うものだ。あたるは「おれは最初の黒髪ロングの子かな」と軽い気持ちで言ったが、反対勢力から散々どやされることになった。　
　そんな調子で休み時間を過ごしていたが、ふとした瞬間にしのぶの声が耳に入った。
「へえ〜、面堂くん、真吾くんの勉強見てあげてるんだ！」
　顔を向けると、しのぶは数人の女子と一緒に面堂の机の前に立っていた。あたるの位置からだと、座って彼女たちを見上げている面堂の横顔が見える。前に開かれた冊子は、小学生向けの国語の問題集のようだった。つたない走り書きで書かれた回答と、赤ペンで採点する面堂の几帳面な筆跡がなんともミスマッチだ。
「真吾くんって？」
「ぼくのお付きの御庭番です。時々校内で忍者みたいな黒装束の男を見たことがありませんか？」
「ああ、あの人！」
　そしてしのぶの隣の女子が「御庭番ってなに？」と今度は尋ねたので、面堂は代々続く面堂家当主とその密偵である御庭番との緊密な主従関係についての歴史を簡単に話した。そして真吾の特殊な生い立ちについても。
　聞き終わった女子は、「ジャングル・ブックみたいな話ね」とびっくりしている。
「でもちょっと意外ね〜、あの真吾くんが面堂くんと一緒に勉強するなんて」
「やっぱりそう思いますよね……」
　しみじみと言うしのぶに向かって、面堂は苦笑した。
「ちゃんとした家庭教師を付けようと思っても、真吾は勉強が嫌いなのですぐ逃げ出してしまって。そうなるともう、ぼくか彼の祖父である菜造じいにしか手に負えないんですよ。菜造じいはもう高齢で色んな記憶があやふやなので、消去法でぼくがやっているというわけです」
　普段の様子を見ていると、そう言う面堂でも相当手を焼いているように思うが、あれでもまだマシな方ということらしい。
「これも本当は昨日のうちに見てやろうと思っていたんですが……」
　そこで面堂はふと問題集に視線を落とした。手は完全に止まっているから、採点の続きを始めたわけではないだろう。どこか途方に暮れたように口ごもり、少し言葉を探している。
「なんというか……昨日は、それどころではなくなって……」
　あたるはついに好奇心を抑えられなくなった。真吾と面堂のあいだに起きるトラブルはほとんどそのまま学校ないしはあたるの友人関係にも影響してくるので、何が起きたか知っておいて損はない。雑誌を囲む集団からするりと抜けると面堂に近づき、机に置かれた問題集を横からさらって面堂の顔を覗き込んだ。
「ってことは、またあいつと何か揉めたわけか？」
「も、諸星……」
　きっと怒ってすぐに取り返そうとしてくると思い身構えていたのだが、なぜか面堂はあたるを見るなりぎくりと肩を強張らせ、そのままじっとこちらを見つめている。
　仮に五月人形がいきなり動いて襲ってきたらあたるもこんな顔で凍りつくかもしれないが、今面堂があたるを見てそういう反応をする理由が全くわからない。
「……？　なんだよ、怒らねーの？」
「え？」
　ちょっと困りながらおずおずと尋ねると、ようやく面堂はあたるの手にある問題集に目を向けた。
「あ……」
　言われてやっと気付いたとでもいうような声を漏らす面堂に、あたるはいよいよ当惑し、真剣な声で言った。
「面堂、なんか悪いもんでも食ったんじゃないのか」
「きさまと一緒にするなっ!!」
　面堂はあたるの手から問題集を引ったくった。
「だいたい、ぼくの神経はきみたち庶民と違って繊細にできているんだ。たまには調子の悪いときだってあるさ」
　気取ってそんなことを言う面堂を無視して、あたるは近くの席の男子生徒に話を振った。
「面堂の神経が繊細だなんて知ってたか？」
「いや、初耳だな」
「無神経の間違いじゃないのか？」
「おのれらは～～!!」
「おっ、なんだ面堂、やる気か？」
　面堂の手に握られた刀を見て、あたるは口の端を持ち上げて笑う。
「そんななまくら振り回されても怖くもなんともないっつーのに！」
「ふっ……ぼくの刀がなまくらかどうか、その身で確かめてみるか？」
「そいつは遠慮願いたいが……」
　面堂は刀を構えながらじりじりと迫ってくる。あたるは面堂の背後を覗き込んで、廊下の方を大げさに指さした。
「ややっ、あの人影はサクラさんでは！」
「えっ？」
　つられて振り返った面堂の頭に、あたるはすかさずハンマーをみしりと振り下ろした。
「いや見間違いだったようだ。悪いな面堂」
「わ……わざとだろ～が、この卑怯者！」
「こんなのに引っかかる方も引っかかる方だよな～」
　さきほどの男子生徒が呆れてつぶやくが、面堂は聞いていなかった。脇を抜けて廊下に逃げたあたるを追うことに真剣になっていたからだった。
「待たんか諸星！」
　面堂をからかうのはやっぱり面白いと思う。ちょっとおちょくるだけですぐムキになって、そのくせ脇が甘いから簡単に出し抜くことができる。だからいつもちょっかいを出したくなる。どんな反応をするのか見たくなる。無茶を強いても面堂なら音を上げることはないから、面堂が相手なら気兼ねなく何でも出来た。
「こらっ、自分から喧嘩売っといて逃げるんじゃない！」
「それもそ～か」
「えっ」
　あたるは立ち止まってさっと横に退いた。そして突然のことに勢いを殺せず突っ込んでくる面堂に足を素早くひっかける。面堂は見ていて気持ちいくらいに見事に引っかかって顔から床に突っ込んで転んだ。
「わははは、かっこわりい～！」
「くっ……きさまという男はぁ～!!」
　面堂はがばっとすぐに身を起こす。派手に転んでもまったくこたえていない。
　あたると面堂の関係は今でもどう形容していいかわからないねじれたものではあるが、あたるはこの関係を気に入っている。今ではどんな同性の友人よりも面堂はあたるの日常に溶け込んでいた。面堂がいつもあたるの目の届くところにいるのも、毎日の出来事を共有するのも、考えるまでもないくらい当然のことになっていた。
「こ～なったら絶対許さん、たたっ斬る!!」
「ふっ、最初っから許してもらお～なんざ思っとらんわ！」
　そしてそれは、あたるが望もうと望むまいと、これから先もずっと続いていく。
　変わらないものなどこの世にはないなんて、そんなの自分たちには関係のないことだと、あたるはこの日、確かにそう信じていた。
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<title>02 違和感</title>
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<pubDate>Mon, 01 Jan 2024 03:18:05 +0900</pubDate>
<description><![CDATA[　あたるは、首筋できらりと光る銀色の刃を恨めしく睨んだ。
「勝負あり、だな」
「ぐぬぬ……」
　今日も面堂と言い争いになった。ついさっきのことなのに、きっかけが何だったのかは思い出せない。それくらいどうでもいいことから喧嘩は始まった。
　流れ自体はいつものとおりだ。まずあたるが不意打ちでハンマーを振り下ろして先制し、怒って刀を振り回す面堂からひょいひょい逃げ回って、最後にはいつものように刀を挟んで睨み合った。
　そして、なんだかわからないが、気が付けばあたるはそこでかくんと膝を折って床にへたりこんで、首元には面堂の刀があった。
　要するに、また負けた。面堂なんかに。
　面堂は勝った割にあんまり嬉しくなさそうな顔をしていた。勝ち誇られても勿論腹が立つが、これはこれでムカつくものがある。面堂は刀を鞘に収めながら、何か言いたそうな顔であたるを見下ろした。あたるは面堂を睨み返す。
「なんだよ？」
　面堂は、少し迷うような間をおいてから口を開いた。
「諸星……一度、病院で診てもらったらどうだ？」
「どういう意味じゃ、きさまっ!!」
「わからんのか？　きみは、近ごろど〜も変だぞ。熱があるにしては期間が長すぎるし……」
「どこが変なのだ、いつもどおりだろ！」
　すると面堂はしゃがんであたると目線を合わせ、聞き分けのない子供に言い聞かせるような口調で言った。
「ぼくが言うのもなんだが、きみが今週こうして尻餅をつくのは何度目だと思う？」
　あたるはぐっと言葉に詰まった。そのままふいっとそっぽを向くと、面堂がこれみよがしに溜め息をつく。
　すぐ近くでいつもの喧嘩を見守っていたラムが、ふわりとあたるの隣に降り立った。
「ダーリン、病気なの？　なら、うちが診断ロボットを作ってあげるっちゃ！」
　そしてやる気に満ちた笑顔でそんなことを言い出した。あたるは大急ぎで首を振る。
「やだ!!　絶対にお断りだ！　おまえの作る機械なんか、どーせろくなことにならんだろ！」
「痩せ我慢は体に毒だっちゃ！」
「とゆーか、そもそもおれはどこも悪くないのっ!!」
「診てもらえばいいではないか、諸星。ラムさんの星の科学力をもってすれば原因もすぐわかるだろう」
「面堂、てめ〜他人事だと思って……」
「他人事だろう、どう見ても！」
　面堂は涼しい顔できっぱりと言った。そして残念だがそのとおりなので返す言葉もない。そうこうするうちにチャイムが鳴った。あたるは席に戻りながら、ラムにもう一度釘を刺した。
「ラム、とにかく機械は要らん！　余計なお世話だ！」
「も〜、そんなに言うなら仕方ないっちゃね〜」
　頼りになるのに～、とラムは不満そうである。だが、ラムの出してくる地球外製品が想定通りの働きをすることのほうが少ないのだから、保身のためにも譲るわけには行かない。
　喧嘩に巻き込まれないように端に寄っていた机たちがガタガタ音を立てながら元の位置に戻っていく。移動が終わる頃には先生が教室に姿を見せた。
「今日は教科書の八十二ページからです。前回指名されてた人は、黒板に式と答えを書いてね」
　それを合図に数名が立ち上がって黒板に向かう。彼らが答えを書いているうちに、先生は前回の授業のおさらいをしている。
　そのうちのひとりは面堂で、姿勢よく立ちながら、チョークをするすると迷いなく動かしている。嫌味なくらいきれいな字と、無駄のない回答だ。
　その背中を恨みがましく睨んでから、あたるは教科書の陰で小さくため息をついた。
　
　最近どうも調子が悪い。
　なんだかわからないが、白刃取りで面堂に勝てなくなった。もちろん他の勝負だったらそんなことはない。かわいい女の子に駆け寄るのはいつだってあたるのほうが速いし、逃げ足で面堂に負けたこともない。油断している面堂にハンマーで一撃加えるのだって、今まで通りにできている。
　なのに今のあたるは、白刃取りだけはどうしても面堂に勝てないのだった。
　試験の点数ならいざしらず、それ以外のことで面堂に負けるなんて。筆舌に尽くしがたいほど悔しいし、どうしても納得いかない。
　いったい何が原因なんだろう。
　授業の間中、あたるは考えていた。お弁当のおかずをつまむことなく、漫画を読むことすらなく、チャイムが鳴るその瞬間までひたすら考え続けた。それでも必勝法や対策は何も浮かばなかった。無念の思いでいっぱいになりながらあたるは机に突っ伏して大きなため息をついた。
「あたる、い〜かげんにしろよ！」
　隣の席からコースケの苦情が飛んできて、あたるは仕方なく少し顔を上げる。
「朝からうっと〜しい！　おまえがそんなだとこっちも気が散るんだよ。おまえの唯一誇れる取り柄は、底抜けの図太さくらいだろ～が」
「失礼な！　女の子の連絡先を聞きだすのだっておれの得意技だ！」
「ま～下手な鉄砲だって数撃ちゃいつかは当たるからな……」
　コースケはにやっと笑って付け加える。
「それも今となっちゃ、面堂の方がおまえより連絡先控えてるかもしれないぜ」
　今一番聞きたくない名前がコースケの口から出た瞬間、ぴくりと肩が跳ねた。面堂なんかにそんな反応をした自分にますます嫌気が差してくる。あたるは手元のノートをひっつかむと、しつこい虫を追い払うようにぶんぶん振った。
「え～いうるさいうるさい！」
「ほんとのこと言って何が悪いんだ」
　コースケは肩を後ろに引いて闇雲に振り回されるノートを避ける。
「だいたいおまえ、柄にもなく何をそんなに悩んでんだ？」
「……」
　あたるは机に頬を預けながらコースケを見上げる。それからまたため息をついた。
「言いたくない……」
「ほ〜」
　コースケはわざとらしく身を乗り出すと、しげしげとあたるを眺めてみせた。
「おまえがそんな思春期の繊細な青少年みたいなことをほざくなんて、地球は明日滅びるかもしれんな！」
「コースケ、い～かげん怒るぞおれも」
　上体を起こし、頬杖を突きながらジト目で睨むと、コースケは笑った。
「ま〜何にせよ、あんまり思いつめるなよ、あたる。おまえほどそ〜ゆ〜こと向いてないやつもいないからな」
「言われんでもわかっとる！」
　だが、どんなにあたるが考えまいとしても男子の黒い学ランのなかに混じる白い長身はどうしたって目立つ、嫌でも目につくのだ。今もそうだった。
　あたるは椅子の背に深くもたれかかって腕を組む。そうして教卓の近くで女の子に愛想を振りまいている面堂を睨みながら、初めと同じ疑問に立ち戻っていた。
　いったい何が原因なんだろう。
　あの男の目を見ているといつの間にか周りのことも自分のことも霧がかかったように霞んでいって、何もかも忘れてぼんやりと見入ってしまう。そして気が付いたら尻餅をついている。面堂は怪訝な顔で刀を戻す。手を抜いているのかと疑われるが決してそんなことはない。あんなやつに膝を屈するなど屈辱の極みだ。だから次こそ完膚無きまでにのしてやろうと心に決めるのだが、いざそのときになるとまた同じことを繰り返してしまう。
　そうして面堂を遠巻きに見ていて、あたるは突然あることに気づいた。あまりに驚いたので、思わずコースケにその発見を話してしまった。
「面堂ってさあ」
「うん？」
「あいつ……顔が良いんだな」
「はあ〜？」
　コースケが素っ頓狂な声を上げ、それから呆れた顔をする。
「今更何言ってんだよ。本人も今まで散々顔が良いと豪語してきただろ～が」
「そーだっけ？」
「いや、あたる……おまえほんっとーに大丈夫か？」
「う〜〜ん……？」
　あたるは首を傾げる。
　なぜ、面堂の顔がいいと白刃取りのときに面堂に力負けするんだろうか。全くわからない。]]></description>
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<title>01 切り傷</title>
<link>https://mnms.casa/enigma/article/01_%E5%88%87%E3%82%8A%E5%82%B7</link>
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<pubDate>Mon, 05 Jun 2023 15:53:53 +0900</pubDate>
<description><![CDATA[　――なんでもおれの誕生日は仏滅だったらしい。それも、十三日の金曜日。　生まれてこのかた、両親から何度となく聞かされた話だった。本当かどうだか定かではないが、あたるが生まれた瞬間地震があっただの神棚が落ちただの仏壇が倒れただの、とにかく不吉極まりない出来事が雨あられと一斉に両親に襲いかかったのだそうだ。そしてその不吉な予兆に違わず、あたるは昔からとんでもない出来事の渦中に放り込まれては、みんなから諸悪の根源として名指しされることとなった。　だが、どこまでも続く凶相の星の下に産まれたことは果たして自分の罪だろうか、とあたるは言いたいわけである。たまたまその日に生まれたのは自分の意志によるものではない。奇怪な出来事に出合い、奇妙な連中とやたらめったら縁があり、最終的に全てがめちゃくちゃになっていくのだって、あたるの力でどうにかできることでもないのだ。　かつてギリシアの哲学者エピクテトスは言った。自分の力の及ばない、外的要因に心を悩ませるべきではない。自分の力の及ぶもの、要するに自分の心の状態だけに気をつけて生きるべきだと。そうすれば何があってもくよくよせずに幸せに生きていくことができる。　あたるも、世の中はすべて気の持ちようでどうとでも変わると思っている。顔がまずくたって、背が思ったほど伸びなくたって、それはそんなに悪いことじゃないかもしれない。夕飯のおかずが少なくたって、女の子に引っぱたかれたって、その次にはなにか良いことがあるかもしれない。いつまでも落ち込んでいたら、そういう幸せの兆しさえ見逃して、惨めな状態が続くかもしれない。　涙が出るほど悔しい出来事、辛い出来事があっても、次の日にはけろりと笑っていられるのも、そういう気持ちを忘れないよう心掛けていたからだった。　でも、時にはどんなに懸命に気を付けていたところで、路傍の石に足元を掬われ全ての努力が水泡に帰すこともある。　だからあたるも、面堂さえ転校してこなければ、今でも幸せに満ちた明るい世界で呑気に面白おかしく生きていたのかもしれない。でもそれだって、あたるの力の及ばない、どうにもならないことなのだ。　やっぱり、仏滅の日に生まれたというのは本当のことなんだろう。
「闇鍋ディスコ？」　面堂は体育館の壁にもたれかかりながら、コースケの言葉をそっくり繰り返した。　生徒主催の納涼ディスコパーティーの当日のことだった。　会場の中で女の子相手に無節操に愛想を振りまいていた面堂を、「話がある」と言って連れ出したのがついさっき。そして、あたるを含む裏方メンバーが、面堂に企画の概要を説明するところだった。「そ。サプライズとして、急遽やることになったのだ」「実行委員代表メンバーとして、おまえにも参加してもらおうと思ってな」「それは構わないが」　面堂は少し考えるような顔をしてから、首を傾げて言った。「……闇鍋とはなんだ？」「はあっ！？」　面堂を取り巻く面子の間にどよめきが走る。あたるたち友引高校の不真面目男子たちにとっては、健全な男子高校生たるものがよもや闇鍋を知らないなど、信じがたいことだったのだ。面堂としても、こんな些細な質問で彼らがここまで動揺するとは思わなかったのか、かすかに怯んだようだった。「おまえマジ？　闇鍋やったことないの？」「ああ……庶民の間では一般的な鍋料理なのか？」「いや、一般的っていうか……」　同級生の一人が説明しようと口を開いたが、あたるは素早く会話に割り込んだ。「まあそんなとこだな。面堂、おまえ闇鍋を知らないなんて他人に言ったら恥だぞ恥。健全な男子高校生なら誰しも一度は体験してる通過儀礼なのだから！」　口からでまかせを並べ立て、あたるはびしっと指を突きつけながら堂々と言い切った。面堂はちょっと面食らった顔をして、顔を背けながら腕を組んだ。面堂がきまり悪いと感じているときによくやる仕草だった。「仕方ないだろ、ここに転校するまで、貧乏人と話す機会なんかなかったんだ」「いちいち角の立つ言い方するやっちゃな〜……」「事実を述べたまでだ」　面堂はすました顔を崩さずにそっけなく言った。面堂の周りの男子生徒の纏う空気が冷ややかなものに変わっていくが、態度を改める気なんかこれっぽっちもなさそうだった。　その頃はまだ面堂が転入してからあまり経っておらず、あたるもまだ面堂と気安く話すような仲にはなっていなかった。　それどころか当時のあたるにとって面堂は鼻持ちならない嫌なやつでしかなかった。はっきり言って、あたるは面堂が大嫌いだった。しのぶが面堂に並々ならぬ好意を寄せているのが気に食わなかったし、クラスの女子がこぞって面堂を持ち上げてきゃあきゃあ騒ぐのも不愉快で仕方ない。こんなやつ、転校してこなければよかったのに、と思うこともしばしばだった。　もちろん、あたるだけではなくて他の男子生徒も同じ思いを持っていた。四組の男子生徒は、面堂とそれ以外、というようにきっぱり別れていて、間には埋めがたい溝があった。　だから、「面堂にも闇鍋の仮装をやらせよう」とあたるが提案したときには、満場一致の賛成が得られた。遺恨を晴らす絶好の機会というわけだ。「……と、いうわけで、会場が暗くなった隙にみんなのなかに混じって誰かとパートナーになる。そして明かりがついたらあらびっくり、という寸法だ」「ふーん……確かに余興には十分か」　そこでついに面堂は、みんなが待ち構えていた言葉を口にした。「どういう仮装をするんだ？」「ふっふっふ……」　その場にいた男子生徒が一斉に不穏な笑いを浮かべるので、面堂は少し怯んで一歩後ろに引いた。「な、なんだ、気味の悪い……」「今日のおれたちの晴着はこれさ！」　あたるは風呂敷の包みをほどいて、中の衣装を面堂に見せた。　ドレスだった。何着もある。まだ特売セールの値札がついたままで、いやにサイズが大きい、おまけに誰も好んで着ようとしないような奇怪なデザインのものが詰まっていた。　面堂は一瞬固まってから、おずおずとあたるの手にあるドレスを指差して言った。「冗談だろう？」「本気だぞ」「90%オフと書いてあるのだが……」「すごいだろ、こんなに安いの見たことあるか？」　面堂はすでに逃げ腰で、そろそろとあたるたちから距離を取り始めていた。当然予測していた反応なので、彼らも退路を断つように散開しながらじりじりとにじり寄る。「ちょっと急用が……」「こんな時間にどんな用があるってんだ」「きみたちに話す義理はない。そこを通せ」「理由もなしにブッちぎろうなんて、そ〜は問屋がおろさんぞ」　面堂はそこで一か八かの賭けに出た。校舎目指して全力で駆け出し、あたるの横をすり抜けようとするが、すんでのところであたるにタックルされ芝生の上に倒れ込む。「はっ、放せ諸星っ！！」「ようやったあたる！　そのまま押さえとけよ！」「きさまら、よってたかって汚いぞ！」「それ、貧乏人の力を思い知れ！」「やめろ〜〜！！」　いやだいやだと暴れる面堂を数の暴力で押さえ込み、無理やり服を剥ぎ取ってドレスを着せたのが五分前。面堂は意気消沈してあたるたちから少し離れた場所でうずくまっている。愉快痛快、笑いが止まらない。いい気味だと思った。金と権力を臆面もなくひけらかそうが、どうにもならないこともあるとこの男もようやく学んだだろうか。　面堂の服はこちらでしっかり確保しているので、もう逃げ出そうとはしなかった。他の着替えを探すには、この格好で一人明るい場所に出ていく必要があるので、そっちのほうが受けるダメージが大きいと踏んだのだろう。ひとまず面堂はほっといて、あたるたちも準備を進めていくが、彼らがドレスを着て大げさな厚化粧をする段階になってもまだ面堂は動こうとしなかった。　仕方なくあたるは面堂に近寄って声をかけた。「こら面堂、いーかげん観念せんか！」「こんな目に遭わせた張本人がよく言うな！」　すると、ぱっと顔を上げて面堂が言い返す。　そしてあたるはぎくりとした。ゆるくカールした金髪のかつらを被って女の格好をしていると、あの面堂なのにちょっと可愛いと感じてしまったからだ。「い、意外と似合うじゃん……」「きさま、こんな悪趣味なドレスがぼくに似合うと言うのか！」　すると面堂はやにわに立ち上がってあたるに掴み掛かった。確かに妙にリアルなキングコブラが巨大な卵を飲み込んでいる図柄はどうかとは思うが。しかも全面プリントだからとにかく目立つ。　面堂は恨みつらみをぶつけようとしたが、冗談みたいなおめかしで彩られたあたるの顔を間近に見て気力が急に失せたようで、あたるをついっと突き飛ばす。それからため息混じりにスカートについた埃を払った。「だいたいどうして当日の、それも直前に……予め教えてくれればもっとまともなドレスを用意してきたのに」　化粧が済んだメンバーはそれを聞き、おどけてしなを作りながら答えた。「そうだろうと思ったから黙ってたのよ」「アンタの場合、悪趣味なドレスでなきゃ冗談にもならないでしょ〜」「何よっ、アンタたちはシンデレラの意地悪な姉のつもりなの！」　するとなんやかやで面堂も適応し始め、女言葉で彼らに言い返し始めるのにはあたるも驚いた。　こいつ、案外この状況を楽しんでいるんじゃないだろうか。昼間の、お堅い優等生を気取る態度とは随分違うように感じる。それとも、あたるが知らなかっただけでこういうお遊びに付き合う気安さも元からあったのだろうか。　嫌な奴でしかないはずの面堂が、他の友人と変わらない身近な存在に感じられて、そしてそれがすごく変な感じだった。「諸星！」「な、なんだよ」　急に矛先がこちらに向いて、あたるは身構える。面堂はあたるの戸惑いを知ってか知らずか、面堂は少し屈んであたるの指先からさっと口紅を取った。「借りるぞ」「えっ、おまえも使うの」「だって一本しかないんだろう」　そういうことじゃない、と言うべきかあたるは悩んだ。だったら何が困るのだと聞かれても答えられないことはわかっている。なにしろ面堂が化粧をしようが何をしようが、あたるには関係ないしどうでもいいことなのだ。少なくともそのはずだった。　面堂は口紅の軸をくるくると回している。そして鏡を手に取ると、口紅の先を口元に運んですっと薄紅色を唇にのせた。あたるはどぎまぎして思わず目をそらした。どうして慌てたのか、自分でも全くわからなかった。　無意識に指先で自分の唇に触れる。同じ色。当たり前だ、そんなこと。この場の全員が同じ口紅を使ったのだから。ただ、面堂があたるのすぐ次にそれを使っただけだ。　面堂はすでに完全に開き直っていて、粛々と自分に化粧を施していく。腹立ち紛れに発した「どうせならうんと綺麗になりたかったのに」という言葉通り、おふざけの色が強いあたるたちと違って、バランスのよい薄化粧だった。　あたるは、何も言わずにその様子を眺めていた。こうして見ると、たしかに女子が騒ぐのもまあわからんでもないというような気がした。男の顔の美醜なんか全く興味がないので、そういうふうに思ったのは今日が初めてだった。そして間違いなく今日が最後だろう。今面堂の容姿が意識に上ったのは、奴が女装しているからに違いないのだ。女となれば、たとえ紛い物でもあたるはどうしても無視することができない性分だった。　面堂はぱちりとアイシャドウのケースを閉じる。そしてそのとき初めてあたるが自分を眺めていることに気付いた。面堂はふんと鼻を鳴らして睨み返してくる。「何見てる。きみだって化粧してるんだからおあいこだろ〜が」　いつもだったらそれに対して倍ぐらいの憎まれ口を返すのに、あたるは気もそぞろに面堂の顔をじっと見つめたままだった。「諸星……？」　面堂は首を傾げる。ふわりと偽物の髪が揺れる。あたるはさっきの級友の言葉を思い出さずにはいられなかった。　こいつの場合、悪趣味なドレスでなきゃ冗談にならない。　あたるは何も言わずに面堂に近づいていく。面堂はいよいよ不審そうに眉をひそめているが、あたるがかなり近くまで来ても別に避けるでもなくそのまま腕を組んで様子を窺っている。　近くで見ても、やっぱりかわいいなと思った。そして随分と無防備だった。本当の女の子だったらこんな風に不用意に近づかれた時点で警戒するものだが、少しもそんな素振りがない。　だからたぶん、今なら、とあたるは面堂を見上げながらぼんやりと考えていた。首に手を回して、ぐっと引き寄せてしまえば……。　だが腕を伸ばしかけたまさにそのとき、赤いマントを羽織った変わった仮装のおじさんが姿を現したので、あたるは慌てて面堂から離れた。おじさんがあのタイミングで現れたことに、あたるは今でも深く感謝している。我に返って本調子に戻れたのは、面堂から意識を逸らす対象が目の前に現れたおかげだった。　あたるは内心どきどきしていた。いったい何を考えていたのだろう。あの面堂相手に、あの瞬間の自分は何をするつもりだったんだろう。一瞬でもあんなことを考えた自分が信じられなかった。きっと口紅が悪いのだ。同じ色、同じものを使ったから。変に意識したのはそのせいだ、それ以外にない。絶対。　次の日、いつもの白い学生服を着た面堂と顔を合わせたとき、あたるはホッとした。前日のようにどぎまぎすることはなかったし、顔を見ていても何も感じなかったからだ。面堂は、やっぱりあたるの大嫌いな面堂だった。単純に女装が原因で調子が狂っただけだったのだ。　あたるはそのことに心から納得する。なんだかすごく安心して、そして安心したせいか空腹をおぼえた。腹が減っては戦はできぬし、ガールハントだってそれは同じだ。心身ともに満たされたときにこそ功を奏するのだ。温泉マークの目を盗みながらお弁当の包を開いて、教科書の壁に隠れて中身をつつく。ツヤツヤと輝くウズラの卵が美味しい。　卵をむしゃむしゃ食べているうちに、以前夢のなかでバク使いの夢邪鬼と名乗る奇妙な男に会ったことをなんとはなしに思い出していた。獏に悪夢を提供した見返りに、半ば脅し取るような形でその男からもらった夢のタマゴ。そのタマゴを使えば、こちらの希望通りの夢を生み出すことができた。　いい夢だったよなぁ、と思う。女ばかりのハーレムの夢。ラムがいて、しのぶがいて、他にも美人なおねーさんがいっぱいいて……。　あれ？　と、あたるは箸をくわえたまま手を止めた。そういえば、もう一人いた。あたるは斜め前の席に目を向ける。視線の先では面堂が姿勢良く座って、大人しく授業に耳を傾けている。タマゴが生んだ夢のハーレムには、面堂が混じっていた。たくさんの女性の中で、たった一人、面堂だけが男なのにその空間にいた。　それに気がついた途端、あたるはなぜだかひどく不安になった。「諸星ーっ!!」「いてっ！」　スカーンとなにか硬いものが額に直撃した。白いチョークだ。　見ると温泉マークが遠投のポーズのままあたるを睨めつけている。あたるはがたっと席を立った。「何をする、弁当に粉がかかったじゃないか！　食べ物を粗末にするなんて最低だぞっ！！」「文句の前にまずメシを食うな！」「メシでも食わんとやってられるかこんな授業！」「な、なんだときさま〜！！」　わなわなと震えて温泉マークが黒板消しを握りしめたので、あたるは素早く弁当に蓋を被せた。あれが飛んできたら流石に味に影響が出る。　だがその前に、面堂が手を挙げた。「先生。諸星なんかほっといて先に進んでもらいたい」「面堂……」「ぼくたちのクラスは、ただでさえ遅れ気味なんだから。補習なんか御免だ」　それから面堂は振り返ってあたるに言った。「きみもい〜かげんその悪癖をやめられないのか？」　なんてことのない一言だったと思う。面堂なら言ってもおかしくないし、なんなら以前にも言われたことがあるかもしれない。いつもなら、せいぜいちょっとムカつくくらいで終わったはずだ。　でもあたるは昨日からの一連の出来事を持て余して、嵐の前のように心にさざなみが立っていた。そしてそれは全部他でもないこの男のせいなのに、当の本人は涼しい顔でお決まりの優等生を演じている。何も知らないで。そう思うとなんだか無性に腹が立って、あたるは机に転がっていたチョークを面堂に投げつけた。「無礼者、何をする！」「おまえにゃおれの気持ちなんかわからん！」「そんなものわかってたまるか！」　ガタッと面堂も立ち上がって応戦の態勢を取る。あたると面堂は温泉マークの制止も虚しくチャイムが鳴るまで喧嘩を続けたので、結局まともな授業にはならなかった。　　時計が十一時をまわる頃になると、諸星家ではもう灯りを消す時間だった。その頃になると、眠そうな目をしたラムが「おやすみ、ダーリン」とあたるに声をかけて押し入れに入っていくのだった。そしてラムがそこで穏やかな寝息を立てるのを聞きながら、あたるは闇の中手探りで机に向かってデスクライトの灯りをつける。引き出しの奥から引っ張り出した日記を机に置いて、その表紙を開いた。部屋を包む夜闇のなか円錐状に日記を照らすやわらかな光は、小さな舞台照明のようだ。白いページの上で、緑の軸の鉛筆が踊りながら一日の軌跡を描いていく。毎日の日課だった。　あたるはラムが眠っているときにしか日記に手を触れない。絶対に一人きりだと確信できるときにしか、日記を書くことはなかった。一度ラムに勝手に持ち出されたことはあったが、絶対に勝手に日記を読まないことを誓わせて以来、ラムは誠実に約束を守っている。日記の中身は自分のなかだけにしまっておきたいので、彼女がこちらの意志を尊重してくれるのは何よりもありがたいことだった。　あたるにとって日記は日々の記録というよりは、昼間処理しきれなかった感情の埋葬に近いものだった。その時々に生じた感情の目録を作り、きちんと状況と結果を整理して、墓石に名前を刻むように淡々と事実を連ねていく。だから他人が読んだとしても、日記からは無機質な印象しか受けないだろう。でもそれは、知らない人の墓の前に立っただけでは、いくら目を凝らしても何も感じ取ることができないのと同じなのだ。その下に眠っているもの、確かな実体を持っていたものの記憶があれば、すぐに様々な感情が蘇ってくる。そしてあたるにとってそういう感情とは、心の柔らかい部分についた傷だった。　今日という日を終えても、あたるはまだ平常心を取り戻せていなかった。一日の出来事をつらつらと書いているときにも、あのときの戸惑いがしきりに思い返されてならない。そしてようやく温泉マークの授業のくだりに差し掛かり、いざ書き留めようとしたところで、自分が語る言葉を持たないことに気がついた。鉛筆を時折くるくると回しながら、一向に変化のないページを眺めて途方に暮れる。　なぜ夢のなかに面堂がいたんだろう。　昨日ああして面堂をからかうまでは考えたこともなかった、小さな疑問だった。だが、いくら考えても答えの出ない疑問なのだった。メガネなら、そのあだ名の元になった眼鏡をしかめつらしく光らせながら、難問(エニグマ)と呼ぶのかもしれない。　あたるは長いことぼんやりと白い紙をただ眺めていた。が、ふと我に返って時計を一瞥して、少し丸まった黒鉛の先端を紙に押し当て、するすると滑らせていく。早弁したことを書いた。温泉マークにチョークを投げられたことも書いた。だが、ウズラの卵を食べたことも面堂にいやみを言われたことも書かなかった。　つまりあたるはその疑問の存在を無視し、なかったことにした。きっと大した意味なんかない、書き留める価値もないのだ、と自分に言い聞かせて、忘れるように努めた。実際それはうまくいったように思えた。一週間もしないうちに、納涼ディスコパーティーのことも獏のことも頭をかすめもしなくなったからだ。　二度と思い出すつもりはなかったし、実際そうなるはずだった。なのにそれをもう一度思い出す羽目になったのは、ひとえに面堂が夕陽のなかであんなことを言ったせいだった。　　今日は日曜日だった。ラムは小学校のクラス会に行くと言って朝から出かけてしまった。今回はテンもラムについていったから、いつになく部屋は静かだ。弁天さまやランちゃん、おユキさんも一緒だと思うと、なんとも羨ましい限りである。　だから今日のあたるは誰にも邪魔されることなくガールハントができるわけだが、今はそういう気分ではなかった。ラムがいないとやはり熱が入らないのだ。なら久しぶりにしのぶとデートしようと電話したが、それも断られてしまった。「今日は久しぶりに家族みんなで出かけるの」と楽しそうな声で言われれば、「よかったね」以外に返せる言葉はない。仕方がないので畳の上に寝っ転がり、お菓子を食べながら本棚から出した本を開く。が、やはりこれも集中できない。結局あたるは、畳に寝そべって、開いた文庫本を胸の上に載せたまま、ぼんやりと天井を眺めていた。　随分と長い一週間だった。青い鳥が来て、面堂が女として過ごしたのがたったの六日だけだなんて、信じられないくらいだ。　今週は毎日欠かさず、面堂とふたりきりで長い時間を過ごしていた。なのに土曜日にあっけなく別れてから、面堂とはそれっきり一言も話していない。なんだか変な感じだ。しかし、むしろそんなふうに感じるほうがよほどおかしいのだ。本来は、これこそが正しいあり方なのだから。　やがてあたるは身を起こし、机に向かった。とさりと椅子に腰を下ろしながら引き出しを開け、奥から日記帳を取り出す。ぱらぱらとページをめくって、今週の分を読み返した。　大部分は、いつもと同じ、当たり障りのない内容だ。女の子にちょっかいをかけてラムに怒られたり、面堂と喧嘩して廊下を走り回ったり、しのぶに机を投げられたり、コースケやメガネたちと商店街で買い食いしたり、あたるのありふれた日常が記されていた。　その中に、面堂との非日常の記録が混ざり込んでいる。それらは全て、書いた本人のあたるにだけ真意がわかるよう注意深く書かれていた。別にラムを疑っているわけではないが、ラムでなくてもなにかの拍子に誰かが偶然この日記を読まないとも限らない。そもそもあたるとしても、面堂との恋愛ごっこの模様を日記にあけすけに書き留めるのはどうにもできなかった。　だがどんなに短い文章であっても、あたるにだけは、読めばすぐにその日の出来事を思い出せる。「夜の公園が暗いとかいうくだらん理由で死ぬところだった。代わりの犠牲者は雑木林のブナの樹。」「遠出した。疲れたしすごく眠いから今日はこれだけ。」「三限の体育はサクラさんがいない隙に保健室で遊んだ。意外と悪くなかった。」「たくさん賄賂をもらって非常に得をした。あと、おれの淹れる茶はまずいそうだ。」　ぱらぱらと紙を繰りながら、あたるはそうした素っ気ない記述から一日一日のことを思い返していた。時には手を止め、目を閉じて、その時のことを頭の中に思い浮かべた。思い出は、現実よりぼやけて曖昧な代わりに、感情によって様々な色を付けられる。それは、自分にしか知り得ない、自分しか見ることのできない、唯一の情景だった。　ゆっくりと進んでいたあたるの手はやがて止まる。「罰として地下倉庫の掃除。さぼった。邪魔は入ったけど、やり残しはないと思う。きっとこれで、遊びは終わり。」　金曜日の日記。そこで、あたるの拙い文字で書かれた文章は途切れた。あたるは、最後の文とその先の白紙を睨むように見つめる。　土曜日にあたる昨日の日記は、いまだ全くの空白のままだった。書くべき言葉が見つからなかったのだ。あの日と同じように。　でも、いい加減何かは書かないと、先に進めない。　あたるはついに腹をくくって、今まで先延ばしにしてきた作業を始めた。机に頬杖をつきながら白紙を見つめたり、手持ち無沙汰に鉛筆をくるくる回したり、椅子の背にもたれ掛かりながら天井を見上げたり。そうして散々悩みに悩んだ末に、たった一行書くだけで良しとした。「池の畔(ほとり)、カキツバタが綺麗だった。」　そう、これだけ読めば未来の自分も、この日に何があったかすぐに思い出すだろう。　そこまで書き終えると、あたるは鉛筆を机の天板に放り投げる。ようやく人心地ついて、ぐっと伸びをした。こんなことにずいぶん時間をかけてしまった。　それからふと窓に目を向けた。四角く切り取られた青空のなかを、白い帆を広げた雲がゆったりと流れていく。それは昨日の、あのキラキラ光る水面の前でみた空模様とよく似ていた。　眩しい青空の下、不思議そうに首を傾げてあたるを見ていた面堂。その仕草は、ずっと前、面堂が闇鍋ディスコの夜に見せたものと全く変わっていなかった。　あたるは無意識に唇を指でなぞる。　どんな感情でも、墓石に刻んでしまえば、それは静止し決して動くことはない。時が経てば墓碑銘もわからないくらい風化して、やがて消えていく。だがそうせずに放っておいたって、余分に時間がかかるだけで同じ結果になると思っていた。手についた切り傷が、少しずつ小さくなって消えていくように。　いつまでも消えないこの傷は、待っていても化膿していくばかりなのだろうか。「……」　あたるは机に視線を戻すと日記をじっと睨む。やがて手を伸ばして力強くぱたんと閉じた。引き出しを乱暴に開けて、それをまた奥の方に突っ込んで、勢いよく元に戻した。こうしてしまい込んでしまえば、もう目には入らない。目に入らなければ無いのと一緒だ。　あたるは机に上半身をぐったりと投げ出し、ひんやりした天板に頬を付けた。　ひとりでいるのはどうしようもなく退屈だ。はやくラムとテンが帰ってくればいい。]]></description>
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<title>21 夢の終わり</title>
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<pubDate>Mon, 05 Jun 2023 15:49:30 +0900</pubDate>
<description><![CDATA[　月曜日の朝はいつだって少し憂鬱だ。　これからまた一週間、早起きしてわざわざ学校に行って、面白くもない授業を聞くためだけに何時間も同じ場所に拘束される。その間はガールハントに勤しむこともできないし、お弁当を食べるにも漫画を読むにも、先生にバレないようにこっそりやらなければいけない。たしかに同級生の女の子たちと会えるのは嬉しいけれど、煩わしいことも多かった。　眠気を堪えながら教室に入るなり、目についたのは黒板近くに集まっている女子の塊だった。可愛い声で騒いでいる彼らの中心に立つのは、すらりとした長身痩躯の男。「ご心配おかけしました！　もうすっかり元通りですよ」　面堂は女の子に向かって、にこにこしてそう言っているところだった。あたるはその脇をすり抜け、ラムと一緒に自分の席に向かう。あたるも面堂も目を合わせることはなかった。あたるは面堂の方に目をやらなかったし、面堂は女子と話すのに夢中であたるが登校したことに気付いてもいないだろう。「ラムさん、おはようございま〜す！」　メガネたちがすかさず寄ってきて、媚びた笑みを浮かべてラムに挨拶する。ラムはその下心には全然気付かないで、にっこりと挨拶を返している。　あたるが鞄を机の横にかけているとき、コースケがあたるに声をかける。「よ〜あたる、朝っぱらから湿気たツラだな」「やかましい、おまえほどじゃないわ！」　からかってくるコースケに軽口を叩き返して、示し合わせて分担することに決めた宿題を交換した。今日はあたるが古典、コースケが数学の宿題をやることになっていた。　お互いに回答をさっさと写しながら、くだらない雑談をする。コースケは土日に例の聖なる胃袋を持つ彼女とデートしたそうで、「おかげですっからかんだからちょっと小銭貸してくれ」と冗談交じりに言われた。もちろん断った。「あたる、おまえは？　ラムちゃんとどっか出かけたりしたのか？」「えーと……まあ、そんなとこだな」　ラムと出かけたことには間違いないので特に考えずにそういったが、コースケは頬杖をついて意味ありげな笑みをにやにやと浮かべる。「ほうほう！　そりゃ〜お熱いことですな」「えっ、いやっ、別にそういうんじゃなかったぞ……」　慌てて否定するが、コースケは「照れるなよ」と肩を小突いて、あたるの弁解を本気にしようとしない。メガネたちがラムとの話に夢中で助かった。聞かれていたら、先生が来るまで根掘り葉掘り問い詰められて、更に口を滑らすことになったかもしれない。　あたるはそこで自然と面堂に目を向けた。もしメガネたちに土曜日のことをうっかり喋ったりなんかしたら、今度こそ本当に殺される気がする。　そもそも、あたるとしても、あの日あったことは誰にも言いたくない。「……しかし、本当に一週間きっかりだったな」「なにが？」　はっとしてコースケに視線を戻す。コースケは課題プリントに目を向けたままシャーペンを素早く動かしている。それであたるも我に返って、急いで残りの数式を自分のノートに写していった。「だからさ、面堂。遅くとも一週間で元に戻るって言ってたろ？」「あ、ああ……そうだったな」「あいつ、女になったらちっとはおとなしくするのかと思ったが、マジでなんにも変わらなかったよな。相変わらずえらそーだったし。女子どころか他組の男子とかも騒ぐ分、むしろ前よりめんどくせーことになってたし……いや〜、あいつが男に戻ってくれてよかったなんて思う羽目になるとは」　あたるは何も言わず、手を動かし続ける。やがてコースケはシャーペンを机に転がした。「よし、おれは終わった。おまえは？」「おれも」　あたるはノートを閉じてコースケに返し、引き換えに古典のプリントを受け取る。きらいな数学の授業もこれで何とかなりそうだ。　あたるは口許を手で覆いながら欠伸をする。それから頬杖をついて、黒板近くの集団をまた眺めた。　土曜日に、ラムが変なタイミングで帰ったのは、テンから宅配便のことを教えてもらったからだと後でラムから聞いた。先週ラムがしきりに宅配のことを気にしていたのを、テンはしっかり見ていた。だから留守中に届けられた荷物のことを、ラムを喜ばせるためにスクーターを駆り出してまでわざわざ知らせに来たらしい。ぼくいい子や、とラムの話の途中で口を挟んで、テンは小さな胸をそらした。　あとはあたるの見たとおりに事は進んだ。ラムは燃料を補充して面堂邸に戻り、池の畔にいるあたると面堂を見つけた。そして正面から行くとまたあたるに逃げられることを考えて、後ろから不意打ちを仕掛けたのだ。ラムの作戦はうまく行き、あたるは羽根を失い面堂は元の姿に戻った。　そして、全てがあっけなく終わったのだ。　　面堂は女子と話しながら、ずっとにこにこと笑っている。　あんなに幸せそうな顔で笑う面堂など、見たことがない。面堂がラムからチョコレートを貰ったときの笑顔が、唯一比肩できるくらいだろうか。　そのせいか、いつもよりも面堂の周りに集まる女子の数が多かった。よく見ると他組の女子も混じっている。教室の前を通りかかった女の子も思わず足を止めて、じっと面堂に見入ったり友達同士でなにか話して笑ったりしている。　朗らかな優しい微笑みは、たとえどんな人間であっても実際以上に感じよく見せるものだ。まして面堂がそんな表情をしていたら、女の子が注目するのもやむを得ないかもしれない。何なら男子の方も今日は時々面堂を眺めて、ミケランジェロの彫刻でも見かけたような顔で感心している。これも滅多にないことだ。「やっぱり面堂くんは男の子のほうがいいね」　一人がそう言うと、面堂は力強く同意した。「ぼくもそう思います。ぼくは女性というものを心から尊敬していますが、やはり男性として傍で女性をお助けするほうが性に合っていますからね」　頼もしいね、と誰かが言う。女子の輪にさざ波のようにやわらかな笑いが広がった。　その波が引いたときに、別の女生徒がまた笑ってこう言った。「でも、女の子の面堂くんがもう見られないのは正直ちょっと残念だわ。凛々しいお姉さんって感じで、私女なのに毎日見とれちゃってたもん」「わかる〜、綺麗だったよね。竜之介くんとはまた違うかっこよさがあって素敵だったなあ」「ははは……」　面堂は苦笑する。それから口の端に笑みを湛え、どこか歌うような調子で言った。「――もしも皆様、お気に召さぬとあらば、こう思し召せ、ちょいと夏の夜のうたたねに垣間みた夢まぼろしにすぎないと」　きょとんとしている女子の輪に向かって、面堂はいたずらっぽく笑いかける。「シェイクスピアの『夏の夜の夢』ですよ。ぼくたちみんな、妖精のいたずらでおかしな夢を見ていただけ、そう思ってください。青い鳥のことも、ぼくが女になったことも、全部夢だったんです」　女の子たちが、うっとりした顔で「面堂くんって博学よね〜」と感心した。読書が好きなだけです、と面堂は口では謙遜するが、どことなく満足げな微笑みを見れば、そう言われたくてシェイクスピアを引いてきたことはあたるにはすぐ読み取れた。こういう厭味な行動はなぜ同性にしか真意が伝わらず、異性はころりと騙されるものなのか。これは人類永遠の謎だろう。　あたるはこれ以上いらいらしないように、面堂から顔を背けて頬杖をついた。ふん、シェイクスピア読んだくらいでいい気になるなよ、と不貞腐れる。文学好きな女の子に話を合わせるために頑張って図書館に通ったことがあるから、実を言うとあたるも内容くらいは知っているのだ。　そして内容を知っているからこそ、面堂の言葉にも一理あると認めてしまう自分に余計に腹が立ってくるのだった。　面堂は今までの出来事を総括するのにシェイクスピアを引用した。全ては『夏の夜の夢』と同じだと。ある意味でそうなのかもしれない。妖精パックの手違いは、本当は好きでもなんでもない人間をまるで運命の恋人のように思わせ、夢中で追わせた。二組の男女は恋心がねじれてもつれあう。そして妖精の女王タイタニアはロバの頭を被った機屋に恋をする。それがひどく滑稽で、憐れなくらい場違いな事にも気がつかない。だが一晩明ければ魔法は解けて、正気に返ったタイタニアは自分の間違いを知る。　そして最後には元通り、妖精の女王は夫のもとに帰り、二組の若い男女はあるべき形に落ち着いて、全てが丸く収まるのだ。　あたると面堂も、夏の夜の夢を見ていた。自分達はこの一週間、内緒の恋人同士のように振舞った。夢中になって児戯に浸り、お互いを貪り合い、求める物を与えあった。それは愛の悦びにも似ていた。そしてその夜も明け、もはや偽りの恋人同士ではなくなった。あたるはもう面堂を抱きしめることはないし、面堂もあたるを求めてすがりつくことはない。今そんなことをすれば、それはもう正気の沙汰ではないのだ。あたるも面堂も、今までの日常に戻っていく。夢を見ていたことすら忘れて。　すべてが元通り。そう、これが、自分たちにとって、考えられうる限り最善の結末なのだ。　あたるはもう一度面堂に目を向けた。面堂は本来の自分に戻った。女生徒と語らいながら、とても嬉しそうに、屈託なく笑っている。あたるが眺めていることなんか気付きもしない。　だから、本当に、これで終わってよかったのだろう。]]></description>
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<title>20 燕子花</title>
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<pubDate>Mon, 05 Jun 2023 15:49:00 +0900</pubDate>
<description><![CDATA[　塀を乗り越え、ひょいっと飛び降りればそこは枯山水の真っ只中だった。着地と同時にざっと小石が飛び散り、綺麗に整えられた波紋に穴が空いた。あたるは小石でできた波をざくざく踏んで崩しながら、土塀沿いに歩き出す。ラムがその隣に並んだ。つまりは、あたるとラムは再び面堂の屋敷に侵入していたのだった。　面堂の庭は、あたるからすると修学旅行で見物した京都のお寺のそれに似ていた。あたるの家の庭とは違って雑草なんか一本も生えていないし、地面を覆う緑も芝ではなかった。スギゴケなどの綺麗な緑色の苔が、塀と屋敷との間にある空間に絨毯のように広がっている。　おそらく面堂は庭のよく見える部屋のどこかにいるだろうから、このまま庭を進んでいればそのうち面堂を見つけることもできるだろう。　というわけで、屋敷の色とりどりの草木のなかを、見つからないように隠れて歩いていった。手をかけて剪定された立派な松や梅の木を通り過ぎ、鮮やかな新緑の茂る枝を空に差し伸べている紅葉の横を抜ける。春先にはきっと美しい花を咲かせていたのだろう枝垂れ桜の枝の下をくぐる頃には、その広さにうんざりしてきた。相変わらず嫌味なほどなんでもかんでも広くて立派である。庭の所々にはたまに大きな岩も置いてあった。詳しい人間が見たらきっとその配置になにかの意味を見出せるのだろう。もちろんあたるには何もわからないから、草木も岩も等しく隠れるのに便利な遮蔽物でしかなかった。　しばらくして、ラムが言った。「ダーリンが終太郎のためにここまでするなんて意外だっちゃ」　聞き捨てならない言葉に、あたるは歩きながら渋い顔をラムに向ける。「どーも誤解があるようだな。これは断じて面堂なんかのためではないぞ！　おれは了子ちゃんとの約束を守るために仕方なくやっとるのだ、あんなやつど〜なろうが、おれは心の底からどーでもいい！　はっきり言って芥子粒ほども興味はない！！」　話しているうちにだんだんムキになってきて、あたるは勢い任せに言い切った。「力強い否定だっちゃ」「だってほんとのことだもんっ！」　そのとき、庭に面した廊下を着物姿の女中さんがお盆片手に歩いていくのが目に入り、二人は近くにあった岩の陰にさっと仲良く身を隠した。見つかってまた追い出されると面倒なことになる。　視界から岩が外れる位置まで女中さんが歩いていったところで、あたるは隠れるのをやめてラムに言った。「よし、今のおねーさんを追うぞ」「ダーリンッ、ここまできといてまたそんな――」「違う違うそういう意味じゃなくて！」　ラムの髪がパリッと音を立てたので、あたるはぶんぶん腕を振りながら急いで弁明した。「ほらっ、今の状況できれいな着物の女中さんがお盆持って移動しとるんだ、面堂と相手の所にお茶でも運んでると考えるのが筋ってもんだろ！」　電撃が来る前に言い切ろうと早口で説明する。そしてなんとか間に合った。静電気で持ち上がっていたラムの髪がふわりと元に戻っていき、ラムはちょっとばつの悪そうな顔であたるを見上げた。「ごめんちゃ、ダーリン。うちはまたダーリンが浮気しようとしてるのかと」「うむ、わかってくれればいいのだ……」　あたるは腕を組んで、しかめつらしい声で言う。だがそんな厳かな態度も一瞬しか保たなくて、あたるはまたいつもの軽薄な笑みを口許に浮かべる。「まあでも、確かに美人だったよなー。和装ってのもなかなかそそる……」　遠巻きに見かけた彼女の姿を思い浮かべ、にまにまと微笑む。やっぱり面堂なんか放っておいてこっちを狙うべきだろうか。そんなふうに楽しい想像を巡らせていたので、ラムがじっとこちらをじっと睨んでいることに気付くのがやや遅れた。「ラムっ待て！！　話せばわか……」「やっぱりうちが正しかったっちゃ！！」　うぎゃー、と響き渡った悲鳴を、屋敷に居合わせた者達がどう受け取ったかは、知る由もない。　　　電撃によって手脚が痺れて歩くのはそこそこ大変だったが、なんとかさっきの女中さんを見失わずに追いかけることはできた。普段から散々食らっている分身体はもう順応しきっているのだ。結果、辿り着いたのはあたるたちが今朝通されたのと同じ客間だった。あるいは、同じ造りの別の部屋だろうか？　少なくとも見分けはつかない。　そして予測した通り、そこには面堂の姿があった。ついでに今日の見合い相手も一緒だ。　面堂の家なので部屋がやたら広く調度品がむやみに高級であることを除けば、それはごくごく普通の見合いの風景に見えた。つややかな座卓を挟んで向かい合って座り、両者とも穏やかに話をしている。　あたるは庭の植え込みに身を隠しながら、その時はじめて今日の面堂の相手を見たのだった。紺色の袴で正装している男は、あたるたちと同年代に見えた。座っているのでなんともいえないが、背格好もおそらく面堂とあまり変わらない。ほっそりしていて全体的に色素が薄く、なるほどいかにも優男といった風情である。面堂とは随分毛色が違うとはいえ、女遊びに困ることはない容姿ではあるようだった。「まあしかし、了子ちゃんが心配したようなことはなさそうだな」「だっちゃ」　それが二人の様子を観察して出た素直な感想だった。面堂も相手の男も良識的な距離を保ったままだし、男も今のところ礼儀正しく振る舞って、妙な行動を起こす気配はない。「今日の終太郎、ほんとに別人みたいだっちゃね〜」　ラムがしみじみと呟いた。あたるはそれには何も答えず、面堂を眺めている。　今日の面堂は学校での立ち居振る舞いからは想像もつかないほどしとやかに振る舞っていた。というより、了子の所作をかなり正確にコピーしている。まあ、なんといっても今は了子の身代わりなのだから、合理的な判断だろう。身近な人間を模倣するのは、ゼロから架空の人物像を創造するよりずっと簡単だ。　相手の男が何か言うと、面堂は了子がするように口元を押さえて優しく笑っている。やわらかで花の綻ぶような笑い方。面堂があんなふうに笑うのを、あたるは今まで一度も見たことがなかった。そしてその微笑みは、誰とも知れぬ見合い相手の男に向けられているのだった。　ふと視線を感じて隣を見ると、なぜかラムがあたるのほうをじっと見つめていた。あたるは少し怯む。「な、なんだよ……」「見合い、邪魔するつもりかな〜と思って」「はあっ？　なんでおれがそんなことせにゃならんのだ」　ラムは表情を変えないまま、何の他意もなく言った。「だってダーリンて、ああいう女の子によくちょっかい出すから」「あのなあ！！　なんでおれが面堂なんかに――」「ダーリン、声が大きいっちゃ！」　ラムが素早くあたるの腕を引き、身を屈めて低木の陰に隠れた。直後に男の方が怪訝な顔つきで縁側に出て庭のほうを覗き、面堂も慌てて後を追って必死になにか誤魔化していた。どう説得したかはわからないが、男は納得したようだ。男は面堂に笑いかけてから、こちらに背を向けて部屋の奥に戻った。　面堂は庭をざっと見渡すと、低木の陰から様子を窺っているあたるを目ざとく見つけた。露骨に迷惑そうな顔をしながら、そのまま身振りで「かえれ」と伝えてくる。それにかちんとして、あたるも身振りで「アホ！」と悪態をついた。面堂の眉がつり上がった。直前までのお嬢さま然とした淑やかさはあっさり消え失せ、面堂はこちらを睨めつけてふるふると拳を握っている。今にも飛びかかってきそうな敵愾心あふれる様子は、まさしくあたるの知っているいつもの面堂だった。あたるはなぜだか少しほっとした。　もう少しおちょくれば、見合いなんか放り投げてこっちに来るのではないだろうか。あたるはさらに身振りで面堂を怒らせる言葉を伝えようとする。　しかしそのとき男が戻ってきて、面堂になにか声をかけた。すると面堂はまた良家の子女の顔に戻って、男に和やかに笑いかける。まるで仮面を付け替えたように、雰囲気も仕草もその一瞬でがらりと変わった。別人みたいだ、というラムの所見はたしかに正鵠を射たものだった。　それは偽物には見えないくらい精巧な仮面だと思う。もし面堂のことを何も知らなかったら、どっちが素顔なんだかわからなかったかもしれない。　ぼんやり考えていると、不意にラムの様子が変わった。空を見上げ、何かに気を取られている。「どーした？」　不思議に思って声を掛けるが、ラムは答えなかった。あたるもつられて空を見上げるが何も見えない。何だろう、と思っている内に、あたるは音に気付いた。聞いたことのある音。耳を澄ましてみて確信した。スクーターのエンジン音だ。　ラムはそろそろと屋敷内の二人に見えないように移動して、彼らの視界の外に出たところでふわりと空に上がっていった。あたるも一緒に移動していたが、追いかけられるのはここまでだ。眩しい青空を、片手でひさしを作って眺めてみる。案の定、テンがスクーターに乗ってやってきているのが見えた。「ラームちゃ〜ん！」「テンちゃん！　どうしたっちゃ？」　テンはラムと合流すると、スクーターを宙空で一時停止させる。面堂邸は冗談みたいに広大な敷地を持っているのに、よくラムのところまで辿り着いたものだ。さすがに偶然で合流できるとは思えないので、そのへんの黒服におおまかな居場所を聞いたのかもしれない。「ラムちゃん、あんな……」「ふんふん……」　テンがぽそぽそとラムに耳打ちすると、ラムは目を瞠って「ほんとけ！？」と声を上げた。「うん、間違いないで！」「それは何よりだっちゃ！　ありがと、テンちゃん！」　ラムはにっこり笑ってテンをぎゅっと抱き締める。それからあたるの前にひらりと降り立つと、顔の前で両手を合わせた。「ごめんちゃ、ダーリン！　うち、今すぐ戻らないといけないっちゃ！」「え……」「またあとでね！」「おいっ、ラム！」　止める間もなく、ラムはふわりと空へ舞い戻り、友引町のある方角へ向けてテンといっしょに矢のように飛んでいってしまった。「なんだよっ、こんなときに……」　あたるは恨みがましくラムとテンの消えた方角を見上げた。しかし持ち前の楽観的思考はあたるの頭からすぐ不都合なことを追い出してしまうので、新しく発生したこの状況ならではの利点に目を向ける。　ラムがいない、ということは、今なら自由に女の子にちょっかいをかけられるということではないか。あたるは思わずにっこりした。「そ〜だ、今のうちに了子ちゃんに会いに行こ〜っと！」　うきうきと踵を返してその場をはなれようとする。だがその足取りは、影でも踏まれたように不意に止まった。　今朝の憎たらしいほどそっけない面堂の言葉が頭をよぎる。　――ここまでわざわざ出向いた時点で義理は果たしただろう。　だから帰っていいと、他ならぬ本人がそう言ったのだ。おまけにつつがなく進んでいる今までの様子からすれば、これから先も何か起きるとは思えない。了子の懸念は杞憂だったと判断しても差し支えはないだろう。だからあたるがここで面堂を置いて帰ろうが、了子のもとに向かおうが、何ら問題はないのだ。　あたるはしばらくそのままでいたあと、振り返る。その場で何度か足踏みしてから、結局元の方へと歩き出した。（まあ、最後にちょっくらこのアホらしい茶番を見納めして、後でせいぜい笑ってやろう）　そう、ただそれだけなのだ、とあたるは心の中で力強く考えた。少し気分が良くなった。身をかがめて、今度は前より少し彼らに近い位置にある大きな岩の影に身を潜める。そこからそっと覗いてみた。そして、少し外していた間に状況に変化があったことをあたるは見てとった。　あいつ、いつの間にか隣に座ってるのか、とあたるは思った。　男は面堂の隣に寄り添うようにして座っている。今のあたるの位置からだと見えないのではっきりとは言えないが、二人は机の上にある何かを一緒に見ているようだった。まあ、そこまではいいとしよう。しかし男は卓上に何気なく置かれた面堂の手に自分の手を重ねた。面堂はぎょっとした様子で男を一瞥してから、さりげなく手を引き抜こうとする。すると男はそうさせまいと手を握る。面堂はまた別のやり方で抜け出すことを試みる。男もそれに対抗する。話の内容とは全く関係ないところで両者は静かに争っていたが、相手の意志のほうが強かったようで、そのまま手を繋ぐ形になった。（面堂も何考えてんだか。あんなのさっさと振りほどけよ……）　男は面堂の手の甲を親指の腹でゆっくりと愛撫している。面堂がそれで困っていることには気づいているのに、男は笑みを浮かべたまま決してやめようとしない。それを見てあたるは他人事ながら胸のざわつくような警戒心を覚えた。　ああいうことをするのは、割とやばいタイプの遊び人だ。了子が不安がるのも当然だろう。問題は、面堂にその感覚があるかどうか。　あたるは小さく息を吐いた。そうだ、もちろん、あいつにはそういう感覚がわからない。実際に牙を剥かれるその瞬間まで、面堂は自分が獲物にされたことにはついぞ気が付かないのだ。　とはいえさすがに面堂も、この状況が自分にとって望ましいものではないことだけは理解しているらしい。時折どうにか離れようと試みてはいる。そうすると、思い出したように男が面堂の耳に何か囁きかける。その度に面堂はびくっとかすかに体を強張らせて固まり、離れる機会を逸している。　もう耳が弱いのもバレてんじゃねーか、とあたるは呆れた。　さて、これからどうするか。　先ほどとは状況が変わった。了子からは面堂のことを見守るようお願いされている。ただ、見守る以上のことは頼まれていない。そもそも面堂家の人間にとって見合いが気軽に邪魔できる類いのものなら、飛鳥のときにだって了子はそうしていたはずだ。しかし了子はあのとき、露骨な妨害はしなかった。なら今回も、余計なことはなるべくしないほうがいいだろう。　だいたい、助けようにも、肝心の面堂の態度が気にくわない。　地下倉庫では誰か知らないやつに向かって「行かないで」と言えたくせに、あたるには「帰れ」の一点張りだ。それを思うと腹の底からむかむかしてきた。だったら望み通り帰ってやろうじゃないか。それで面堂がどうなろうと、本人も言ったようにあたるには関係がない、身から出た錆というやつだ。どうしても助けが要るなら、面堂が昨日のやつを呼べばいい。そんなに信頼しているならすぐに来るだろうし、あたるのような赤の他人なんかよりずっと頼りになるはずだ。　どうなっても知るか、あんなやつ。　やはり放っておこうと心に決めたちょうどそのとき、面堂が寄る辺ない表情で庭に目を向けているのを見てしまった。面堂は、あたるたちがどこかにいないか探している。「……」　あたるはそこで覗くのをやめ、隠れている岩に背中をつけて静かにもたれかかった。　あたるは深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。面堂を助けるつもりはない。そんなことは、了子にも面堂にも、誰にも頼まれてはいないし、やったところで一文の得にもならないどころか逆に厄介事を背負う羽目になるのはわかりきっている。　ただ、あいつがあんな顔をするから。あんな顔で、探していたから。それだけなのだ。　あたるは、面堂にも決して見つからないように慎重に身を隠した。ラムがいたときなら面堂にいくら見つかっても平気だったのに、一人になった今は面堂に気付かれるくらいなら死んだほうがマシだという気がする。　そうしながら、二人の様子をまた窺っていた。「……不思議ですね、あなたとはどうも初対面だという気がしないんです。ずっと昔に、どこかでお会いしたことがありませんか？」　男は悪びれもせず、面堂に向かってそんなことを言っている。対して面堂の対応は始めの頃と比べるとやや辛辣なものだった。「いえ、あなたが誰であろうと、この私とは間違いなく初対面ですね！」　この私、の部分を強調して面堂は実にきっぱりと言い切る。それはそうだろうな、とあたるも思った。何しろ、この姿の面堂がこの世に出現したのはつい今週の出来事なのだ。　男は面堂がかすかに苛立ちを滲ませている様子にくすりと笑って、それから少し改まって面堂に向き直った。「さて、了子さん……そろそろ、教えていただいてもよろしいでしょうか」「何をですか？」「あなたの本当のお名前を」　たった一言で、場の雰囲気がふっと変容するのが、傍目にも感じられた。面堂はほんの一瞬表情を強張らせたが、その反応はよく見ていたとしても気づくのが難しいくらいのかすかなものだった。面堂は無垢な少女を装った微笑みを浮かべて、あくまで白を切り通す姿勢を見せる。「おっしゃる意味が、よくわかりませんが……」「いえ、あなたにはよくわかっているはずですよ、私の言いたいことが」　男はかすかに首を傾げて微笑みながら、面堂を見つめている。「確かにあなたは写真の了子さんととてもよく似ているし、お話に聞いていた了子さんの人物像とも違うところがありません。ご家族のことも、家の事業のことも、ここで働いている人たちのことも、何から何までよくご存知ですね。でも、逆に言うと……中学生の女の子がそこまで知ってるのはおかしいと思うんですよ」　そこで反論を挟もうと口を開いた面堂の唇に、男は人差し指の先を押し付けて黙らせ話を続けた。「さっき私があなたにした質問、高校物理の知識がないと答えられないものだったんですよ。あなたは全然お気づきにならずに正しい答えを口にしましたが……。他にもまだありますよ、全部お聞きになりたいですか？」「……」　面堂は何も言わなかった。それからやや間を置いて、視線を下げながら、結構です、と一言だけ口にする。暗に相手の主張を認めたも同然だった。　試験週間に面堂のノートを借りようと毎回群がるあたるや四組の赤点組に対し、面堂は「普段から真面目に勉強しろ」とか「学校の試験範囲なんか一般教養だろうが」とか度々馬鹿にしながら言ってきたわけだが、今回ばかりはその勉学と教養というやつが面堂を背中から刺したのだ。世の中本当に何がどうつながるかわからない。　そしてこの事態をあたるが面白がるべきかどうか、それも正直わからない。「ご家族の誰かが私の評判をお聞きになったんでしょうね。あなたを代理に立てたのは。いえ、それは別に構わないんです。確かに私はいわゆる放蕩息子で、可愛い娘に進んで近づけたいタイプの人間ではないと思いますよ」　男は鷹揚とした笑みを崩さぬままで、どこか落ち着かない様子で時折髪を触っている面堂とは対照的だった。「たとえ後でもう一度了子さんに会いに行ったとしてもそれはあなたではない。今日ここにいるあなたがどこに行ったか聞いても、そもそも替玉だったということをそちらがお認めになるはずがないので、教えてはいただけないでしょうね。今日を限りに、私がもう一度あなたと会える可能性は極めて低いと言える」　男は面堂をまっすぐ見つめ、穏やかながらきっぱりとした口調で言った。「となれば、いま、この場で、あなたを貰っていくしかない……と、いうわけですよ」　面堂は固まった。それからわざとらしく笑って、その場の空気を変えようとする。「お、お戯れを……」「冗談だと思いますか？」　男はにこりと微笑む。面堂は黙っている。答えられなかったのだろう。男は軽い口ぶりで話しているにも関わらず、冗談で片付けられないような響きが奥底にあったからだ。　男は面堂の手を取って、熱っぽい口調で面堂に訴えた。「あなたが何者でも構わない、ぼくはあなたがほしい……」　面堂は我に返って素早く行動に出た。弾かれたように手を振り払い、やにわに立ち上がると、部屋の一角を目指して一目散に走り出した。その方角には、ついさっきあたるとラムを屋敷の外へ放り出した木彫りのクマがある。男はまだ仕掛けのある畳のあたりにいるから、辿り着きさえすればこの状況からは難なく抜け出せるだろう。　結局あたるの思った通り、こちらの助けなんかなくても、面堂一人でなんとかなるのだ。あたるがこうしてまだ近くにいることも面堂に気付かれずに済むだろう。そのことに安堵しつつ見守っていると、面堂は走り出してすぐに着物に足を取られて思いっきりすっ転んだ。（何回同じこと繰り返すんだよあのバカは〜！！）　人は失敗からものを学ぶ生き物だと思っていたが、面堂はそれには当てはまらないようだ。「だっ、大丈夫ですか！？」　すかさず男が駆け寄ってくる。その結果、からくり仕掛けの有効範囲から男は離れることになった。何から何まで裏目に出るときはあるものだ。　男は面堂を抱き起こそうとするが、面堂は再びその手を払いのけた。「さっ、さわるな……じゃない、こういうときは……そうだ、人を呼びますよ！」　何悠長なこと言ってんだよこのバカ！　とあたるは内心毒づく。面堂の欠点、いざというときの機転の効かなさ、状況への流されやすさがこれほど綺麗に出た瞬間もなかった。　男は小さく口元を釣り上げると、そのままぱっと面堂を後ろから抱きすくめた。「こんなところ、見られてもいいならどうぞご自由に」「ひいっ……！？」「今でさえ、こんなに愛らしいのだから……褥(しとね)で乱れるあなたはさぞ魅力的なのでしょうね」　男の言葉を耳が捉え認識した瞬間、あたるは自分で意識する前に既に飛び出していた。なにか非常に強い衝動、あたるよりも一回り大きな見えない力があたるを鷲掴みにし、あたるの四肢を勝手に動かしている。ハンマー片手に土足で上がり込むと躊躇なく座敷を駆け、目にも留まらぬ速さで男の頭に振り下ろした。「いい加減にしろこの変態が！！」　がん、と良い手応え。一拍置いて、男がずるりと畳の上に崩れ落ちる。「ふっ、悪は滅びた……」　昨日の反省を活かし、今回は手加減せずに強めに殴っておいた。それでもまだ腹の虫は収まらない。あたるはむしゃくしゃした気持ちのまま面堂に向き直った。さあ、このバカになんと言ってやろうか。　言いたいことはそれこそ山ほどあった。だから昨日おれが言ったのに、了子ちゃんもこれを心配してたのに、おまえは本当に人の言うことを聞かない、人の親切を無碍にしてこのザマか、などなど。思いつくまま気の済むまで、さんざんなじってやろうと思っていた。「もろぼし……」　でも、面堂があたるを見上げて心底ほっとした表情を浮かべた途端に、あれほど強く感じていた怒りがふっとどこかに逃げていくのを感じた。あたるは自分でもそのことに戸惑った。　しかしここで黙っているのも変に思われるだろうから、普段の自分なら言いそうなことを口にしておくことにした。「これで貸し一つだな、面堂」「う……」　面堂は実に嫌そうな顔をした。ということは今ので正解だったようだ。そこでいくらか調子を取り戻し、あたるは呆れ顔で面堂を見下ろした。「だいたい、なんで柄にもなくおとなしくしてたんだよ。あんなのさっさと殴り飛ばせばよかっただろ！」「ぼくもよっぽどそうしようかと思ったが、普通の女の子がこういうときどうするのかわからなくて」「普通の女の子だって殴るわあんなの！！」「うーむ、そういうものか……」　面堂は妙なところに感心している。呑気なものだ。こいつは本当に、たった今自分の身がどういう危険に晒されていたか理解しているのだろうか。　あたるが呆れていると、面堂は急に血相を変えてあたるに飛びついた。「ラムさんは！？　いっ、今の、ラムさんは見てないだろうな！」「ラムは、よくわからんが、急用ができて帰ったぞ」「良かった……」「おれが見てるのは良かったのか？」　自然と棘のある言い方になっていた。「おまえはもっと際どいものを見てるだろう」　え、と思わず言葉に詰まるが、面堂は自分の言葉に含蓄された意味を自覚していないようで、胸に手を当てて安堵の息を吐いている。　際どいもの、って、要するに。あたるは思わず面堂の身体のラインを目で追って、その下にあるものを思い出した。ぱっと目を逸らして、それ以上先を考えないようにする。　と、そのとき、足元で倒れている男がかすかに身じろぎした。「う〜ん……」「こいつまだ息が……よし、今度こそとどめを」「待て待て、一応この人は客人なんだ。これ以上は流石にまずい！」　ひとおもいに楽にしてやろうとあたるが構えたハンマーを、面堂は慌てて掴んで止めた。このまま思い切り振り下ろしたらさぞすっきりすることだろうが、残念ながら今はその時ではないようだ。「じゃ、おまえが逃げるしかないな」　あたるはぽいっとハンマーをその場に投げ捨てて、面堂の手を引いた。そのままさっさと走り出そうとしたが、面堂はまたしても着物の裾に足を取られて転びかけた。よほどこの着物が苦手なようだ。それでもあたるが昨日あんなことをしなければ、ここまで足元がふらつくこともなかったのだろうが。　あたるはため息をつく。こうなれば仕方ない。「じっとしてろよ」「は？」　こちらが何をするつもりか面堂が察する前に、あたるはさっさと面堂の膝裏と腰のあたりに腕を回し、横向きにひょいと抱えあげてしまった。面堂は死ぬほど驚いたようで、声もなく身を固くしていた。その隙にあたるは座敷から縁側に出て庭に降り立ち、とっとと走り出す。文句を言われる前に行動してしまえばこっちのものである。「な……なん……」　少しして面堂が意味をなさない言葉を発する。驚きのあまり麻痺した言語中枢が徐々に仕事を思い出しはじめたのかもしれない。まだ到底十分とは言えないが。　その間にあたるは土塀の合間に見つけた小さな木戸の掛けがねを外して、屋敷の外側に出てしまっていた。「……諸星……きさま、どういうつもりだ！」　しばらくして、面堂が意味の通じる文章をなんとかひねり出してあたるに言った。「おまえがど〜〜しても走れんようだから、おれがわざわざ運んでやってんじゃねーか！」「だからってこの抱え方はおかしいだろう！」「他にどうしろと！？　肩に担ぎ上げるほうがいいのか！？」　面堂は無言になる。そして答える代わりに、振り落とされないよう、あたるの首に腕を回してしっかりしがみついた。「今日は何もかも最悪だ……」「奇遇だな、同じ意見だ」　さっきは一瞬しか捉えることのできなかった香りが、今はあたるの周りの空気にふわりと溶け込んでいる。今日の面堂からは、梅の花に似た甘い香りがするのだと、そのおかげでわかった。嫌いではない匂いだ。だから、重くてもさっさとおろしたいとは思わなかった。　アスファルトで舗装された車道は避けてひと気のない方へと向かう。他の連中に見つかったら言い訳するのが面倒だ。人影に注意しながらそばの林沿いをひた走っていくと、林の合間に土を固めただけの細い小道を見つけた。あたるは先の様子を窺う。人の気配はない。丁度いいので今度はそこに入っていった。小道はゆるやかに曲がりながら木々の間を抜けていて、木漏れ日が優しく陽光の粒を辺りに散らしている。頭上からは小鳥のさえずりが時折降ってきて、どこかで鶯が機嫌よく歌っているのも聞こえた。気持ちのいい散歩道、というのがあたるの印象だった。しかし、使われている形跡はほとんどない。おそらく面堂邸にはここより広々として景観の良い散歩道がたくさんあるのだろう。　途中で林は途切れたが、小道の方は芝生のなかを突っ切って更に続いている。左手の方には池があったが、あたるは特に気に留めずにひょいひょいと先に進んでいく。「もっ、諸星、ちょっと待て！　ここで止まってくれ！」　だが突然面堂がじたばたと身じろぎしたので、あたるはよろめいて立ち止まった。「いきなり何だよっ、あぶねーな！」「ぼくを降ろしてくれ」「え、でも靴は」「そんなのどうでもいい」　面堂は断固たる口調で言い切った。勢いに圧され、よくわからないままとりあえず面堂をその場に降ろす。白い絹足袋が汚れるのも構わず、面堂は地面にしっかり立つと、ひどく真剣な眼差しでじっと池の方を見つめた。それから吸い込まれるようにそちらに歩き出すので、あたるも戸惑いながら後から付いていく。随分高そうな着物なのに、こんなふうに草の中を歩いていいものなのだろうか。　面堂が向かったのは、道から少し外れた場所にある比較的小さな池だった。ゆっくり歩いても五分もあれば一周して戻ってこられるだろう。所々にある飛び石を目で辿ると池の中ほどに小島があって、そこに植えられた小さな松の木が枝を池の水面におずおずと差し伸べている。水面には睡蓮の葉が並び、綻びかけた黄色や白のつぼみが鮮やかに陽の光を反射していた。そばには鴨の群れがいて、水面に浮かびながらのんびりと羽繕いをしている。面堂がゆっくりと歩み寄っていった水辺には、カキツバタも植えられていて、綺麗な青紫色の花を咲かせているのだった。　眺めるには悪くない風景だ。とはいえ、面堂がこんなにも注意を惹かれるほどに特別なものには思われなかった。あたるにはさっきまでいた屋敷の庭のほうが気合を入れて世話されているように見えたし、植物の種類自体もずっと多かった。「おい、何なんだよ、一体」「そうだ、確かここだった……」　面堂はあたるの言葉には反応せずにつぶやく。蜃気楼に思いがけないものを突然見せられでもしたようだった。あたるがもう一度せっつくと、ようやく面堂は白昼夢から覚めて、いつもの冷静な態度を取り戻した。「いや、なんというか……驚いたんだ。小さい頃、ここでよく遊んだのを思い出して」　面堂は、池のそばに屈み込むと、その水面を覗き込む。青空と白い雲を反射した水面が、鏡のように面堂の姿をさかさまに映した。あたるの位置からだと、面堂がふたりいるようにも見える。「友達と会う場所だったから。ぼくが寂しいときはいつも一緒に遊んでくれたな……」　面堂はカキツバタの花に軽く触れて、懐かしそうに微笑んだ。　あたるは表情にこそ出さなかったが、内心かなり驚いていた。それなりに長いこと面堂と付き合ってきたにもかかわらず、今日初めて聞く話だ。まさかあの水乃小路飛麿以外にも、こいつに友達がいたとは。「そいつ、今はど〜してんの？」　すると面堂は水面を見つめたまま少し黙り込んだ。風が吹きぬけてカキツバタの花がかすかに揺れた。池にさざなみが立ち、それがゆっくりとさかさまの面堂にたどり着くと、鏡映はぼやけて消える。「それが……わからんのだ。本当に小さな頃だったし、いつの間にかいなくなっていて……随分あとに当時の世話係に聞いたこともあるんだが、憶えていないと言った。あの頃は了子が病気がちで色々大変だったから、まあわからなくもない。ぼくもどうしても名前が思い出せなくて、探しようがなかった」　あたるはそれを聞いて呆気にとられた。「なんじゃそりゃ。そいつほんとに実在の人間だったのか？」「じゃああの時ぼくは誰と遊んでたって言うんだっ！」　面堂はあたるに食って掛かるが、気を取り直して立ち上がると、池の方をぼんやり眺める。あたるも隣に立ったまま同じようにしていると、また面堂が口を開いた。「母上は……了子の具合が悪くなると、いつもかかりつけ医と付きっきりで様子を見ていた。そういうとき、ぼくがそばに行くことは許されなくて……」　それもまた、初めて聞く話だった。そもそも面堂が自分の個人的な話を他人に打ち明けること自体が非常に珍しいのだ。「それが何日も、長いときは一週間以上続いた。もちろん、ぼくまで病気にならないようにという配慮だったんだろう。だがぼくはほんの子どもだったから……どういう気持ちでいたか想像はつくだろう」　面堂は少し俯いて苦笑する。あたるは何も言わずに、面堂の話を聞いていた。　あたるは一人っ子だったから、面堂の気持ちがわかるといえば嘘になる。理解はできるが、それは辞書を読んで概要を暗唱するようなもので、決して共感を伴ったものではない。母親が一番恋しい時期に、母親から一人だけ引き離される子供の気持ちを、幸運にもあたるは知らなかった。「それでも、ここに来れば一人じゃないと思えば、頑張れたんだ……」　そこで面堂は、あたるの方に顔を向けた。その背後では白い雲が悠然と流れて、木々が風に揺れていた。「諸星、おまえとこの場所に来ることになるなんて、不思議なこともあるものだな」　そう言って、面堂はあたるにふわりと笑いかけた。春の花が日差しを浴びて綻ぶように、面堂は微笑む。面堂が普段あたるたち男子に向ける皮肉まじりの冷笑とも、ラムたち女子に向ける媚びへつらう笑みとも違っていた。思いがけない偶然を面白がっている微笑みでもあり、秘密を共有した共犯者に対する微笑みにも思われた。　あたるのうちに、なにか得体の知れない衝動が湧き上がった。今週、それは見えない力で何度もあたるを動かしてきた。そして今、その衝動は何かの言葉をしきりにあたるに囁くのだが、あたるにはそれが何なのか見当もつかないのだった。でも、きっとあたるには今、面堂になにか言っておくべきことがあるのだ。それだけはわかった。「面堂、あのさ……」　あたるはあてもなく口を開く。この言葉の終着点がどこなのか、自分自身にもわからないまま。　面堂が不思議そうに首を傾げる。波打つ水面がきらきらと光っている。カキツバタが風にそよぐ。そういうときのこの花は、ツバメが翼を広げた姿に似ていた。眩しいくらいの青紫。綺麗だな、とあたるは目を細めて思った。「おれは……」　池にのんびりと浮かんでいた鴨の群れが、ぱたぱたと一斉に飛び立っていく。面堂はそれを目で追いかけ空を見上げ、ふと大きく目を瞠った。　そして面堂がさっと身を屈めるのと同時に、あたるは背後から謎の炎を思い切り食らった。「どわっちちち！！？」　熱さにあたるは思わず飛び上がった。　こんなことをするやつは一人しかいない。黒焦げになったあたるはぱっと振り返って空を見上げた。「ジャリテンよくも……！！」　その言葉は半ばで途切れる。そこにいたのがあたるの考えていた人物ではなかったからだ。「成功だっちゃ〜！」　大型の白い銃を手にしたラムが、空中でぴょーんと更に跳ね上がった。諸手を挙げて浮き上がっている様子は実に楽しげである。だが、もちろん燃やされた方のあたるはちっとも面白くないので、明るい青空のなかを飛び回るラムに下から怒鳴った。「ラム、何すんじゃいきなり！」「人助けだっちゃ！」「おれをワケもなく燃やすことのどこが人助けだっちゅーんじゃおのれは！！」　あたるがわめき散らしても、ラムは白い銃を抱えたままけろりとしている。「だいたい、おまえ用事があって帰ったんじゃなかったのか！？」　あたるがそう言ったちょうどそのとき、背後の面堂が気の抜けるような声で不可解な単語を唐突に口走った。「おとこだ……」　思わず振り返る。そして今度はあたるが大きく目を瞠る番だった。　放心して座り込んでいる面堂は、もうあのカキツバタの振り袖を着ていなかった。見なれた白い学生服姿で、なんなら学校の上履きすら履いている。腰まで伸びていた黒髪は元通り短くなって、丁寧に化粧を施していた顔は素顔に戻っていた。　一言で言おう。面堂が男に戻っている。　あたるは反射的に頭の上に手を伸ばした。ない。毎日風に揺られてそこにあった小さな羽根の感触が、消えている。次にラムの手に握られた火炎放射器に目を向けて、何が起きたかを全て理解した。ついさっきラムに怒っていたことも頭から吹き飛んで、あまりにも突然訪れたあっけない幕切れにしばし唖然としていた。　面堂のほうも、まだ夢でも見ているような顔でぺたぺたと平らな胸を触ってみては、骨ばった手を何度となくひっくり返してまじまじと眺めていた。　衝撃で一時的に麻痺した精神活動が正常に戻り始めると、あたるはおずおずと面堂に声をかけた。「面堂、あの……」「ぼくは男に戻った！！」「おわっ！？」　だが面堂が突然がばっと立ち上がって大声で叫んだので、あたるは死ぬほど驚いて仰け反った。　面堂はあたるには目もくれずにラムに駆け寄ると、泣きながらその手を取って力強くぶんぶん上下に振った。「ありがとうございますラムさん！！　この御恩は一生忘れません！！」　涙声で何を言っているか非常に聞きとりづらいが、たぶん面堂はそう言った。「助け合うのが友達だっちゃ！」　ラムだけがいつもの調子でニコニコして、その暑苦しい感謝を受け取っている。あたるは面堂がいつまでもラムの手を握っているのを見てなんだかムッとしたので、二人の間にすっと割って入った。「よかったな、良いオトモダチで！」　とはいえ面堂はいまだにわなわなと感動に震えていて、自分がラムと引き離されたことに気づいているかどうかも怪しい有様である。あたるは面堂に向き直って咳払いをし、注意深く声をかける。「おい、面堂……」「男に戻った！」「面堂、ちょっと」「男だ！」「おいこら面堂！！」　だが、どんなに呼びかけても面堂はまったくこちらに注意を向けない。それどころか最終的に面堂は両手を広げて当て所なく駆け出した。「ぼくは男だ〜〜〜〜〜！！！」　全速力で面堂邸のいずこへなりとすっ飛んでいく面堂を、あたるはまたしても唖然と固まって見送った。すっかり姿が見えなくなってから、あたるはぽつりと呟く。「すげー速さ……」「これで一件落着だっちゃ！」　ラムがふわりとあたるの隣に降り立つ。あたるは少しの間彼女を見つめてから、肩をすくめて同意した。「……そ〜だな。一件落着」「ねえダーリン、さっき終太郎に何か話そうとしてなかったけ？」　そう言われてあたるは面堂の去っていった方向に目を向ける。そのまま無意識に羽根のあったあたりの髪を触ってぼんやりと考えていた。が、ふいっと踵を返して素っ気なく言う。「いーや、あんな間抜けと話すことなんか何もない！　アホらしい、もう帰ろーぜラム」「うん！」　ラムがにこりと微笑んで腕に手を回す。最初こそ慌てて振りほどこうとしたが、ラムの嬉しそうな顔を見ていると何も言えず、そのまま好きにさせることにした。まあ、たまにはこういう日があってもいい。何にせよ、ここには口さがない他人の目はないのだ。　二人は並んで歩き始めたが、あたるはふと思い出したように足を止め、あたりを恐る恐る見回して呟いた。「いや……帰り道、どっちだ？」]]></description>
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<title>19 他人事</title>
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<pubDate>Mon, 05 Jun 2023 15:48:31 +0900</pubDate>
<description><![CDATA[　了子の黒子が担ぐ駕籠(かご)に乗せられ、休日の早朝くんだりからあたるとラムは面堂邸までやってきた。肝心の面堂本人からは「絶対に来るな、ラムさんはともかく諸星は死んでも来るな」と前日から散々念を押されていたが、もちろんあたるは綺麗サッパリ無視して了子に会いに来たのだった。　しかし、面堂を相手にするのだったらそれくらいの態度で丁度いい。面堂の言うことを素直に聞いてやるような性格の人間だったら、そもそも面堂とはまともに付き合っていられないのである。　黒子に案内されて了子のもとに通されると、あたるはすぐさま全速力で了子に駆け寄った。「おはようございます、諸星さま」「おはよ〜了子ちゃん！　早起きするといーことあるっていうけど本当だね、こうして了子ちゃんに会えたんだから！」「ダーリン、いきなり手を握ってるんじゃないっちゃ！」「何を言うのだラム！　握手は親愛の情を示す挨拶だ、それを責められる謂れはないぞ！」「下心があれば責められて当然だっちゃ！！」　いつもの調子で口喧嘩をしていると、了子はそれを見て楽しそうにくすくす笑う。そしてあたるに向かってまた優しく微笑んだ。「急なお願いにも関わらず、お越しいただき感謝いたします。おにいさまもきっとお喜びになりますね！」　少なくとも面堂は絶対に喜ばないという確信があったが、この際面堂の反応についてはどうでもいいだろう。あたるは了子に向かってにっこり笑い返す。「了子ちゃんとの約束だからね！　でも、どーせならかわいい了子ちゃんを見守るほうがいいな〜。だってほら、面堂なら一人でもぜったい平気だもん！」　へらへら笑ってまた了子の手を握ろうとすると、ラムは素早くあたるを了子から引き離して電撃を発した。「いい加減にするっちゃ！」「どわわわ！！」　しかし了子は眼の前の派手な痴話喧嘩にも動じない。了子は窓にゆっくりと歩み寄ると、外に目を向けてガラスに手を触れた。「おにいさまもそうおっしゃいます。何があっても一人で平気だと。本当に、そうであるとよいのですが……」　了子らしからぬ歯切れの悪い言い方に、思わずあたるとラムは喧嘩をやめて顔を見合わせた。了子は振り返ると、話を続けた。「実は、お相手の素行があまりよろしくないという情報が、先ほど……。要するに、好みの女性と見るととても手が早いのですって」「う〜む、そりゃ女の敵ってやつだなぁ」　と言った途端ラムの視線が刺さったが、あたるは気づかないふりをして真面目くさって続けた。「なら面堂が了子ちゃんの身代りになってほんとによかった！」　面堂は相手を勢い余って斬り捨てる可能性こそあれど、まかり間違っても男に黙っていいようにされる性格ではないのだ。「大丈夫だよ！　だって面堂はさ……」　あたるはそれを了子に伝えて安心させようと思って、とりあえず今週の面堂の行動をざっと思い返してみた。　この一週間、面堂がどういう毎日を過ごしたか。あたるには何度も体を許した、しのぶが止めなければ男子更衣室に引っ張り込まれるところだった、実際写真部にはあっさり暗室に連れ込まれた、そして周囲の男子による下心のこもった様々な行動にも結局最後まで気付かなかった……。　あたるはぱちくりとまばたきする。（あれ？　ちょっと待て……これ本当に大丈夫か？）　あたるが途中で言葉を切ったまま考えこんでいると、今度は了子があたるの手を取って言った。「諸星さま。今日お越しいただいたこと、重ねて感謝申し上げます。おにいさまのこと、どうぞよろしくお願いいたしますね」　了子はあたるの顔を覗き込むように見上げる。了子特有のいたずらっぽい目付きの奥に、どこか探るような光があるように感じるのは気のせいだろうか。あたるは少し視線を下げてへらりといつもの気楽な笑みを浮かべる。「了子ちゃんのためなら……お安い御用だよ」　すると了子もにこりと笑い返す。とても可愛らしい微笑みは、しかしその内心を読み取らせる手掛かりをどこにも有していない。この兄妹が、顔立ちは似ているのに知り合いみんなから「本当に血が繋がっているのか」と揶揄されるのは、こういった表情の違いも原因だろう。　　それからあたるとラムは、黒子の案内で面堂のもとへと向かった。面堂は今、正月にいつも同級生を呼んでいるお屋敷にいて、見合いもそこで行うということらしい。以前、「あそこは本邸にある自室とはまた別の、自由に使える自分の部屋のようなものだ」と本人から何気ない調子で説明を受けたことがある。一般的に高級住宅と言われる家よりはるかに立派で広大な屋敷を指してそう言われるのだから、聞いている方はたまらない。　屋敷につくと、今度は黒子から忙しく働いている女中さんの一人に取り次いでもらった。それがまた可愛い女性だった。すかさず口説こうとして電撃を食らってから、彼女の案内であたるとラムは板張りの廊下を歩いていった。途中で別の女中さんとすれ違うたびにちょっかいをかけてはラムに怒られ、繰り返すたびに案内の女性も次第に苦笑いを隠せなくなっていく。だが、いつもと比べると女中さんの人数自体はかなり少ないようだ。理由を聞くと、面堂の指示で人数を最低限に抑えているのだという。　そんな調子で客間に通され、お茶を飲みながら少し待っていると、ようやく面堂が準備の合間を縫って二人の前に顔を出した。そして面堂はあたるを見るなりげんなりした様子で腰に片手を当てた。「諸星、あれほど来るなと言ったのに……」　面堂は上品な色合いの着物を身につけていた。水辺に咲くカキツバタの花を縫い付けた薄浅葱色の振袖に、麻の葉柄の赤い帯を締めていて、それが面堂の雰囲気によく合っている。学校に来るときは髪を飾ることはなかったが、今日は了子と同じように大きなリボンを結んである。あたるは面堂の姿に少し驚いて、いつものように混ぜっ返すのも忘れていた。代わりにラムが面堂にふわりと近付いて、無邪気に歓声を上げる。「わー、終太郎すごくかわいいっちゃ！」「えっ、ええと……ありがとうございます！」　女性としての可愛さを褒められた落胆と、なにはともあれラムに褒められた喜びとを天秤にかけた結果、僅差で後者が勝ったらしい。面堂は少し躊躇ったあとにラムに嬉しそうに微笑みかけた。しかもこの機を逃さずラムの気を引こうとしている様子だったので、あたるはラムの肩をつついてこちらに注意を向けさせる。「ラム、地球の言葉教えてやろうか！」「うん！」「今の面堂みたいなのを、馬子にも衣装というのだ！」「諸星、ラムさんに変なことを吹き込むな！！」　面堂はあたるに掴みかかろうとするが、女性用の着物は派手な動きには向かないということを完全に失念していたらしく、動き出してすぐに足を取られて体勢を崩した。「うわわっ」「おっと！」　慌ててあたるは面堂が転ばないようにふらついた体を受け止めた。が、面堂は礼を言うどころか火傷でもしたようにあたるから飛び退いた。「諸星がぼくを庇うとは実に気色悪いな！」「おまえな〜……」　確かに面堂がこうなる前だったら絶対に放っておいたと思うが、女の子を前にするとどうしても体が勝手に動くのだから仕方がない。「おれだって了子ちゃんの頼みでもなけりゃ、おまえなんかどーなろうが知ったこっちゃないんだが」　離れた際に袖に焚きしめた香がかすかに漂って、あたるは更になんともいえない気持ちになる。ほんの少し抱きとめただけだが、あのままでいたらこの甘い香りをちゃんと味わうことができたのだろうか、などという考えが頭を掠めて少し自己嫌悪した。アホらしい、どんなにいい匂いがしたところでこれは面堂なのだ。だったらそんなことをする価値などないに決まっている。「そういうことなら、ここまでわざわざ出向いた時点で義理は果たしただろう。さ、遠慮なく帰れ」「この水まんじゅう美味いなぁ。中に何入ってんだ？」「柚子餡だ……って、そんな話をしてるんじゃないっ！！」　あたるは面堂の怒声を聞き流しながら、のんびりと煎茶をすする。確かに面堂の家で出るお茶は、あたるが面堂に淹れてやったような安物より段違いで美味しい。　ラムの方は、お盆のうえの小箱に並んだ彩り豊かな干菓子をつまみ上げ、楽しそうに眺めては食べている。花や紅葉など、色んな形をしているのが気に入ったようだ。　二人で仲良くお菓子を食べて寛いでいると、やがて面堂が意を決したようにあたるのそばに膝をついて坐った。そうしてあたると目線を合わせた上で、真面目な顔をして言う。「いいか、よく聞け諸星……了子が何を言ったかはこの際どうだっていい。これは面堂家の、ないしはぼく個人の問題だ。おまえのような他人には一切関係がない。だから、部外者には立ち入ってもらいたくないんだ」　あたるはお菓子に伸ばしていた手を途中で止めて、面堂を見つめる。面堂の目は真剣だ。そこに怒りや驕りはなにもない。それは、対等の立場と理解力を持つ人間に対し、率直な言葉と誠実な態度で説得を試みている人間の目だった。　だからこそ、面堂の言葉は普段なら届かない心の奥まで入り込んだ。でも、面堂が意図した形では全く無かっただろう。　おまえのような他人には、という言葉をあたるは頭の中で繰り返した。他人か。毎日周りの人間をうんざりさせるほど喧嘩して、かわいい女の子を競って追いかけて、気がつけば隣りに並んでいても、面堂にとってあたるは今でも、誰でもない他人なのだ。　また胸のあたりでへんな感じがした。硝子の欠片は昨日よりも少し大きかった。そしてその感覚が呼び水となって、記憶のなかでそれと結びついていた疑問がまた浮き上がってくる。あの暗闇で、面堂はあたるを誰と間違えていたのだろう。　もしここいるのがあたるではなく、その誰かだったら、面堂は今と同じことを言っただろうか。　あたるが黙っていると、面堂は肩をすくめた。「まあ、もちろんタダとは言わない。そ〜だな……手土産にその水まんじゅうを一箱持たせてやろう。それでいいだろう？」　これで方が付いたと言わんばかりの晴れやかな顔で面堂は言う。あたるはその瞬間、かっとなって反射的に口を開いていた。「いやじゃ。おまえがなんと言おうがおれは絶対に帰らん！」「きさまは本っ当に話のわからんやつだな〜！！」　面堂は丁重な態度を放り投げて怒り心頭に立ち上がった。「いーからとにかくきさまは帰れ！」「やだ！」「帰れったら帰れ！」「やだったらやだったらやだ！」　とても高校生とは思えない低次元の言い争いは、本人たちは真剣ゆえになかなか終わらない。しかしラムは笑うことなく冷静に成り行きを眺めている。　お互いに息切れするまで延々と言い合った挙げ句、面堂はこれから最後通告でもするような厳しい目つきであたるを見据え、低く抑えた声で言う。「どうしても、今すぐ帰る気はないと言うんだな？」「そーゆーことになるな」　面堂はじっとあたるを睨んで黙っている。あたるもその視線を受け、座卓にだらしくなく頬杖をつきながらまっすぐ睨み返した。先に目を逸らす気はさらさらなかった。「……そうか」　だが、面堂の方は意外にもあっさり先に折れた。「なら仕方あるまい。これ以上無駄にできる時間はないしな」　面堂は疲れたように小さくため息をつく。それきり、あたるを追い出すのをきっぱり諦めたようで、あたるとラムに潔く背を向けて歩き出す。面堂がこんなに簡単に身を引くとは思わなかったので、あたるは肩透かしを食ったように面堂をじっと見つめる。そしてあたるはそのとき、面堂の足取りが重く、なんとなくふらついていることに気が付いた。　――こんなことで体力を使い切って、明日に響いたらどうしてくれる……。　もしかすると本当に明日に響いてしまった感じだろうか、これは。確かに昨日はかなり負担の大きい抱き方をした自覚はある。それが計三回。その後すぐに公園から学校にかけて散々走り回った。あたると別れてから、今日の準備に追われてあまり休む暇もなかっただろう。　そもそも、さっき面堂が転びそうになったのは、本当に女物の着物に慣れていないせいだったのか。　あたるは面堂のなんとなく危うげな足取りをぼんやり眺めていた。だから、本当に部屋をただ退出するつもりなら何も用がないであろう方に面堂が向かっていっても、別のことに気を取られているあたるはそれを変だと思っていなかった。　面堂は座敷の片隅にある立派な床の間まで行くと、くるりと二人の方を振り返る。「申し訳ありませんラムさん！　諸星はとっとと失せろ！！」　そう云うなり、面堂はそこに置いてある木彫りのクマを勢いよく蹴倒した。その瞬間あたるとラムが座っていた場所の畳がぐるっと勢いよく半回転する。「おわっ！？」「ちゃっ！」　落下して二人がどさっと尻餅をついたが速いか、モーターの起動する甲高い機械音が響き、床が動き出した。正確には、床下に隠されていたベルトコンベアのベルト部分が、どこかを目指して二人をせっせと運び始めたのだった。「こっ、これはいつぞやの……」　この家で過ごしたある正月の実に嫌な思い出が蘇った。だが今更気づいたところで遅い。今落ちてきた場所は完全に塞がれていて、コンベアを逆走したところで元の場所に戻ることはできそうになかった。　最終的に屋敷の玄関どころかその門前にぽいっと放り出される。ラムはふわりと地面に降り立ち、あたるはべしゃっとうつ伏せに倒れ込んだ。　あたるはすぐさまガバっと上半身を起こし、屋敷に向かって怒鳴った。「てめーっ、覚えてやがれ面堂〜〜！！」　面堂のところまで聞こえるかどうかは定かではないが、少なくとも多少の気晴らしにはなる。　そしてあたるは怒り冷めやらぬままその場に胡座をかいてしっかり閉ざされた門扉を睨みつけた。全く腹が立つ、いったい誰のためにわざわざこんな朝っぱらから来てやったと思っているのか。「やあ、やっぱりあんた方でもだめでしたか」　背後からそんなふうに声をかけられ、あたるとラムはきょとんとして振り返った。見ると、黒いスーツのそこかしこに土埃をつけた集団がどこからともなくぞろぞろと集まってきていた。「あれ、サングラスの……どうして？」「部下にこんな姿を見せたくないと言って、若は我々のことも近づけてくれないんですよ〜……」　近くにいた一人がそう言って肩を落とした。周囲の黒服も各々大きく頷いているので、みんな似たような経緯で目の前の屋敷から追い出されてきたようだ。「まあお相手もきちんとしたお家の方ですから、我々がいなくても何事もないとは思うんですが、お側で若をお守りできないのは心配ですねえ……」　一人の黒服が、門に目をやりながらもどかしげに言う。　やはりというべきか、面堂に似て真面目だがどこか抜けているサングラスの集団は、了子側が掴んだ情報までは辿り着いていなかった。情報共有もされていないようだ。ということは、たぶん面堂も知らない。そして屋敷の中に身辺警護の男は一人もおらず、必要最低限のかよわい女中さんがいるばかり。　うーむ、とあたるは唸って腕を組む。どうもなんだか嫌な感じだ。]]></description>
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<title>18 日の名残り</title>
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<pubDate>Mon, 05 Jun 2023 15:48:10 +0900</pubDate>
<description><![CDATA[　空の端が赤く色付いて、西日が人々の影を長く引き伸ばしている。あたるの影も足元から前にまっすぐ伸びて、時折花壇や自動販売機などに当たると直角に折れ曲がった。　乾いた風が時折公園の木々の間を抜けていった。疲れた体には、風の冷たさがとても心地よく感じられる。今このあたりで一寝入りしたらさぞかし気持ちがいいだろう。その考えは何度となくあたるを誘惑するが、実行には至らない。自身の影に平行するもうひとつの影を一瞥すれば、それは不可能だとすぐわかるからだ。「なんでおまえ付いてくんの？」　あたるはあくびを噛み殺しながら、隣を歩く面堂には顔を向けずに問いかけた。　青い鳥に遭遇した日、怒り心頭の面堂に追いかけられながら全力疾走で逃げ回った場所は、他ならぬこの公園だった。振り返ってみれば、ほんの数日前のことなのに、なんだか遠い昔のことのように感じる。そして今は自宅に戻る最短ルートとして、同じ遊歩道をたらたらと歩いているのだった。　あいかわらずこの時間の公園内はカップルが多くて、若い男女が連れ立ってそぞろ歩いている姿がそこかしこにあった。そしてもしかすると、事情を知らない他人からはあたると面堂もそういう風に見えているのかもしれない。そんな誤解をされるのは非常に不本意だから、面堂にはさっさと別の道を行ってほしかった。だがそう願っても無駄だろう、結局面堂は自分が女だという前提のもとに物事を見ることはどうしてもできないのだ。「あのな、好きで行動を共にしてるとでも思うのか」　面堂も、こちらには目を向けずに投げやりに答えた。　それでも足音が重なっているから、歩調だけはきれいに揃っていると、見なくてもわかる。いつも一緒にいるせいなのか、気を抜くとそうなってしまうのだ。これじゃさぞかし仲がよく見えることだろうな、とあたるは苦い思いでため息をついた。今かわいい女の子に声をかけたとしても、いつもとは違う理由で冷たくあしらわれるに違いない。「きみがそのへんのベンチで眠り込んだら今までの苦労が水の泡だ。きっちり家に帰るのを見届けるまでは安心できん」「細かいこと気にするやつだなあ……仮にそうなってもなにか困るか？」「なら、ラムさんが探しに来て、学校が終わってからどこにいたとか、今まで何してたとか、そう聞いたとしてもきみはちゃんと答えられるのか？」　あたるはその状況をまじめに想像してみた。「自信ないな……」「そらみろ」　悔しいが確かに面堂の言うことにも一理あった。夕方の今ならそのへんでガールハントしていたという言い訳は難なく通るだろうが、夜遅くなってからでは同じ言葉でも不自然に映るだろうし、疑う気持ちも強くなっていることは想像に難くない。　面堂は最後に子どもを諭すような口調でこう付け加えた。「第一、女性には無用な心配をかけるものじゃない」　ふん、と鼻を鳴らしてあたるはそっぽを向く。面堂のこういう、いかにも自分は女性の味方ですよ、と言わんばかりの態度は今も昔も嫌いだ。どうせ一皮剥けば考えていることは他の連中と変わりないのに、自分の手だけは汚れていないような顔をする。あたるがいつも面堂を陰険と評する所以である。　それきりしばらくあたると面堂は口を開かなかった。するとまた眠気が瞼の奥に忍び込んできて、あたるはのろのろと目をこする。なんだかしらないが今は本当に眠い。セックスした後、こんなにも眠くなるものだとは知らなかった。はじめのうちは疲れが原因かと思っていたが、おそらくそれだけではない。男の体にある生理機構がなにか悪さをしているのではないかと思う。　噴水のある広場まで来たとき、面堂がぽつりとまた口を開いた。「ようやく一週間が終わるんだな」　そうだな、とあたるは頷いた。　夕日が少しずつ地平線に消えていき、あたりはどんどん暗くなりつつある。一日が終わる。そしてたぶんこれを境に、あたると面堂が密かに交わした協定も、終わりを迎えるのだ。あたるが面堂を今日みたいなやり方で困らせることはもう二度とないのだろう。面堂が、あたるには決して向けてこなかった表情を見せることもない。面堂から自身を取り繕うものすべてを剥ぎ取り奪い去ったときに初めて現れる、あのすがるような潤んだ眼差し。あれに見られていると、頭の奥で何かが狂わされていく感覚があった。　それらはみんな、沈みゆく夕日と一緒に跡形もなく消えていく。「明日には……きっと元に戻れると思うと、ほっとする」　面堂はまた静かな声で言葉を続けた。あたるはそこで初めて面堂を見た。　面堂は相変わらずあたるには注意を向けずに、公園の遊歩道のまわりに植えられた木々を眺めている。青々と茂っているはずの葉も、今はただの黒っぽい塊にしか見えない。夕日の名残にかすかに赤く染まる横顔は、いつもよりも感傷的に見えた。ひょっとしたら、面堂も、この一週間に対して何かを思っているのだろうか。　それから面堂は、ぼんやりと空を見上げながら、半ば独り言のように呟いた。「これでようやくラムさんに顔向けができるな……」　この異常極まりない一週間を総括した感想が、結局そうなるのか、とあたるは呆れた。他にもっとないのかこいつは。「ど〜せラムはおまえが男でも女でも何にも気にしてないぞ」「え？」　いつもなら怒るタイミングだったと思うが、なぜか面堂は意表を突かれたような顔であたるを見た。面堂は一拍おいてからあたるの言葉を受け取って、ふっといつもの取り澄ました笑みを浮かべる。「それもいい、外面にとらわれずにぼくを見てくれているのだから」「というより、おまえに興味がないだけではないのか？」「どうしてそう底意地の悪いことしか言えんのだ、きさまは！！」　あたるは面堂に向かってびーっと舌を出す。自分の胸に聞けばいいのだそんなことは。あたるはポケットに手をつっこみ、知らず知らずのうちに歩調を乱して大股に歩いていた。　たぶん夕日だ、夕日が悪いのだ。あれがわけもなく哀愁漂う雰囲気を醸すから、ついそれに釣られてしまった。　あたるはずんずん前に進みながら、見えない後ろに向かってやや低い声を投げかける。「だいたいどっちか気にしてないっていうだけなら、おれだってラムと変わらんだろーが！」「きみは本当に浅はかだな！　もし本当に外面を気にしていないなら、きみはぼくが男のままでも今日と同じことができるって意味になるんだぞ！」　まったく思いもよらなかった反論を突きつけられて、あたるはなにもないところで躓きそうになった。「……それは考えてなかった」「だろうな。よく考えてから物を言え、まったく！」　あたるは自分でもそうと知らぬうちに歩みを止めていた。動揺を顔に出さないように努めているうちに、面堂が追いついてくる。その頃にはどうにか落ち着きを取り戻して、あたるはずれた鞄を肩にかけ直しながら、また何事もなかったように並んで歩き始めた。　辺りに降りている薄闇の帳の助けもあってか、面堂はあたるの様子が一瞬変だったことには気付かず話を続けた。「そもそも普段からちゃんとものを考えて生きてるのか？　きさまの思考がわからん。ラムさんという素晴らしい女性がいながら何故ぐずぐずしていられるのか、そこからしてまず理解できん……ぼくだったらすぐにでも結婚するのに。大体きさまには女性への思いやりというものが――」　話は流れるようにあたるへの説教、というより嫉妬による八つ当たりに移っていく。あたるは歩きながら適当に相槌を打ってはいたが、話の内容はほとんど頭に入ってこなかった。　なんでおれはさっきあんなことを言ったんだろう、とあたるは思っていた。面堂の言うことこそもっともだ、他ならぬあたるこそ誰よりも気にしているはずのことを、なぜあんなふうに言ったのだろう。　今のあたるは漠然とした不安に囚われていて、他の何もかもがぼんやりと遠いものに感じられた。そして不安の中心にいるのは、どういうわけか面堂なのだった。　しかもあたるは、この気持ちには覚えがあった。はっきり思い出せないが、ずっと前のことだという気がした。ぼんやりと靄のかかった記憶を探り、一つ一つに目を凝らす。どこかにあるはずだ。　不意にあたるは思い出した。あの日だ。面堂が転入してきてすぐの頃、生徒主催の納涼ディスコパーティー……。「諸星！　人の話を聞いているのか！？」　そのとき、面堂があたるの顔を覗き込むようにして言った。あたるはきょとんとしてその少し不満げな表情を見返し、それから潔く首を横に振った。「ぜーんぜん！」「きっさま、よくもぬけぬけと……」　質問されたから正直に答えたまでの話なのだが、その返答は当然のごとく面堂を怒らせる結果になった。「その曲がった根性叩き直してやる！」「おまえもワンパターンだな！」　どこからともなく湧いて出た刀の切っ先をひょいと身をひねって避け、あたるは鞄をしっかり握り直して公園を軽快に駆け始める。学校方面に向かっているので方角こそ逆だが、月曜日とまったく同じ時間帯に同じことをしているのであたるは我ながら呆れた。ワンパターンはおれも同じだな……。「逃さんぞ諸星！！」　だが、こうして面堂から逃げ回るのは正直言って楽しい。ラムの電撃とはまた違う身のこなし方と駆け引きがあるのだ。今回はどうやって出し抜こうか、どこで撒いてやろうか、考えているだけでわくわくする。走っているうちに、元来楽観的なあたるは直前のやり取りも不安も忘れてしまって、追いかけっこにすっかり夢中になっていた。　何にせよ、これで恋人同士に間違われる懸念だけは杞憂で済むだろう。]]></description>
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<lastBuildDate>Thu, 05 Dec 2024 18:44:45 +0900</lastBuildDate>
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